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2020年12月23日

田中舘愛橘_1856年10月16日 ~ 1952年5月21日





田中館愛橘、
その名は愛橘と書いてあいきつ、
と読ませます。生まれた年は
旧暦の時代で安政3年9月18日です。
【新暦で1856年10月16日です】
没年は新暦での昭和27年です。
先祖に南部藩の赤穂浪士と呼ばれた
方が居たそうですから、そうした
イメージから語り出したいと思います。
時代の変革期に若き日を過ごしました。



さて、田中館愛橘の父方は兵法師範の
家系であり、愛橘は藩校である作人館に
学びます。作人館での同窓生には原敬
がいて後輩には新渡戸稲造がいました。
存じませんでしたが立派な学校ですね。
東京に出て慶應義塾に通いますが
学費が高額なので東京開成高校に
進みます。

今で言えば東大教養学部のイメージ
でしょうか。そこで愛橘は山川健次郎
から物理学を学びます。政治にも
関心を持っていたようですが、山川から
諭され、我が国の理学での遅れを挽回
せんと愛橘は物理学を志しました。



1879年に東大で外国人教師である
メンデンホールとユーイングが
エジソンの発明したフォノグラフ
を日本に紹介しましたが、田中館愛橘は
早速試作を行いました。その音響や振動
の解析を行っています。1880年には
メンデンホールによる重力観測に参加し、
東京と富士山で観測作業を行いました。
当時の世界1の高精度方位計であると
称えられた電磁方位計を愛橘は制作しました。



ダイソン・私も使ってます♪

田中館愛橘は明治16年12月に福岡に帰っていた
父・稲蔵が割腹自殺したとの知らせを受けて
帰郷します。そしてその年に東京大学助教授
となりました。詳細は追って調べます。この時期
気になる動きです故。





その後、田中館愛橘はイギリスでケルビン卿に師事し
、大きな影響を受け、生涯を通じてケルビンを敬愛し
ました。その後1890年にヘルムホルツのいたベルリン
大学へ転学、電気学などを学びます。この時代の電気
に対する理解は、後ほど項を改めてマクスウェルらと
関連して語ります。愛橘は東京帝大理科大学教授となり
後にに理学博士の学位を受けます。更にデンマークの
コペンハーゲンで開かれた万国測地学協会 第14回総会
で地磁気脈動や磁気嵐の発表をします。

また時代柄もあって、田中館愛橘は陸軍や海軍
に対して貢献します。地磁気測量では指導の
中心的な役割を果たしています。旅順での戦闘
の際には敵情視察用の繋留気球の制作を依頼
されています。それが愛橘と航空研究のきっかけ
となりました。田中館愛橘は中野の陸軍電信隊内
での気球班で気球研究を始め、制作および運用法
を指導しています。試行錯誤の末に気球を完成させ、
旅順戦で戦闘に使用されています。




そして田中館愛橘が60歳になり、教授在職25周年
のパーティで愛橘は辞職する旨を伝えました。
後の東大での定年退職制度に繫がっていきます。
また、田中館愛橘は数多くの人材を育てました。
教え子としては長岡半太郎、中村清二、本多光太郎、
木村栄、田丸卓郎、寺田寅彦などが居ます。それ故、
愛橘は「種まき翁」、「花咲かの翁」と呼ばれた
そうです。95歳7か月の天寿を全うしました。





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全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。

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2020/12/16_初版投稿





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2020年12月22日

セシル パウエル_1903年12月5日 ~ 1969年8月9日



単なる偶然の産物かも知れませんが、
今回ご紹介するセシル パウエルと
ハイゼンベルクとゾンマーフェルトは
同じ誕生日でした。また、また、
西川 正治も同じ誕生日でした。





さて今回の紹介はセシル パウエルですが、
原子核乾板に素粒子の軌跡を記録する方法
を改良しました。当時は未知なる粒子が
次々と発見され様々に予想されていた
のですが、観測手段も試行錯誤が成され
ていました。霧箱で飛んでくる粒子の
軌跡を捉えたり、高い山の上で観測して
飛来宇宙線の大気減衰を克服したり
写真技術を活用したりしました。
パウエルの手法は写真のイメージから考える
のでしょうか。更に確認したいところです。



またパウエルは湯川秀樹が予想した
パイ中間子の観測・発見の為に
研究スタッフを派遣しています。生成後の
寿命が短く地表に到達できないパイ中間子
観測の為にボリビアにあるアンデス山脈の
標高5000mの山から上記乾板を使って発見
しています。ダイナミックな観測だった
と言えるでしょう。他、気球を使い
高度を確保したりもしています。
観測の為に様々な工夫をこらして
結果を得ています。





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2020年12月21日

仁科 芳雄_1890年12月6日 ~ 1951年1月10日



仁科芳雄は稀代の人たらし
だったと言われています。
人に入れあげ、彼の元に人が集まり、
人々を育てあげた凄さがあります。





仁科本人はニールス・ボーアのもと
で育ち、その自由闊達な学風を持ち込み
日本で多くの学者を育てました。
1928年にオスカル・クラインと
コンプトン散乱の有効断面積を
議論しています。また帰国後には
ハイゼンベルクやディラックを
日本に招待して理解を深めています。
また、師であるボーアも日本に
呼び寄せています。



研究内容として仁科はサイクロンの
建設を進め様々な成果をあげてます。
そのサイクロンを大型化する際には
仁科は大変苦労しています。先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは
日米関係に伴い関係が悪くなっていき、
終戦共にサイクロンはGHQにより
東京湾に破棄されてしまいます。



戦後には仁科は理研の所長を務め、
科研製薬の前身で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡くなります。
放射線被ばくの影響もあったであろう
と言われています。多くの人材育成に
捧げた人生だったと感じています。





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2020年12月20日

西川 正治_1884年12月5日 ~ 1952年1月5日



西川 正治は寺田寅彦の指導を受け
物理学を学んでいきます。特に、
彼は竹や麻等の植物由来の構造体
に着目して繊維構造物質に対して
電磁波がどう作用するか考えました。



手法としてはX線回折を駆使して
スピネル群結晶内の電子配置を
決定しています。




そもそも、電子は不可視の存在ですが、
電磁波に対して作用して結果を残すので
その結果を画像で解析すれば結晶内での
微視的な電子配置の情報が得られるのです。
新しい計測手法を手掛かりに西川正治は
解析していったのです。



西川正治はそうした業績を残しながら
二人のお子様を育て、其々が学者として
名を残しています。また、同時に
幾人もの弟子を育て日本物理学会に
今も続く、大きな足跡を残しています。





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2020年12月08日

A・H・ルイ・フィゾー_1819年9月23日 〜 1896年9月18日



その名は正確には、アルマン・イッポリート・
ルイ・フィゾー(Armand Hippolyte Louis Fizeau,
1819年9月23日 - 1896年9月18日)
地上で光速度を始めて測定した人で、
フランス人です。





フィゾーの実験として有名な物は1849年に回転歯車を使った公開実験です。明快に原理を示して光速度を数値化しました。

フィゾーの示した数値が重要なのは、後に明らかになっていきますが、光が電気と関係してるからです。後にマクスウェルが電磁気学をまとめる中で、自分の理論での計算結果とフィゾーの示した値がとても近い事実に気付きます。それはきっと、今風に言えば、電磁波の伝播速度が光速度に近い、という事実なのでしょう。

また、フィゾーはドップラー効果も予見してます。この言葉はスマホ入力で一発変換されていますが、フィゾー等が確かにしていった概念なのです。

フィゾーが実験を繰り返す困難は測り知れません。当時は未だレーザー光線も無かったでしょうし、当然デジタルのカウンター等も無いので、計測系のイメージだけでも大変だったでしょう。





私が何より興味深いのはフィゾーの
頭の中にある理論的な考察が
閃きによって実験に昇華するプロセスです。
フィゾーは理論的な原理を優れた実験で
わかり易く示したと思います。





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2020年11月17日

ハリー・ナイキスト_1889年2月7日 ~ 1976年4月4日



ナイキストはスウェーデンに生まれました。
1907年に家族がアメリカ合衆国に移り住み
その後、帰化しています。

その時点でナイキストはハイスクール修了
くらいでしょうか。アメリカの名門イェール大学
を卒業した後に1917年からAT&T研究所で研究します。
後にベル研究所で研究します。





ベル研究所でナイキストは熱雑音や
FB増幅器の安定性を研究しますが、
特筆すべきは離散化された信号の
サンプリングに関する物でしょう。

そのナイキストが提唱した周波数は
ナイキスト周波数と呼ばれ
信号処理の世界では基礎的な
理念となっています。実用的には
2の8乗である256から2.56倍の
サンプリング周波数を使い計測する事
でナイキスト周波数を保証しています。





また、彼の考案したナイキスト線図は
極座標を使い対象系の安定性を議論します。
ナイキスト線図も系の安定性を考える為に
現代の信号処理の世界で使われていて
市販のアナライザーに機能として
搭載されています。





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2020年11月16日

ヴィルヘルム・C・W・ヴィーン_1864年1月13日 ~ 1928年8月30日



その名を正確に記すとヴィルヘルム・カール・
ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン
:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien
熱力学における黒体放射の研究で有名です。





ヴィーンは東プロイセンで農夫の子
として生まれ、ベルリン大学でヘルツ
の元で学位を取ります。そこでの
学位論文は光の回析特性でした。

レントゲンの後任としてヴュルツブルク大学
で教鞭をとっています。
またヴィーンはドイツ物理学会で会長
を努めていて、前任はゾンマーフェルト
でした。





さて、ここまでヴィーンの記載を
調べていて断片的な印象を持ちました。
人柄が伝わらないのです。考えてたら
時代背景が大きいと思えてきました。
ヴィーンはドイツで生まれ
ドイツで亡くなっています。
その時代のヨーロッパは大戦を経ていて
特にドイツはユダヤ人を迫害し、
何人ものユダヤ人物理学者が
反ドイツの体制で活動していました。

ヴィーンはソルベーユ会議に出ていて
物理学会に関わっていたでしょうが、
政治絡みの考えは独自のものとなって
いたと考えます。修業を兼ねて他国へ
留学したり協同研究をしたりする
現代とは異なった環境にあったのです。





ヴィーンの法則はプランクの法則の極限
として考える事が出来ます。この法則は
反応を起こす物質の温度と放出される
電磁波の波長を関連付けますが、
対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論
が成された形跡はありません。現象の
不完全な定式化であって独自の理論です。





私の理解不足もありますが、
マッハとボルツマンの考え方の差異
が思い起こされます。ヴィーンもまた
伝統的な枠組みの中で葛藤していたの
でしょうか。いつかまた考えてみたい
と思えてきました。

それにつけても、
ヴィーンの法則は我々に新しい知見を
もたらしていて、物質内部での反応に対し
変化を定量的議論の枠組みに乗せて
次なる議論の礎を作っています。
確かな一歩でした。







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2020年11月15日

高木 貞治_1875年4月21日 ~ 1960年2月28日



今回、日本人数学者をご紹介します。
高木貞治と書いて名前を「ていじ」と読みます。

高木貞治は岐阜に生まれ現在の京都大学を卒業した後に
東京大学に進みます。現在の学校制度と異なるようで、
今時の言い方をしたら
京大で学位をとって東大でマスターをとった感じでしょうか。





その後、高木貞治はドイツへ留学してヒルベルトの教えを受けます。
現代の代数幾何学の原型を体系立てていったのでしょう。
そもそも、個人的に高木貞治の名を知ったのは
ムツゴロウさんの著作でした。たしか「ムツゴロウの青春期」。
その中で彼が高校時代に地元の先生に紹介された本が
高木貞治の「解析概論」でした。
バンカラな青春時代を過ごしたムツゴロウは
東大の物理学科に進み、最後はどうぶつ王国を作ります。
話戻って解析概論ですが、岩波文庫から出ていた
その本を私も買って、夢中で読んだ思い出があります。





なお、2011年の時点で日本国内における著作権の
保護期間満了に伴いネットで著作が公開され始めています。
【Wikisourceや青空文庫を見てみて下さい】






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2020年11月14日

アーサー・コンプトン_1892年9月10日 ~ 1962年3月15日





コンプトンは波動の粒子性を示した実績と
マンハッタン計画で指導的役割を
果たしたことで知られています。





コンプトンは1919年に英国の
キャンデビッシュ研究所に留学し、そこで
ガンマ線の散乱・吸収を研究します。
そこで「波動のコンプトン効果」を発見するのです。
この考えは今では量子力学の基幹をなしていますが、
大まかには以下の理解をしていれば良いと思います。
つまり、「微視的に物事を考え始めた時に
粒子性と波動性が同時に具現化する」
ということです。

具体的に量子力学では不確定関係という枠組みで
物事を考えますので2つの値が同時に
確定しなかったりします。
例えば位置と運動量を同時に確定しません。
また、時間とエネルギーを同時に確定しません。
但し、時間×エネルギーや位置×運動量といった値を
物理量として確定出来るのです。
これは作用と呼ばれる物理量です。

以上は量子力学を理解した人々には納得出来ても
一般の人々には中々説明がし辛い部分です。
誤解無く伝わっているかいつも不安になります。
そんな意識改革をコンプトンが進めていたのですね。
ガンマ線に粒子性が見受けられたのです。





また、コンプトンはマンハッタン計画を進めた
主要メンバーでもあります。そもそも原子爆弾は
原子炉の製造から計画しなければいけません。
そこでウランをプルトニウムに変換して、
プルトニウムとウランの混合物から
プルトニウムを分離するプロセスが必要です。
コンプトンはこのプロセスをSEとして設計して
プロジェクトが進んでいく現場で働きました。

また、原子爆弾を兵器として使用するには
敵国で使用時出来るだけ早くに最大限の攻撃力を
発揮しないといけませんが、
損場兵器を設計する方法についても
コンプトンは設計をしていきました。
なお同計画はオッペンハイマーの設計もあり、
フェルミやローレンスとの議論も経ています。
全米の知能を集め計画を進めていたのです。

そしてコンプトンの業績はノーベル賞を初めとする
蒼々たる栄誉で称えられています。
それと同時に、マンハッタン計画の主導者として
計画自体の是非を論じる際に何度も
その名があがります。
もともとは、
コンプトンはもともと星の好きな少年でした。
そんな所からガンマ線の究明に話が進みましたが、
彼の名はガンマ線検出の為の
NASAの衛星に残されています。












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2020/12/29_改定投稿





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2020年11月08日

エドウィン・パウエル・ハッブル_1889年11月20日 ~ 1953年9月28日



ハッブルは近代を代表する天文学者で、
膨張宇宙論を特徴づける
ハッブルの法則等が有名です。
そんな大天文学者ですが、
高校時代は陸上でイリノイ州の
記録を更新したりしていました。
そんな少年時代は後の人生と全く違いますね。
そして、大学時代はボクシングでならし、
とあるプロモーターから世界チャンピオンとの
一戦を持ちかけられたほどの強さでした。
これまた意外ですね。





ハッブルの業績で大きいのは
赤方偏移の発見でしょう。
1929年にセファイド変光星の観測から
明るさと変光周期の関係を観測していく事で
赤方偏移の考え方を導きました。





ハッブルが考えていた宇宙論では、
無論のこと直接の実験は出来ません。
使える理論も検証の為に理論が
必要となる学問体系でした。
そこでハッブルのもたらした赤方偏移は
宇宙理論に明快な方向性を与え、
次なる考えにつながっていくのです。
赤方偏移の考えから
膨張宇宙論の考えが裏付けられて、ひいては
ビックバーン理論へとつながっていったのです。







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2020/11/08_初稿投稿
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