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2022年10月24日

ヨハネス・ケプラー:Kepler
10/24改訂【1571年12月27日生まれ ~ 1630年11月15日没】

こんにちはコウジです。「ケプラー」の原稿を改定します。投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
2021/7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と7/3の時点で‗
@SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗Aev2Fz71Tr4x7b1k‗2717⇒3131
‗BBLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477‗CKazenoKouji‗3422⇒6564
なので合計‗6102+5965=【12067@2/9】⇒6706+12041【19747@7/3】


作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下原稿です】



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ケプラーの生い立ち


ドイツに生まれたケプラーは天文学者にして数学者、


哲学者、占星術師でありました。そして、


ケプラーの母は薬草治療をしてました。


ケプラーの天文物理学の仕事として素晴らしい点は、


年間の観測情報から数学を使った考察を進め、


天体の星達が(基本的には平面上で)楕円軌道を描く


とか公転周期と面積速度の関係を導き出すといった


秩序だった理論的な結果を導き出した点です。


ケプラーは「数学モデル」を物理学に当てはめた


初めての物理学者だったという事実も見逃せない点です。


今では当たり前に思えるのですがケプラーの時代は


物事を考える土壌が出来上がっていませんでした。


更に実験を結びつけて議論の裏付けをとり、


後の時代の物理学者たちは説得力を増すのです。


 

そんなケプラーは幼少期に苦労します。


ケプラーの父は家族の為に傭兵として戦いに参加します。


ケプラーが5歳から17歳の間、その父は家族と離れ


暮らしていました。そして八十年戦争と呼ばれた戦いで、


父はネーデルランド(今のオランダ)で亡くなります。


加えてケプラー本人は天然痘にかかり視力低下にあい、


一生続く苦労をしました。また天然痘では、、、


ケプラーは妻子を失ってしまいます。


 

ケプラーの業績


 

そんなケプラーは天文学者として地動説に出合いました。


特にコペルニクスがコペルニクス的転回を打ち出した


タイミングでケプラーは天文を学びましたが、


ケプラーはコペルニクスを全面的に支持します。


そういった考え方を読んで推し進めるケプラーを


今度はガリレオ・ガリレイが支持します。


そして何よりケプラーはティコ・ブラーエに出会います。



ケプラーと科学の進歩


科学が飛躍的に進化する時代があると思えますが、


ケプラーの前後の時代はまさに、そんな時代でしょう。


この時代の動きがあったからこそ、後の時代の思索の中で


力学が生まれてきて、電磁気学が生まれてきたのです。


20世紀の初頭にも国を超えて人々が議論して


科学技術に大きな進展が見受けられました。


そんな視点で「社会史」の側面を垣間見ながら


「科学史」を考えてみると人類の進化を感じられます。


私が「進化」と呼んだ「変化」が好ましいか


という議論がありますが、私は好ましいと思います。


可能性が広がるからです。


技術を制御する責任は別問題で別に議論します。


 

ティコ・ブラーエは遺言で集めた膨大な


データを遺産としてケプラーに残しました。


価値ある貴重なデータをケプラーがが受け取り


そして整理して様々な法則を作り出します。


2人の業績から今に残るケプラーの法則が完成したのです。


惑星の運動は体系立てて幾何学上で表現されています。


ケプラーは星を考える枠組みを作り出したのです。


そして次なる様々な理論体系に繋がっていったのです。



〆最後に〆


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全て読んでいます。
適時、改定をします。


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2020/10/19_初版投稿
2022/10/24_改定投稿


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(対応英訳)


Kepler's Birth Born


Kepler's Birth Born in Germany, Kepler was an astronomer, mathematician, philosopher, and astrologer. And Kepler's mother was doing herbal remedies. The great thing about Kepler's work in astronomical physics is that it advances mathematical consideration from annual observation information, and the stars of the celestial body draw elliptical orbits (basically on a plane), orbital period and area velocity. It is the point that we have derived an orderly theoretical result such as deriving a relationship. It is also worth noting that Kepler was the first physicist to apply a "mathematical model" to physics.


Kepler struggles in his childhood. Kepler's father participates in the battle as a mercenary for his family. While Kepler was between the ages of five and 17, his father lived away from his family. Kepler's father died in the Netherlands in a battle called the Eighty Years War. In addition, Kepler himself suffered from smallpox and suffered from his poor eyesight for the rest of his life. Also in smallpox, Kepler loses his wife and children.



 Kepler's Work


Kepler came across the heliocentric theory as an astronomer. Kepler learned astronomical, especially when Copernicus launched a Copernican Revolution, but Kepler fully supports Copernicus. Galileo Galilei now supports Kepler who read such an idea. And above all, Kepler meets Tycho Brahe.


It seems that there is an era in which science will evolve dramatically, but the era before and after Kepler is exactly such an era. It seems that the movement of this era was the reason why mechanics was born and electromagnetics was born in the thoughts of later times. Even at the beginning of the 20th century, people from different countries discussed and made great progress in science and technology. If you think about "history of science" while glimpsing the aspect of "social history" from that perspective, you can feel the evolution of humankind. There is some debate about whether "change," which I called "evolution," is preferable, but I think it is preferable. Because the possibilities open up. Responsibility for controlling technology is discussed separately on a separate issue.



Kepler's Data


Tycho Brahe left Kepler with the vast amount of data he collected in his will as his legacy. Kepler receives valuable and valuable data and organizes it to create various laws. From the achievements of the two, Kepler's law that remains today was completed. The movement of planets is systematically and geometrically represented. Kepler created a framework for thinking about stars. And he was connected to the following various theoretical systems.



2022年10月05日

ゲオルク・レティクス_【George Joachim Rheticus ‗1514/2/16 〜 1574/12/4】

その名はGeorge Joachim Rheticus または Rhäticus, Rhetikus と記します。
(外国の方ですから正確にコピペしました。)
レティクスはオーストリアに生まれた天文学者です。

レティクスはフェルトキルヒ、チューリッヒ、ウィッテンベルクで数学的な素養を収めた後に1537年にウィッテンベルク大学で教授として働きだします。そして、その二年後から二年間の間、コペルニクスと共に暮らします。影響を与えあっていたのです。当時の学問多型を考えたらニュートン力学も成立していませんし、電磁気に関する理解もありません。道具立てとして使える学問は天文学と数学なのです。

あえてその他を考えていくとすればユダヤ教の発展と共に伝わってきた「カバラ」と呼ばれる数の体系です。キリスト教の色々な話に基づき数字一つ一つに意味を付けていきます。13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に一つ一つの数字に意味が加わるのです。この考えは数秘術として占い師が今でも受け継いでいる体系です。中世には王家の意思決定などの時に真面目にこうした「議論」がなされて実際の祭りごとが行われていました。有名な人ではミッシェル・のストラダムスはフランス王家に仕え、助言を与え地位を確立しています。レクティスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。

また、当時の宗教が政治的にも力を持っていた側面が大きいです。特に中世以前はキリスト教の教えに従い協会自治区が地方のあちらこちらにありました。経緯としては、1096年から1303年にかけての期間に十字軍の時代には聖地を確保するために十字軍が組織され、大規模な軍事行動が行われていました。

そうした時代背景のもと、16世紀前半に宗教改革をしたマルチン・ルターによるコペルニクス批判が指摘されます。宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは聖書の一節であるヨシュアによる「日よとどまれ」(ヨシュア10:12〜13)という言葉に着目しています。「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」という聖書の中での世界観が天文学にも適用される事が好ましい世の中だったのです。ルターの思想の中には実験と経験を重視して考える思考は見受けられません。ルターによれば千年以上前に著された聖書の言葉が何より重いのです。それだからルターはコペルニクスの考えを受け入れていないのです。ルターは教会が権威を持ちと堕落しているとの批判的な観点から神の言葉としての「聖書の文言」を大事にする聖書絶対主義を掲げました。また、キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが天文学に対して異なる見解を示します。
科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年にヨハネパウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」
を公式に謝罪するまで続きます・

レクティスは時代背景にも関わらずにコペルニクスを支持し続け天動説を進めていきます。コペルニクスの死後まもなく発刊された「天球の回転について」において天動説を形にします。後の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に理解されなかった時代に、レクティスは理解と復旧を進めたのです。



2022年10月02日

ルネ・デカルト(仏: René Descartes)【1596年3月31日フランス生まれ 〜 1650年2月11日】

ルネ・デカルトは、フランスに生まれた哲学者にして、数学者です。
そして。合理主義哲学の祖でもあります。
一般には近世哲学の祖として知られています。


「我思う、ゆえに我あり」の言葉は有名です。思索の主体と対象を考えている命題で、当時主流だったスコラ哲学による考え方と大きく異なります。スコラ哲学時従えば、信仰とは元来、自己を捧げる事で成立する行為で、信仰がが人間では作り上げられない「真理」の獲得へと繋がっていくのです。


スコラ哲学の保守的な考え方にデカルトは疑問を抱き、新しい哲学的な命題を打ち立てたのです。太陽の光が大地に降り注ぐように、人間の理性が自然に活動する中で真理へと近づいていけるであろうという考えがデカルトの信念なのです。


経緯を考えていくと、デカルトはイエズス会の学校に所属して研鑽を進めます。先ずイエズス会のラ・フレーシュ (La Flèche) 学院に入学します。当時、イエズス会の学校はフランスに15校。その中でもフランス王アンリ4世自身関わっていた有名なラ・フレーシュ学院です。そこには優秀な教師、生徒が集められていました。


プロテスタントは「信仰と姿勢は調和しえない」という教義に基づきます。それに対してカソリックを掲げるイエズス会は理性を侵攻に取り入れてスコラ哲学を教育カリキュラムに取り入れていました。更に自然科学の前進となる考えも好意的に取り入れていて、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で初めて木星の衛星をとらえた時には学院ではお祝いの催しが開かれたそうです。


デカルトが教えを受けた学院での教義の中では哲学は不完全なもので、
「その完成には哲学が必要である」とされています。


デカルトは学院で論理学・形而上学・自然学、占星術、秘術(今で言う魔術の系統)を学んでいきます。とりわけ自然科学の中で数学を好んで数学的な論法で議論する事もありました。そうした基礎教養を身に着けた後にデカルトは遍歴の時代を過ごします。


デカルトは22歳のときにオランダで軍隊に参加します。この時期は80年戦争での休戦期間なので実戦は無かったであろうと言われています。


それよりも寧ろ、軍隊の中での最新兵器の開発にデカルトは興味を持ちました。優秀な技術者と交流して知見を広める事が目的だったようです。


その後にデカルトはイザーク・ベークマンという人物に出会い知的な刺激を受けます。ベークマンは医者でありながら自然科学や数学に長けていました。ベークマンからデカルトが知った概念は次のようなものです。@原子の概念、A真空の概念、B運動保存の概念、です。それらは現代の物理学へと繋がっていく概念です。この時期にそうした概念の「基礎」が出来てきたのですね。そしてベーグマンはコペルニクスの考えに共鳴していて指示していました。デカルトはベーグマンと共に思想を発展させていきます。自由落下に対して見識を深め、水圧に対して見識を深め、三次方程式などの数学的な概念も発展させていきます。



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2021年07月05日

デカルト_1596年3月31日 ~ 1650年2月11日



デカルトは近代哲学・数学での「初めて」を沢山作りました。
デカルトといえばよく知られた数学の仕事としては(デカルト座標」があげられるでしょう。平面上で方眼紙をイメージしながら長さに対応した数量を考えていって平面上の座標を定めるのです。例えばX,Yの二変数で考えた時に@XもYも共に1の場合とAXもYも共に2の場合を考えたらそれぞれの距離は√2と2√2ですから後者Aの方が遠いのです。「二倍遠い」といった論理的な話を誰しも分かる共通の土俵で話す事が出来るのです。ここから話が始まって、平面上で三角形の形をを考えたり、その面積を考えたり出来るのです。そんな土台をデカルトは作っていったのです。

また、アルファベットで定数や変数を表す時にA,B,C,,,,,を使って定数の代わりにする一方でZ,Y,X,,,,を使う時は変数の代わりとして一般的に使いますがこの代用法もデカルトが使いだしたと言われています。中学生に説明したら,何となく分かってくれるでしょうか。定数と変数を分かり易く分けて考える方法だと思えますので特筆すべき便利さですね。その変数でXの二倍は2Xで、XのX倍はX^2(Xの自乗)と書きますがこれまたデカルトの発案です。論理学から代数学へつなげていったのですね。これまた素晴らしい。

そんなデカルトですが哲学者としては「我考える、故に我あり」の言葉が有名です。思考の原点を自分自身で考えて「自我」を言葉で表現していった人です。人類が何千年も生活してきて、地域ごとに色々な生活様式で
生き続けてきた中で、より普遍的な「思考方法」と「思考過程」を定式化して議論の土台に乗せたと言えます。イタリア人とインド人が精神論の違いを語るとしたら、デカルトが考え出したような哲学的な言葉は、きっと役に立つに違いありません。そんなデカルトも自身が信じるキリスト教を基盤に、その「神」を考えていったと言われています。「良識」、「人権」といった民主主義の基盤となる概念も「人」と「神」の関係を考えていく事から形作られたと言えて、「神」の偉大さを議論する事で、その子として恥じない「人」のあるべき姿を考えていったと言えるでしょう。色んな困難があったと言われています。実際にガリレオの事情を知り、デカルトは論文提出を控えたと言われています。





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2021年04月01日

コペルニクス_【2021/04/01_原稿投稿】

本日、以下原稿を投稿します。天文学の土台を築いた偉人コペルニクスです。


また、当ブログへのアクセスを増やしたくてツイッターしてて、以下の4アカ計で考えて4/1(木)朝の時点で、前日と比較すると【11144⇒11214】です。こんなペース。焦らず作業。
@コウジ@kouji_Aバンドリ好き太郎_B浩司_Ckouji kazeno

【以下は原稿です】


  


コペルニクスは王領プロイセンの一部であった現在のポーランドで生まれました。特に第2次大戦までのナショナリズムの時代には、その地に生まれた人々はドイツ人であると言われたりしていましたが、今日ではドイツ系ポーランド人と呼ばれることが多いです。コペルニクスはもともと職業として天文学に専念出来る仕事に従事していませんでした。日常の仕事としては宗教の布教に伴う様々な仕事をしていたようです。


Bloomee LIFE


そういった仕事の一つとして、聖堂参事会の財産管理をしていましたが、その仕事の中で「悪貨は良貨を駆逐する」という概念を初めて用いています。そういった社会的な貢献も行っていたという事実は特筆すべきです。ドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに進行する中でコペルニクスの生活は色々と変わっていきます。


1539年にヴィッテンベルク大学の教授であったゲオルク・レティクスがコペルニクスを尋ねましたが、そこで彼はコペルニクスから地動説の思想を説明してもらい得心し、その考えを継承・発展したいと思うようになりました。コペルニクスとの師弟関係が始まっていきます。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収し、理論体系の流布へ向け出版をするように進言します。。そうした話を受けコペルニクスは自らの理論を纏めていこうと考えました。1539年にはレティクスが自身の天文学の師、ヨハネス・シェーナーに長い手紙を送りました。その手紙の中においてコペルニクスの理論の抜粋を盛り込んでいます。その写しをレティクスはグダニスクの出版業者に持ち込み、翌年には「最初の報告」として出版しました。そこでコペルニクスはレティクスと共に推を進めました。その2年後には「天球の回転について」の草稿が完成し印刷されたのです。所がレティクスのライプツィヒ大学の数学教授に伴い、レティクスが後任指名した神学者アンドレアス・オジアンダーが校正を続けます。しかしそうした中、コペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となり、原稿を読むことはできませんでした。最終的に仕上がった印刷物は、コペルニクスが亡くなった当日に彼のもとに届いていたという逸話が残っています。享年70歳の生涯でした。












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2020年10月23日

ジョルダーノ・ブルーノ_1548年 ~ 1600年2月17日





ジョルダーノ・ブルーノはイタリア
生まれの哲学者です。以前に紹介した
ガリレオと生きた時代が重なります。
自然観の観点から科学史の中で論じます。





現代の我々の視点からは
当時の不合理さは受け入れ難いです。
最終的にはブルーノは
火炙りに処されてしまいます。
宇宙は有限ではなく無限で、
地球や太陽も星の1つ、
というブルーノの考えは
当時の社会的な価値観に
合いませんでした。





そして何より、ブルーノは
ドミニコ会の修道士でした。
「神の作りたもう世界は限り無い」
という信念をもっていて、
権威に立ち向かいつつも
彼なりに良心的な判断をして
考え方を構築していったのです。

数学的モデルで検証して欲しかった。
実験結果と照らして判断して欲しかった。
科学が得意な人々と議論して欲しかった。
私は勝手に、そう思います。





最後に、ブルーノの名誉回復の話です。
20世紀になってヨハネ・パウロ2世
の時代に過去の見直しが成され、
処刑は不当であると、違憲判決を
勝ち取っています。新しい発想を作り
出したブルーノが再評価されたのです。
今、ブルーノは思想の自由に殉じた
殉職者として評価されています。











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2020年10月22日

ガリレオ・ガリレイ_1564年2月15日 ~ 1642年1月8日



先ず生誕年の西暦はユリウス暦で
死没年の西暦はグレゴリオ暦です。
ガリレオ・ガリレイはそんな
時代の境い目に生きていました。





ガリレオ・ガリレイの名は
イタリアにおいて近代科学の父、
天文学の父として知られています。
数学的なモデルを確かにして
現象からパラメターを選び
その数値を観測可能な道具を選ぶ
事で実験検証する手法はガリレオ
が確立したものです。





そんなガリレオが生きた時代には
自然科学の考えで暗黒の背景が
ありました。教会が力を持ち、
表現が不適切とされた時には
社会的な制裁を受けました。
ジョルダーノ・ブルーノという
哲学者は火炙りに処されています。

ブルーノの断罪は多岐に渡りますが
その中の一つが天体関連です。
教会の考えでは、
地球が太陽や土星の様に運行
してはならないのです。
今では理不尽とも思えますが。





そんな時代の中でガリレオは艱難辛苦
に晒されます。権力争いに巻き込まれ、
天体に関する考えから異端審問を受け、
社会的立場を悪くします。軟禁状態にあり、
体調も悪くなっていきます。そんな
有り様を知ったデカルトは論文発表を
控えたと伝えられています。

更にはガリレオは失明します。
これは一説には天体観測
のせいだとも言われています。
ただ、その後も息子や弟子達の
助けを借りて出版をしたり
振り子時計を発明したり
しています。そして、最後は
77歳で亡くなっています。












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2020年10月20日

ティコ・ブラーエ_ 1546年12月14日 ~ 1601年10月24日



ティコ・ブラーエはデンマークの貴族です。
そして多彩な能力を持っていて
天文学で業績を残し、作家・占星術師・
錬金術師としても活動していたようです。
また、意外なエピソードとして
ティコ・ブラーエの鼻の話があります。
その鼻は若き日の決闘によって鼻梁が
無くなっていて、それ以降、ティコは
金属製の付け鼻をしていたのです。





ティコ・ブラーエの考え方では
地球が中心にあり、太陽は地球の周りを
回転していると考えていました。
確かに相対的な位置関係としては
太陽の動きは説明出来ますが、後の学者達
が整理した色々な星のデータベースと
整合性がとれる考えではありませんでしたでした。





ただ、ティコ・ブラーエの観測データは
正確無比でした。後にデータを引き継いだ
ケプラーがコペルニクス的転回をして
データをもとに、地球が自転しながら
太陽の周りをまわる理論を打ち出します。





全体的にティコ・ブラーエの考えは間違い
でしたが、観測上の業績としては
とても大きかったと言えるでしょう。











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2020年10月19日

ヨハネス・ケプラー_1571年12月27日 ~ 1630年11月15日



ドイツに生まれたケプラーは天文学者にして数学者、哲学者、占星術師でありました。母は薬草治療をしてました。天文物理学の仕事として素晴らしい点は、年間の観測情報から数学を使った考察を進め、天体が楕円軌道を描くとか公転周期と面積速度の関係を導き出すといった秩序だった理論的な結果をケプラーが導き出した点です。




「数学モデル」を物理学に当てはめた初めての物理学者
だったという点も見逃せ無いポイントです。





ケプラーは幼少期に苦労します。
ケプラーの父は家計を支える為に傭兵として戦いに参加します。ケプラーが5歳から17歳の間、その父は家族と離れ暮らしていました。そして八十年戦争と呼ばれた戦いでお父様はネーデルランドで亡くなります。加えてケプラー本人は天然痘にかかり視力低下にあい、一生苦労をしました。また天然痘でケプラーは妻子を失ってしまいます。





そんなケプラーは天文学者として地動説に出合いました。
特にコペルニクスがコペルニクス的転回を打ち出した
所でケプラーはコペルニクスを全面的に支持します。
そういった考え方を読んだケプラーを
今度はガリレオ・ガリレイが支持します。
そして最後にケプラーはティコ・ブラーエに出会います。

ティコ・ブラーエが集めた膨大な
データを遺産としてケプラーが受け取り
そして整理して様々な法則を作り出します。
二人の業績から今でも残るケプラーの法則が完成したのです。
惑星の運動は体系立てて幾何学上で表現されています。
ケプラーは星を考える枠組みを作り出したのです。
そして次なる様々な理論体系に繋がっていったのです。








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