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2024年08月31日

本ブログの位置づけ確認と今後の方向性【2024/8/31時点での方針】

私コウジは他ブログでAI関連の考察をしていますが
大変面白く有益であると感じています。

https://www.dirac226.com/

そのブログでは「未来」を意識して今後の社会での
注目技術を掘り下げていこうという意義を感じています。

また、私自身もPythonという新しい言語の優秀さ(使いやすさ)
を実感しながら楽しく作業しています。

反して、本ブログ: nowkouji226.com は積み重ねた
「過去」の物理学の成果を見直すことで各人の理解を深め
意識を高めていきたいという目的があります。

とくに、半年ごとに新しい学者を7名ずつ取りあげて
意義を考え
その間に過去記事を考え直す作業が有益です。
その中で、気になった時代、学者さんは
何度も関連文献を読んで繰り返し考察します。
記載内容を確認します。

以上、
こうした方針で考察を続けますので
今後とも宜しくお願い致します。                       コウジ


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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2024/07/31‗初稿投稿
2024/08/31‗改訂投稿


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2024年08月30日

E・O・ローレンス
8/30改訂【サイクロトロンを発明し人工放射性元素を実現】

こんにちは。コウジです。
ローレンスの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)











 



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【1901年8月8日~1958年8月27日】



 優れた実験家ローレンス


その名はErnest Orlando Lawrence。


ローレンスは優れた実験家で今でも世界中で


応用されている「サイクロトロン」を発明した事


で広く知られています。


 

米サウスダコタでノルウェー系の両親に生まれ少年時代は
Merle Tuveと
共に簡易無線装置を作成したりしていました。


その後、サウスダコタ大学時代は医学を志望してましたが、
化学の学士号、物理学の修士号を習得します。


Tuveと共にスワン先生の下で学びますローレンスがイェール大学で
博士号をとった時には光電効果に関する研究をしていたようです。


その後、恩師だったスワン先生がイェール大学を去るタイミングで
カリフォルニア大
に移ります。ローレンスは実験家として大変、
有望視されていました。



ローレンスの業績 


サイクロトロンを使った実験で、ローレンスがその装置を
活用
した応用例が人工放射性元素でした。


ローレンスと彼の率いるバークレー国立研究所は自然界に
存在する元素だけでなく、
不安定な元素を作り出したのです。


強い磁場を使い帯電しているイオンをビーム状に出す事が出来るので
ローレンスの作ったサイクロトロンはイオンが
反応する状態を作れるのです。


数メートル・オーダーの装置を使って原子を加速させて
コンマナノ・オーダーの原子の反応を調べていきます。


日本、イギリスが発展形の措置を計画していきます。
サイクロトロンを使えば特定金属にイオンビームを
当て続ける事が出来たりする訳です。


こうした装置の開発を通じてローレンスは
人類に新しい知見を
もたらしたのです。




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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/31_初回原稿
2024/08/30_改定投稿


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(2021年10月時点での対応英訳)



Excellent experimenter Lawrence


Its name is Ernest Orlando Lawrence. Lawrence is a well-known experimenter and widely known for inventing the cyclotron, which is still frequently applied.


Born to Norwegian parents, he worked with Merle Tuve as a boy to create simple radios.


Later, Lawrence aspired to medicine when he was at the University of South Dakota, but he earned a bachelor's degree in chemistry and a master's degree in physics. He studies with Tuve under Dr. Swan. When Lawrence got his PhD at Yale University, he seems to have been studying the photoelectric effect.


After that, his teacher, Swan, will move to the University of California when he leaves Yale University. Lawrence was very promising as an experimenter.



Lawrence's achievements


In his cyclotron experiments, Lawrence's application of using the device was an artificial radioactive element. Lawrence and his Berkeley National Laboratory created unstable elements as well as those that exist in nature.


Since it is possible to emit charged ions in the form of a beam using a strong magnetic field, the cyclotron made by Lawrence can create a state in which the ions react. Japan and the United Kingdom will plan similar measures.


If you use a cyclotron, you can keep shining an ion beam on a specific metal.


Through the development of such equipment
Lawrence gives humanity new insights
he brought it.


2024年08月29日

W・E・パウリ
8/29改訂【微細定数 1/137.036...|新たな概念として排他律とパリティーを発見】

こんにちは。コウジです。
パウリの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)











 



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【1900年4月25日生まれ ~ 1958年12月15日没】



その名はWolfgang Ernst Pauli


パウリはオーストリア生まれの


スイス人物理学者。パウリの排他率律で有名です。


排他律を排他率と書いてしまいがちですが
排他律です。その「パウリの排他律」は
「パウリの原理」とも呼ばれています。


1945年にアインシュタインの推薦で
ノーベル物理学賞を受けています。


ミドルネールのエルンストはパウリの名付け親、
パウリが尊敬するマッハに由来します。
父方はユダヤ系の血をひき、
有名な出版社を経営していたようです。
ヴォルフガング・エルンスト・パウリは
ヴォルフガング・ヨーゼフ・パウリの息子でした。
ヨーゼフはウィーン大学の化学者で世界的な学者でした。)
そうした人脈の影響を受け(エルンスト・)パウリ自身は
自らを「反形而上学の一門の出」であるとみなしていました。
(太字部は後述の「137」より引用)


そんなエルンストを父であるヨーゼフは大事に育てています。
にわかに信じがたいエピソードとして「パウリが12歳の時に
ゾンマーフェルトのウィーンでの講義を聴く機会を作った」のです。
そして、理解を問われたエルンストが
黒板の右上の式だけは分かりませんでした。」と答えた所、
ゾンマーフェルトは「やれやれ、私としたことが間違いをしでかしてしまった!
と言ったそうです。Jordan(1971)P.33.(太字部は後述の「137」より引用)
恐るべき12歳ですね。


さて、


排他律の具体的な内容に関してですが、
ナトリウムの分光実験から話が始まります。


再現性の高い事実として
磁場付加時の分光は電子の
自転(相当の動き)に由来する」
という仮説をパウリは立て、
後にそれをスピンと名付けます。


新しい量子的自由度です。
後に行列力学を基盤とした定式化が行われ
数学的に表現します。これが絶妙




パウリと著名人の交流


個人的に興味を引くのはミュンヘン大学でパウリが
ゾンマーフェルト_の指導を受けている点です。


私が講義を受けた先生がゾンマーフェルト_を研究していて、
マッハの名前も、その先生から教えてもらいました。


そして、
マッハ・ゾンマーフェルト・パウリとつながったのです。
そしてもう一つ個人的な話を続けます。
今使っているドメインへの投稿です。


何故か半年程、投稿漏れに気づかずにいたのですが、
ある日「パウリ」について気になって
上記ゾンマーフェルトとの関係を思い出したのです。


そして急ぎ作業を続けていて驚いたのは、
その日がパウリの誕生日だったのです。


パウリが生まれてから220年が終わった瞬間でした。
後述するユング達が極めた深層心理の世界では
意識下と無意識下の間に「潜在意識」を想定しますが、
そんなことも少し考えてしまいました。


よもや潜在意識下で決めた投稿日だったのでしょうか。
または深層意識下で「投稿していませんよ!」
と告げてくれた人がいたのでしょうか。
とか色々と考えてしまいました。


まぁ、普通に考えたら単なる偶然ですね。


私の頭の中での奇妙な三角関係はさておき、


パウリは人間的にも面白い人だと思えます。


独自に培った知性で各界の著名人を魅了しているのです。


例えば、博士号を習得した直後、パウリは
ゾンマーフェルトに独逸語での百科事典の記事執筆
を依頼されます。内容は相対性理論に関する記事
でしたが、2か月ほどを使って完成させました。


その結果はアインシュタイン本人の査読にかなう見事なもので、
今日においても読み応えのある
ものとなっているそうです。
後のプリンストン大学時代にはパウリを自分の後継者として
アインシュタインは高く評価しています。


アインシュタインはパウリのミドルネームを
どの程度、意識していたのでしょうか。
マッハとの関係を知っていたのでしょうか。


機会があれば調べてみたいと思います。
マッハ・アインシュタイン・パウリの三角関係です。


更に妙な繋がりは心理学者C・G・ユングとの関連です。
パウリは離婚後に精神を病んでいた時期がありました。
もともとパウリは夜遊びが好きで朝起きるのが遅い
タイプの「遊んでいる」性格でしたが、特に
離婚騒動の時期に精神不安定になったのです。


今や、夢分析の世界で有名なユングに
完璧主義者のパウリが出合ったのです。


先生と生徒という関係を築き、
生徒としてユングにパウリは科学的な批評を加えます。
互いに有益な関係だったのでしょう。


パウリは「中国人女性の夢」を何度も見て、意識化出来ない
自分の内面の考察を進めます。そして、この時代の物理学に詳しい人
ならご存じかと思いますが、後に「現実で大きな衝撃」を受けます。
チェン・シュン・ウーのパリティー非保存の実験です。


因みにユング関連でのフロイトもユダヤ系です。
アインシュタインもユダヤ系です。ナチスの時代に
パウリのユダヤ関係の史料は意図的に隠されている
ようですが、心理的に大きな一面となった筈です。


この切り口で考えていっても特有の文化に起因する
思考的な共有点が見いだせると思います。
思考の方法を考えるうえで、興味深い対象です。




パウリと1/137


そして、


パウリは最後まで愛した物理学を愛し続けました。


戦争での苦難の時代の後に帰国して、
病床でも完璧主義者として見舞客と議論を続けました。
その中で語り継がれている話があります。


「微細構造定数」と呼ばれる無次元量があります。
ユダヤ教の教義「カバラ」の綴りをヘブライ語で
数値化した値の和が137だとも言われます。
アーサー・ミラー著「137」参照の事】
それはプランク定数に関わる相互作用を
特徴付ける量です。パウリはその値に最後まで、
こだわり抜きました。137号室で亡くなります。


もし、パウリが神に謁見したら、
神に微細定数 1/137.036...の
理論的根拠を尋ねたとしたら、
神様は物凄い速度で計算式を
書き連ねるだろう。その後、
きっとパウリは「違う!」
と唱えて、話し続けるであろう。


よもや、神様さえも「あ!」
と唱えるのではないか、
と不遜にも想像してしまいました。


そしてパウリの葬儀について語ります。
天に召される時は誰にも訪れます。


パウリの亡骸(なきがら)は12/20に火葬されました。
由緒ある教会に多くの物理学者・著名人が参じました。
ニールス・ボーァ、パウル・シェラーが弔辞を述べ
82歳だったユングも参列していました。
そして、
ハイゼンベルグが参列しなかった理由を前出の著者
であるアーサーは「物理への溢れる情熱」に帰しています。
ハイゼンベルグの心中は複雑だったのでしょう。


パウリもハイゼンベルグも徹底的に理論を愛していました。
考え抜く為に自身の身をすり減らして時間を使いました。
そうした本気の議論が生涯、彼らの心に残っていたのでしょう。



〆 



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2020/09/19_初稿投稿
2021/04/25_原稿改定
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(2021年10月時点での対応英訳)



Its name is Wolfgang Ernst Pauli


Pauli is an Austrian-born Swiss physicist. It is famous for Pauli exclusion principle. It is easy to write the exclusion principle as the exclusion rate, but it is the exclusion principle. The "Pauli exclusion principle" is also called the "Pauli principle". He received the Nobel Prize in Physics in 1945 on the recommendation of Einstein.


Middlener Ernst comes from Pauli's godfather, Pauli's respected Mach. His father seems to have run a well-known Jewish publisher.


Now, regarding the specific content of the exclusion principle, the story begins with a spectroscopic experiment of sodium.


As a highly reproducible fact, Pauli hypothesized that spectroscopy when a magnetic field was applied was derived from the rotation of electrons, which he later named spin. A new quantum degree of freedom. He later formulates based on matrix mechanics and expresses it mathematically. Twice



Exchange between Pauli and celebrities


Personally, I'm interested in Pauli's guidance at Sommerfeld at the University of Munich. The teacher I was giving a lecture on was studying Sommerfeld, and he also told me the name of Mach. And he was connected to Mach Sommerfeld Pauli. And I will continue with another personal story. This is a post to the domain you are currently using. For some reason, I was about half a year old and didn't notice the omission of posts, but one day I was worried about "Pauli" and remembered the relationship with Sommerfeld.


And what surprised me as I continued to work in a hurry was that day was Pauli's birthday. It was the moment when 220 years had passed since Pauli was born. In the world of deep psychology, which Jung and his colleagues have mastered, we assume a "subconscious" between consciousness and unconsciousness, but I have thought about that for a moment. Was it the posting date decided under the subconscious? I have thought about it.
Well, if you think about it normally, it's just a coincidence.


Aside from the strange love triangle in my mind, Pauli seems to be a humanly interesting person. His unique intelligence attracts celebrities from all walks of life.


For example, shortly after completing his PhD, Pauzo was asked by Nmarfeld to write an encyclopedia article in German. The content was an article about the theory of relativity, but it took about two months to complete. The result is excellent enough to be peer-reviewed by Einstein himself, and it seems to be readable even today. Did Einstein notice Pauli's middle name? Did he know his relationship with Mach? I would like to find out if I have the opportunity. It is a love triangle of Mach Einstein Pauli.


A more strange connection is with the psychologist CG Jung. Pauli had a period of mental illness after his divorce. Now, the perfectionist Pauli meets Jung, who is famous in the world of dream analysis. He builds a teacher-student relationship, and Pauli gives Jung a scientific critique as a student. It must have been a mutually beneficial relationship. By the way, Jung's brother and disciple Freud are also Jewish. Einstein is also Jewish. Even if you think from this perspective, you can find a thoughtful shared point due to the unique culture. It's a little interesting when thinking about how to think.



Pauli and 1/137


And Pauli continued to love his beloved physics until the end. He returned home after a period of hardship in the war and continued to discuss with visitors as a perfectionist in bed. There is a story that has been handed down in it.


There is a dimensionless quantity called the fine constant, which is the quantity that characterizes the interactions involved in Planck's constant. Pauli was particular about that value until the end. If Pauli had an audience with God and he asked God for the rationale for the fine constant 1 / 137.036 ..., God would write the formulas at a tremendous speed. After that, Pauli will surely say "No!" And continue talking.


I have imagined that even God would say "Ah!".

2024年08月28日

J・F・ジョリオ=キューリー
8/28改訂【アルファ線を使いリン30を実現】

こんにちは。コウジです。
ジョリオ=キューリーの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)











 



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【1900年3月19日 〜 1958年8月14日】


今回のご紹介はジャン・フレデリック・ジョリオ=キューリーです。


J-F・ジョリオ=キューリーはフランスパリに生まれ、
亡くなるまでパリで暮らしました。
そんな人の58年の人生のご紹介です。


名前の綴りはJean Frédéric Joliot-Curieとなります。
著名なキューリー夫妻の娘婿としてご紹介するとわかりやすいでしょうか。


つまり、義理の父はピエール・キュリー、
義理の母はマリー・キュリー。
義理の妹はエーヴ・キュリーとなります。


今回のご紹介の中でフレデリックとご紹介していきます。
フレデリックはラジウム研究所で
マリ・キューリーの助手となりました。


その研究所でマリの娘イレーヌを知り交際を深め。
まもなく2人は結婚しました。


その時点で姓を「ジョリオ=キューリー」としたのです。
ジョリオはフレデリックの血筋の名前でキューリーは
イレーヌの血筋の名前でした。
二人は後に一緒にノーベル賞を受けます。


フレデリックとイレーヌの夫婦は同位体元素への反応過程を
研究して新しい物質を作り上げたのです。


具体的にはアルミニウムに対してアルファ線を照射したときに
人工放射性同位元素である30P(リン30)が発生したのです。


その後、フレデリックはフランス原子力庁の長官として
フランス初の原子炉を1947年に建設するプロジェクトに加わります。


原子力の平和的な利用と環境に及ぼす影響については
各論があると思えますが、今のフランスの電源構成に
大きな影響を与えた人だと言えます。


政治的な活動としてフレデリックは第二次世界大戦時には
ナチスドイツに対抗するレジスタンス運動に参加しました。


そして終戦後は先述したフランス原子力庁の仕事をしながら
フランス国立科学研究センター総裁、
コレージュ・ド・フランスの教授も務めていました。


他、パグウォッシュ会議(核兵器と戦争の廃絶を訴える国際会議)
の創始、世界平和評議会の初代議長、
フランス共産党の党員と多方面で尽力し活躍をしました。


教育者としてフレデリックは日本初の女性物理学者である
湯浅年子に物理学を指導しています。


その実績も我々日本人には新鮮なのではないでしょうか。
本当に多彩な魅力を持っていた人だと言えます。


更に意外な側面は柔道との関わりです。
フレデリックはフランス柔術クラブの名誉会長でした。
柔道創始者の嘉納治五郎も就いていた役職です。
フレデリックがいかにフランス国民から敬愛されていたかがわかりますね。


 

〆最後に〆


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(対応英訳)


Introducing this time is Jean Frederick Jorio-Curie, but JF Jorio-Curie was born in Paris, France and lived in Paris until his death. This is an introduction to such a person's 58-year life. His name is spelled Jean Frédéric Joliot-Curie. Is it easy to introduce as the son-in-law of the famous Mr. and Mrs. Curie? That is, his father-in-law is Pierre Curie and his mother-in-law is Marie Curie. His sister-in-law will be Ave Curie.


In this introduction, I will introduce you to Frederick, who became an assistant to Marie Curie at the Radium Institute. He got to know Mali's daughter Irene at the institute and deepened his relationship. Soon the two got married. At that point he changed his surname to "Jorio-Curie". Jorio was the name of Frederick's lineage and Curie was the name of Irene's lineage. The two will later receive the Nobel Prize together.


The couple of Frederick and Irene studied the process of reaction to isotopes and created a new substance. Specifically, when aluminum was irradiated with alpha rays, the artificial radioisotope 30P (phosphorus 30) was generated.


Frederick then joined the project to build France's first nuclear reactor in 1947 as Secretary of the French Atomic Energy Agency. There seems to be some debate about the peaceful use of nuclear energy and its impact on the environment, but he is one of the most influential people in France's current power mix.


As a political activity, Frederick participated in the resistance movement against Nazi Germany during World War II. And after the end of the war, he was also the president of the French National Center for Scientific Research and a professor at Collège de France, while working for the French Atomic Energy Agency mentioned above. H


e and others have worked extensively with the founding of the Pugwash Conference (an international conference calling for the abolition of nuclear weapons and war), the first chairman of the World Peace Council, and members of the French Communist Party.


As an educator, Frederick teaches physics to Toshiko Yuasa, Japan's first female physicist. I think that achievement is also fresh for us Japanese. It can be said that he really had a variety of charms.


A more surprising aspect is the relationship with judo. Frederick was the Honorary Chairman of the French Jiu-Jitsu Club. He was also in the position of Judo founder Jigoro Kano. You can see how Frederick was loved by the French people.

2024年08月27日

S・ナート・ボース
8/27改訂【インド独自の理解体系で学びボーズ粒子を定式化】

こんにちは。コウジです。
ボースの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)











 



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【1894年1月1日生まれ ~ 1974年2月4日没】



BOSEという名前の読み方


ボーズ(BOSE)は珍しいインド人物理学者です。


フルネームで名前を書き下すと、


 サティエンドラ・ナートボース


:Satyendra Nath Bose となります。


以下、ボーズの名前に濁音がついていますがご了承下さい。


名前の最後の「ズ」の所です。BEC(ボーズアインシュタイン凝縮)、
ボゾンといった用語で学生時代に議論して、
その感覚がどうしても消えません。


そもそも実際の綴りはBOSEでしすし、
正式にはボースと発音するようで、
Wikipediaの記載もボースです。しかし、そもそも、


ここに拘っている人は少ない印象です故、特に訂正しません。



BOSEの物理学での業績


さて、インドは独自に数学を理解し
計算(暗算)方式も独自の形式があります。


そんな学問体系で素粒子の世界に挑んだボーズは
統計力学で今世紀初頭にEinsteinと共に今でいう
BOSE粒子群(BOSON)の
振る舞いを定式化するのです。


1924年にアインシュタインへ論文を送った時点が始まりです。


その論題は「プランクの放射法則と光量子仮説」でした。
アインシュタインはその仕事を
高く評価して後にそれを発展させますが、
学会で討議する以上の交流は未だ私には調べきれていません。


インド独自の学問体系の中でボーズ粒子は育っていったと考えています。
後に英国の王立協会からフェローに任命されていますので
本ブログ内での文末のリンクにイギリスは含めました。



BOSNとFERMION


前段の知識として後世の理解で整理すると
「素粒子はスピン角運動量の数に従い
BOSONとFERMIONの
二種類に分かれます。」


いわゆる凝縮系の世界でもBOSONは特異な振る舞い
を示します。位相空間で一点に集まったり、
超流動現象で壁を上る液体として振舞います。
関連動画「5分30秒頃」の画像に注目してください)


具体的にBOSONとは光子、音子、
ウィークボソン、
グルーオン、π中間子やK中間子、
D中間子、
B中間子、ρ中間子、等でスピンの奇遇性から
ボゾンに分類されて、
BOSE−EINSTEIN統計に従います。



BOSEの人物像


ただ残念な事に西洋の学者と異なり、
インド系のボーズは「人となり」が伝わっていません。


何よりボーズの業績である、BOSONで名を残しています。
私がインドに行って調べたいくらいですがあいにく機会ができません。
いつか調べてみたいと思っています。


その時は関係者と話す時に「ボース」と心がけながら
話そうと思います。人の名前は間違えると
違和感を与えますからね。


いや、ひょっとしたら関係者も
「ボーズ」を多用するかもしれません。
その確認も小さな楽しみです。



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How to read BOSE(iN jAPAN)


BOSE is a rare Indian physicist. If you write down the name with the full name,


Satyendra Nath Bose


: It will be Satyendra Nath Bose. Please note that the name of Bose has a voiced sound below. This is the last "Z" in the name. When I was a student, I argued with terms such as BEC (Bose-Einstein Condensation) and Boson, and that feeling never disappeared.


In the first place, the actual spelling is BOSE, and it seems to be officially pronounced as Bose, and the description on Wikipedia is also Bose. However, in the first place, I have the impression that few people are concerned about this, so I will not make any corrections.



BOSE's achievements


By the way, India has its own mathematical system and its own calculation (mental arithmetic) method. Bose, who challenged the world of elementary particles with such an academic system, uses statistical mechanics to formulate the behavior of what is now called the BOSE particle group (BOSON) with Einstein at the beginning of this century.


He began when he sent a treatise to Einstein in 1924. The subject was "Planck's law of radiation and the photon hypothesis." Einstein appreciates his work and develops it later, but I haven't been able to find out more than the discussions at the conference. I believe that bosons grew up in India's unique academic system. I was later appointed as a Fellow by the Royal Society of England, so I included the United Kingdom in the last link.



BOSN and FERMION


Elementary particles can be divided into two types, BOSON and FERMION, according to the number of spin angular momentums. Even in the so-called condensed world, BOSON behaves peculiarly.
Specifically, BOSON is classified into bosons based on the oddity of spins such as photons, phons, weak bosons, glueons, π mesons, K mesons, D mesons, B mesons, and ρ mesons, and follows BOSE-EINSTEIN statistics.



BOSE portrait


Unfortunately, unlike Western scholars, Bose of Indian descent does not convey "becoming a person". Above all, he has left his name in BOSON, which is the achievement of Bose. I would like to go to India to find out, but unfortunately I can't get the chance. I would like to find out someday. At that time, when I talk to the people concerned, I will try to talk with "Bose" in mind. If you make a mistake in a person's name, it will make you feel uncomfortable. No, maybe the people involved may also use "Bose" a lot. The confirmation is also a little fun.


2024年08月26日

アーサー・コンプトン
8/26改訂【ガンマ線の散乱・吸収を研究|粒子の波動性と粒子性を研究】

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【1892年9月10日 ~ 1962年3月15日】



コンプトン効果


アメリカのコンプトンは波動の粒子性を示した実績と


マンハッタン計画で指導的役割を果たしたこと


知られています。コンプトンは1919年に英国の


キャンデビッシュ研究所に留学しました。


キャンでビッシュ研究所でガンマ線の散乱・吸収を研究します。
「波動のコンプトン効果」を発見するのです。


コンプトンの考えは今では量子力学の基幹をなしていますが、
大まかには以下の理解を
していれば良いと思います。つまり、


「微視的に物事を考え始めた時に粒子性と


波動性が同時に具現化する」


ということです。


コンプトンの考えで話を進めると自由電子により散乱された
X線量子がより長い波長となるという事実に対して


「波長が長くなる状態」つまり


「光線のエネルギーが落ちる状態」で


子性に着目して弾性散乱の視点で考えていくのです。


コンプトンの時代に物理学者が
粒子性波動性を真剣に考えていきます。



コンプトンの微視的な視点 


具体的に量子力学では不確定関係という枠組みで
物事を考えますので2つの値が同時に確定しません。


例えば位置と運動量を同時に確定しません。また、
時間とエネルギーを同時に確定しません。但し、
時間×エネルギーや位置×運動量といった値を
物理量として確定出来るのです。


これは作用と呼ばれる次元の物理量です。
時間という物理量やエネルギーという物理量と
関連していますが異なります。


以上は量子力学を理解した人々には納得出来ても
一般の人々には中々説明がし辛い部分です。


誤解無く伝わっているかいつも不安になります。
そんな意識改革をコンプトンが進めていたのですね。
波動として考えていたガンマ線やX線に粒子性を見出したのです。



コンプトンとマンハッタン計画 


また、コンプトンはマンハッタン計画を進めた主要メンバーでもあります。
そもそも原子爆弾は
原子炉の製造から計画しなければいけません。
計画の中
でウランをプルトニウムに変換して、
プルトニウムと
ウランの混合物からプルトニウムを分離するプロセス
が必要です。コンプトンはこのプロセスをSEとして設計してプロジェクトが
進んでいく現場で働きました。


また、原子爆弾を兵器として使用するには敵国で使用時に、
出来るだけ早くに最大限の攻撃力を
発揮しなといけませんが、
そうした損傷兵器
の仕組みをを設計する方法についても
コンプトンは計画をしていきました。


なお同計画はオッペンハイマーの設計もあり、
フェルミローレンスとの議論も経ています。
全米の知能を集め計画を進めていたのです。


 

そしてコンプトンの業績はノーベル賞を初めとする
々たる栄誉で称えられています。それと同時に、
マンハッタン計画の主導者として計画自体の是非を論じる際に
何度もコンプトンの名があがります。


もともとは、コンプトンはもともと星の好きな少年でした。
そんな所からガンマ線の究明に話が進みましたが、
彼の名はガンマ線検出の為のNASAの衛星に残されています。




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Compton effect


Compton in the United States is known for its track record of wave particle nature and for its leadership role in the Manhattan Project. Compton studied abroad at the Candevisch Institute in the United Kingdom in 1919, where he studied gamma-ray scattering and absorption.


There he discovers the "Compton effect of waves".
This idea is now the basis of quantum mechanics, but I think it is good to have the following general understanding. In other words, "when you start thinking microscopically, particle nature and wave nature are realized at the same time." If we proceed with that idea, we will focus on the particle nature in the "state where the wavelength becomes longer", that is, the "state where the energy of light rays falls", in contrast to the fact that the X-ray quantum scattered by free electrons has a longer wavelength. Think from the perspective of elastic scattering.



Compton's microscopic perspective


Specifically, in quantum mechanics, things are considered in the framework of an uncertain relationship, so two values ​​may not be fixed at the same time. For example, the position and momentum are not fixed at the same time. Also, time and energy are not fixed at the same time. However, values ​​such as time x energy and position x momentum can be determined as physical quantities. This is a physical quantity of a dimension called action. It is related to but different from the physical quantity of time and the physical quantity of energy.


The above is a part that is difficult to explain to the general public even if it is convincing to those who understand quantum mechanics. I'm always worried if it's transmitted without any misunderstandings. Compton was promoting such a change in consciousness. He found particle nature in gamma rays and X-rays, which he thought of as waves.



Compton and Manhattan Project


Compton is also a key member of the Manhattan Project. In the first place, the atomic bomb must be planned from the production of the reactor. Therefore, a process is required to convert uranium to plutonium and separate plutonium from the mixture of plutonium and uranium. Compton designed this process as an SE and worked in the field where the project progressed.


In addition, in order to use an atomic bomb as a weapon, it is necessary to exert maximum attack power as soon as possible when using it in an enemy country, and Compton also plans how to design the mechanism of such a damaged weapon. I went on. The plan was also designed by Oppenheimer and has been discussed with Fermi and Lawrence. He was gathering intelligence from all over the United States and working on a plan.


And Compton's achievements are praised for its lush honors, including the Nobel Prize. At the same time, as the leader of the Manhattan Project, he is often mentioned when discussing the pros and cons of the plan itself.


Originally, Compton was originally a star-loving boy. From that point on, we went on to investigate gamma rays, but his name remains on NASA's satellite for gamma ray detection.


2024年08月25日

ルイ・ド・ブロイ
8/25改訂【電子の仮説を極め、新概念の物質波を生んだフランス貴族】

こんにちは。コウジです。
ブロイの原稿を改訂します。


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名門家に生まれたド・ブロイ


ルイ・ド・ブロイはフランス貴族、公爵の血を引いてます。


その血筋は由緒正しいのです。そもそも、


フランス国王ルイ14世により授爵頂いていた


名門貴族・ブロイ家の血筋であって、ルイ・ド・ブロイは


直系子孫です。兄の没後は兄に子供が居なかった


事情もあって、正式に侯爵家の当主を務めています。


ルイ・ド・ブロイはフランスの首相を二期務めた第4代の当主である
アルベール・ド・ブロイの孫です。それだから、
ルイの生誕時に、その父は当時公子でした。
こんな逸話が沢山あるのですね。


そんなルイ・ド・ブロイは独自に優れた仮説を進め、


ド・ブロイ波(物質波)の考えにたどり着くのです。



ドブロイの物質波 


そのルイ・ド・ブロイの考えは初めは中々
理解されませんでした。
関連して
超有名なエピソードがあります。


ルイ・ドブロイの博士論文の審査過程で教授達が
ド・ブロイの考えを理解出来ず、
かのアインシュタインに意見を求めたのです。


すると、
「ド・ブロイの考えは博士論文よりも
ノーベル賞に値する」
とアインシュタインから評価され、
絶賛され、更に物質波の考えを進めていく事が出来たのです。


その考えはパラダイムシフトでした。
粒子の二面性の考えは
現代量子力学の根幹をなしていて、
とても大事な考えです。
ドブロイを含めた学者達が議論を重ね、
当時の物理学の常識を変えていったのです。



物質の二面性


波が粒子性を持つのと同時に、
粒子である
と考えられていた電子も、
実際には波動性を持つだろう
という考え
がドブロイ波の本質です。


現代量子力学の理解ではこの二面性は当たり前ですが、
波動性を持つ故に特定元素の周りを周期的に
運動する
と考えた時に電子は
特定波長の整数倍のみ許された
軌道を描いている
と考えられるのです。


実際に我々は原子の周りを運動する電子を
直接の観測にかける事は出来ません。


しかし、水素、ヘリウム、リチウム、、と色々な原子を
考えていった時に、それらを構成する
陽子と中性子の
結合条件を詳細に吟味した結果として
電子の軌道半径
は規則があり、
ド・ブロイ波の理論が理に叶うのです。


逆に考えれば特定波長の整数倍の運動しか、
その電子が取る状態は許されないのです。


特定原子核の周りを回る電子は特徴的な波長の整数倍
を定常状態として周期運動を続け、
定常状態間の遷移が
起きる際に放射線が生じる事実は、
ドブロイを初めとする
考えがあってこそ
成立する概念なのです。


それこそが電子の存在なのです。


実際に数年後にルイ・ド・ブロイは
ノーベル賞
を受賞します。


いつの時代も中々、斬新な新しい考えは
理解出来されないものですね。




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De Broglie was born into a prestigious family


Louis de Broglie is of the duke's blood, a French aristocrat. The lineage is venerable. In the first place, Louis de Broglie is a direct descendant of the prestigious nobleman, the Broy family, who was conferred by King Louis XIV of France. He is officially the head of the Marquis family, partly because his brother had no children after his brother's death.


Louis de Broglie is the grandson of Albert de Broglie, the fourth head of the French Prime Minister for two terms. So, at the time of Louis' birth, his father was a prince at the time. There are many such anecdotes. Such Louis de Broglie advances his own excellent hypothesis and arrives at the idea of ​​de Broglie wave (material wave).



Matter wave of debroi


The idea of ​​Louis de Broglie was not well understood at first. There is a related super famous episode. During the process of reviewing Louis de Broglie's dissertation, the professors could not understand De Broglie's ideas and asked Einstein for his opinion.


Then, "De Broglie's idea deserves the Nobel Prize more than his dissertation," was evaluated and praised by Einstein, and he was able to further advance the idea of ​​material waves. The idea was a paradigm shift. The idea of ​​two-sidedness of particles forms the basis of modern quantum mechanics and is a very important idea. Scholars, including Matter Wave, had many discussions and changed the common sense of physics at that time.



Two-sidedness of matter


The essence of de Broglie waves is the idea that at the same time that waves have particle nature, electrons that were thought to be particles will actually have wave nature. This duality is natural in the understanding of modern quantum mechanics, but when we think that it moves periodically around a specific element because it has wave nature, it is said that the electron draws an orbit that is allowed only an integral multiple of the specific wavelength. You can think of it. In fact, we cannot directly observe the electrons moving around an atom.


However, when considering various atoms such as hydrogen, helium, and lithium, as a result of detailed examination of the bonding conditions of the protons and neutrons that compose them, there is a rule in the orbital radius of the electron, and de Broglie. The theory of waves makes sense. Conversely, the electron is only allowed to move an integral multiple of a specific wavelength.


The fact that electrons orbiting around a specific nucleus continue to move periodically with an integral multiple of the characteristic wavelength as a steady state, and radiation is generated when a transition between steady states occurs is only possible with the idea of ​​de Broglie. It is a concept to do. That is the existence of electrons.


In fact, a few years later Louis de Broglie will win the Nobel Prize. It's hard to understand new ideas in all ages.


2024年08月24日

J・チャドウィック
【中性子を発見しガン治療に応用|マンハッタン計画でのリーダー】

こんにちは。コウジです。
チャドウィックの原稿を改訂します。


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【1891年10月20日 ~ 1974年7月24日】



ザフォードの弟子チャドウィック


ジェームズ・チャドウィックは研究環境で恵まれていました。


マンチェスター大学の時代からラザフォードの指導を受け、
海外修業時代にはガイガーの下で放射線計測の知見を積み上げました。


開発されたばかりのガイガーカウンターを使い
放射線特性での実績をあげます。第一次大戦終了後は
ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で
再び
ラザフォードの下で研究を続けます。


ドクター修了後も10年以上、
ラザフォードの助手を務めていました。


キャンデビッシュ研究所での討論や助言は
多分に
有益だったであろうと思われます。


チャドウィック以外にも有能な研究者達が集まっていました。
その中で
議論を交わしたのです。そんな中で
チャドウィックは
中性子を発見していきます。



ャドウィックと中性子


ベリリウムにアルファ粒子を衝突させた
ボーテ【Walther Bothe(独)】の
1950年代の実験
でチャドウィックは知見を得て、
電荷をもたない理論的な粒子である
「中性子」
を予感し考察を進め、キューリ夫妻の息子である
イレーヌ・ジョリオ=キュリーによるポロニウムと
ベリリウムを対象に
1932年の実験検証を進めます。
実験装置を工夫し、
理論を完成させます。


原子核の理解にとって大きな前進です。
中性子が説明されたのです。


ハイゼンベルク が「中性子とは陽子と電子の組ではなく
新たな核子である」と
考察していましたが質量は未確定でした。


その時点では実態の完全把握が未完でした。
そうした
中性に対してチャドウィックは明確に質量を示し、
重陽子の光壊変によって中性子質量を確定します。


質量の発見で原子構造をまた一つ明らかにしたのです。
更にチャドウィックは中性子がガン治療に有益であろうと考えます。




 軍需産業と物理学者


ただ残念な事に、
チャドウィックの時代は
世界大戦の時代と重なります。
マンハッタン計画では
イギリスチームの
リーダーとして計画を進めていました。
トリニティー実験も目の当たりにしたようです。


自身が心血を注いで作り上げた概念が政治的に
利用されていく有り様をチャドウィックは、
どう感じていたのでしょうか。
不満だった筈です。


その他、パウリとの議論の発展、
サイクルトロンの導入、
ノーベル賞の賞金の
使い道については
追って、きちんと整理して再投稿したいです。


本稿はひとまず筆を納めます。


チャドウィックはキーズ・カレッジの学寮長として
晩年を過ごしています。そして、リヴァプール大学
には
彼の名を冠した研究所が残っています。



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Rutherford's disciple Chadwick


James Chadwick was blessed with a research environment. He has been under the guidance of Rutherford since the days of the University of Manchester, and during his overseas studies he accumulated his knowledge of radiation measurement under Geiger. He uses the newly developed Geiger counter to achieve a proven track record in radiation characteristics.


After the end of World War I, he continued his work under Rutherford again at the Cavendish Laboratory at the University of Cambridge. After graduating from his doctor, he was an assistant to Rutherford for more than 10 years. The discussions and advice at the Candebish Institute were probably helpful. In addition to Chadwick, talented researchers were gathered. We had a discussion in that. Meanwhile, Chadwick discovers neutrons.



Chadwick and neutrons


In the 1950s experiment of Beaute [Walther Bothe (Germany)] in which alpha particles collided with berylium, Chadwick gained knowledge and foresaw "neutrons", which are theoretical particles without electric charges, and proceeded with consideration. We will proceed with the 1932 experimental verification of polonium and berylium by Irene Joliot-Curie, the son of Mr. and Mrs. Curie.


He devises experimental equipment and completes the theory. It's a big step forward in understanding the nucleus. Neutrons were explained. Heisenberg considered that neutrons are new nucleons rather than proton-electron pairs, but their masses are uncertain. At that time, a complete grasp of the actual situation was incomplete.


Chadwick clearly indicates the mass for such neutrality, and the neutron mass is determined by the photodestruction of deuterons. The discovery revealed another atomic structure. In addition, Chadwick believes that neutrons may be beneficial in treating cancer.



Munitions industry and physicist


Unfortunately, the era of Chadwick overlaps with the era of World War. He was the leader of the British team in the Manhattan Project. He also seems to have witnessed the Trinity experiment. How did Chadwick feel that the concept he had created with all his heart and soul was being used politically? He must have been dissatisfied.


In addition, I would like to keep track of the development of discussions with Pauli, the introduction of Cycletron, and the use of the Nobel Prize money, and repost it properly. This article will be written for the time being. Chadwick spends his later years as a dorm director at Keys College. And the University of Liverpool still has a laboratory bearing his name.


2024年08月23日

仁科 芳雄
8/23改訂【サイクロトロンを開発し素粒子を研究した「人たらし」】

こんにちは。コウジです。
仁科 芳雄の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


















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【1890年12月6日生まれ ~ 1951年1月10日没】



を育てた仁科さん


仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。
仁科さんは人に惚れ込む性格でした。


仁科さんが人に入れあげる性格で、
その人の良い所を見つけて、それを伸ばす。
そんな仁科さんの元に人が集まる。


そんな風にして仁科さんの下に集まった沢山の人達を
育てあげていった凄さが仁科さんにはあるんです。


仁科さん本人はオランダ・コペンハーゲンの
ニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達な
コペンハーゲンの学風を日本に持ち込み、
多くの学者を育てました。


1928年にオスカル・クラインとコンプトン散乱の
有効断面積を議論しています。


また帰国後にはハイゼンベルクディラック
日本に招待して日本の中での物理学への
理解を深め啓蒙活動を続けています。


更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。



科さんとサイクロン 


研究内容として仁科さんはサイクロンの建設を進めて、
様々な成果をあげてます。そのサイクロトロンは
国内初、世界で二番目の開発でした。
以後理化学研究所を拠点として開発は進み
「サイクロトロン建造技術はまさに理研のお家芸」
となっていくのです。【理化学件HPより抜粋】
そして、現在でもサイクロトロンを使った
素粒子の研究は続いています。


そのサイクロンを大型化する際には仁科さんは
大変苦労しています。
先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは日米関係の悪化に伴い
関係が悪くなっていったのです。実際、サイクロトロン関係の
情報交換は
軍事的な側面を持つので出来なります。


そして終戦と共に、
仁科さんが
苦心して作り上げたサイクロンは
GHQにより東京湾に破棄されてしまいます。



科さんの晩年 


戦後には仁科さんは理化学研究所の所長を務め、
科研製薬の前身となる会社で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡なってしまいます。


放射線被ばくの影響もあったであろうと言われていて、
残念です。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。


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Nishina who raised people


Yoshio Nishina is said to have been a rare "human being". Nishina-san had a personality that fell in love with people. He has the personality that Nishina puts into a person, and he finds the good points of that person and develops them. People gather under Mr. Nishina. In that way, many people gathered under Mr. Nishina, and Mr. Nishina has the awesomeness of raising them.


Mr. Nishina himself grew up under Niels Bohr in Copenhagen, the Netherlands, and brought his free-spirited Copenhagen academic style to Japan and raised many scholars. He discusses the effective cross-sectional area of ​​Compton scattering with Oskar Klein in 1928. After returning to Japan, he invited Heisenberg and Dirac to Japan to deepen his understanding of physics in Japan and continue his enlightenment activities. In addition, he is calling his teacher, Bohr, to Japan.



Nishina-san and Cyclone


As a research content, Mr. Nishina is proceeding with the construction of a cyclone and has achieved various results. Mr. Nishina is having a great deal of trouble in enlarging the cyclone. His relationship with the University of California, Berkeley, which preceded him, became worse as the relationship between Japan and the United States deteriorated. In fact, exchanging information related to cyclotrons is possible because it has a military aspect. And at the end of the war, the cyclone that was painstakingly created will be destroyed by GHQ in Tokyo Bay.



Nishina's later years


After the war, Mr. Nishina was the director of RIKEN and the predecessor of Kaken Pharmaceutical, but he suffered from liver cancer and died at the age of 61. It is a pity that he was said to have been affected by radiation exposure. He feels that he was a life dedicated to a lot of human resources development.


2024年08月22日

エドウィン・パウエル・ハッブル
_8/22改訂【赤方偏移を示し膨張宇宙論を論じました】

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ハッブルの原稿を改訂します。


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【1889年11月20日 ~ 1953年9月28日】



ッブルの意外な側面


ハッブルは近代の天文学者で、


ハッブルの法則等で有名です。


膨張宇宙論として理解出来ます。


そんな大天文学者ですが、高校時代は陸上で
イリノイ州の
記録を更新したりしていました。


そんな少年時代は後の人生と全く違いますね。
そして、
大学時代はボクシングでならし、
とあるプロモーターから世界チャンピオン
との一戦を
持ちかけられた程の強さでした。


これまた意外ですね。



ッブルの業績


ハッブルの業績で大きいのは赤方偏移の発見でしょう。
1929年にセファイド変光星の観測から
明るさと変光周期の関係観測していく事で
赤方偏移の考え方を導きました。


赤方偏移とはドップラー効果を考慮した考えで
観測可能な大部分の銀河の光が波長の短い方向
(赤い色の方向)へ変化している現象です。


遠ざかっていく救急車の音が鈍くなっていくと
思い出してください。


ハッブルが考える宇宙論では、無論、直接の実験は出来ません。
使える理論も検証の為に理論が必要となる学問体系でした。


反面ハッブル提唱の赤方偏移は宇宙理論に明快な方向性を与え、
次の考えに繋がっていくのです



の後のハッブルの軌跡


赤方偏移の考えから
膨張宇宙論の考えが裏付けられ、ひいては
ビックバーン理論へとつながっていったのです。


また、我々が暮らす銀河と
別の銀河を見つけた業績も特筆するべきです。




 

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The surprising side of Hubble


Hubble is a modern astronomer who is famous for Hubble's law, which characterizes the theory of expanding cosmology. Although he is such a great astronomer, he used to break records in Illinois on land when he was in high school. Such a boyhood is completely different from later life. And when I was in college, I was so strong that I was able to get used to boxing and a promoter offered me a fight against a world champion. This is also surprising.


Hubble's achievements


Hubble's achievements will be the discovery of a redshift. He derived the idea of ​​redshift by observing the relationship between brightness and variable period from the observation of Cepheid variable stars in 1929. Redshift is a phenomenon in which the light of most galaxies that can be observed is biased toward a shorter wavelength (red direction) in consideration of the Doppler effect. Recall that the sound of an ambulance moving away is slowing down. Twice


Hubble's cosmology, of course, does not allow direct experiments. The theory that can be used was also an academic system that required theory for verification. On the other hand, Hubble's redshift gives a clear direction to the theory of the universe and leads to the next idea.


Hubble's trajectory after that


The idea of ​​redshift supported the idea of ​​expanding cosmology, which in turn led to the Big Burn theory.


Also noteworthy is his achievement in finding a galaxy different from the one we live in.


2024年08月21日

ヴァルター・ゲルラッハ
8/21改訂【シュテルンと銀粒子の縮退解放の実験を実現】

こんにちは。コウジです。
ゲルラッハの原稿を改訂します。


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【1889年8月1日生まれ ~ 1979年8月10日没】

 実験家ゲルラッハ


ゲルラッハはシュテルンと共に行った


実験で有名です。


本ブログの中でのシュテルンのご紹介は関連人物を中心としており、
実験内容が伝えられていませんでした。
対照的に
ゲルラッハと実験内容について語りたいと思います。


その実験はゼーマンとローレンツによる実験と通じる部分があります。
古典的な考えだけでは説明出来ない量子力学的な
状態の縮退を考慮する
必要があるという結論に繋がります。


ゼーマン効果ではナトリム原子からの電磁波が対象で
波動的側面から現象が理解できます。一方で
ゲルラッハの実験では加熱して蒸発した銀粒子が対象
ですので粒子的側面から現象が理解できます。


其々の実験対象において磁場をかけた時に縮退が
解けていく様子が観察されます。


古典的な予測では輝点に幅が出ると予想されます。
二つの輝点に分かれる現象は古典的に説明が出来ません。



実験の歴史的意義 


具体的にゲルラッハとシュテルンが行った実験では、
磁場で銀粒子の中の
電子スピンが分離されています。


加熱された銀粒子がビーム状に放射されている時に
ビーム経路
に対して垂直に磁場をかけます。


壁に当てたビームの輝点を見てみた時に古典論では輝点は一つです。
所が、
ゲルラッハとシュテルンの実験では
「縮退の解けた」2点が
はっきりと見てとれたのです。


量子力学的な考えに従うと、電子はスピンを持ち、
磁場に対して
同じ方向のスピンと逆の方向のスピンが存在します。
だから、磁場に対する軌跡が異なるのです。


この実験はゲルラッハが実現したようですが
シュテルンがドイツから亡命していた事情と、
政治絡みの判断、が相まって当初は
ゲルラッハの名は表に出ませんでした。



後日談 


さて、話を現代に近づけると、
2012年に日本で半導体内部で
同じ原理を使い同じ結果を得てます。


アイディアの種は色々な所にありますね。


強磁性体外部磁場を用いずに電子のスピン
揃えることに世界で初めて成功_2012年12月


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2020/10/31_初稿投稿
2024/08/21_改定投稿


旧舞台別まとめ
舞台別の纏め
時代別(順)のご紹介
ドイツ関係のご紹介へ
量子力学関係


AIでの考察(参考)


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(2021年10月時点での対応英訳)



Famous experimenter Gerlach


Gerlach is famous for his experiments with Stern. The introduction of Stern was centered around related people, and the content of the experiment was not communicated. I would like to talk about Gerlach and his experiments. The experiment has some similarities to the experiment by Zeeman and Lorenz. It leads to the conclusion that it is necessary to consider the degeneracy of quantum mechanical states that cannot be explained by classical ideas alone.


In the Zeeman effect, electromagnetic waves from Natrim atoms are targeted, and the phenomenon can be understood from the wave side. On the other hand, in the Gerlach experiment, the target is silver particles that have been heated and evaporated, and the phenomenon can be understood from the particle side. It is observed that the degeneracy is released when a magnetic field is applied to each experimental object. The classical prediction is that the bright spots will be wider. The phenomenon of splitting into two bright spots cannot be explained classically.



Historical significance of the experiment


Specifically, in the experiments conducted by Gerlach and Stern, the electron spins in the silver particles are separated by a magnetic field. When the heated silver particles are radiated in a beam shape, a magnetic field is applied perpendicular to the beam path. When you look at the bright spots of the beam that hits the wall, there is only one bright spot in classical theory. However, in the experiments of Gerlach and Stern, two points that were "degenerate" were clearly visible.


According to quantum mechanics, electrons have spins, and there are spins in the same direction and spins in the opposite direction to the magnetic field. Therefore, the trajectory with respect to the magnetic field is different. This experiment seems to have been realized by Gerlach, but the name of Gerlach was not revealed at the beginning due to the combination of Stern's exile from Germany and political judgment.



Later talk


Now, let's get closer to the present age. In 2012, we used the same principle inside semiconductors in Japan and obtained the same results. There are many seeds of ideas.


World's first success in aligning electron spins without using ferromagnets or external magnetic fields_December 2012

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2024年08月20日

ハリー・ナイキスト
_8/20改訂【微視的な揺らぎと熱を考察したアメリカの物理学者】

こんにちは。コウジです。
ナイキストの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


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【1889年2月7日 ~ 1976年4月4日】



アメリカに帰化したナイキストの生まれ


ナイキストはスウェーデンに生まれました。


1907年に家族がアメリカ合衆国に移り住み
その後、帰化しています。


その時点でナイキストはハイスクール修了くらいでしょう。
アメリカの名門、
イェール大学を卒業した後に
1917年からAT&T研究所(Wikipedia_Info)
で研究します。


その後もナイキストはベル研究所で研究します。アインシュタインがブラウン運動で考えた様に、
ナイキストは微視的な分子の運動と
巨視的に観測
される物理量の間の応答関係を考えています。


ベル研究所でナイキストは研究を進め1926年に
ジョンソンが発見した熱雑音に対して、
「揺動散逸定理」を駆使して理論的な根拠を与えます。


ナイキストの熱雑音とは揺らぎという言葉
でも表現
される新しい概念です。


例えば交流電流が流れる時の熱雑音を考えてみると、
流れる交流の周波数に関わらずに
回路の設計とも
無関係に電流が流れる時点で熱雑音が生じます。


熱雑音とはそうした性質を持つ物理量なのです。



 ナイキストの様々な業績


また、
ナイキストは一方でFB(フィードバック)増幅器の
安定性を研究します。別途、特筆すべきは
離散化された信号の「サンプリング」に関する
処理手法でしょう。そのナイキストが提唱した周波数は
ナイキスト周波数と呼ばれ信号処理の世界では
今や基礎的な理念となっています。


実用的には2の8乗である256から考えて、
2.56倍のサンプリング周波数を使い計測する事で
(現代主流となっている回路設計では)
ナイキスト周波数を保証しています。


また、彼の考案した「ナイキスト線図」は
極座標を使い対象系の安定性を議論します。


ナイキスト線図も系の安定性を考える為に
現代の信号処理の世界で使われていて、
今でも市販のアナライザーに一つの機能として搭載されています。
そうした数々の成果をナイキストは残しました。




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2020/11/10_初稿投稿
2024/08/20_改定投稿


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(2021年10月時点での対応英訳)



Nyquist naturalized in the United States


Nyquist was born in Sweden. He has been naturalized since his family moved to the United States in 1907. At that point, Nyquist will have completed high school. He has been studying at the AT & T Institute since 1917 after graduating from the prestigious Yale University in the United States. Nyquist then studies at Bell Labs.


As Einstein thought in Brownian motion, Nyquist considers the response relationship between microscopic molecular motion and macroscopically observed physical quantities. At Nokia Bell Labs, Nyquist pursues his research and uses the "fluctuation-dissipation theorem" to provide a rationale for the thermal noise discovered by Johnson in 1926. The thermal noise there is also expressed by the word fluctuation. For example, considering the thermal noise when an alternating current flows, it occurs when the current flows regardless of the frequency of the flowing alternating current and regardless of the circuit design. Thermal noise is a physical quantity that has such properties.


Various achievements of Nyquist


Nyquist also studies the stability of FB amplifiers, on the other hand. Separately, what should be noted is the processing method related to sampling of discretized signals. The frequency advocated by Nyquist is called the Nyquist frequency and is now a basic idea in the world of signal processing. Practically, considering from 256, which is 2 to the 8th power, the Nyquist frequency is guaranteed (in the mainstream circuit design) by measuring using a sampling frequency of 2.56 times.


In addition, his "Nyquist diagram" uses polar coordinates to discuss the stability of the target system. The Nyquist diagram is also used in the modern signal processing world to consider the stability of the system, and is still installed as a function in commercially available analyzers.

2024年08月19日

オットー・シュテルン
8/19改訂【アインシュタインと同じくドイツを逃れた実験家】

こんにちは。コウジです。
シュテルンの原稿を改訂します。


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【1888年2月17日生まれ ~ 1969年8月17日没】



 戦時下の物理学者シュテルン


シュテルンはドイツ生まれの物理学者でナチスに追われ


アメリカへ移ります。シュテルンは先ず、ポーランドの


プラハ大学でアインシュタインに会い、


共にチューリッヒ工科大学に移ります。


きっと気の合う議論相手だったのでしょう。


調べていくと共にユダヤ系である事情が大きいと感じます。
何より、
ホロコーストが実際に行われていた時代です。


同じ恐怖と憤りを感じて反体制の話もしていたことでしょう。


シュテルンはドイツ本国で当時の感心事であった
原子線の研究をします。実験の様子としては、
温度をどんどんあげていって金属が光り出して
からも更に温度をあげていきます。


例えば、具体的に金属を恒温槽の中にいれて
小さな窓から出てくる光の様子を見るのです。



シュテルンの実験の様子 


その窓から連続して特定の粒子を放出する事で
粒子の性質を明らかにしていきます。


結果としてヴァルター・ゲルラッハと共に
歴史的な実験を完成させました。


この実験で注目したのは「個別粒子の磁気的性質」です。
加熱して蒸発させた銀の粒子をビーム状に放出した時に
その粒子線に対して磁界をかけたのです。


すると、
粒子は二つに分かれて
一点だった輝点
(粒子の当たった場所)が
二点の輝点となります。
この事実は
粒子にスピンがある事で説明が出来るのです。
つまり、粒子自体が磁気的な性質を
初めから持っているのです。


そして戦争に伴い、ナチスにハンブルグ大学の
地位を追われたシュテルンはアインシュタインと共に
1933年アメリカに亡命します。


戦後ナチス政権下で教授を続けたゲルラッハと対照的ですね。
最終的にはUCB(カリフォルニア大学バークレー校)
名誉教授を務めます。81歳の生涯でした。



〆 


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2020/10/31_初版投稿
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量子力学関係


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(2021年10月時点での対応英訳)



Wartime physicist Stern


Stern is a German-born physicist who is chased by the Nazis and moves to the United States. Stern first met Einstein at the University of Prague in Poland and moved to the ETH Zurich together. Was he a friendly debate? As he proceeded with his investigation, I felt that he was of Jewish descent. Above all, it was the time when the Holocaust was actually taking place. He would have felt the same fear and resentment and talked about the dissident.


Stern will study atomic beams in Germany, which was a sensation at the time. In his experiment, he keeps raising the temperature even after the metal shines. For example, he specifically puts metal in a constant temperature bath and sees it coming out of a small window.



Stern's experiment


We will clarify the properties of particles by continuously emitting specific particles from the window. As a result, he completed his historic experiment with Walther Gerlach. The focus of this experiment is on the "magnetic properties of individual particles." When the heated and evaporated silver particles are emitted in the form of a beam, a magnetic field is applied to the particle beams. Then, the particle is divided into two and the bright spot (the place where the particle hits), which was one point, becomes two bright spots. This fact can be explained by the fact that the particles have spin.


Stern, who was displaced by the Nazis from the University of Hamburg due to the war, went into exile in the United States in 1933 with Einstein. This is in contrast to Gerlach, who continued to teach under the Nazi regime after the war.


He will eventually be an emeritus professor at UCB (University of California, Berkeley). He was 81 years old.


 

2024年08月18日

エルヴィン・シュレディンガー
8/18改訂【仮想の猫を使った思考実験で量子的に実在を考察】

こんにちは。コウジです。
シュレディンガーの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


シュレディンガー方程式【スポンサーリンク】
【1887年8月12日生まれ ~ 1961年1月4日没】



シュレディンガーの生い立ち


その名は Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger 。
シュレディンガーはオーストリア=ハンガリー帝国
に生まれました。量子力学の発展史で欠かせない人物です。
20世紀初頭での議論の中で議論の中心に居た
という印象があります。確率波としての
「波動関数」を提唱し、1935年の論文では
「エンタングルメント」を言語化しています。


コペンハーゲン学派とは一定の距離を置きながら
概念形成で重要な役割を果たしました。
シュレディンガーの猫として例えられる話
や、エンタングルメントの議論でも
シュレディンガーは本質に
ぐんぐん迫っていきます。


目で見えないものに対して議論する時に
必要とされる大事なものを
シュレディンガーは考え続けました。


シュレディンガーはその父に影響を受けたと
言われていますが、その父とはバイエルン王国
に生まれ広い教養をもった人だったようです。その点が、
シュレディンガーの性格に影響しているかと思われます。


色々知るにつけ分かってくるのですが、
シュレディンガーの考えは物理学の枠囚われない所があります。
未知の事象を捕まえていく際に、
また対象を色々な視野から
洗い出していく際に、
活用できるような「考え方のモデル」
沢山作られていったのでしょう。


他の人が作りえないような独自のモデルを作るという
大きな目標が物理学にはあります。



シュレディンガーの猫


シュレディンガーは猫の例えで有名です。
具体的には「量子力学的現象」と連動して
「猫を毒殺する仮想実験」を議論しました。


議論の帰結としてミクロな物理現象が確率的な実在として
表現出来るという
シュレディンガーの解釈が完成したのです。


具体的には空間的に広がる確率波を数学的に考えていきます。
確率波の時間発展はシュレディンガー方程式と呼ばれ
量子力学の基礎方程式となるのです。


私は大学院時代にそこから考え始めて超伝導現象に挑みました。
新しい現象理解に繋がっていったのです。
今もその枠組みで議論がされています。
世界中で議論がされています。



シュディンガ―音頭


こぼれ話となりますが、
若手の物理学者の
勉強会である「物性若手夏の学校」では
シュレディンガー音頭という歌があり
Ψ(ぷさい)とφ(ふぁぃ)
を取り入れて
楽しげに、形の違いを確認出来ます。


英文で表記したりする時にこの二つは似ていて混同しがち
なのですが、直ぐに思い出せます。


シュレディンガー音頭で手のひらを上にあげる方がΨです。
一度踊ると
踊った人は一生忘れません。 



シュレディンガー形式 


そうした量子力学の表現形式としては、
ハイゼンベルク形式(描像)とシュレディンガー形式があり、
その2つは完全に等価です。


数学の側面から大まかに表現すると、
ハイゼンベルク形式は
ヒルベルト空間上の行列とベクトルを使い、
シュレディンガー形式では同空間での演算子と波動関数を使います。


共に直感に響く側面を持ち相補して全体を補い合うのですが、
私には「粒子の二面性を感じる時などに初学者がイメージを
「作る段階」ではシュレディンガー形式が適していると思われました。
そんな記述を
シュレディンガーは纏めたのです。



ボルツマンとシュレディンガー


最後に、もう一度シュレディンガーの人となりに話を戻したいと思います。
シュレディンガー
はウィーン大学でボルツマンの後任である
ハゼノール
の教えを受けていて、ボルツマンと関わりが出来たのです。


彼はボルツマンの示した道筋を受け継いでいた人でした
彼はボルツマンに対して
い想いを持っていました。曰く、


「ボルツマンの考えた道こそ
科学に於ける
私の初恋
と言っても良い亅_


【万有百科大事典 16 物理・数学の章より引用しました。】


いわば、ボルツマンが完全に確立出来なかった原子論を


シュレディンガーは彼らしい表現方法で具現化したのです。


また、ボルツマンを中心に考えると、もう一人の弟子である
エーレンフェストが思い浮かびます。
彼は統計力学の切り口から
原子の表現に挑みました。


エーレンフェストの定理は個別粒子の運動を分かり易い形で記述する
と思えます。それまでの物理学と量子力学を上手くつなげています。
他方でシュレディンガーは波動的側面から
原子の表現に挑みました。


量子力学の初学者がこの二人のどちらを先に知るかといえば
シュレディンガーでしょう。
量子力学の議論の範囲で説明出来るからです。


大学ごとの教育カリキュラムで別途統計関係の講義との兼ね合い
も考えなければいけません。ただ、
歴史的にはシュレディンガーの理解が後なのです。


そして二人ともボルツマンの考えを受け継いでいるのです。


 

〆最後に〆


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2020/08/16_初稿投稿
2024/08/18‗原稿改定


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(2021年10月時点での対応英訳)



Schrodinger's upbringing


Schrodinger was born in the Austro-Hungarian Empire. He is said to have been influenced by his father, who seems to have been born in the Kingdom of Bavaria and well-educated. It seems that this influences Schrodinger's personality. As you can see from various investigations, Schrodinger's idea is not bound by the framework of physics. It seems that many "models of thinking" have been created that can be used when capturing unknown events and when identifying objects from various perspectives. Physics has the big goal of creating unique models that no one else can.



Schrodinger's cat


Schrodinger is famous for the analogy of cats. Specifically, we discussed "a virtual experiment to poison cats" in conjunction with "quantum mechanical phenomena". As a result of the argument, Schrodinger's interpretation that microscopic physical phenomena can be expressed as stochastic reality has been completed. Specifically, he mathematically considers the probability waves that spread spatially. The time evolution of stochastic waves is called the Schrodinger equation and becomes the basic equation of quantum mechanics. When I was in graduate school, I started thinking about it and challenged the superconducting phenomenon. It led to a new understanding of the phenomenon. Discussions are still being held within that framework. There is debate all over the world.



Shudinger Ondo


It's a spillover story, but at the study session for young physicists in Japan, "Schrödinger Young Summer School," there is a song called Schrodinger Dance, and Ψ (Psi) and φ (Phi) are incorporated to happily confirm the difference in shape. can. When writing in English, the two are similar and often confused, but I can easily remember them. It is Ψ to raise the palm up with Schrodinger dance. Once you dance, you will never forget the person who danced. Twice



Schrodinger format


There are two forms of expression of such quantum mechanics, the Heisenberg form (picture) and the Schrodinger form, and the two are completely equivalent. Roughly speaking from a mathematical point of view, the Heisenberg form uses matrices and vectors in Hilbert space, and the Schrodinger form uses operators and wavefunctions in the same space. Both have intuitive aspects and complement each other to complement each other, but I think that the Schrodinger format is suitable for "the stage where beginners create images when they feel the duality of particles". rice field. Schrodinger put together such a description.



Boltzmann and Schrodinger


Finally, I would like to return to Schrodinger's personality. Schrodinger was taught by Hazenor, Boltzmann's successor, at the University of Vienna, and was able to get involved with Boltzmann. He was the one who inherited the path Boltzmann showed. He had a passion for Boltzmann. He says


"The way Boltzmann thought
In science
My first love
You can say that _


[Encyclopedia of Banyu 16 Quoted from the chapter on physics and mathematics. ]


So to speak, Schrodinger embodied the atomism that Boltzmann could not completely establish in his own way of expression. Also, when we think about Boltzmann, I think of another disciple, Ehrenfest. He challenged the expression of atoms from the perspective of statistical mechanics. Ehrenfest's theorem seems to describe the motion of individual particles in an easy-to-understand manner. Schrodinger, on the other hand, challenged the expression of atoms from the wave side.


Schrödinger is the first to know which of these two scholars of quantum mechanics knows first. This is because it can be explained within the scope of the discussion of quantum mechanics. In the educational curriculum of each university, it is necessary to consider the balance with the lectures related to statistics. However, historically, Schrodinger's understanding was later. And both of them inherit the idea of ​​Boltzmann.

2024年08月17日

ニールス・ボーア
8/17改訂【概念構築|新たな原子模型の提唱を通じて原子モデルを洗練化】

こんにちは。コウジです。
ボーアの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


ボーア来日時【スポンサーリンク】
【1885年10月7日生まれ ~ 1962年11月18日没】



ボーアの生い立ち


ボーアは量子力学の発展で需要な役割を果たしました。


ソルベー会議でも議論の中心に居て、TOP画で


使っている写真では中列右端に立っています。


そんなボーアは北海に面したユトランド半島および、
その近辺の
多くの島々からなる、立憲君主制国家である、
デンマーク王国にボーアは生まれました。


若い時代にはアマチュアサッカー選手リーグの
ABコペンハーゲンでゴールキーパーを務めていた
という一面もあります。
ボーアはそんな人でもあるのです。



ボーアと原子論


そしてボーアは前期量子論形成に於いて
先駆的な理論
を提供し続けました。
ボーアは当時、不完全であった
原子像を洗練させて
独自の原子模型を提唱します。議論の渦中に飛び込んで
色々な人々と切磋琢磨して新しい「かたち」
を作り上げたのです。


先ず1911年にイギリスへ留学し、J・J・トムソン
ラザフォード_の元で原子核に対する基礎知識を吸収
して
先進的な考察の土台を作っていきます。


そもそも光学顕微鏡で見えないほど
小さい領域にまで議論が進んでいくのですが、
その世界に対して考察を止めることなく
幾多の議論を重ね、
量子力学を確立していきます。


例えば今でも原子の大きさを議論する時に
「ボーア半径」という言葉を使います。


この言葉はボーアの時代に確立されていった概念です。


その後、ボーアはイギリスから帰国後に
幾多の仲間を
コペンハーゲンに集め、
コペンハーゲン学派と呼ばれた
仲間を形成します。


コペンハーゲンでまとまった解釈は
コペンハーゲン解釈と呼ばれるようになり、
それまでの物理学でのスタイルを変えていきます。



ボーアとコペンハーゲン解釈 


コペンハーゲン解釈は微視的世界での


「観測に対する考え方」です。


光学顕微鏡で微細な世界を覗いても分解能の問題で
どうしても
画像がぼやけてしまう「限界」にいきつきます。


アルファー線やベータ―線といった粒子線を
純度の高い物質に当てて光路から
内部構造を予想しようとする試みも
色々な形で繰り広げられました。


日本では寺田寅彦の時代にそうした解析が
行われています。解析の蓄積を辻褄(つじつま)の合う
総合理論で結びつける体系が必要とされていたのです。


目で見てとれる現象は顕微鏡の分解能の範囲で
終わってしまいます。実際にはそれ以下の大きさで
繰り広げられる現象が存在していて、
観測しようとして光を当てると(光子を作用させると)、
「観測する事情」で「状態をかき乱してしまう」のです。


位置と運動量の微視的分解能の限界をA・アインシュタイン
ボーアが論じた話などが今に残っています。


また段々に分かってくるのですが、後にパウリが示す
スピンの自由度も電子は持っていて「軌道半径だけを
イメージして議論すれば話が終わる」訳ではないのです。


その中でボーアは本質的な「ボーアの量子化条件」を用いて
様々な現象を新しい議論の枠組みで説明してみせます。


長さスケールで10の‐23乗メートルのスケールでの議論では
「位置等の観測値」が「とびとびの値」を示すのですが、
その事象を現実世界での本質的な性質であると提唱したのです。


原子半径、磁気的性質も現代では、その形式で考えるが方が
わかりやすい訳です。師であるラザフォードの原子モデルに
改良を加えてボーアモデルを作りあげます。



第2次大戦時のボーア


戦時下においてはボーアは大変危ない橋を渡ります。
1940年の4月にドイツ帝国は
デンマークと共にボーアを手にしました。
それなので、ボーアは。

コペンハーゲンでの書類を急いで隠滅します。


その時に
リーゼ・マイトナーはイギリスにいる甥に手紙を出します。その中で
「最近 ボーア夫妻に 会い、 二 人 とも 元気 だ が 事態 に は 悲んでいる。

核物理学者 と モード ・ レイ ・ ケント ( Maud Ray Kent ) に 知らせて 」
という 電文 を打ちました。 受け取っ た 英国の物理学者達は
モード ・ レイ ・ ケント( Maud Ray Kent )

に 心当たり が なかっ た ため 、 それ を 何 か の 秘密 の メッセージ
だ と 考え て 一 か所 “ y ” を “ i ” と 読み替えるました。つまりそれ が
「 ラジウム とら れた 」( radium taken ) の アナグラム だ と 解釈 できる
こと に 気がつい たのです 。イギリスの G・P・トムソン のグループは
この アナグラム から事態の深刻さを受け止めたのです。
ノーマン・マクレイ著「フォン・ノイマンの生涯」より抜粋)



そして晩年


ボーアはデンマーク最高の勲章である
エレファント勲章を受けています。
その際には東洋密教で使う陰陽のマーク
を模してボーア家の紋章を
デザインしたと言われています。


また、英国の王立協会では
外国人会員の栄誉を受けていました。



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Bohr's upbringing


Bohr played a demanding role in the development of quantum mechanics. He was also at the center of the discussion at the Solvay Conferences, standing at the right end of the middle row in the photo used in the TOP picture.


Bohr was born in the Kingdom of Denmark, a constitutional monarchy of the Jutland Peninsula facing the North Sea and many of its surrounding islands. On the one hand, he was a goalkeeper in the amateur soccer player league, AB Copenhagen, when he was young. Bohr is also such a person.



Bohr and Atomism


And Bohr continued to provide pioneering theories in old quantum theory. Bohr refines the imperfect atomic image at the time and proposes his own atomic model.


He first studied abroad in England in 1911, and under the guidance of JJ Thomson and Rutherford, he absorbed basic knowledge about atomic nuclei and proceeded with advanced consideration. In the first place, the discussion goes to a level that is too small to be seen with an optical microscope.


He continues to discuss the world with many discussions and establish quantum mechanics. For example, he still uses the term "Bohr radius" when discussing the size of an atom. This word is a concept established in this era.


After returning from England, Bohr gathered many friends in Copenhagen to form a group called the Copenhagen School. The collective interpretation came to be called the Copenhagen interpretation, changing the style of physics up to that point.



Bohr and Copenhagen Interpretation


The Copenhagen Interpretation is the "thinking about observation" in the microscopic world. Even if you look into the minute world with an optical microscope, you will reach the "limit" where the image will be blurred due to the problem of resolution.


Attempts to predict the internal structure from the optical path by applying particle beams such as alpha rays and beta rays to high-purity substances have also been made in various forms. In Japan, such an analysis was carried out during the time of Torahiko Terada. There was a need for a system that would connect such accumulations with a theory that fits Tsujitsuma.


Phenomena that are visible to the eye end up within the resolution of the microscope. Actually, there is a phenomenon that unfolds in a size smaller than that, and when light is applied to observe it (when photons act), it "disturbs the state" due to "observation circumstances". There is a story that discusses the limit of microscopic resolution of position and momentum with A. Einstein.


Also, as we gradually understand, electrons also have the degree of freedom of spin that Pauli shows later, and the discussion does not end if we discuss only by imagining the orbital radius.


In it, Bohr explains various phenomena using the essential "Bohr's quantization condition". In the discussion on the scale of 10-23 meters on the length scale, "observed values ​​such as position" indicate "staggered values", but we propose that the phenomenon is an essential property in the real world. I did.


In modern times, it is easier to understand the atomic radius and magnetic properties in that format. He will improve the atomic model of his teacher, Rutherford, to create the Bohr model.



And his later years


Bohr has received the Order of the Elephant, Denmark's highest medal. At that time, he is said to have designed the coat of arms of the Bohr family, imitating the Yin-Yang mark used in Oriental esoteric Buddhism. He also received the honor of a foreign member at the Royal Society of England.



2024年08月16日

西川 正治
8/16改訂【植物由来の構造体|X線解析で現象論を確立し後進を育てた偉人】

こんにちは。コウジです。
西川 正治の原稿を改訂します。


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【1884年12月5日生まれ ~ 1952年1月5日没】



食物繊維と西川


西川 正治は寺田寅彦の指導を受け


物理学を学んでいきます。特に、


彼は竹や麻等の植物由来の構造体


に着目して繊維構造物質に対して


電磁波がどう作用するか考えました。


手法としてはX線回折を駆使して


スピネル群結晶内の電子配置を


決定しています。



X線解析での問題


そもそも、電子は不可視の存在ですが、
電磁波に対して作用して結果を残すので
その結果を画像で解析できます。


解析をすることで、
結晶内での微視的な電子配置の情報が得られるのです。


初学者は単純なモデルから学ぶので電子が個々の性質を見せる
と思いがちです。実際はそんな事は無くて電子単体で
「観測にかかる」事象はなかなか見当たりません。


たとえば相互作用を考えていって「輝点」の議論をしている時でも、
話の中には色々な要素があって、どこまでが観測事実か、
はたまた勝手な想像であるか、判断に迷うことがあります。


万人に説得力を持つ議論を進めるのはとても大変な作業です。
加えて、当時の時点での知識で原子からの寄与と、
電子からの寄与を明確にしていくには
多くの知見が必要だったと思われます。


X線情報の精度を考えるだけで大変で、
一つ一つ推論を裏付けていった筈です。


そうした「新しい計測手法」を手掛かりに


西川正治は解析していったのです。


西川正治はそうした業績を残しながら


二人のお子様を育て、其々が学者として


名を残しています。また、同時に


幾人もの弟子を育て、日本物理学会に


今も続く、大きな足跡を残しています。




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次のアドレスまでお願いします。
適時、返信・改定を致します。


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2020/12/13_初稿投稿
2024/08/16_改定投稿


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Dietary fiber and Nishikawa


Shoji Nishikawa will study physics under the guidance of Torahiko Terada. In particular, he focused on plant-derived structures such as bamboo and hemp and considered how electromagnetic waves act on fibrous structural materials. As a method, the electron configuration in the spinel group crystal is determined by making full use of X-ray diffraction.



Problems with X-ray analysis


In the first place, electrons are invisible, but they act on electromagnetic waves and leave results, so if you analyze the results with images, you can obtain information on the microscopic electron configuration in the crystal. Beginners tend to think that electrons show individual properties because they learn from simple models. Actually, there is no such thing, and it is difficult to find an event that "observes" an electron alone. For example, even when thinking about interaction and discussing "bright spots", there are various elements in the story, and it is judged how far the observation facts are, or whether it is a selfish imagination.


You may get lost. Proceeding with a convincing discussion for everyone is a daunting task. In addition, it seems that a lot of knowledge was needed to clarify the contribution from atoms and the contribution from electrons with the knowledge at that time. It was difficult just to think about the accuracy of X-ray information, and it should have supported the inference one by one.


Shoji Nishikawa analyzed using such a "new measurement method" as a clue. Shoji Nishikawa raised two children while leaving such achievements, and each of them has left his name as a scholar. At the same time, he raised a number of disciples and left a large footprint that continues to the Physical Society of Japan.


2024年08月15日

ピーター・デバイ
8/15改訂【比熱のデバイモデル|比熱の定式化で新しい物理モデルを提案】

こんにちは。コウジです。
デバイの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


熱力学
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【1884年3月24日生まれ ~ 1966年11月2日没】



オランダ生まれのデバイ


デバイはオランダに生まれていて、


物理学者にして化学者です。


ドイツで教授を務めていたりもしました。


第二次大戦の時には渡米してコーネル大学で


教授を務めていました。そんなデバイは、


比熱の定式化で名を残しています。



デバイの業績@


電子の双極子モーメントを使って誘電率の説明をしました。


自由電子が内部に存在しない誘電体を考えた時に、
その物質内部で電場付加時に電子と原子核は
反対方向に移動して双極子を作ります。


双極子の考えで「双極子モーメント」が定義され、
その単位体積当たりの値を吟味することで
電場と誘電率の関係が示せたのです。


高度な物理モデルの構築と物性への適用です。


誘電率は真空中を基準とした時に


アルミナ、雲母、NaCl、水晶、ダイヤモンドで
5から9の値をとり、水(純水)で80の値をとり、
メチルアルコールで33の値をとります。
【理科年表2021より】_


こうした業績からデバイは


分子モーメントの単位として名を残しています。



デバイの別の業績A


また、


デバイの別の業績としては比熱に対しての物もあります。


一般的に比熱のモデルですが、今日では一般的に


アインシュタイン・モデルと


デバイ・モデルが使われます。


アインシュタインの比熱モデルは拘束された原子核が
バネでつながれたイメージです。


二次元で例えてみると碁盤の線の交点に原子があって、
交点間の線にバネがあって隣の交点に熱を伝えます。
交点に足る特定の原子が激しく動くと
隣接する上下左右4点の原子がバネを介して
エネルギーを受けるイメージのモデルです。


対してデバイ・モデルは音子(フォノン)が
箱の中を動き回るモデルであって
理想気体が
運動する様子に近いです。


デバイモデルでは長波長の弾性波を
モデルに
取り入れる事が出来るうえに、
外界とのリンクも勘定しやすいです。


現代の我々は夫々のモデルが当てはめられる場合の考察が出来るのです。


具体的にデバイモデルでは外界とのリンクを
取り入れていて、
それは箱の出口となるドアで表されています。


こういった概念を纏めているサイトを見つけました。
最後に以下にURLを記します。
ご参考にして下さい。



(ときわ台学さん)
(別リンク)




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2020/09/25_初稿投稿
2024/08/15‗改訂投稿


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Dutch-born debye


Debye was born in the Netherlands and is a physicist and chemist. He was also a professor in Germany. He traveled to the United States during the war and was a professor at Cornell University. Such Debye has made a name for himself in the formulation of his specific heat.



Debye's achievements @


I also explained the permittivity using the dipole moment of electrons. When considering a dielectric in which free electrons do not exist inside, the electrons and nuclei move in opposite directions when an electric field is applied inside the material to form a dipole. Based on this idea, the "dipole moment" was defined, and the relationship between the electric field and the permittivity was shown by examining the value per unit volume. The permittivity takes a value of 5 to 9 for alumina, mica, NaCl, crystal, and diamond, 80 for water (pure water), and 33 for methyl alcohol, based on vacuum. [From the Chronological Scientific Tables] _ From these achievements, Debye has left its name as a unit of molecular moment.



Another achievement of DebyeA


Another achievement of Debye is for specific heat. Although it is generally a specific heat model, the Einstein model and the Debye model are commonly used today. Einstein's specific heat model is an image of constrained nuclei connected by springs. If you compare it in two dimensions, there is an atom at the intersection of the lines on the board, and there is a spring in the line between the intersections to transfer heat to the next intersection.


This is a model of the image that when a specific atom sufficient for an intersection moves violently, four adjacent atoms on the top, bottom, left, and right next to it receive energy via a spring. On the other hand, the Debye model is a model in which a phonon moves around in a box, which is similar to the movement of an ideal gas. In the Debye model, long-wavelength elastic waves can be incorporated into the model, and it is easy to count links with the outside world. Specifically, the Debye model incorporates a link to the outside world, which is represented by the door that exits the box.

2024年08月14日

アウグスト・ピカール
8/14改訂【深海と成層圏に挑んだ物理学者にして冒険家】

こんにちは。コウジです。
ピカールの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)

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【1884年1月28日生まれ 〜 1962年3月24日没】



ピカールの関心


アウグスト・ピカールは宇宙と深海に


大いなる関心を持っていた人でした。


 

アウグスト・ピカールはスイスのフランス系家庭に生まれ


少年時代から科学に興味を示し、


チューリッヒ工科大学で物理学を学び宇宙線、


オゾンといった研究をしていきます。


その探究心は冒険に繋がっていく


ダナミックなものでした。



成層圏へ挑んだピカール


まず、


アウグスト・ピカールは成層圏に挑みます。
フランス国立基金から資金援助を得て、
自らが設計した気球に水素を詰めて
上空16,000 mの
成層圏に達します。


これは気球による世界初の高度達成でした。
空の果てに人類が初めて
辿り着いたのです。
冒険は続きます。その先は遥かなる宇宙です。



深海へ挑むピカール


その後、ピカールはバチスカーフと名付けた深海潜水艇で
深海に挑みます。この行動
のダイナミックさは「冒険家」
という
キーワードで考えると理解できます。
成層圏の次は深海です。


気球を作ったりする実業的な側面と
未知なる世界への挑戦をする側面が
ピカールの行動を進めていったのです。 


上空の果ての次は深海の果てを目指します。
バチスカーフは鉄の錘を抱いて沈んでいき
浮き上がる時には錘を切り離すという
仕組みで探検します。浮力はガソリンでした。



ピカールの系譜


そして、冒険家ピカールの血は代々受け継がれていきます。
息子であるジャック・ピカールを伴ってバチスカーフに搭乗し、
マリアナ海溝のチャレンジャー海淵到達を達成しています。
更には孫のベルトラン・ピカールが世界で初めて、
気球による無着陸世界一周を達成しています。
おじいさんの冒険を思い起こしながら飛んでいたのでしょう。


思いは空のかなたへ。素敵な一族ですね。



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2021/01/19_初稿投稿
2024/08/14_改定投稿


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(2021年10月時点での対応英訳)



Picard's interest


August Picard was a man of great interest in space and the deep sea. August Picard was born in a French family in Switzerland and has been interested in science since he was a boy. He studied physics at the ETH Zurich and studied cosmic rays and ozone. It was dynamic.



Picard who challenged the stratosphere


First, August Picard challenges the stratosphere. With financial support from the French National Fund, he fills a balloon he designed with hydrogen to reach the stratosphere 16,000 m above the ground. This was the world's first achievement with a balloon. Mankind has reached the end of the sky for the first time. Beyond that is the distant universe.



Picard challenges the deep sea


After that, Picard challenges the deep sea with a deep-sea submersible named Bathyscaphe. Next to the end of the sky, we aim for the end of the deep sea. Bathyscaphe explores by holding an iron weight and separating it when it sinks and rises. The buoyancy was gasoline.



Picard's genealogy


And the blood of adventurer Picard will be passed down from generation to generation. He boarded a bathyscaphe with his son Jacques Piccard and achieved the Challenger Deep in the Mariana Trench.


In addition, his grandson Bertrand Piccard is the first in the world to complete a balloon-free round-the-world. I think he was flying while remembering his grandfather's adventure. My thoughts go beyond the sky. It's a nice clan.

2024年08月13日

F・W・マイスナー
8/13改定【ベルリン生まれの物理学者|磁性を使って超電導現象を説明】

こんにちは。コウジです。
マイスナーの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


マイスナー
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【1882年12月16日生まれ ~ 1974年11月16日没】



その名は正確には


フリッツ・ヴァルター・マイスナー_


Fritz Walther Meißner (Meissner)。


  ドイツ・ベルリン生まれの物理学者です。


ミュンヘン工科大学でプランクの師事を
受けた後に物理工学院で研究を進めます。


マイスナーが関心を持っていたのは
超伝導でした。1920年頃に色々な物質で
転移が起きる事を確認しています。



タンタル、化学記号はTa、転移温度4.47K。
ニオブ、化学記号はNb、転移温度は9.25K。
チタン、化学記号はTi、転移温度は0.4K。
トリウム、化学記号はTh、転移温度は1.38K。
に対して相転移を確認した後に化合物に
着目してNbCにおいて10ケルビンを超える
転移温度を確認しています。
念のために記載しておきますがケルビン(K)は一つの単位で、
よく使われている摂氏℃との関係は−273℃=0K程度、
0℃=273K程度です。

摂氏温度℃が一度上昇すると同じ変化として
ケルビンも一度上がります。それぞれの単位での
基準である
「0」の場所がが異なるのです。



マイスナー効果


その後、マイスナーはいわゆるマイスナー効果
を発見していてます。この現象は協同研究者の
オクセンフェルトの名前と合わせて
マイスナー―オクセンフェルト効果と呼ばれる
こともあります。


よく、超電導の説明で不自然な磁力線の図が見られますが、実際の計測結果としても通常の磁力線と全く異なる形が現れるのです。


また性質の側面から完全反磁性
とも呼ばれます。磁性を使って超電導現象を特徴
づけているとも言えます。
マイスナーの業績は大きな成果でした。



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2020/12/19_初回投稿
2024/08/13_改定投稿


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(2021年10月時点での対応英訳)



The name is exactly


Fritz Walther Meißner (Meissner).
He is a physicist born in Berlin, Germany.


After studying Planck at the Technische Universität München, he goes on to study at the Institute of Applied Physics. Meissner had  interested in superconductivity . Meissner has confirmed that various supplies will cause metastasis around 1920.
Tantalum ,and chemical symbol is Ta, transition temperature 4.47K.
Niobium ,chemical symbol is Nb, transition temperature is 9.25K.
Titanium , and it's symbol is Ti, transition temperature is 0.4K.
Thorium ,it's symbol is Th, transition temperature is 1.38K.
After confirming the phase transition, we focused on the compound and confirmed the transition temperature exceeding 10 Kelvin in NbC.
[As a reminder, Kelvin (K) has a relationship with -273 ° C = 0K and 0 ° C = 273K, which are often used in one unit system.]



Meissner effect


Since then, Meissner has discovered the so-called Meissner effect. This phenomenon is sometimes referred to as the Meissner-Ochsenfeld effect, in conjunction with the name of his collaborator Ochsenfeld.


Often, in the explanation of superconductivity, you can see a figure of an unnatural field line, but even in the actual measurement result, a shape completely different from the normal field line appears.


Some people called completely anti-magnetic because of its nature. It can be said that it uses magnetism to characterize the superconducting phenomenon. It was a big achievement.

2024年08月12日

マックス・ボルン
【アインシュタインに「神はサイコロを振らない」と言わせた男】

こんにちは。コウジです。
ボルンの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


確立統計(ニュートン編)
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【1882年12月11日 ~1970年1月5日】



マックスボルンと確率解釈


M・ボルンはユダヤ系ドイツ人なので、


第二次世界大戦時は大変苦労しています。


そんな中でボルンは形成時の量子論において本質的な


概念である「確率解釈」を提唱しています。


私なりに確率解釈を考えてみると、
微視的な現象の観測では一意的に全ての値が定まる事実は無く、
観測する行為は
一定の確率で観測値を得る統計的な行為である
とする
解釈です。
古典物理学での観測値に対する物理量は量子論では期待値


特定の観測値を持つ場合は確率で表現されます。
1930年に初版が書かれた教科書
【dirac「量子力学」】から一文を引用します。
「観測結果の計算には避けられない不定さがあり、そして理論のなしうることは、一般には我々が観測をする時にある特定の結果が得られる事の確率を計算するだけである」




ボルンの人間関係


ボルンはドイツ本国で教授職を解雇されたりしていて、
反戦の姿勢、非核の姿勢を貫き
ラッセル=アインシュタイン宣言にも参加しています。


この点ではドイツに残り、原爆開発に参加
していたハイゼンベルクとは全く別の人生を歩んでいます。


ちなみに、


ハイゼンベルクはボルンの門下生です。
オッペンハイマーもまた弟子にあたります。
オッペンハイマーとは
「ボルン・オッペンハイマー近似」と呼ばれる業績を残し、
共に研究していた時代があります。


共にユダヤ系でしたのでボルンはイギリス、
オッペンハイマーはアメリカへと追われていきます。
ユダヤ人排斥運動の中でボルンは教授職を奪われたのです。
戦時下でのどうしようもない事情でした。


彼の解釈で有名なやり取りがあります。


ボルンの考え方である確率解釈に対して反論した


アインシュタインが量子力学の解釈を


サイコロ遊びに例えたのです。


【Wikipedeaより引用:アインシュタインの有名な言葉
「彼(神)はサイコロを遊びをしない」は1926年
にボルンに当てた手紙の中で述べられたものである。】


さいころ遊びに例えた手紙が交わされた翌年の
1927年に
ハイゼンベルグが不確定性関係を定め、
このサイトTOPで写真を使っている
第五回ソルベー会議が開かれます。【於10月】


量子の本質に対して真剣な議論が交わされるのです。
人類の理解が大きく変化していった時代でした。


確率解釈は人類の思想にとって大きなパラダイムシフトです。


ボルンの考え方は、それまでの発想を大きく変えました。



最後にトリビア話


ボルンの孫の一人に歌手であるオリヴィア・ニュートン・ジョン
が居ました。私も初稿を書く際に分かったのですが意外ですね。


勝手に想像するとボルンは如何にもドイツ人らしい人
だったのでしょうね。アインシュタインとのやり取りは、
そんな彼を偲ばせます。


イギリスに亡命後にドイツへ帰国しており、
プランクと同じゲッティンゲン市立墓地に眠っているそうです。
母国の土に帰りたい想いもあったのでしょう。
そしてきっと、
お孫さんのオリビア・ニュートンジョンも
墓参りに来ていたのでしょう。
原稿の改定が進む中で2022年の8月に
オリビアも亡くなり国葬が行われました。


関連URL(YouTubeへ:)
https://www.youtube.com/watch?v=E-JGTk_WM1k


関連URL(私の別ブログ:ダイエット日記)
https://ameblo.jp/nowkouji226/entry-12813195931.html



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2020/08/30_初版投稿
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Max Born and Probabilistic Interpretation


Since M. Born is a Jewish German, he had a lot of trouble during World War II. Under such circumstances, he advocates "probabilistic interpretation", which is an essential understanding of phenomena in the early quantum theory. To express the probability interpretation simply, it is an interpretation that the phenomenon related to the observation includes not only the uniquely obtained object but also the event observed with a certain probability. In other words, the observed value is multiplied by the certain probability. It is permissible if it is a match.



Born Relationships


Born has been dismissed as a professor in Germany, and he has been involved in the Russell-Einstein Declaration with an anti-war and non-nuclear stance. In this respect, he remains in Germany and lives a completely different life from Heisenberg, who participated in the development of the atomic bomb. By the way, Heisenberg is a student of Born. Oppenheimer is also a disciple. There was a time when Oppenheimer left a work called "Born-Oppenheimer approximation" and studied together. Both were of Jewish descent, so Born was chased by England and


Oppenheimer was chased by the United States. Born was deprived of his professorship during the Jewish exclusion movement. It was a terrible situation during the war. There is a well-known exchange in his interpretation. Einstein, who argued against Born's idea of ​​stochastic interpretation, likened the interpretation of quantum mechanics to dice play.


[Quoted from Wikipedea: Einstein's famous words
"He (God) does not play dice" is 1926
It was stated in a letter to Born. ]


In 1927, the year after this letter was exchanged, Heisenberg established an uncertainty relationship, and the 5th Solvay Conference using photographs will be held on the top of this site. [October] There is a serious discussion about the essence. It was an era when human understanding changed drastically. Probabilistic interpretation is a major paradigm shift for human thought. Born's thinking changed his way of thinking.



Finally the trivia story


One of Born's grandchildren was the singer Olivia Newton-John. I also found out when writing the first draft, but it's surprising. Imagine that Born was a German person. The interaction with Einstein is reminiscent of him. He returned to Germany after his exile in England and is sleeping in the same Göttingen Cemetery as Planck. Perhaps he also wanted to return to his homeland. And I'm sure his grandson Olivia Newton-John will come to visit the grave.

2024年08月11日

ハンス・ガイガー
‗8/11改訂【不活性ガスを利用し放射線量を計測|ドイツ生まれ】

こんにちは。コウジです。
ガイガーの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


ガイガーカウンター
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【1882年9月30日 ~ 1945年9月24日】


ガイガーはドイツ生まれです、研究機関としては
ニュルンベルク大学やマンチェスター大学で研究してます。


修行時代に英国のラザフォード卿のもとで研究者として
育っていきます。新しい知見である放射能に関して、
法則を確立して、計測器を作っていきます。


ガイガーは、弟子のミュラーと開発した放射線量を測定する
「ガイガー=ミュラー」計数管で有名です。
別名「ガイガーカウンター」としても知られていて、
パソコン入力時に一発で出てきました。


最早(もはや)ありふれた言葉です。
原理としては
不活性ガスを封入した筒の軸部分に
電極を取付け+極と−極の間に高電圧
を印加します。


電子機器で言う無通電の状態です。
ところが不活性ガスの電離により、陰極と陽極の間に
パルス電流が流れるのです。この特徴的な
通電回数を数える訳です。


また、原子構造の検証実験も有名です。


実験当時は原子の中に電子がバラバラに
(葡萄パンの中での葡萄のように)
存在するモデルも想定されていました。


鉄だとか炭素だとか元素の概念が確立できて来た後に
その中身がどうなっているのだろうという疑問が湧いたのです。


具体的には原子のサイズを大まかに見積もり、
それを検知できる粒子線を使って手探りで
原子の観測を始めていきます。


現在の知見である原子核の発見は重要です。
ガイガー=マースデンの実験と呼ばれます。


具体的にはラザフォードの指導下で、
ガイガーとマースデンはアルファ粒子の
ビームを金属の薄い箔に当て、更に蛍光板
を使って散乱を測定しました。


また、ガイガーの業績としてα線の
半減期に関する法則があげられます。
法則は


「ガイガー・ヌッタルの法則」


(英: Geiger–Nuttall law


と呼ばれます。放出されるアルファ粒子の
エネルギーが大きいと早く減衰します。

経験的に得られた関係です。




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問題点に対しては
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2023/04/03‗初稿投稿
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(2023/4月時点での対応英訳)


Geiger was born in Germany, as a research institute
He has studied at the Universities of Nuremberg and Manchester.
During his apprenticeship, he grew up as a researcher under Lord Rutherford in England.
Regarding his new knowledge of radioactivity,
He establishes various laws and makes measuring instruments.


Geiger developed with his protégé Müller a measure of radiation dose
Famous for the "Geiger-Muller" counter tube.
Also known as a "Geiger counter"
It came out in one shot when I entered the computer.


It's the first common word. as a principle
At the shaft part of the cylinder filled with inert gas
Attach the electrode and apply a high voltage
between the + and - poles.is applied.


This is the state of no electricity in electronic equipment.
However, due to the ionization of the inert gas, a
A pulse current flows. this characteristic
It counts the number of calls made.


It is also famous for its atomic structure verification experiments.
At the time of the experiment, the electrons were scattered in the atom
(Like grapes in grape bread)
Existing models were also assumed.


The discovery of the atomic nucleus, which is the current knowledge, is important.
It's called the Geiger-Marsden experiment.
Specifically, under the guidance of Rutherford,


Geiger and Marsden are alpha particles
The beam is applied to a thin metal foil, and a fluorescent screen
was used to measure scattering.


In addition, Geiger's achievements of alpha rays
There is a law about half-life.
the law is


"The Geiger-Nuttal Law"


(English: Geiger–Nuttall law)


called. The higher the energy of the emitted alpha particles, the faster they decay.
It is an empirical relationship.



2024年08月10日

石原純
8/10改訂 (あつし・じゅん)【アインシュタイン来日時の通訳|俳人|結晶学者】

こんにちは。コウジです。
石原純の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


【1881年1月15日生まれ ~ 1947年1月19日没】


評伝石原純
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【1881年1月15日生まれ】


日本の物理学史の中から一人ご紹介します。


2024年の時点で同性同名の方が現存されますが、


これは19世紀の物理学者の記事です。



石原さんの業績


物理学者として石原さんには
大きな二つの業績があります。


先ず、黎明期の日本において外国で進んでいた
最新の物理学を成果を
いち早く紹介して広めたことです。


そして、2つ目は結晶解析に対する考察です。
この後者の業績は国内に留まらずに
最先端の学者達に色々な刺激を与えたことでしょう。
日本でもそうした「共感」が始まりだしたのです。



多彩な活躍をした石原さん


山川健次郎田中館愛橘長岡半太郎


本多光太郎寺田寅彦、、、、


と続く黎明期の中で異色の人生を歩みました。
アインシュタイン来日時に
通訳を務め、
西田幾多郎に不確定関係
を伝えたパイオニアです。
日本物理学界に多大な貢献を残しつつ、
女性関係で帝大を去ります。あーぁあ。


そもそも石原さん、歌人の伊藤左千夫の弟子なので
斉藤茂吉に「家庭を
大事にするよう」に説得されたり
していますが、
聞く耳を持たずに
女にのめり込んでいたようです。
アララギの発刊に携わったメンバーでしたが、
この事件でアララギ脱会に至ります。
と、ここまでは
wikipedia等に載っている
範疇の話です。


 

語り継がれた石原さん


私的な思い出としては、大学の恩師が彼を評価


していて、講義の中で情熱を込めて語ってくれて


いた時間です。日本の科学の為に多大な功績を


残しながらも学会と距離を置き、交通事故による


不慮の最後を遂げた人生を思いを込めて暖かい


語り口で講じていました。


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〆最後に〆


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適時、返信・改定をします。、


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 (2021年10月時点での対応英訳)


I would like to introduce one person from the history of physics in Japan. As of 2021, the same-sex name still exists, but this is an article by a 19th-century physicist.



Mr. Ishihara who played a variety of roles


I lived a unique life in the early days of Kenjiro Yamakawa, Aikitsu Tanakadate, Hantaro Nagaoka, Kotaro Honda, Torahiko Terada, and so on.


He was a pioneer who acted as an interpreter when he came to Einstein and conveyed the uncertain relationship to Kitaro Nishida. He leaves the imperial university in relation to women, leaving a great contribution to the Japanese physics world. Ahhhh.


In the first place, Mr. Ishihara, a disciple of the poet Sachio Ito, was persuaded by Mokichi Saito to take good care of his family, but he seemed to be absorbed in it without listening. She was a member involved in the publication of Araragi, but this incident led to her withdrawal from Araragi. So far, it is a story of the category listed in wikipedia etc.


Mr. Ishihara's achievements


As a physicist, I think Mr. Ishihara has two major achievements. First of all, I was the first to introduce and disseminate the latest physics that was advancing abroad in Japan in the early days. And the second is consideration for crystal analysis. This latter achievement would have inspired cutting-edge scholars not only in Japan. Such sympathy began in Japan as well.



Mr. Ishihara handed down


My personal memory is the time when my college teacher was praising him and talking passionately in his lectures. Although he made great achievements for Japanese science, he kept a distance from the academic society and gave a warm talk about his life, which had ended unexpectedly due to a traffic accident.

2024年08月09日

ポール・エーレンフェスト
8/9改訂【波動関数を統計的な手法で解釈・定理化し|後進を多数輩出】

こんにちは。コウジです。
エーレンフェストの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


【←ローレンツとアインシュタイン_
エーレンフェストの自宅前で
Crediit;:_ pinterest.com_】


量子論の基礎講座
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【1880年1月18日生まれ ~ 1933年9月25日没】



エーレンファストと期待値と波動関数
【現象をつなげたエーレンファスト】


ポール・エーレンフェストは


統計力学量子力学


洗練された形で結びつけたと言えるでしょう。


それぞれの分野での2つの指標である


期待値波動関数を結びつけたのです。


また、本稿の中で使っている写真も意義深いです。アインシュタインローレンツという2人の偉人をより強く結びつけているのがエーレンフェストだからです。エーレンフェストの家で沢山の考え方(議論)が進んでいったのです 。

オーストリアに生まれウィーンで育ったエーレンフェストは
研究生活において
非常に恵まれていたと思います。


まず、ボルツマンの講義を受ける環境をもち、
熱力学の考えや気体分子の運動論に大変、感銘を受けます。
柔らか頭の時期にボルツマンの熱意に触れることが出来たのです。


ミクロの世界と可視下で想像できる質点モデルの世界を
繋げる事が出来たのです。更に小旅行でローレンツに出合い、
互いに刺激を受け、その後、
アインシュタインと交友関係を結びます。
アインシュタインとエーレンフェストは共に
ユダヤ系でしたので多くの
「思想」・「話題」を共有したことでしょう。



より詳細な期待値の解説


冒頭に、エーレンフェストは2つの指標、期待値と波動関数を
関連付けたと記載しましたが
「期待値」とは簡単に言えば
「平均値」の事です。


例えば、距離(長さ)で考えてみると
精度を上げるほど実測値には幅が出てきます。
長さをノギスで測定してみたら
4.155oだったり4.154oだったりします。


そこで数回の測定の平均値をとって確からしい
と思われる数値を決めます。期待値です。
【測長の例ではより細かくレーザー測長器
によって計測が進める事が出来ます。しかし
それでも、光学的限界に突き当たります。】


期待値という言葉を使う時には分散値とか誤差とか併記され
統計的な処理がなされていると思って下さい。
【より細かい話としては離散値だけでなく連続値
に対して
期待値・分散値を考えていきます。】



より詳細な波動関数の解説


また、エーレンフェストが考えていたもう一つの概念である波動関数は、
細かい世界を表現するにあたり、当時は観測にかからない、とも
考えられたミクロな対象に対する物理量を表現する数学的手段です。


ヒルベルト空間で議論される関数で、無限次元の基底をとります。
ミクロの物質には粒子性と波動性が混在する事情もあり、
双方を具現化する波動関数が登場します。


エーレンフェストの定式化した定理によると
波動性が顕著に表れていると思える現象でも
その運動量や速度が求まり粒子と比較して
議論する事が可能です。2つの手法が繋がるのです。



 エーレンファストの定理の時代背景
【人々をつなげたエーレンファスト】


フランスのド・ブロイが提唱した物質波という概念は
論文審査の時点で独逸のアインシュタインが高く評価して、
オランダのエーレンフェストが定量的な議論を進めたのです。


その概念形成の達成は国を超えて人々が求め続けた疑問の解決でした。
そして今では大学生であっても共有できている人類の知識なのです。


また、ボルツマンの没後にエーレンフェストは
その大きな業績をいくつも纏めて発表しました。


そうした活動を知った人々は当然、
エー
レンフェストに期待を寄せます。
ボルツマンが執筆中だった未完の仕事に
エーレンフェストは着手します。


数学者が統計力学を考える仕事だったそうですが、
形になっていないモデルの検証に対して鋭い考察がありました。


また、棚上げになっていた問題を洗い出して整理していました。
その作業には数学者であったエーレンフェストの
奥様が協力していて、
共に数学モデルを駆使して未解決の物理での
問題に挑んでいました。


また、
エーレンフェストは優れた教育者でした。
1912年にドイツ語圏の大学訪問の中で
プランクに会い、
ゾンマーフェルトに会い、
アインシュタインに会います。

そしてオランダのライデン大学での
ローレンツの地位を引き継ぎます。


ライデン大学の教授を務めた彼のもとには
多彩な人材が集まり育っていきました。
彼は弟子達をヨーロッパの研究機関で修行
する事を勧め、海外の違った環境で研究を
する事を奨励しました。
ヘンリク・クラマース、
ジェラルド・カイパー
などが学生として所属、
グンナー・ノルドシュトルム、
エンリコ・フェルミ
イーゴリ・タム、オスカル・クライン、
ロバート・オッペンハイマー
ハイゼンベルク
ポール・ディラック
_が外国人研究者として

長期間研究をしました。


たとえばエーレンフェストはパウリと手紙をやりとり
する中で
オッペンハイマーの育て方を語り合っています。
詳細は
藤永茂著「ロバート・オッペンハイマー」を参照願います


ボルツマンを思い返すとエーレンフェストという人が点であって、
その点がオーストリアという糸で
ボルツマンと結ばれていったような気がします。
そして、
ボルツマンの考えを受け継いだエーレンフェストが
他国の糸と絡み合っていく気がします。


た、


ボルツマンの考えを受け継いだシュレディンガー
エーレンフェストの研究室で議論したディラックと同時に
1933年のノーベル物理学賞を受賞します。


人を育てるという大変さと重要さを感じます。大きな仕事です。



そして晩年


そして晩年なのですが、エーレンフェストは
重度のうつ病に苦しんでいたようです。
アインシュタインが仕事量を減らすように職場に
働きかけたたようです。しかし友情も空しく終わり、
最後はダウン症だった末っ子Wassikを
打ち殺し自らも命を絶ちます。
ご冥福をお祈りするしか出来ません。
彼が考え抜いた末の結論だったのです。


そして、エーレンフェストが始めた
ライデン大学での夜間・物理学コロキウムは、
今でも「Colloquium Ehrenfestii」と呼ばれ、
続いているそうです。
今晩も議論しているかも知れません。




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(2021年10月時点での対応英訳)



Ehrenfast, expected value and wavefunction


Paul Ehrenfest can be said to be a sophisticated combination of statistical mechanics and quantum mechanics. He combined two indicators in each field, the expected value and the wave function.


The photos used in this article are also significant. It is Ehrenfest that more strongly connects the two great men, Einstein and Lorenz. A lot of thoughts should have gone on at Ehrenfest's house. Born in Austria and raised in Vienna, Ehrenfest in his research life


I think he was very fortunate.


First of all, he has an environment where he receives Boltzmann's lectures, and he is very impressed with the idea of ​​thermodynamics and the kinetic theory of gas molecules. He was able to connect the micro world with the world of mass model that can be imagined under the visible. He also met Lorenz on a short trip, inspired each other, and then made friends with Einstein. Since Einstein and Ehrenfest were both Jewish, they probably shared many "thoughts" and "topics."



More detailed explanation of expected value


At the beginning, Ehrenfest stated that he associated two indicators, the expected value and the wave function, but the "expected value" is simply the "average value". For example, when considering the distance, the higher the accuracy, the wider the measured value. It can be 4.155 mm or 4.154 mm. So he takes the average of several measurements to determine what he thinks is likely. Expected value. When you use the word expected value, please think that the variance value and the error are written together and statistically processed.
[As a more detailed story, not only discrete values ​​but continuous values
We will consider the expected value and variance value for. ]



More detailed wave function explanation


In addition, Ehrenfest's other concept, the wave function, is a mathematical means for expressing physical quantities for microscopic objects that were thought to be unobservable at the time when expressing the fine world. A function discussed in Hilbert space, which takes an infinite dimensional definition. There is also a situation where microscopic substances have both particle and wave properties, and a wave function that embodies both will appear.


According to Ehrenfest's formalized theorem, it is possible to find the momentum and velocity of a phenomenon in which wave nature appears prominently and to discuss it in comparison with particles. The two methods are connected.


 

Background of the era of Ehrenfast's theorem


The concept of matter waves advocated by France's de Broglie was highly evaluated by Einstein, who was unique at the time of the dissertation review, and Ehrenfest of the Netherlands deepened the quantitative discussion. Achieving that concept formation was the solution to the questions that people continued to seek across countries. And now it is the knowledge of humankind that even university students can share.


Also, after Boltzmann's death, Ehrenfest summarized and announced a number of his great achievements. People who know about such activities naturally have high expectations for Ehrenfest. Ehrenfest embarks on an unfinished work that Boltzmann was writing. He was said to have been a mathematician's job of thinking about statistical mechanics, but he had a keen eye for the verification of unformed models. In addition, the problems that had been shelved were identified and sorted out. Ehrenfest's wife, who was a mathematician, cooperated in the work, and both worked on unsolved physics problems by making full use of mathematical models.



Ehrenfest was also an excellent educator.


He met Planck, Sommerfeld, and Einstein during a visit to a German-speaking university in 1912. And he will take over Lorenz's position at Leiden University. He was a professor at Leiden University, and a diverse group of human resources grew up under him. He encouraged his disciples to practice at European research institutes and to study in different environments abroad.
Hans Kramers,
Gerard Kuiper
Etc. belong as a student,
Gunnar Nordström,
Enrico Fermi,
Igor Tamm, Oskar Klein,
Robert Oppenheimer,
Heisenberg,
Paul Dirac
_ Has studied for a long time as a foreign researcher.


Looking back on Boltzmann, I think that the point was Ehrenfest, and that point was tied to Boltzmann with a thread called Austria. And I feel that Ehrenfest, who inherited Boltzmann's ideas, is intertwined with threads from other countries. In addition, Schrodinger, who inherited Boltzmann's ideas, won the 1933 Nobel Prize in Physics at the same time as Dirac discussed in Ehrenfest's laboratory. He feels the difficulty and importance of raising people. It's a big job.



And his later years


And in his later years, Ehrenfest seems to have suffered from severe depression. Einstein seems to have worked on the workplace to reduce his workload. In the end, he kills his youngest child, Wassik, who had Down Syndrome, and kills himself. You can only pray for your soul. It was the final conclusion he had thought out.


And the night and physics colloquium at Leiden University, which Ehrenfest started, is still called "Colloquium Ehrenfestii" and it seems to continue. I may be discussing it tonight as well.

2024年08月08日

A・アインシュタイン
8/8改訂【物理を考え続けた人|光電効果・ブラウン運動・相対性理論|EPS論文】

こんにちは。コウジです。
アインシュタインの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


WhoWasAlbertEinstein
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【1879年3月14日生まれ 〜 1955年4月18日没】



現時点で最も有名な物理学者でしょう。


アインシュタイン(Albert Einstein)は


様々なパラダイムシフトを起こし


20世紀初頭に


物理学に大きな変化をもたらしました。


本稿でご紹介している集合写真はソルベー会議
の時の写真とローレンツとのツーショットです。
アインシュタインはド・ブロイディラックボーアらと
語りあい、議論を続け共通認識を形成していきました。
量子力学を誕生させていったメンバーなのです。



26歳のアインシュタイン


1905年に26歳のアインシュタイン
は3つの歴史的な論文を発表します。


(当時は特許局に勤務していました)


「光量子仮説」


「ブラウン運動の理論」


「特殊相対性理論」


です。


光量子化説は光の性質を考え量子化している論文、


ブラウン運動は花粉の挙動から分子運動を
解析した論文、


特殊相対性理論は光速度に近い移動体の考察。


こういった考察から空間・時間の概念を変えていき、ミクロの物質の考察を進めています。光量子仮説で物質の二面性を明確にしています。その一方で顕微鏡でしか観察できないサイズの花粉がビリヤードの球と同様に弾性衝突しているモデルを示し、
微小サイズの領域でモデル化が可能だと示します。


色々な学者と討議を重ねて、現実に対しての理解を深めていきます。具体的にマリ・キューリーと親交を深めていて、チューリッヒ大学教職に推薦をしてもらっています。



少年時代のアインシュタイン


アインシュタインは少年時代から物理学者として
「考える」土壌を育んでいました。そういった話をする際に
よく語られるのは、居眠りから目覚めた後に
考え続けたと言われている思考実験です。


それは、「光の速さで光を追いかけたらどうなるか」
という思考実験です。子供が大人から「光は速い」
という事実と「光を使って物が見える」
という2つの事実を学んだとしたら、
その後に子供ならではの素朴な考えで、
「それならば・・・・」と考え続けていったのです。


考えること自体は誰でも出来る事ではありますが、
そこから先、解決出来ない疑問を覚えていて、
大事だと思い、解決した結果が
人類共通の知の財産となったのです。
そこには必ず苦労と乗り越えた時の喜びがあります。



苦労人のアインシュタイン


時代的な話があります。アインシュタインは
ユダヤ系であるので彼は大変苦労しています。
当時のドイツはナチスの時代ですから
ホロコーストが実際にあったのです。
また、アインシュタインはドイツの為に
原爆の製造をすることに貢献出来た筈です。


実際には崩壊していくドイツ帝国を去り、
アメリカでマンハッタン計画に参加します。
個人の物理学者として多少の無力感を
感じていたのではないでしょうか。


またいつかアルバート・アインシュタイン
の子供であるハンス・アインシュタイン について
記述することが出来ればと思っています。


そして物理に対して考え続けました。ソルベー会議で
議論を重ね、量子の実態そのもの(観測問題)
に疑問を抱きました。アインシュタインの思考は、
いわゆるEPS論文での隠れた変数の議論へと繋がりました。
更には現在で言う「エンタングルメント」、
ひいては「量子コンピューター」へと繋がっています。


また因みに、「神はサイコロを振りたまわん(ふりません)」
という有名な言葉をアインシュタインが残した
とされていますが、正確にはこの言葉は
「アインシュタインがボルンへの手紙の中で残した言葉」
です。「アインシュタインが(よく?)使った言葉」
というのが真実でしょう。
確率概念の問題を端的に表現しています。
そして神を議論に巻き込みたくないという
「アインシュタインの思い」も感じます。



アインシュタインの言葉 


苦労人のアインシュタインは数々の名言を残していますが、


私が好きな言葉を最後に残します。


アインシュタインの意志の強さを感じます。


「think and think for months and years.


Ninety-nine times, the conclusion is false.


The hundredth time I am right.」


私は、数ヶ月も何年も考え続けます。


99回まで、その結論は正しくないですが、


100回目に正しい答えを出すことができるのです。




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2020/09/06_初稿投稿
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 famous physicist  Einstein 


Isn't it the most famous physicist at the moment? Introducing Albert Einstein, a paradigm shift that brought about major changes in physics in the early 20th century. In particular, in 1905, 26-year-old Einstein published three historical treatises. "Photon hypothesis," "Brownian motion theory," and "special relativity."



Three paper's


The photonunization theory is a paper that quantizes light properties, the Brownian motion is a paper that analyzes molecular motion from pollen behavior, and the special relativity is a study of moving objects that are close to light velocity.


From these considerations, we are changing the concept of space and time, and are proceeding with the consideration of microscopic matter. He discusses with various scholars and deepens his understanding of reality. He specifically has a close relationship with Mari Curie and has been recommended by the University of Zurich teaching profession.



Einstein in childfood 


Einstein has cultivated a "thinking" soil as a physicist since his childhood. When talking about such things, a thought experiment that is said to have continued to think after waking up from a doze is often talked about. In other words, it is a thought experiment of "what happens if you chase light at the speed of light". If a child learns from an adult the fact that "light is fast" and "you can see things using light", then the simple idea of ​​a child is "If so ..." I kept thinking.

Anyone can think about it, but from that point onward, I remembered the questions that I couldn't solve, thought it was important, and the results of the solutions became a common property of humankind. There is always the hardship and the joy of overcoming it.

Germany at that time


Einstein is of Jewish descent, so he is having a hard time. Germany at that time was in the Nazi era, so the Holocaust actually existed. Einstein could also have contributed to the production of the atomic bomb for Germany. He actually leaves the collapsing German Empire and joins the Manhattan Project in the United States. Perhaps he felt a little helpless as an individual physicist. I also hope to be able to describe Hans Einstein, a child of Albert Einstein, someday.


Einstein, a hard worker, has left a number of quotes, but the last one I like. I feel the strength of Einstein's will.


"Think and think for months and years. Ninety-nine times, the conclusion is false. The hundredth time I am right."


2024年08月07日

オットー・ハーン‗
8/7改訂【1879年3月8日 - 1968年7月28日】

こんにちは。コウジです。
オットー・ハーンの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


原子爆弾
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オットー・ハーン(Otto Hahn)は
20世紀初頭のドイツの科学者で、

核化学の分野で重要な業績を残しました。


彼は核分裂の現象を解明する上で重要な役割を果たしました。
また、リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)との共同研究は、
核分裂の理解に大きく貢献しました。


1938年、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーは
ウラニウムの核を中性子で照射する実験を行い、
その結果としてバリウムとクリプトンが
生成されることを発見しました。


この現象は、ウラニウム核が中性子を吸収し、
重い核と軽い核に分裂することを示しており、
これが後に核分裂として知られるようになりました。


しかし、1938年当時、ハーンはこの現象を
完全に理解することができず、その解釈に関する
理論的な考察を行うことができませんでした。


更に、この話の中で重要なのはマイトナーが
ユダヤ系だという事情です。
マイトナーはナチスの台頭に伴って
ドイツ内での研究活動が難しくなってきます。


その後、リーゼ・マイトナーはスウェーデンに亡命し、
オットー・ロベルト・フリッシュ(Otto Robert Frisch)と共同で
核分裂の理論的な解釈を提案しました。その後、
ハーンとマイトナーの共同研究成果が、マイトナーの名前が
冠された形で広く知られるようになりました。


オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーの業績は、
20世紀の物理学と化学における最も重要な発見の一つ
である核分裂の理解につながりました。
彼らの実験的結果と理論的解釈は、核物理学と核化学の分野
における革命的な進歩をもたらしました。


ハーンとマイトナーが行ったウラニウムの核を中性子で照射する実験は、当時の核物理学において画期的なものでした。彼らが発見した核分裂の現象は、核が中性子を吸収して分裂することを示唆し、その際に新たな元素が生成されることを示しました。この発見は、後に原子爆弾や核エネルギーの開発につながる重要な基盤となりました。


しかしながら、
ナチスの政権によるユダヤ人に対する迫害の影響により、
マイトナーの研究環境は悪化しました。


このように、ハーンとマイトナーの業績は、
科学史上永遠に残る重要な貢献であり、
彼らの協力関係は科学的発展における
模範的な例として賞賛されています。
今後も長く称えられるでしょう。



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₍2024年4月時点での対応英訳)


Otto Hahn was a German chemist in the early 20th century.
He made important achievements in the field of nuclear chemistry.


He played an important role in elucidating the phenomenon of nuclear fission.
In addition, joint research with Lise Meitner
He made a major contribution to the understanding of nuclear fission.


In 1938, Otto Hahn and Lise Meitner
An experiment was conducted in which uranium nuclei were irradiated with neutrons.
They discovered that barium and krypton were produced as a result.
This phenomenon occurs when uranium nuclei absorb neutrons,
This shows that the nucleus splits into a heavy nucleus and a light nucleus.
This later became known as nuclear fission.


However, in 1938, Hahn recognized this phenomenon.
cannot be fully understood and is concerned with its interpretation.
He was unable to make theoretical considerations.


Furthermore, what is important in this story is that Meitner is Jewish.
Meitner's research activities in Germany began with the rise of the Nazis.
It's getting difficult. After that, Lise Meitner went into exile in Sweden.
She collaborated with Otto Robert Frisch
He proposed a theoretical interpretation of nuclear fission. after that,
The results of Hahn and Meitner's joint research will be recognized by Meitner's name.
It became widely known by its crowned form.


The achievements of Otto Hahn and Lise Meitner are
One of the most important discoveries in physics and chemistry of the 20th century
This led to an understanding of nuclear fission.
Their experimental results and theoretical interpretations are important in the fields of nuclear physics and nuclear chemistry.
brought about revolutionary advances in


Hahn and Meitner's experiment in irradiating uranium nuclei with neutrons was a breakthrough in nuclear physics at the time. The phenomenon of nuclear fission that they discovered suggested that nuclei absorb neutrons and split, and new elements were created during this process. This discovery was an important foundation that later led to the development of the atomic bomb and nuclear energy.


However, Meitner's research environment deteriorated due to the persecution of Jews by the Nazi regime. She fled to Sweden, where she collaborated with Otto Robert Frisch to propose a theoretical interpretation of nuclear fission. Since then, the results of their joint research have become widely known, bearing Meitner's name.


The work of Hahn and Meitner is thus a timeless and important contribution to the history of science, and their collaboration is hailed as an exemplary example of scientific development.

2024年08月06日

大河内正敏
8/6・改訂【リケンや日本ピストンリングの創設期に尽力した御曹司|政界でも活躍】

こんにちは。コウジです。
大河内正敏の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


理化学研究所100年目
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【1878年12月6日生まれ ~ 1952年8月29日没】



大河内家の御曹司


大河内正敏は旧上総大多喜藩主にして子爵の


大河内正質の息子として生まれました。


正敏は学習院初等科に進み、大正天皇と共に学びます。


また大河内とは珍しい名字だなと思っていたら


奥様も大河内家から娶っていたりして、なんだか


皇族みたいな感じがしました。平民とは違う華麗なる一族


って感じです。鹿鳴館で踊っていても違和感ありません。


ちなみに、寺田寅彦とは誕生日が物凄く近いのですが
交流はあったのでしょうか?当時から象牙の塔の中は
風通しが悪そうですね。互いに孤高を極めてた??


大河内正敏は政界で子爵議員として貴族院議員を2期務めます。
そして若かりし無名の田中角栄を可愛がっていた言われます。


そんな人なので理化学研究所の3代目所長に就任
した時は理研研究員にして、貴族院議員で子爵、
そして東京帝大教授でした。
そんな偉人を今回はご紹介します。


大河内正敏の業績


大河内正敏は東大で物理学を学んでましたが時節柄、
寺田寅彦と飛行弾丸の研究をしていたようです。
物理学を駆使すれば流体力学や表面の解析が出来ます。


大河内正敏が進めた具体的な別の活用事例としては、
ピストンの開発があります。ここでもシリンダー内の
熱流体解析や、摂動面の摩擦特性を解析出来ます。


この研究は後の株式会社リケンにつながります。
戦後にリケンのグループは、GHQより
十五大財閥の
一つとして指定を受けます。



そして、眠りに


こうした業績を残して今、
大河内正敏は埼玉県にある
平林寺で永眠しています。


その近くには理化学研究所の研究室があり、
今でも研究者たちが世界に冠たる研究を続けています。
量子の根源を考え続けています。



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〆最後に〆


以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は返信出来ていませんが
全てのメールを読んでいます。
適時返信のうえ改定を致しします。


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Okochi family sergeant


Masatoshi Okochi was born as the son of Masatoshi Okochi, the former lord and viscount of the Otaki feudal lord of Kazusa. Masatoshi goes to Gakushuin Elementary School and studies with Emperor Taisho. Also, when I thought that Okochi was a rare surname, my wife was also a kid from the Okochi family, and I felt like a royal family. It feels like a splendid clan different from the commoners. I'm sure they were dancing at Rokumeikan.


He is a member of the House of Lords for two terms as a Viscount member in politics. Under such circumstances, it is said that he loved the young and unknown Kakuei Tanaka. As such, he was a RIKEN researcher, a member of the House of Lords, a Viscount, and a professor at the University of Tokyo when he became the third director of RIKEN. I would like to introduce such a great man this time.



Achievements of Masatoshi Okouchi


Masatoshi Okouchi studied physics at the University of Tokyo, but he seems to have been studying flying bullets with Torahiko Terada. He can use physics to analyze fluid mechanics and surfaces.


Another specific use case promoted by Masatoshi Okouchi is the development of pistons. Here, too, you can analyze the thermo-fluid inside the cylinder and the friction of the perturbing surface. This research will lead to RIKEN CORPORATION later. After the war, this group was designated by GHQ as one of the 15 major conglomerates.



And to sleep


With these achievements, Masatoshi Okouchi is now sleeping at Heirinji Temple in Saitama Prefecture. There is a branch office of RIKEN nearby, and researchers are still conducting world-class research.


2024年08月05日

寺田 寅彦
8/5改定【夏目漱石の教えを受けた俳人・作中では寒月さん】

こんにちは。コウジです。
寺田 寅彦の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


X線結晶解析
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【1878年11月28日生まれ ~ 1935年12月31日没】



寺田寅彦について


寺田寅彦は物理学者にして文筆家にして俳人です。
文筆家としては牛頓の名を名乗っていたり。
牛頓と書いてニュートンと読ませてました。
明治・大正の時代の人々に、そんな
洒落っ気が伝わったでしょうか。
科学知識の復旧していない時代ですが
新しい時代の啓蒙(けいもう)を進めました。


そんな寺田寅彦は
熊本の高校で英語教師として赴任していた

夏目漱石と出会います。後に文学に関わった
のはこの出会いが大きかったと言われています。
贅沢な人生ですね。夏目漱石の作品
「吾輩は猫である」の中では寒月君として
登場する人物のモデルとなっていて
作品を通じて寺田寅彦の御人柄に
触れた人も多いのでは
ないでしょうか。
因みに、


2021年春の時点で日経新聞に掲載されていた
連載小説「伊集院静作、ミチクサ先生」
では、その様子が描かれていました。
その作品のなかで、
寒月さんは淡々と話を進めていた人で、
そのお人柄が伝わってきます。
当時の時代背景や文人達との交流も
感じられて面白かったです。


ミチクサ先生
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寺田寅彦と研究について


研究の点でも時代の枠にとらわれない
視点を持ち実績を残しています。
その中でも評価が高い
研究業績は
ラウエの業績に刺激を受けた研究で

「X線の結晶透過」についての業績です。


先進的な結晶解析に関して考察ををしてます。
そして、
1913年に「X線と結晶」をNatureに発表してます。


寺田寅彦の研究人生をふりかえると、
田中舘愛橘に教えを受け、
原子の長岡モデルを提唱した長岡半太郎
教えを受けて、学生結婚をして、
その奥様に早く先立たれ、
東京帝国大理科大学で教鞭をとった後に
ベルリン大学で地球物理学を研究し、
理化学研究所、 東京帝大地震研究所
で研究を続けました。
57歳で亡くなられています。



〆最後に〆


以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。


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2020/09/09_初稿投稿
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About Torahiko Terada


Torahiko Terada is a physicist and poet. As a writer, he calls himself Ushiton. He wrote Ushiton and read it as Newton.


He meets Soseki Natsume, who was assigned as an English teacher at a high school in Kumamoto. It is said that it was this encounter that was later involved in literature. It's a luxurious life. In Natsume Soseki's work "I Am a Cat", I think there are many people who have come into contact with their personality through the work as a model of the person who appears as Mr. Kanzuki.


By the way,


The serial novel that was in progress in the Nikkei newspaper as of the spring of 2021 seems to describe the situation. I always read it diagonally, but Mr. Kanzuki is a person who talks in a straightforward manner, and I can feel his personality. It is interesting to feel the historical background of the time and the interaction with the writers.



About Torahiko Terada and research


In terms of his research, he has a track record with a perspective that is not bound by the boundaries of the times. Among them, his research achievement, which is highly evaluated, is a research inspired by Laue's achievement and is an achievement on "X-ray crystal transmission". He considers advanced crystal analysis. Then, in 1913, he published his "X-rays and crystals" in Nature.


Looking back on Torahiko Terada's research life, he was taught by Tanakadate Aikitsu and Hantaro Nagaoka, who advocated the Nagaoka model of atomic atoms. After teaching at, I studied geophysics at the University of Berlin, and continued my research at RIKEN and the Earthquake Research Institute, the University of Tokyo.
He died at the age of 57.


/

2024年08月04日

ヘンリー・ラッセル_
8/4改定【HR図(Hertzsprung-Russell diagram)】

こんにちは。コウジです。
ヘンリー・ラッセルの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


天文学入門


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【1877/10/25 〜 1957/2/18】



はじめに


ヘンリー・ノリス・ラッセルは星の進化を考えていたアメリカの天文学者です。
プリンストン大学で学び研究生活を始めます。


私が初めてラッセルの事を知ったのは多読を心がけていた高校時代に、C.セーガンと共に出てきた学者さんでした。当時はマンハッタン計画に関わっていたアインシュタインなどの学者さん達と天文学者の学者さん達が、私の中でごちゃ混ぜになっていました。


高校時代の「理解の浅さ」が懐かしいくらいです。ラッセルと言えば「数学者・哲学者のバートランド・ラッセル(1872-1970)と混同してはいけない」とか真面目に考えていました。



ラッセルとHR図 


ラッセルの研究で有名なものは
HR図(Hertzsprung-Russell diagram)です。


HR図は所謂「星の進化」に関しての理解に


不可欠な研究となっています。


概説すると以下の概念です。


(本稿は星の進化に関しての記述が主です)


宇宙の無数の石ころが万有引力で(自重の為に)


他の物体と一緒になっていき段々に


大きな重心を持つ物体になっていきます。


宇宙空間で星の流れを考えた時に流れが速い部分や


渦が出来たりする時には流れの中で


重力が沢山集まる場所や、


その効果が薄い場所が出来てきます。


重力の効果が集まる部分にはより重心の集まっている物体が蓄積してきてお月様のクラスの塊が宇宙で無数に出来ていくと想像されます。


未だお月様の内部構造は正確に観測されていませんが、宇宙を飛び交う岩石クラスの大きさであれば実際にサンプルを持ち帰り内部を調べることが出来ます。


大気圏に入ってきた岩石もまたサンプルとなり研究材料と出来ます。こうした類の大きさスケールが分かりやすい物体が宇宙には無数にあります。その物体自体は暗い寒い宇宙の中で(真空中に)沢山漂っています。


そうした物体が様々な要因で更に集まってくると地球や火星、木星のような内部に地殻を持った衛星になってきます。内部に地殻を持つ事情は万有引力で地球内部の物体が中心方向に集まってくる事情からです。


例えば地球の場合にはすべての物体が地球の重心に落ちていこうとするから重心近くには物凄い圧力がかかってきて地球内部では核反応が起きています。


圧力の大きさに個々の原子核が耐えられないで崩壊するのです。地球表面は比較的冷えていますが地球の内部は物凄い高熱です。


更に重力で重量物が集まってくると重力によって集まってくる物質の表面が冷えている状態が壊れます。地球の表面は人間が暮らせる程度の暖かさに保たれていて冷たい宇宙空間で冷やされている状態と地球内部からマグマで温められている状態に均衡がとれています。


地球が奇跡の星と呼ばれる理由の一つで温度での均衡で水が沸騰せず、かつ凍らない温度域でタンパク質、その他の物質が出来ていて肉体を持つ様々な動植物が存在出来ています。


もしも地球が100度以上の温度下であったら今の生命はほとんど生活が出来ないでしょう。生命の誕生、その後の進化には好ましい条件だったわけです。


近くを構成しているようなバランスが崩れると太陽のようにいつも光り続ける星となります。大きくなり、もはや地殻が維持できなくなって、その上で生き物が生活できる状態ではありません。


内部での核反応が非常に活発になり、外部に絶えず光を放射して輝き続けます。光だけではなく各種素粒子やあらゆる波長の電磁波を放出します。


そうした活動として全体の重量が減っていく恒星(太陽のように光る)もあれば、ほかの星を取り込んで更に重量を増していく恒星もあります。


そうした膨張や減衰を恒星はしていきますが、全体重量がもっともっと大きくなってくると白色矮星、ブラックホールへと変化していくだろうと言われています。


最終的には全体の重力が大きくなり、光の素子である光子さえもブラックホールから脱出できなくなるのです。当然。ブラックホールは見えません。



最後に


1947年に引退するまで30余年の間、プリンストン大学天文台の所長として研究を続けラッセルは余生を過ごしました。今もその研究成果は受け継がれ発展し続けています。



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(2022年10月の時点の英訳)



Preface


Henry Norris Russel is an American astronomer thinking about the evolution of the star.
I learn in Princeton University and begin study life.


It was the scholar who came out with Carl Sagan in the high school days when I kept a multi-reading in mind that I knew Russel for the first time.


Scholars and the scholars such as Einstein concerned with Manhattan Project of the astronomer became mixed-up among me in those days. I feel nostalgic for "shallowness of the very beginning understanding" at that time. Speaking of raschel, I thought, "you must not confuse it with the raschel of the philosopher" seriously.



Raschel and figure of HR


The thing which is famous for a study of the raschel
It is a figure of HR (Hertzsprung-Russell diagram).


The figure of HR for understanding about so-called "evolution of the star"


It becomes the essential study.


It is the following concepts when I give an outline.


(as for this report, a description about the evolution of the star is important)


Innumerable stones of the space are universal gravitation; (for self-respect)


Meet other objects; to steps


It becomes the object with a big center of gravity.


The part which is fast in a flow when I thought about the flow of the star in outer space


When there is a vortex; in a flow


The place where a lot of gravity gathers,


There is the place where the effect is light.


When the object that a part attracting gravitational effects attracts centers of gravity more accumulates, and there is the lump of the of class innumerably in space in a month, I am imagined.


The internal structure of moon is not yet observed exactly, but I actually take a sample home with me and can check the inside if it is the size of the rock class flying about the space.


The rock which entered the atmosphere also becomes the sample, and there is it with study materials. There are innumerable objects that the size scale of such a kind is plain in the space. Object itself drifts a lot (during a vacuum) in dark cold space.


When such objects gather in various factors more, it becomes the satellite with the earth crust in the earth and Mars, the inside such as the Jupiter. Circumstances having the earth crust are from the circumstances that objects in the earth gather in the central direction by universal gravitation inside.


For example, because all objects are going to fall into the center of gravity of the earth in the case of the earth, it comes under frightful pressure near the center of gravity, and nuclear reaction is taking place in the inside of the earth.


I collapse without individual atomic nucleuses being able to tolerate volume of pressure. The earth surface relatively gets cold, but the inside of the earth is terrible high heat.


Furthermore, the state that the surface of the material which gathers by gravity when heavy goods gather gets cold with gravity is broken. I am balanced in a state warmed with magma from a state and the inside of the earth that the appearance of the earth is kept by the warmth of the degree that a human being can spend, and are cooled in cold outer space.


Various animals and plants which the earth is one of the reasons called the miraculous star, there are protein, other materials in temperature area water does not boil and not to freeze, and have the body can exist. The present life may hardly live a life if there is the earth under the temperature more than 100 degrees. It was a favorable condition for birth of the life, the later evolution.


It becomes the star which continues always shining like the sun when balance constituting neighborhood collapses. It grows big and cannot maintain the earth crust anymore, and, after that, a creature is not in condition to be able to live. Nuclear reaction in the inside becomes very active and it emits light consistently outside and continues shining.


I release the electromagnetic wave of various elementary particles and every wavelength as well as light. If such an activity includes the fixed star (I shine like the sun) where overall weight decreases, there is the fixed star which takes other stars, and adds to weight more.


The fixed star does such expansion and decrement, but it is said that I will change into a white dwarf, a black hole when the whole weight grows big more and yet more. Overall gravity finally grows big, and even the photon that is an element of the light cannot escape from a black hole. Naturally. I do not see the black hole.



Finally


I continued studying it as a director of the Princeton University astronomical observatory,


and, during 30 rest of life, Russel reached the rest of life until I retired in 1947.


The results of research are inherited, and they continue still developing.


Close


 


 

ヘンリー・ラッセル_
8/4改定【HR図(Hertzsprung-Russell diagram)】

こんにちは。コウジです。
ヘンリー・ラッセルの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


天文学入門


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【1877/10/25 〜 1957/2/18】



はじめに


ヘンリー・ノリス・ラッセルは星の進化を考えていたアメリカの天文学者です。
プリンストン大学で学び研究生活を始めます。


私が初めてラッセルの事を知ったのは多読を心がけていた高校時代に、C.セーガンと共に出てきた学者さんでした。当時はマンハッタン計画に関わっていたアインシュタインなどの学者さん達と天文学者の学者さん達が、私の中でごちゃ混ぜになっていました。


高校時代の「理解の浅さ」が懐かしいくらいです。ラッセルと言えば「数学者・哲学者のバートランド・ラッセル(1872-1970)と混同してはいけない」とか真面目に考えていました。



ラッセルとHR図 


ラッセルの研究で有名なものは
HR図(Hertzsprung-Russell diagram)です。


HR図は所謂「星の進化」に関しての理解に


不可欠な研究となっています。


概説すると以下の概念です。


(本稿は星の進化に関しての記述が主です)


宇宙の無数の石ころが万有引力で(自重の為に)


他の物体と一緒になっていき段々に


大きな重心を持つ物体になっていきます。


宇宙空間で星の流れを考えた時に流れが速い部分や


渦が出来たりする時には流れの中で


重力が沢山集まる場所や、


その効果が薄い場所が出来てきます。


重力の効果が集まる部分にはより重心の集まっている物体が蓄積してきてお月様のクラスの塊が宇宙で無数に出来ていくと想像されます。


未だお月様の内部構造は正確に観測されていませんが、宇宙を飛び交う岩石クラスの大きさであれば実際にサンプルを持ち帰り内部を調べることが出来ます。


大気圏に入ってきた岩石もまたサンプルとなり研究材料と出来ます。こうした類の大きさスケールが分かりやすい物体が宇宙には無数にあります。その物体自体は暗い寒い宇宙の中で(真空中に)沢山漂っています。


そうした物体が様々な要因で更に集まってくると地球や火星、木星のような内部に地殻を持った衛星になってきます。内部に地殻を持つ事情は万有引力で地球内部の物体が中心方向に集まってくる事情からです。


例えば地球の場合にはすべての物体が地球の重心に落ちていこうとするから重心近くには物凄い圧力がかかってきて地球内部では核反応が起きています。


圧力の大きさに個々の原子核が耐えられないで崩壊するのです。地球表面は比較的冷えていますが地球の内部は物凄い高熱です。


更に重力で重量物が集まってくると重力によって集まってくる物質の表面が冷えている状態が壊れます。地球の表面は人間が暮らせる程度の暖かさに保たれていて冷たい宇宙空間で冷やされている状態と地球内部からマグマで温められている状態に均衡がとれています。


地球が奇跡の星と呼ばれる理由の一つで温度での均衡で水が沸騰せず、かつ凍らない温度域でタンパク質、その他の物質が出来ていて肉体を持つ様々な動植物が存在出来ています。


もしも地球が100度以上の温度下であったら今の生命はほとんど生活が出来ないでしょう。生命の誕生、その後の進化には好ましい条件だったわけです。


近くを構成しているようなバランスが崩れると太陽のようにいつも光り続ける星となります。大きくなり、もはや地殻が維持できなくなって、その上で生き物が生活できる状態ではありません。


内部での核反応が非常に活発になり、外部に絶えず光を放射して輝き続けます。光だけではなく各種素粒子やあらゆる波長の電磁波を放出します。


そうした活動として全体の重量が減っていく恒星(太陽のように光る)もあれば、ほかの星を取り込んで更に重量を増していく恒星もあります。


そうした膨張や減衰を恒星はしていきますが、全体重量がもっともっと大きくなってくると白色矮星、ブラックホールへと変化していくだろうと言われています。


最終的には全体の重力が大きくなり、光の素子である光子さえもブラックホールから脱出できなくなるのです。当然。ブラックホールは見えません。



最後に


1947年に引退するまで30余年の間、プリンストン大学天文台の所長として研究を続けラッセルは余生を過ごしました。今もその研究成果は受け継がれ発展し続けています。



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Henry Norris Russel is an American astronomer thinking about the evolution of the star.
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Scholars and the scholars such as Einstein concerned with Manhattan Project of the astronomer became mixed-up among me in those days. I feel nostalgic for "shallowness of the very beginning understanding" at that time. Speaking of raschel, I thought, "you must not confuse it with the raschel of the philosopher" seriously.



Raschel and figure of HR


The thing which is famous for a study of the raschel
It is a figure of HR (Hertzsprung-Russell diagram).


The figure of HR for understanding about so-called "evolution of the star"


It becomes the essential study.


It is the following concepts when I give an outline.


(as for this report, a description about the evolution of the star is important)


Innumerable stones of the space are universal gravitation; (for self-respect)


Meet other objects; to steps


It becomes the object with a big center of gravity.


The part which is fast in a flow when I thought about the flow of the star in outer space


When there is a vortex; in a flow


The place where a lot of gravity gathers,


There is the place where the effect is light.


When the object that a part attracting gravitational effects attracts centers of gravity more accumulates, and there is the lump of the of class innumerably in space in a month, I am imagined.


The internal structure of moon is not yet observed exactly, but I actually take a sample home with me and can check the inside if it is the size of the rock class flying about the space.


The rock which entered the atmosphere also becomes the sample, and there is it with study materials. There are innumerable objects that the size scale of such a kind is plain in the space. Object itself drifts a lot (during a vacuum) in dark cold space.


When such objects gather in various factors more, it becomes the satellite with the earth crust in the earth and Mars, the inside such as the Jupiter. Circumstances having the earth crust are from the circumstances that objects in the earth gather in the central direction by universal gravitation inside.


For example, because all objects are going to fall into the center of gravity of the earth in the case of the earth, it comes under frightful pressure near the center of gravity, and nuclear reaction is taking place in the inside of the earth.


I collapse without individual atomic nucleuses being able to tolerate volume of pressure. The earth surface relatively gets cold, but the inside of the earth is terrible high heat.


Furthermore, the state that the surface of the material which gathers by gravity when heavy goods gather gets cold with gravity is broken. I am balanced in a state warmed with magma from a state and the inside of the earth that the appearance of the earth is kept by the warmth of the degree that a human being can spend, and are cooled in cold outer space.


Various animals and plants which the earth is one of the reasons called the miraculous star, there are protein, other materials in temperature area water does not boil and not to freeze, and have the body can exist. The present life may hardly live a life if there is the earth under the temperature more than 100 degrees. It was a favorable condition for birth of the life, the later evolution.


It becomes the star which continues always shining like the sun when balance constituting neighborhood collapses. It grows big and cannot maintain the earth crust anymore, and, after that, a creature is not in condition to be able to live. Nuclear reaction in the inside becomes very active and it emits light consistently outside and continues shining.


I release the electromagnetic wave of various elementary particles and every wavelength as well as light. If such an activity includes the fixed star (I shine like the sun) where overall weight decreases, there is the fixed star which takes other stars, and adds to weight more.


The fixed star does such expansion and decrement, but it is said that I will change into a white dwarf, a black hole when the whole weight grows big more and yet more. Overall gravity finally grows big, and even the photon that is an element of the light cannot escape from a black hole. Naturally. I do not see the black hole.



Finally


I continued studying it as a director of the Princeton University astronomical observatory,


and, during 30 rest of life, Russel reached the rest of life until I retired in 1947.


The results of research are inherited, and they continue still developing.


Close


 


 

2024年08月03日

高木 貞治
8/3改訂【ヒルベルトの弟子|長く日本で使われてきた名著である「解析概論」の著者】

こんにちは。コウジです。
高木 貞治の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


↑Credit:Wikipedia↑


代数幾何学入門
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【1875年4月21日生まれ ~ 1960年2月28日没】



日本人数学者をご紹介します。


そのお名前は


高木貞治と書いて名前を「ていじ」と読ませます。


高木貞治は岐阜に生まれ現在の京都大学を卒業した後


東京大学に進みます。現在の学校制度と


異なる印象も受けます。今時の表現をすると


京大で学位をとって東大でマスターをとった感じでしょうか。


その後、高木貞治はドイツへ留学してヒルベルト


教え受けます。現代日本での代数幾何学の原型を


体系立てていったのです。当時の日本で使われていた


数学は所謂「和算」の発展形だったと思われます。


数学的には実数が扱われていますが、


少数が一般に使われていた形跡は見受けられません。


もっとも、一円・七銭といった感覚はあるので


「三分の一(1/3)」が
0.33333・・・と考え続けていける筈です。


小数点の概念はあったと考えても切断の概念や


作図を使った証明等には発展していなかったでしょう。


【現代では空間を考えていく際にヒルベルト空間


という概念があり、量子力学で多用されます。】



そもそも、


個人的に高木貞治の名を知ったのはムツゴロウさんの著作でした。たしか「ムツゴロウの青春期」。その中で彼が高校時代に地元九州の先生に紹介された本が高木貞治の「解析概論」でした。


解析概論が明快であると言われ、高校の教科書とは別に数学のエッセンスを学んでいきます。その後、バンカラな青春時代を過ごしたムツゴロウさんは東大の物理学科に進み、最後はどうぶつ王国を作ります。


話戻って解析概論ですが、岩波文庫から出ていた解析概論を私も買って、面白く読んだ思い出があります。色々な本屋さんに置いてました。


尚、2011年の時点で日本国内における著作権の


保護期間満了に伴いネットで著作が公開され始めています。


【Wikisourceや青空文庫を見てみて下さい】


 

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
この頃は全て返信できていませんが
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2020/11/08_初回投稿
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(2021年10月時点での対応英訳)



In this time,


I would like to introduce a Japanese mathematician. The name is written as Teiji Takagi and his name is read as "Teiji".


Teiji Takagi was born in Gifu and went on to the University of Tokyo after graduating from the current Kyoto University. He also gets the impression that it is different from the current school system. In terms of today's expression, it seems like I got a bachelor's degree at Kyoto University and a master's degree at the University of Tokyo. After that, Teiji Takagi went to Germany to study abroad and was taught by Hilbert. He would have systematized the prototype of modern algebraic geometry. Mathematics used in Japan at that time seems to have been a development of so-called "Wasan". Mathematically, real numbers are treated, but there is no evidence that a small number were commonly used. However, there is a feeling of 1 yen and 7 coins, so you should be able to keep thinking that 1/3 is 0.33333. Even if you think that there was a concept of a decimal point, it would not have developed into a concept of cutting or a proof using drawing. Also, when thinking about space, there is the concept of Hilbert space, which is often used in quantum mechanics.



In the first place,


it was Mr. Mutsugoro's work that I personally knew the name of Teiji Takagi. Certainly "Mutsugoro's adolescence". Among them, the book he was introduced to by a local teacher in Kyushu when he was in high school was Teiji Takagi's "Introduction to Analysis". It is said that the introduction to analysis is clear, and you will learn the essence of mathematics separately from high school textbooks. After that, Mr. Mutsugoro, who spent his youth in a bunkara, proceeded to the Department of Physics at the University of Tokyo, and finally created the Animal Kingdom. Returning to the story, I would like to give you an introduction to analysis, but I also bought the book from Iwanami Bunko and read it in a fun way.


As of 2011, with the expiration of the copyright protection period in Japan, works have begun to be published online. [Please see Wikisource and Aozora Bunko]


 

2024年08月02日

ハーゼノール
8/2改訂【E=MC^2をアインシュタインと別の考えで導出】

こんにちは。コウジです。
ハーゼノールの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


 
高周波測定
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【1874年11月30日 - 1915年10月7日】

人脈に恵まれたハゼノール


ウィーンに生まれたハーゼノールは非常に人脈に恵まれていました。

まず、ウィーン大学でボルツマンに理論を学びます。

その後、ライデン大学のローレンツの下で研究をします。

そして、シュレディンガーらに物理学を伝えます。この話を知るまでは、

シュレディンガーは独自に考えるタイプの物理学者だと思っていたのですが、

その前に、理論の土台をハーゼノールが与えていたと知り、

個人的には何となく納得してしまった部分がありました。

定式化の方法で通じる部分があると思えたのです。

特筆すべきハーゼノールの
E=MC^2という業績


ハーゼノールの研究の上で特筆すべきはE=mc2と同じ形の式を1904年に発表していた事です。興味深い話なので後程、とりあげます。第一次世界大戦が始まると、オーストリア・ハンガリー帝国陸軍に志願し、南チロルでイタリア軍と戦って40歳で戦死します。残念な事ですが運命に対峙した結果だったのでしょう。

ハーゼノールは空洞で生じている放射現象の中で「輻射(放射)を担う波」に着目して、その慣性についての論文を1904年と1905年に発表しました。この理論では電磁質量によって物質の慣性が大きくなると論じたのです。 この話を整理して考えた、ラウエはアインシュタインと比較して様々な形態の「エネルギー」に対して「慣性」の確立をアインシュタインに帰し、彼が相対性理論との関連でその等価性の深い意味合いを初めて理解したと考えています。

実際の所は現代の視点で考えてみた時に、質量エネルギーの等価性はハーゼノールのように電磁気学的側面から整理理解していった方が実感できてくるものだと思えます。例えば、ボルツマンも考えています。「熱が伝わる性質をエネルギーが伝わる現象ととらえる事」は万人に分かり易い定式化でしょう。

エネルギーを基軸に考えて「熱」、「電磁波」、「静止質量」、「慣性質量」、、、、といった概念を分かり易くつなげていった結果がE=mC^2という定式化だと考えられるわけです。

科学史の観点から考えて明らかに言い切れることはハーゼノールもアインシュタインも20世紀初頭に同じ頂点(理論的帰結)を乗り越えていたという事実です。全く違う人生を歩んだ二人が同時期に同じ材料を使って考察して其々に結果を出していた事実を知る事はある意味で心地よいです。そして、その二人に其々何らかの示唆を与えていたローレンツの力量にも改めて敬意を払います。人を育てる事は素晴らしいですね。



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2022/01/02_初稿投稿
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Hazenor blessed with personal connections


Born in Vienna, Hasenöl was very blessed with connections.


He first learns theory from Boltzmann at the University of Vienna.


After that, he does his research under Lorenz at Leiden University.


And he tells Schrodinger and others about physics. Until I knew this story


Schrodinger thought he was the type of physicist he thought of himself,


Before that, he learned that Hazenor had provided the basis for his theory.


There was something he was personally convinced of.


He seemed to have many similarities in the formulation method.



Notable Hazenor achievements


Of particular note in Hasenöl's research was the publication of an equation of the same form as E = mc2 in 1904. It's an interesting story, so I'll cover it later. At the beginning of World War I, he volunteered for the Austro-Hungarian Imperial Army, fighting the Italian army in South Tyrol and dying at the age of 40. Unfortunately, it was probably the result of confronting fate.


Hazenol published a paper on its inertia in 1904 and 1905, focusing on "waves responsible for radiation" in the radiation phenomenon occurring in cavities. In this theory, he argued that the electromagnetic mass increases the inertia of matter. Arranging this story, Laue attributed the establishment of "inertia" to various forms of "energy" to Einstein, and for the first time he understood the deep implications of its equivalence in the context of the theory of relativity. I think.


Actually, when thinking from a modern point of view, it seems that the equivalence of mass energy can be realized by organizing and understanding from the electromagnetic aspect like Hasenöl. For example, as Boltzmann clarified, it would be an easy-to-understand formulation for everyone to regard the property of heat transfer as a phenomenon of energy transfer. It is thought that the formulation of E = mC ^ 2 is the result of connecting the concepts such as "heat", "electromagnetic wave", "static mass", "inertial mass", etc. in an easy-to-understand manner with energy as the basis. That's why. From the perspective of the history of science, what can be clearly stated is the fact that both Hasenöl and Einstein overcame the same peak (theoretical consequences) in the early 20th century. It is in a sense comfortable to know the fact that two people who lived completely different lives considered using the same material at the same time and produced results for each. And I would like to pay tribute to Lorenz's ability, which gave some suggestions to each of them. Raising people is wonderful.


 

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の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)

2024年08月01日

鈴木 梅太郎
8/1改訂【「理研の三太郎」と呼ばれた中の一人は合成酒を作成商品化販売|ビタミンを発見】

こんにちは。コウジです。
鈴木 梅太郎の原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


ビタミンB群30日分
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【1874年4月7日 〜 1943年9月20日】



理研の三太郎


理研の三太郎と言われた鈴木梅太郎をご紹介致します。
他の二人は既にご紹介している長岡半太郎本多光太郎です。



筆者の思い出話


筆者が個人的に親近感を覚えたのは、
鈴木梅太郎が農学部とつながりが強い点です。
東大の工学部と農学部の間の通りがあります。
坂道があって古本屋がある通りを、
私はよく散歩で歩いてます。


地名で言うと文京区弥生町。
弥生式土器の「弥生」だったかと。
(地下鉄の南北線を使う時に登っていく場合が多いです)


私の祖母は農学部からほど近い動坂の辺りで暮らしていて、
そこそこ別嬪さんだったので「動坂小町」と呼ばれていました。
また、私の母は不忍池の方にある東大病院で生まれました。
私の父は農学部の方にある根津神社の池でおぼれたそうです。


そんな街に私は何となく、
親近感を覚えてしまいます。
そんな街での物語。



鈴木梅太郎とビタミン


話戻って鈴木梅太郎ですが大きな業績としてビタミンを発見しました。
具体的には先ず
ビタミンBをみつけてドイツの学会で発表しています。

ただし、時節柄を感じされる話なのか「発見者」としての明記
が無かったので梅太郎の発見だと伝わらなかったようです。


日本人は知っていても外人から見たら「それ何?」って
話なのでしょうね。今ではあり得ない低評価みたいです。



鈴木梅太郎と合成酒


理研のホームページから記載すると、(太字部が引用部)
「鈴木梅太郎(1874-1943)は、米騒動をきっかけに、
原料に米を使わない合成清酒の開発に着手。
独自の製造法を発明し、“理研酒”として
「利久(りきゅう)」などのブランド名で販売した。」
その後、理研の収入で大きな割合を占めていく酒造事業は
理学と生活の大きな繋がりへと発展していくのです。


なお、現在は利休のブランドは別会社が運営しており、
事業売却したのだと思われます。現在の理研関連のお酒は
「仁科誉」と名付けたイオンビーム技術を
活用した銘柄があります。


お酒を楽しく飲める「機会」を鈴木梅太郎は拡げたのですね。
残念ながら鈴木梅太郎の「人となり」は
今日あまり伝わっていませんが
お酒を造ってくれていたお爺さん、なのだと
考えるだけで少し楽し気な気分にさせてくれます。
東大も色々な人物を作り上げてきていますね。




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2023/04/01‗初稿投稿
2024/08/01_改訂投稿


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(2023年4月時点での対応英訳)


Santaro in RIKEN


I would like to introduce Umetaro Suzuki, who is said to be the one of Santaro in RIKEN.
The other two are Hantaro Nagaoka and Kotaro Honda, who have already been introduced.


Memories of the writer


I personally felt a sense of closeness to
Umetaro Suzuki has a strong connection with the Faculty of Agriculture.
There is a street between the University of Tokyo's Faculty of Engineering and Faculty of Agriculture.
A street with slopes and used bookstores,
I often use it for walking.


The place name is Yayoi-cho, Bunkyo-ku.
I think it was "Yayoi" of Yayoi-style earthenware.
(It is often climbed when using the subway Namboku Line)


My grandmother lives near Dozaka, which is close to the Faculty of Agriculture.
She was called "Douzaka Komachi" because she was a decent bessama.
Also, my mother was born at the University of Tokyo Hospital near Shinobazu Pond.
I heard that my father drowned in the pond of Nezu Shrine near the Faculty of Agriculture.


In such a town, I somehow
I feel a sense of familiarity.
A story in such a city.


Umetaro Suzuki and vitamins


Going back to the story, Umetaro Suzuki discovered vitamins as a major achievement.
Specifically, I first discovered vitamin B and made a presentation at a German conference.
However, whether it is a story that feels seasonal
It seems that Umetaro's discovery was not conveyed because there was no such thing.
Even if Japanese people know about it, when they look at it from a foreigner's point of view, "What is that?"
I bet it's a story. It seems to be a low evaluation that can not be now.


Umetaro Suzuki and Synthetic Sake


From the RIKEN website, (quoted parts are in bold)
“Suzuki Umetaro (1874-1943), triggered by the rice riot,
He started developing a synthetic sake that does not use rice as an ingredient.
He invented his own production method and called it "Riken Sake".
It was sold under brand names such as Rikyu. ”


After that, the sake brewing business, which accounted for a large proportion of RIKEN's income,
It develops into a great connection between science and life.


In addition, the Rikyu brand is currently operated by a separate company.
I think they sold the business. Current RIKEN-related sake
There is a brand named "Nishina Homare" that utilizes ion beam technology.


Umetaro Suzuki has expanded the “opportunity” to enjoy drinking alcohol.
Unfortunately, Umetaro Suzuki's "personality"
I don't know much about it today
The old man who made the sake
Just thinking about him puts me in a good mood.
The University of Tokyo has also created various characters.