2013年05月25日投稿。
お妲はお仙が大好きだった。
小さな頃から一緒にいたし、ずっとずっと一緒だった。
種族もなんもかも越えて、性別なんてどうでもよくて、愛欲だとかそんなもの通り越して、ただただ、お仙の存在が、大好きで大好きで大好きで、愛おしかった。
だからもうずっと、今度は何があってもお仙の傍で生きるんだと決めた。
それはきっと、一座の他のものも同じ。
お仙は、皆に愛されるべくしてここにいる、そんな存在だったのだ。
朝、いつもなら、日が十分に上りきった頃に仙次郎はやっと目を覚ます。それがどうしたことか、今日は早くに目が覚めたので、そのまま仙次郎は布団の中で伸びをする。
そして暫くぼけっとした後やっと、気怠げに身体を起こすのだった。
おはよう、太郎、
心の中で言いながら、仙次郎は枕元に置いた鞠と煙管を優しく撫でる。
それが、仙次郎の一日の始まりだった。
仙次郎率いる妖怪一座のあるここは、元は遊び女達の廓であった。遊び女達の住む長屋で、時は昔、一時はお妲が住んでいた場所でもあった。女達はここで身支度をし、廓へと足を運ぶ、それを、お妲は一人家を出て、二十数年続けていたのだ。
寂しさに耐えられなかったのは、自分の方だった。
だからお妲を無理矢理故郷に連れ去って、酷いことをしたなと、今になって思う。明治が終わる頃、再び訪れたここは荒れ果てていて、お妲はたいそう寂しがっていたものだ。
だからこそ、仙次郎はお妲のためにここを妖怪一座として立て直した。
長屋はそのまま皆の部屋としてあてがい、廓は中を改装して小さな舞台にした。
全部全部、お妲のためにやったんだから、自分の幼なじみへの甘さには、自分で呆れてしまう。
そう、ぼんやり懐古に浸ってから、はだけた胸をぼりぼりと掻きながら仙次郎は立ち上がった。
そして鏡台の前に行き、肩を少し過ぎたぐらいの黒髪を、ゆったりゆったり、つげの櫛でとかし始めた。
寝起きで乱れた髪が徐々にさらさらとほぐれる頃、軽く団子にしてから、今度は顔を作り出す。
白粉を薄く、頬から鼻筋、そして額にあてがって、ゆっくりゆっくり伸ばしていく。紅(べに)は二色、今日は紅(くれない)を乗せようか、それとも紫紺に染めてしまおうか。
貝を手に取り、お仙は暫く悩んだ後、中指でつうぅと紅(べに)を掬い、紫紺を唇に乗せていった。
さて。
お仙はいつも、顔を作ってから着物を着る質だった。特に理由はないのだが、顔を作ることで、自身が仙次郎からお仙と変わる実感が湧くからかもしれない。
今日は何を着るかねぇ。
特に何を着るでもよいのだ。基本的に、お仙自身は興業に出ることもなければ、裏方もしない。一日中縁側でゆったり構えて、誰かが尋ねてきたり助けを求めてきた時だけ、出ればいい。だから、何を着ようが構いやしないのだ。
それでも着物に想いを寄せるのは、お仙の中にあるおなごの心が、そうさせているのかもしれない。
お仙は衣装棚から黒に菖蒲の着物を出すと、襦袢を着、山吹の半襟を仕込ませると、黒にそっと袖を通した。
そうして、お仙はお仙として、出来上がるのである。
お妲はたいそう多くの反物を持っていた。
遊び女時代の名残である。
多くの男がこれに袖を通してくれと貢いで寄越したが、全てが全てを仕立てられるはずもなく、そのままにしているものの方が多いほどである。
対して、お仙はさして物を持っている方ではなかった。
着物も普段使いが四、五着と、振袖が一つ。化粧の道具も、蒔絵細工の小さな文箱に貝の紅が二色と、白粉だけ。他には、鞠と煙管、そしてささやかながらの茶道具と、白磁器の一輪挿し。それだけだった。
そしてそれらは全て、昔お仙を飼ってくれていた太郎の遺した、大事な大事な形見であった。
着物などは、お妲と揃いが欲しいとねだった物もあるが、他は太郎がお仙のためにと買い与えたものだった。
太郎はたいそう、お仙を気に入っていた。
「お仙、珍しいねぇ、」
後ろから声が掛かって、お仙は振り向いた。そこにはいつもどおりのゆったりした面持ちで、お妲が立っていた。
目が合うや否や、お妲はお仙に抱き着いてくる。
いつものことだ。
そう、何にも変わらない。小さい頃から何にも。
「おはようさん、お妲」
「おはようねぇ、お仙」
二人は名もない頃からの仲だった。
親は誰とも知らない。気がつきゃ捨てられ、山でも人里でも生きていかれないから、二人、初めて出会った時からずっと、協力して生きようねと約束していた。
まぁそんな些細な約束はさっさと消えてしまったわけだが、何度か離れた後にこうしてまた一緒にいるのだから、面白い話である。
そうしていつもどおり二人で抱き合っていると、からんからんからんっ、いきなり近くで手桶が落ちる音がするもんだから、二人は音の方に目を向ける。
そこには、口をあんぐり開けた銀と、何も考えてなさそうに突っ立っている紀伊。手桶を落としたのは、どうやら銀のようだ。
そのまま銀が固まっている隣を、鴉がそのまますり抜けていって、
「いつものことだろ」
と吐き捨てて行くので、ハッとして銀は手桶を拾って、紀伊の手を無理矢理取って、おじゃましましたっ、と、わけのわからないことを口走りながら、そのまま風呂場に駆けて行った。
そんな後ろ姿を見送りながら、
「銀の字可愛いねぇ、」
と、嬉しそうにお妲が言うもんだから、本当に救えないねこの子は、と、お仙は苦笑いを漏らした。
廓座は一日に二度、妖怪による興業を行っていた。
蛇女や河童といった如何にも妖怪の出で立ちの者から、お妲のように完全に人に化けられる者から。昼の部は河童の傘回しから始まり、夜の部は蛇女が客席後ろから現れる。そして中身がいろいろその時々で変わり、最後はお妲の三味線で締める。そんな感じだった。
しかし、興業内容にはほとんど関わらないのがお仙の立ち位置だった。
いくらで券を売るやら何処ぞで地方公演だなどを取り決め、帳面をつける。帳面つけの金勘定はお仙の大好きな分野だ。暇があれば猫の姿で券売所に座り、券を買いに来た客達に幸運を呼ぶ猫又だなどとの名目で撫でてもらうのが趣味だった。
そう、あくまで趣味だった。
いつだったか銀が聞いてきたことがある。
「座長、あそこで何やってるんですか?」
どんな人間が俺達妖怪を見に来てるか確かめてるんですか?
それを聞いてつい大笑いしたものだ。
「いいや、人間に撫でてもらうのは気持ちいいだろう?」
「は?」
「誰だって、優しく撫でられるのは嬉しいだろう、だからだよ」
そう返すと、唖然とした顔で口を開けて、何も言わなくなったっけ。
でも、それが本当の答えだった。
そもそもお仙は、裏で支えたい性分なのだ。だから前に出るのは嫌なのだ。
だから、一座の者に頼られれば頭も捻るし力も貸す。元々誰よりも妖力が強いもんだから、それが誰かのためになるなら喜んで使いたいのだ。そして、いつもお節介。
紀伊を預かった時、これはいい機会だと思った。
銀はどこかここに馴染めないところがある。輪の中にいても、何故か不意に何処かに行ってしまいそうな目をする。馴染んだようでいて、ここが大切だと言っておいて、ここが大切だと思っておいて、不意に何処かに行ってしまいそうな……。
お仙は思う。
本当に自分はお妲にとことん甘いんだから、と。
新しい存在を自分で育てることで、その存在と一緒に、もっとここに寄り添ってもらえたら、それがお仙が銀に禍因を託した本当の理由だった。
子育てならもっと適任がいる。棗は赤子が好きだし、鴉は何だかんだで面倒見がいい。しつけだって彦爺に頼んだ方が賢い子になるだろう。実際、銀が育てて数週間、未だにあの子は言葉すら覚えてない。銀には向いてない。そんなことは最初から判りきっていたことだ。
「お紀伊をきっかけに、銀の字がここを、本当に自分の居場所だと思ってくれたらねぇ……、」
そう思うと、本当に自分はお節介が過ぎるんだからと、苦い笑いが漏れるのだった。
「お仙、これ見ておくれよ」
夕餉も終わり、さて庭でも眺めながら煙管を燻らせようかと思って広間を後にすると、すぐにお妲が追ってきた。
「?」
一瞬、お妲が何を言っているのか判らず顔をしかめる。そしてすぐに、あぁ、と気付いて髪を撫でてやった。そう、小さな花冠のついたその髪を。
「どうしたんだい?」
「お紀伊がくれたのさ。銀の字が洗濯の合間に教えたみたいでねぇ」
嬉しそうにお妲が言うので、つい、お仙の顔も綻んだ。
「お紀伊、あの子教えたらなんでもできるんじゃないのかい? あぁ、いつか三味線を教えてやりたいねぇ!」
「そうだねぇ……、でも今のままじゃあ、銀に似て家事ばっかな子になっちまうから、そうなる前に教えておやり」
楽しそうに笑うお妲に言うと、そうだねぇ、と嬉しそうに返すもんだから、つい愛おしくなって、お仙はお妲を抱きしめてやった。
身長こそお妲に及びはしないが、その強い腕は、おなごの恰好をしていてもやはり、お妲を安心させるに足るものだった。だからお妲は甘えてしまう。その力強さに。
「お仙……、」
銀の字もこれぐらい抱きしめてくれたらねぇ、
そう、お妲が言葉を続けようとしたその時、からんからんからんからんっ、今朝方聞いたような音がまた響いて。
お仙とお妲が同時に音の方を見ると、今度は銀だけでなく紀伊まで手桶を落としてあんぐり口を開けている。
「銀の字……、」
そう、お妲が声を掛けようとする一足早く、
「おっ、お紀伊はまだ子供なんだからそういうのは部屋でお願いしますっ!」
泣きそうな声で言いながら、紀伊の手をまた無理矢理引っ張って、銀は風呂場に駆けて行った。
その後ろ姿を見送りながら。
「本当に、世話が焼けるねぇ」
そう言って二つの手桶を拾うと、お仙はお妲におやすみを告げて、風呂場にそれを持っていってやるのだった。
続く
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