2021年02月26日
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,63
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,63
男は私に気が付くと、帽子を取って会釈をして、
「じゃあ、又」
と、ナオミの方を振り向いて言いながら、すぐすたすたと門の方へ歩いてきました。
「じゃあ、さよなら」
と、ナオミも続いて立ち上がりましたが、「さよなら」と男は、後ろ向きのまゝそう言い捨てて、
私の前を通る時帽子の縁へちょっと手をかけて、顔を隠すようにしながら出て行きました。
「誰だね、あの男は?」
と、私は嫉妬と言うよりは、「今のは不思議な場面だったね」というような、軽い好奇心で聞いたのでした。
「あれ?あれはあたしのお友達よ、浜田さんていう、」
「いつ友達になったんだい?」
「もう先(せん)からよ、あの人も伊皿子(いさらご)へ声楽を習いに行っているの。
顔はあんなににきびだらけで汚いけれど、歌を歌わせるとほんとに素敵よ。いいバリトンよ。この間の音楽会にも私と一緒にクァ
ルテットをやったの」
言わないでもいい顔の悪口を言ったので、私はふいと疑いを起こして彼女の眼の中を見ましたけれど、ナオミの素振りは落ち着いたもので、少しも平素と異なった所は無かったのです。
「ちょいちょい遊びにやって来るのかい」
「いいえ、今日が初めてよ、近所へ来たから寄ったんだって。今度ソシアル・ダンスの倶楽部を拵えるから、是非あたしにも入ってくれッて言いに来たのよ」
引用書籍
谷崎潤一郎「痴人の愛」
角川文庫刊
次回に続く。
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