アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索

メンズエステサロン
【エルセーヌMEN】

メタボリック対策やヒゲ脱毛など、男の魅力を引き出すエステ体験実施中!
<< 2024年10月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
最新コメント

2021年05月20日

朝永 振一郎_【2021/05/20_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「朝永振一郎」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で京都大学のシンボルマークを使いました。日本の物理学会を作っていった人です。ノーベル賞を受けました。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】


【↑_Credit:Wikipedia】



朝永振一郎は私が使っていた教科書
【Diracの「量子力学」】の訳者でした。そのご先祖様は大村藩(現在の長崎県内にありました)の流れをくみます。そして、そんな彼の父は京都大学哲学科教授でした。


また、朝永振一郎は現在の筑波大学の前身となった大学、東京教育大学で教鞭をとり、最終的には学長を務めます。東京に生まれ京都で育ち、世界で議論しました。


朝永振一郎の研究業績で私が最も偉大であると思えるのは繰り込み理論です。ファインマン・ダイアグラムと呼ばれる不可思議な模式図でも表現される反応がありますが、そこでの素粒子の反応過程と数学的矛盾を見事に説明しています。
ファインマンの経路積分にも数学的な美点を感じますが朝永振一郎の理論の方が直感に訴える説得力を持っています。好みといえば好みの問題ですが。


朝永振一郎の理解で量子電磁気学の整理が進み、素粒子物理学が大きく進歩したのです。


朝永振一郎はまた晩年、大学入学以前の若者に対し科学的な啓蒙を進めていたと聞いています。


最後に、朝永振一郎は湯川秀樹と京都大学で同期でした。それぞれの形で当時の物理学で完成形を作り上げたのです。




以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【京大関連のご紹介】


2020/09/12_初稿投稿
2021/05/10_改定投稿

2021年05月19日

湯川秀樹 _【2021/05/19_原稿改定】

本日、SEO対策として湯川秀樹の原稿を改定します。ノーベル賞を受けていますね。背景画像には京都大のシンボルタワーを使います。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。

【以下投稿です】


【↑_Credit:Wikipedia】



湯川秀樹は朝永振一郎と同じ時代を生きています。
互いに刺激しあう関係を築き、共に時代のテーマに取り組んでいます。伝記を読んでいくと湯川秀樹が情熱を持って取り組んでいた様子が分かります。色々な所で引用されているのですが「アイデアの秘訣は、執念である。」と明言しています。一見、不可解な現象を紐解き、単純明快な原理を抽出する仕事をしてきたのです。そもそも、湯川秀樹の関心は物質の相互作用であって、その世界は全く目に見えません。彼は情熱で綿密に話を組み立てます。重力・電磁力以外の微細粒子間の相互作用を引き起こす「強い力」に着目して議論を進めました。


湯川秀樹の時代には場の考えが発展していて
原子の中での相互作用を湯川秀樹は中間子という概念で更に広げていったのです。ボゾンの一つとして中間子を仮定して強い力を説明してみせたのです。


湯川秀樹の業績は京都大学の原子力研究を初めとして日本の物理学者たちに引き継がれています。
個人的なご縁としては私が幼少時代を過ごした東京板橋にあった理化学研究所の分室で教鞭をとっていたようです。少し時代がずれますが、私の故郷で彼が活動していたと思うと不思議な気持ちです。ノーベル賞受賞者の朝永振一郎もそこに居ました。最近までは、理化学研究所は本駒込にも拠点があり、今でもホンダ朝霞の近くに拠点があります。何故か、と調べを続けていったら埼玉県にある平林寺に創始者の一人である大河内氏の墓所があります。そんな、理化学研の霊的な側面を知って、私は何となく納得してしまいました。ご実家がそのあたりなのでしょうか。何時か更に調べてみたいと思います。


また、湯川秀樹はラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。以前のブログでもこの関連の話は盛り込んでいますが私は研究者が異議を唱えても社会が破滅的な兵器を作る現実を大変、問題だとに思っています。アインシュタインであれ湯川秀樹であれアシモフであれ社会が叡智を集結して対応することを夢見ています。





以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
全て返信は出来ていませんが
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/07_初稿投稿
2021/05/11_改定投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【京大関連のご紹介】




2021年05月18日

仁科 芳雄_【2021/05/18_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「仁科芳雄」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の理化学研を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。仁科さんは人に惚れ込む性格でした。仁科さんが人に入れあげる性格で、そんな仁科さんの元に人が集まる。そんな風にして人々を育てあげていった凄さが仁科にはあるんです。


仁科本人はニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達なコペンハーゲンの学風を持ち込み日本で多くの学者を育てました。1928年にオスカル・クラインとコンプトン散乱の有効断面積を議論しています。また帰国後にはハイゼンベルクディラックを日本に招待して理解を深めています。更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。


研究内容として仁科はサイクロンの建設を進め様々な成果をあげてます。そのサイクロンを大型化する際には
仁科は大変苦労しています。先行するカリフォルニア大学のローレンスとは日米関係に伴い関係が悪くなっていったのですが、終戦共にサイクロンはGHQにより東京湾に破棄されてしまいます。


戦後には仁科は理研の所長を務め、科研製薬の前身で社長を務めましたが、肝臓ガンを患い61歳で亡なります。放射線被ばくの影響もあったであろうと言われています。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。




以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。


nowkouji226@gmail.com


2020/12/13_初版投稿
2021/05/10_改定投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】



2021年05月17日

寺田 寅彦__【2021/05/17_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「寺田寅彦」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の物理学会の黎明期に研究をしていた人です。文人としても有名人ですね。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



 寺田寅彦について

寺田寅彦は物理学者にして俳人です。
文筆家としては牛頓の名を名乗っていたり。
牛頓と書いてニュートンと読ませてました。


熊本の高校で英語教師として赴任していた
夏目漱石と出会います。後に文学に関わる
のはこの出会い大きかったといわれています。
贅沢な人生ですね。夏目漱石の作品
「吾輩は猫である」の中では寒月君として
登場する人物のモデルとなっていて
作品を通じて御人柄に触れた人も多いのでは
ないでしょうか。
因みに、


2021年春の時点で日経新聞で進んでいる連載小説では、その様子が描かれているようです。何時も斜め読みしていますが、淡々と話を進めるお人柄が伝わってきます。当時の時代背景や文人達の交流が感じられて面白いです。



寺田寅彦と研究について

研究の点でも時代の枠にとらわれない視点を持ち実績を残しています。その中でも評価が高い
研究業績はラウエの業績に刺激を受けた研究で
「X線の結晶透過」についての業績です。先進的な結晶解析に関して考察ををしてます。そして、
1913年に「X線と結晶」をNatureに発表してます。


寺田寅彦の研究人生をふりかえると、
田中舘愛橘に教えを受け、
長岡モデルを提唱した長岡半太郎
教えを受けて、学生結婚をして、
その奥様に早く先立たれ、
東京帝国大理科大学で教鞭をとった後に
ベルリン大学で地球物理学を研究し、
理化学研究所、 東京帝大地震研究所
で研究を続けました。
57歳で亡くなられています。






〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/09_初稿投稿
2021/05/10_改訂投稿


舞台別のご紹介】
日本関連のご紹介】
東大関連のご紹介】
ドイツ関連のご紹介】



2021年05月16日

西川 正治_【2021/05/16_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「西川正治」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。初期の原子考察をしていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



西川 正治は寺田寅彦の指導を受け
物理学を学んでいきます。特に、
彼は竹や麻等の植物由来の構造体
に着目して繊維構造物質に対して
電磁波がどう作用するか考えました。
手法としてはX線回折を駆使して
スピネル群結晶内の電子配置を
決定しています。


そもそも、電子は不可視の存在ですが、電磁波に対して作用して結果を残すのでその結果を画像で解析すれば結晶内での微視的な電子配置の情報が得られるのです。初学者は単純なモデルから学ぶので電子が個々の性質を見せると思いがちです。実際はそんな事は無くて電子単体で「観測にかかる」事象はなかなか見当たりません。たとえば相互作用を考えていって「輝点」の議論をしている時でも、話の中には色々な要素があって、どこまでが観測事実か、はたまた勝手な想像であるか、判断に迷うことがあります。万人に説得力を持つ議論を進めるのはとても大変な作業です。加えて、当時の時点での知識で原子からの寄与と、電子からの寄与を明確にしていくには多くの知見が必要だったと思われます。X線情報の精度を考えるだけで大変で、一つ一つ推論を裏付けていった筈です。
そうした「新しい計測手法」を手掛かりに
西川正治は解析していったのです。


西川正治はそうした業績を残しながら
二人のお子様を育て、其々が学者として
名を残しています。また、同時に
幾人もの弟子を育て日本物理学会に
今も続く、大きな足跡を残しています。



以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。


nowkouji226@gmail.com


2020/12/13_初稿投稿
2021/05/10_改定投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】

2021年05月15日

石原純(あつし・じゅん)_【2021/05/15_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「石原純」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。アインシュタインの通訳を務めた人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



日本の物理学史の中から一人、
ご紹介します。2021年の時点で
同性同名の方が現存されますが、
これは19世紀の人の記事です。



多彩な活躍をした石原さん

山川健次郎、田中館愛橘、長岡半太郎
本多光太郎、寺田寅彦、、、、
と続く黎明期の中で異色の人生を歩み
ました。アインシュタイン来日時には
通訳を務め、西田幾多郎に不確定関係
を伝えたパイオニアです。


日本物理学界に多大な貢献を残しつつ、
女性関係で帝大を去ります。
そもそも石原さん、歌人の
伊藤左千夫の弟子なので斉藤茂吉に家庭を
大事にするように説得されたりしていますが、
聞く耳を持たずにのめり込んでいたようです。
アララギの発刊に携わったメンバー
ではありましたが、
この事件でアララギ脱会に至ります。


と、ここまではwikipedia等に載っている
範疇の話です。



語り継がれた石原さん

私的な思い出としては、大学の恩師が彼を評価
していて、講義の中で情熱を込めて語ってくれて
いた時間です。日本の科学の為に多大な功績を
残しながらも学会と距離を置き、交通事故による
不慮の最後を遂げた人生を思いを込めて暖かい
語り口で講じていました。




〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
適時、返信・改定をします。、


nowkouji226@gmail.com


2020/11/11_初回投稿
2021/05/10_改定投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】


 

2021年05月14日

大河内正敏_【2021/05/14_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「大河内正敏」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の物理学会や理化学研を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】




大河内家の御曹司

大河内正敏は旧上総大多喜藩主にして子爵であった大河内正質の息子として生まれました。正敏は学習院初等科に進み、大正天皇と共に学びます。また大河内とは珍しい名字だなと思っていたら奥様も大河内家から娶っていたりして、なんだか皇族みたいな感じがしました。平民とは違う華麗なる一族って感じです。きっと鹿鳴館で踊っていたりしたのでしょう。政界では子爵議員として貴族院で議員を2期務めます。そんな中で若かりし無名の田中角栄を可愛がっていたといわれます。そんな人なので理化学研究所の3代目所長に就任したした時は理研研究員にして、貴族院議員で子爵、そして東京帝大教授でした。そんな偉人を今回はご紹介します。



大河内正敏の業績

大河内正敏は東大で物理学を学んでましたが時節柄、寺田寅彦と飛行弾丸の研究をしていたようです。物理学を駆使すれば流体力学や表面の解析が出来ます。大河内正敏が進めた具体的な別の活用事例としては、ピストンの開発があります。ここでもシリンダー内の熱流体解析や、摂動面の摩擦を解析出来ます。この研究は後の株式会社、リケンにつながります。戦後このグループは、GHQより十五大財閥の一つとして指定を受けます。



そして、眠りに落ちています

こうした業績を残して今、大河内正敏は埼玉県にある平林寺で永眠しています。その近くには理化学研究所の分室があり、今でも研究者たちが世界に冠たる研究を続けています。




〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。


nowkouji226@gmail.com


2020/12/17_初版投稿
2021/05/10_改訂投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】

2021年05月13日

寺田 寅彦__【2021/05/13_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「寺田寅彦」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の物理学会の黎明期に研究をしていた人です。文人としても有名人ですね。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



 寺田寅彦について

寺田寅彦は物理学者にして俳人です。
文筆家としては牛頓の名を名乗っていたり。
牛頓と書いてニュートンと読ませてました。


熊本の高校で英語教師として赴任していた
夏目漱石と出会います。後に文学に関わる
のはこの出会い大きかったといわれています。
贅沢な人生ですね。夏目漱石の作品
「吾輩は猫である」の中では寒月君として
登場する人物のモデルとなっていて
作品を通じて御人柄に触れた人も多いのでは
ないでしょうか。
因みに、


2021年春の時点で日経新聞で進んでいる連載小説では、その様子が描かれているようです。何時も斜め読みしていますが、淡々と話を進めるお人柄が伝わってきます。当時の時代背景や文人達の交流が感じられて面白いです。



寺田寅彦と研究について

研究の点でも時代の枠にとらわれない視点を持ち実績を残しています。その中でも評価が高い
研究業績はラウエの業績に刺激を受けた研究で
「X線の結晶透過」についての業績です。先進的な結晶解析に関して考察ををしてます。そして、
1913年に「X線と結晶」をNatureに発表してます。


寺田寅彦の研究人生をふりかえると、
田中舘愛橘に教えを受け、
長岡モデルを提唱した長岡半太郎
教えを受けて、学生結婚をして、
その奥様に早く先立たれ、
東京帝国大理科大学で教鞭をとった後に
ベルリン大学で地球物理学を研究し、
理化学研究所、 東京帝大地震研究所
で研究を続けました。
57歳で亡くなられています。






〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/09_初稿投稿
2021/05/10_改訂投稿


舞台別のご紹介】
日本関連のご紹介】
東大関連のご紹介】
ドイツ関連のご紹介】



2021年05月12日

高木 貞治_【2021/05/12_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「高木貞治」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で京都大学のシンボル塔を使いました。日本の数学会を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】


↑Credit:Wikipedia↑



今回、日本人数学者をご紹介します。そのお名前は高木貞治と書いて名前を「ていじ」と読ませます。


高木貞治は岐阜に生まれ現在の京都大学を卒業した後に東京大学に進みます。現在の学校制度と異なる印象も受けます。今時の表現をすると京大で学位をとって東大でマスターをとった感じでしょうか。


その後、高木貞治はドイツへ留学してヒルベルトの教えを受けます。現代の代数幾何学の原型を体系立てていったのでしょう。当時の日本で使われていた数学は所謂「和算」の発展形だったと思われます。数学的には実数が扱われていますが、少数が一般に使われていた形跡は見受けられません。もっとも、一円・七銭といった感覚はあるので1/3が0.33333・・・・・と考え続けていける筈です。小数点の概念はあったと考えても切断の概念や作図を使った証明等には発展していなかったでしょう。


そもそも、個人的に高木貞治の名を知ったのはムツゴロウさんの著作でした。たしか「ムツゴロウの青春期」。その中で彼が高校時代に地元九州の先生に紹介された本が高木貞治の「解析概論」でした。解析概論が明快であると言われ、高校の教科書とは別に数学のエッセンスを学んでいきます。その後、バンカラな青春時代を過ごしていったムツゴロウさんは東大の物理学科に進み、最後はどうぶつ王国を作ります。話戻って解析概論ですが、岩波文庫から出ていたその本を私も買って、面白く読んだ思い出があります。


尚、2011年の時点で日本国内における著作権の
保護期間満了に伴いネットで著作が公開され始めています。
【Wikisourceや青空文庫を見てみて下さい】



以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
この頃は全て返信できていませんが
頂いたメールは全て見ています。
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/11/08_初回投稿
2021/05/10_改定投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】
【京大関連のご紹介】

2021年05月11日

長岡半太郎_【2021/05/11_原稿改定】

登場場所の整理をしていますが、以下にSEO対策で「長岡半太郎」の原稿を投稿します使う画像で考えてしまいましたが、このご紹介で銀杏並木を使いました。日本の物理学会を作っていった人です。ご覧になってみて下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。4/29(木)朝の時点でフォロワーは合計【11785】でした。作業としてフォロワー増は暢気に続けます。それよりも紹介の内容を吟味します。ロボットを含めてアカウント数を考えた時に私のブログ(別言すれば私自身)に垢が無関心ならツイッターには意義を感じません。


【以下が投稿原稿です】



長岡半太郎の豊かな人脈


 

この長岡半太郎も湯川秀樹同様に大村藩の流れ。学生時代は東大で山川 健次郎や田中舘愛橘に学び、助教授として留学していた時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義の考え方も、それ以後はある程度踏まえながら議論をしていったのでしょう。そんな事を考えながら、科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。別の面から調べてみたら話は進む時があるんですね。



長岡半太郎の研究業績

長岡半太郎の研究業績として大きいのは、なんと言っても原子モデルでしょう。トムソンがブドウパンの中のブドウのような形で中心からの距離や軌跡と無関係に電子の存在を仮定していたのに対し、長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する土星のようなモデルを提唱しました。この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。その考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測することを考えてみて、電子の挙動をとらえる帯電物質を想定してみても帯電体の中を動き回る電子の動きを止める事は出来ません。電子とは何時も動いている物体だからです。それだから、初めの時点での
モデル化の難しさが出てくるのです。


今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。素晴らしいパラダイムシフトでした。






以上、間違いやご意見があれば
以下アドレスまでお願いします。
問題点に関しては適時、
改定や返信を致します。


nowkouji226@gmail.com


2020/09/13_初回投稿
2021/05/10_改訂投稿


【舞台別のご紹介】
【日本関連のご紹介】
【東大関連のご紹介】