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2020年09月05日

ルートヴィッヒ・E・ボルツマン_Ludwig Eduard Boltzmann,_1844年2月20日 〜 1906年9月5日



オーストリアにあるボルツマンの墓には
S=k LogWと書かれています。
ここでいうSとはエントロピーというパラメターで
事象の乱雑さを表します。
k(またはkBと記載します)というパラメター
を定めてボルツマンが定量化した概念です。

乱雑さは統計力学で温度T、容積V、圧力P等と関連して
ボルツマンの関係式として定式化されました。





ボルツマンの研究業績の中で特に私が関心をもつのは
原子論に関しての関わりです。当時、観測に直接かからない
原子は色々な見方をされていました。そんな原子に対して
ボルツマンは「乱雑さ」または「無秩序」の度合いという
新しい物理量を使い原子の実在に近づいていったのです。





結果として
対立する考えが学会で生じていて
原子モデルを使うボルツマンと、
実証主義で理論を進める
エルンスト・マッハの間で論争が続きます。
そして、残念なことに晩年は精神障害に悩み、
自ら命を絶つという悲しい最期を遂げています。

彼はピアノが好きでした。




花を手向ける場所がありますよね。





以上、間違い・ご意見は以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが必ず返信・改定をします。

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2020/09/05_初回投稿
2021/01/02_改定投稿








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カメリー・オネス_1853年9月21日 ~ 1926年2月21日



その名はより正確にはヘイケ・カマリン・オンネス
(Heike Kamerlingh Onnes)今日、 日本では
カーメルリング・オンネス、カマリン・オンネスや、
カマリン・オネスなど数パターンでカタカナ表記さ
れていますが、本稿ではカメリー・オネスとします。

ライデン大学実験物理学教授」この称号が
カメリー・オネスの人生をよく表しています。
彼は生涯オランダのライデン大学で教鞭をとり、
実験によってかってない世界を切り開きました。





カメリー・オネスはドイツのハイデルベルク大学
に留学してキルヒホッフ等の師事を受けたと
言われていますが、特に帰国後にライデン大学
「ファン・デル・ワールスと出会い、彼との議論を
通じ、低温における物理現象に興味を抱くように
なった」【Wikipedia】
と言われていて、ライデン大学での繋がりが
低温物理学に興味を抱く大きなきっかけ
だったようです。



特に温度を下げていく過程で電子の振る舞いが
どうなるか。それに対しての回答として
カメリー・オネスは超電導現象を示しました。
実験的に再現性のある現象として示す事で
さらなる理論の土台を築いたのです。





格子間を運動する電子が電気的性質、磁気的特性
を温度変化に応じてどう変えていくかに対して
異なる考えがあった時にカメリー・オネスは
事実を実験によって明確に示したのです。
絶対零度では抵抗はゼロになりました。
一つの予想を実験結果で証明したのです。





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2020年09月04日

J・C・マクスウェル:James Clerk Maxwell_1831年6月13日 ~ 1879年11月5日



マクスウェルは電磁気学を確立しました。
そこでは場の理論の基礎を作りあげ、
電場と磁場の関係をマクスゥエル方程式
で関連付けてまとめ上げ定式化をしたのです。
更には、直行する電場と磁場からなる「電磁波」
の関係を数式として確かにして、その進行相度が
光速度となる事を理論的に導きました。






当時の物理学者は多面的に現象を論じていて
マクスウェルも光学・熱力学で業績を残します。
電磁波が光学的に縦波・横波で議論されています。
現代では高校レベルの知識ですが
当時、説明するのは大変だったと思います。







マクスウェルの業績で個人的にもっとも評価したいのは
場の考えの確立です。静的な意味での場と時系列で変化する
動的な意味での場は大きく違うと思えます。
マクスゥエルは後者の意味の場を
定式化して後の理論家達に道を示したパイオニアでした。








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2020年08月31日

ニールス・ボーア_1885年10月7日 ~ 1962年11月18日



デンマークに生まれたボーアは前期量子論
において先駆的な理論を提供し続けました。

ボーアは当時、不完全であった原子像を
洗練させて独自の原子模型を提唱します。
先ず1911年にイギリスへ留学し、J・J・トムソン
ラザフォード
_の元で原子核に対する
考察を進めていきます。
そもそも光学顕微鏡で見えない大きさレベル
での世界に対して、考察を止めることなく
量子力学を確立していきます。






ボーアはイギリスから帰国後に幾多の
仲間をコペンハーゲンに集め、いわゆる
コペンハーゲン学派を形成します。
そこでまとまった解釈はコペンハーゲン解釈
と呼ばれるようになり、それまでの物理学
でのパラダイムを変えていきます。
一言でまとめると、コペンハーゲン解釈
は微視的世界での観測に対する考え方です。
とても奥深い話ですから、次の改稿時には
もう少し踏み込む積りです。

その中でボーアは本質的な「ボーアの量子化条件」
を用いて様々な現象を説明してみせます。
長さスケールで10の‐23乗のスケールでの議論では
エネルギーなどの観測値がとびとびの値を示す
のですが、その事象を現実世界での本質的な性質
であると提唱したのです。
原子半径、磁気的性質も現代では、
その形式で考えるが方がわかりやすい訳です。






そして晩年、ボーアはデンマーク最高の勲章である
エレファント勲章を受けています。





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2020年08月30日

マックス・ボルン 1882年12月11日 ~1970年1月5日



ボルンはユダヤ系ドイツ人故、
第二次世界大戦時は大変苦労しています。
そんな中で前期量子論において
本質的な確率解釈を提唱しています。

本国で教授職を解雇されたりしていて、
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。
この点ではドイツに残り、原爆開発に参加していた

ハイゼンベルク
とは全く別の人生を歩んでいます。
ちなみに、
ハイゼンベルク
はボルンの門下生です。
オッペンハイマーもまた弟子にあたります。





彼の解釈で有名なやり取りがあります。
反論したアインシュタインがサイコロ遊び
に量子力学の解釈を例えたのです。
【Wikipedeaより引用:アインシュタインの有名な言葉
「彼(神)はサイコロを遊びをしない」は1926年
にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】





確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。
ボルンの考え方は、それまでの発想を大きく変えました。






他、
孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も初稿を書く際に分かったのですが
意外ですね。

関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k





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2020年08月29日

レオン・フーコー_Foucault_1819年9月18日 ~ 1868年2月11日


フーコーはフーコーの振り子で有名です。
誰にでもわかる優れた実験を駆使して
地球の自転を実験的に明らかにしました。
1851年のパンテオンでの公開実験で
最終的に仮説を実証してみせます。

フーコーはフランスのパリに印刷業
を営んでいた父のもとに生まれます。
幼い頃から科学工作が好きでした。
子供時代は病弱で医学を志していま
したが血液恐怖症だったりした為、
お医者様になるのは断念したそうです。

10代になり、写真技術の改良をしていた
フーコーは物理学者アルマン・フィゾー
と知り合いになり交流を深めます。
フィゾーとは良い関係を持ち続け
協同研究を続けました。

1847年頃からフィゾーとフーコーは
それぞれ独自に研究を進めます。
歯車を使いフィゾーが光速度を求め、
回転している鏡を使いフーコーは
媒質中の光速度の差異を求めました。





私が何より興味深いのはフーコーの
頭の中にある理論的な考察が
閃きによって実験に昇華するプロセスです。
フーコーは理論的な原理を優れた実験で
わかり易く示したと言えます。秀逸でした。





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2020年08月19日

ルイ・ド・ブロイ_1892年8月15日~1987年3月19日



フランス貴族、公爵の血を引いてます。その血筋は由緒正しいのです。そもそも、ルイ14世により授爵頂いた名門貴族・ブロイ家の血筋であって、ルイ・ド・ブロイは直系子孫です。兄の没後は子供が居なかった事情もあり、正式に侯爵家の当主を務めています。ルイ・ド・ブロイはフランスの首相を二期務めた第4代当主アルベール・ド・ブロイの孫です。それだから、生誕時にルイの父は当時公子でした。こんな逸話が沢山あるのですね。そんなルイ・ド・ブロイは独自に優れた仮説を進め、ド・ブロイ波の考えにたどり着くのです。





そのルイ・ド・ブロイの考えは初めは中々理解されませんでした。関連して超有名なエピソードがあります。ルイ・ドブロイの博士論文の審査過程で教授達がド・ブロイの考えを理解出来ずアインシュタインに意見を求めた所、ド・ブロイの考えは博士論文よりもノーベル賞に値する。と評価され、更に考えを進めていく事が出来たのです。その考えはパラダイムシフトでした。当時の物理学の世界を変えたのです。





実際に数年後にルイ・ド・ブロイはノーベル賞
を受賞します。いつの時代も中々、
新しい考えは理解出来されないものですね。




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2020年08月18日

シュレディンガー_1887年8月12日 ~ 1961年1月4日



シュレディンガーはオーストリア=ハンガリー帝国に生まれました。彼はその父に影響を受けたと言われまずが、その父はバイエルン王国の生まれで、広い教養をもった人だったようです。これが後のシュレディンガーの性格に影響するかと思われます。

シュレディンガーは猫の例えで有名です。
具体的には量子力学的な現象に連動して
猫を毒殺する仮想実験を議論しました。
議論の帰結としてミクロな現象が
確率的な実在として表現出来る事、
そして空間的に広がる確率波を考えます。

確率波の時間発展は
シュレディンガー方程式と呼ばれ
量子力学の基礎方程式となるのです。
私は大学院時代にそれを使い
超伝導現象を紐解きました。
新しい現象理解に繋がっていったのです。

そうした量子力学の表現形式として
ハイゼンベルク形式とシュレディンガー形式
があり2つは完全に等価です。
数学の側面から大まかに表現すると、
ハイゼンベルク形式はヒルベルト空間上の
行列とベクトルを使い、
シュレディンガー形式では同空間での
演算子と波動関数を使います。
共に直感に響く側面を持ち相補して全体を
補い合うのですが、私には粒子の二面性
を感じる時はシュレディンガー形式が
適していると思われました。
その記述をシュレディンガーは纏めたのです。





最後に、もう一度シュレディンガーの人となりに話を戻したいと思います。シュレディンガーはウィーン大学でボルツマンの後任であるハゼノールの教えを受けていて、ボルツマンと関わりが出来たのです。彼はボルツマンの示した道筋を受け継いでいた人でした。彼はボルツマンに対して熱い想いを持っていました。曰く、「ボルツマンの考えた道こそ科学に於ける私の初恋と言っても良い亅_【万有百科大事典 16 物理・数学の章より引用しました。】
ボルツマンが完全に確立出来なかった原子論をシュレディンガーは彼らしい描像で表現したのです。

また、シュレディンガーはオーストリアの
紙幣にその肖像を残しています。












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2020年08月13日

エルンスト・マッハ_ 1838年2月18日 ~ 1916年2月19日





前回はアインシュタインの直後の時代の一人、
今回はアインシュタインに影響を与えた一人
です。私の知る限りで、
最初の科学史家ではないでしょうか。

エルンスト・マッハはオーストリアに生まれ
た物理学者です。その研究範囲は数学・
物理学・感覚分析・心理分析に及びます。





マッハの残した業績はまさにパラダイム
シフトと呼べます。それは時間と空間の
概念に対しての挑戦でした。そもそも、
ニュートン以降、空間の概念は
絶対空間・絶対時間しかありませんでした。
背景として神の概念に端を発する世界観
があったのです。宇宙も自然も神の作り
たもうた産物だと万人が考えていました。

所がマッハの考え方は徹底的に相対的です。
アインシュタインはそこを考え抜き相対論
に至ります。新しい考えを哲学的思考
とでも呼べる方法で打ち出し、明確な
メッセージを伝える力は素晴らしかったです。
晩年のマッハをアインシュタインが
表敬訪問しています。









またマッハは物理学に於ける概念の変革
にも大きく関わりました。ボルツマン、
プランクらの実在主義に対してマッハは
実証主義を展開し、自然に対する測定を
通じた認識の問題を議論しました。
観測者の感覚を重視した認識に対して
独特の立場をとっています。





未だに音速を表現する際に「マッハ」
という単位で彼の名前を唱え続けています。
これは後世・我々が出来た僅かな恩返し、
とも言えるのでは無いでしょうか。
論敵も多かったマッハでした。
確かな足跡を残しています。
  









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2020年08月12日

石原純(あつし・じゅん)_1881年1月15日 ~ 1947年1月19日




先ずは日本の物理学史の中から一人、
ご紹介します。
同性同名の方が現存されますが、
これは昔の人の記事です。





山川健次郎、長岡半太郎、朝永振一郎、
と続く黎明期の中で異色の人生を歩み
ました。アインシュタイン来日時には
通訳を務め、西田幾多郎に不確定関係
を伝えたパイオニアです。

日本物理学界に多大な貢献を残しつつ、
女性関係で帝大を去ります。
そもそも石原さん、
伊藤左千夫の弟子なので斉藤茂吉に
説得されたりしていますが、
一向だにしませんでした。
アララギの発刊に携わったメンバー
ではありましたが、
この事件でアララギ脱会に至ります。






と、ここまではwikipedia等に載っている情報。

私的な思い出としては、大学の恩師が彼を評価
していて、情熱を感じさせる講義をしてくれて
いた時間です。日本の科学の為に多大な功績を
残しながらも学会と距離を置き交通事故による
不慮の最後を遂げた人生を詩的とでもいえる
語り口で講じていました。










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