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2023年05月16日

アイザック・バロー
5/16改訂【幾何学的に微積分を考えニュートンを育てた】

こんにちはコウジです!
「バロー」の原稿を改定します。


むろん背景はケンブリッジ大学。


今回の主たる改定はタイトルの再考と加筆です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



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【1630年10月生まれ ~ 1677年5月4日没】



 バローとルーカス職


今回のご紹介するバロー教授は
イギリス・ケンブリッジ大学の数学者です。
バローはケンブリッジ大学での
ルーカス教授職に初めて任命されています。
ルーカス職とはケンブリッジ内大学の称号(職位)で
クール(Cool)な物理学者に国王から贈られる称号です。
特に数学系の理解が高い人物に贈られます。



 筆者とバローの出会い


私がバローの名を初めて知ったのは
高校の時の英語の教材で、
次の様な文章だった気がします。


Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbridge did distinctly unusual
thing. He decided one of his pupil was..…


上記英文での教授がバロー先生で
その後に出てくる弟子(生徒)がニュートン
なのです。バローはニュートン
ルーカス職を譲ります。彼の方が
職位に相応しいと判断したのです。


異例な判断だったようですが
その後のニュートンの業績を考えると
バローの判断は素晴らしいと分かります。
因みにその後、名誉あるルーカス職は
ディラック
ホーキング

引き継いでいきます。



 バローの業績


上記、英語の文書が書かれた時代
から更に時代は進んでますが、
バローの残した業績は物理学のみ
ならず、工学、ひいては産業に
大きな成果を残しています。


具体的にバローが残した業績で
特筆すべきは微分と積分が
真逆の数学的行為であると幾何学的
に証明した事だと言われています。
今では当たり前なのかも知れません
がバローが整理、体系化した結果
なのです。


また正割(secant; セカント・Arccos;アークコサイン)関数
の積分を「閉じた式」で表現しました。ここで
閉じた式と表現しましたが無限に続く漸化式や、
点線(・・‣)を含む式は使わない表現です。


こうした整理・体系化をバローは進めました。
ニュトンに教授職を引き継いだ後は
神学の研究に移ったと言われています。
 



〆最後に〆


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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


nowkouji226@gmail.com


2020/10/06_初稿投稿
2023/05/16_改定投稿


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 Barrow and Lucas


Professor Barrow is a mathematician at the University of Cambridge, England. Barrow has been appointed for the first time as a Lucas professor at the University of Cambridge. The Lucas professor is the title (position) of the University of Cambridge and is given by the king to a cool physicist. It is especially given to those who have a high understanding of mathematics.



 My Memory


The first time I learned the name of Barrow was in English teaching materials when I was in high school, and I think it was the following sentence.


Just under three hundreds years ago,
the professor of mathematics
at Canbride did distinctly unusual
thing. He decided his pupil his was ..…


The professor in English above is Mr. Barrow, and the disciple (student) who appears after that is Newton. Barrow hands over Lucas to Newton. He decided that he was more suitable for his position.


It seems that it was an unusual decision, but considering Newton's subsequent achievements, Barrow's decision is wonderful. By the way, Dirac and Hawking will take over the prestigious Lucas profession after that.



 Barrows work


Although the times have progressed further from the time when the above English documents were written, Barrow's achievements have made great achievements not only in physics but also in engineering and eventually in industry.


Specifically, it is said that what is remarkable about the achievements left by Barrow is that he geometrically proved that differentiation and integration are the opposite mathematical acts. It may be natural now, but it is the result of Barrow's organization and systematization.


 

2023年05月15日

クリスティアーン・ホイヘンス
5/15改訂【オランダ物理学の黎明期に光学を研究】

こんにちはコウジです!
「ホイヘンス」の原稿を改定します。
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【1629年4月14日‐1695年7月8日】



ホイヘンスの生い立ち


ホイヘンスはオランダ物理学の歴史を感じさせます。


17世紀前半からホイヘンスのような大物が出てくるのです。 


オランダの名家にホイヘンスは生まれ、ライデン大学では


数学と法律を修めました。物理学はその知見を活かす


フィールドだったとも言えます。特に


数学で優秀さを発揮していたと言われています。


光学でのモデルは幾何学的なイメージを


しっかり作ると分かり易く,話が整理しやすいのです。



ホイヘンスの業績


物理学関係の業績としては何より光学での業績が


顕著です。所謂、ホイヘンスの原理は後の物理学者達


が波動を考えていく上でとても有益だった筈です。


波の性質が突き詰められていき、縦波とか横波とか


周波数とか周期とか最終的には波面や、さざ波も、


光も同じ定数で表現出来る現象となるのです。


この理解が重ね合わせの原理の土台として役立ち、


振動解析や音響解析へと話が進んでいくのです。



ホイヘンスから繋がる人脈


更に20世紀初頭にエーレンフェストアインシュタインがホイヘンスの母校であるライデン大学で議論していた事を鑑みると、人々の繋がりに小さな感動さえ覚えます。加えてライデン大学ではローレンツカメリー・オネスも研究を進めていくのです。


科学での一番最初の障壁は一般化を含めた理解だ


と感じます。一般の人々にも説明出来る


「言葉」を出来るだけ沢山、科学者が


作り出すことが大事です。その点で


ホイヘンスは初めの難しさを超えたのです。


 

ホイヘンスの他の業績


別途、ホイヘンスは土星の衛星タイタンの発見したり、振り子の原理を理解して時計を制作したり、オリオン大星雲を発見してスケッチしたり、その進取の精神には驚かされます。特に1675年に世界で初めて火薬を使った往復型の内燃機関を形にしているそうです。ニュートンのプリンキピア刊行が1687年ですので、「瞬時に伝番していく撃力」に関する考察を、ホイヘンスが独自に形にしていると想定されます。特筆すべき一面かと思えます。


なお、いわゆるエーテルの存在をホイヘンスは想定して


後の物理学に議論の土壌を残しました。


この功績も非常に重要だと思います。



〆最後に〆


 



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(以下は2021年8月時点での対応英訳です)



Base of Huygens's LIFE


Huygens was born into a well-known Dutch family and studied mathematics and law at Leiden University. It can be said that physics was a field where he could make use of his knowledge. He is especially said to have showed his excellence in mathematics. An optical model is easy to understand if you make a solid geometric image, and it is easy to organize the story. His physics-related work is particularly remarkable in "Optics". The so-called "Huygens principle" should have been very useful for later physicists to think about waves.



Huygens's work


The nature of the wave is scrutinized, and it becomes a phenomenon that the longitudinal wave, the transverse wave, the frequency, the period, and finally the wavefront, the ripples, and the light can be expressed by the same constant. This understanding serves as the basis for the principle of superposition, and the discussion progresses to vibration analysis and scale analysis.



Huygens's reration


Also, given that Ehrenfest and Einstein were discussing at Leiden University, Huygens' alma mater, at the beginning of this century, I am even impressed by the connections between people. In addition, Leiden University will also pursue research by Lorenz and Kamerlingh Ones.


I feel that the very first barrier in science is understanding, including generalization. It is important for scientists to create as many "words" as possible that can be explained to the general public. In that respect, Huygens surpassed his initial difficulties.



Huygens's other works


You will also be amazed at the enterprising spirit of discovering Saturn's moon Titan, understanding the principles of the pendulum to make watches, and discovering and sketching the Orion Nebula. Especially in 1675, it is said that the world's first reciprocating internal combustion engine using gunpowder was formed. Since Newton's Principia was published in 1687, it is assumed that Huygens has uniquely shaped his thoughts on "instantaneous transmission power." I think this is a noteworthy aspect.


Huygens also left the ground for debate in later physics, assuming the existence of so-called ether. I think this achievement is also very important.

2023年05月14日

ロバート・ボイル
5/14改訂【「元素」を想定し混合物と化合物を明確に区別】

こんにちはコウジです!
「ボイル」の原稿を改定します。
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【1627年1月25日生まれ ~ 1691年12月31日没】



アイルランドの貴公子ボイル


その名は正確には


サー・ロバート・ボイル: Sir Robert Boyle_


英国アイルランド生まれの物理学者です。


初代コーク伯爵リチャード・ボイルと


キャサリンの間に7番目の男子として生まれ


アイルランド現地の家庭に里子に出されます。


その結果、ボイルはアイルランド語を


理解し、通訳レベルまで習得しました。


ボイルはフランス人の家庭教師と


海外旅行をしていて、1641年冬には


イタリアのフィレンツェで過ごし、


ガリレオ・ガリレイの教えを受けます。


ガリレオは1642年に亡くなりますが、


まさに晩年のガリレオと接したのですね。


今の日本人ならボイルは中学生の年齢でしょうか。


多感な時期に良い刺激を受けた事でしょう。



帰国後のボイル


1644年に大陸の長旅を終えるとボイルは


多くの時間を科学に使い、後の王立協会


に繋がる集まりである「ロンドン理学協会」、


別名、「不可視の学院」とも呼ばれた集まりに


参加するようになります。


ボイル家の先代が亡くなって


いましたので、ボイルはアイルランドでの


立場もあったのですが、ロンドンで頻繁に


会合が開かれた事情もあり、ボイルは最終的には


オックスフォードに移り住みます。


実験器具が入手し辛いといった切実な


側面もあったようです。



ボイルとその法則


その後、フックを助手としてボイルは空気


ポンプを制作して圧力の研究を始めます。


フランスのパスカルが同じ時代に研究をしていること


を考えると当時の物理学会での関心が


圧力にあった事が分かりますね。ニュートン力学


が成立していない時代には「力を加える」こと


よりも「圧力を加える」方が定量的に現象を把握出来る


作業だったとも言えるでしょうか。フック


ボイルの助手なので、ばねに関わる力の定式化が


出来ていないと思われます。そんな時代に力は


重力と関連して評価するしかなかったのでしょうか。


個人的に関心を持ってしまいました。


やがてはボイルの研究は圧力と体積との関係を


示す、ボイルの法則に繋がります。


ただ1660年迄にボイルは


「体積は圧力に反比例する」と明言していて、


書物での記録はあるようですが、


温度や分子量との関連を含め、


現象の定式化には至らなかったようです。


『実際の定式化はヘンリー・パワー


Henry Power FRS (1623–1668))によって


1661年になされているようです。』


【以上、3行は英語版Wikipedia情報】


このボイルの考案した「ボイルの法則」が一つの基礎となり


熱・統計力学の土台が構築されていきます。


更にこの後、


J・C・シャルルが考案した「シャルルの法則」が


温度との関係を与えますので高校レベルの知識として


「ボイル・シャルルの法則」が確立される訳です。


低圧力・高温度の条件下で、異なる気体間で法則が成


り立つことは自明ではないのですが


経験的法則として成り立ち、


後に様々な方式で発展していきます。


最後に、ボイルは錬金術の伝統を受継いで


いましたが、近代的な視点を持ち「元素」を想定して、


混合物と化合物を明確に区別した点で秀でています。


ボイルが明確にしたパラダイムシフト


は非常に大きな業績だと言えるのではないでしょうか。



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2020/11/04_初稿投稿
2023/05/14_改定投稿


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His name is Sir Robert Boyle.


He is a physicist born in Ireland, England. He was born as the seventh boy between the first Earl of Cork Richard Boyle and Catherine and is fostered in a local Irish family. As a result, Boyle understood Irish and mastered it to the level of an interpreter.


In his younger days, Boyle travels abroad with a French tutor and spends the winter of 1641 in Florence, Italy, where he is taught by Galileo Galilei.


Galileo died in 1642, and Boyle had in contact with Galileo in his later years. Is Boyle the age of junior high school for Japanese people today, isn't it? He would have been well inspired during a sensitive period.


After completing his long journey on the continent in 1644, Boyle spent a lot of his time in science, attending a gathering that later led to the Royal Society, also known as the "London Science Society," also known as the "Invisible College." 


Boyle had a position in Ireland because the predecessor of the Boyle family had died, but due to frequent meetings in London, Boyle eventually moved to Oxford.


He seems to have had an urgent aspect that it was difficult to obtain laboratory equipment. After that, with Hook as his assistant, Boyle created an air pump and began researching pressure.



Pascal in France 


Considering that Pascal in France was doing research at the same time, you can see that the interest at the Physical Society  at that time was about" pressure ". In an era when Newtonian mechanics was not established, it can be said that "applying pressure" was a task that could quantitatively grasp the phenomenon rather than "applying force". Since the hook is a boil assistant, it seems that the force related to the Spring has not been formulated. Was force only evaluated in relation to gravity in such an era?



I'm personally interested. Boyle's research eventually led to Boyle's law, which shows the relationship between pressure and volume.


However, by 1660, Boyle had stated that "volume is inversely proportional to pressure," and although there seems to be a record in his book, the phenomenon was not formulated, including the relationship with temperature and molecular weight. It seems.


"The actual formulation seems to have been done in 1661 by


Henry Power FRS (1623–1668))."


[The above 2 lines are English translation version of Wikipedia information]



Boyle-Charles's law


The "Boyle's Law" devised by Boyle will be the basis for building the foundation of statistical mechanics. Furthermore, after this, "Charles's law" devised by JC Charles gives a relationship with temperature, so "Boyle-Charles's law" as high school level knowledge is established. It is not obvious that the law holds between different gases under low pressure and high temperature conditions, but it holds as an empirical law and later develops in various ways.


Finally, Boyle has inherited the tradition of alchemy, but excels in having a modern perspective and assuming "elements" to make a clear distinction between mixtures and compounds. It can be said that the paradigm shift that Boyle clarified is a very big achievement.


2023年05月13日

ブレーズ・パスカル
5/13改訂【「人間は考える葦である」】

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【1623年6月19日 〜 1662年8月19日没 】


数学者にして哲学者のパスカル


フランスに生まれたブレーズ・パスカルは


物理学者にして数学者にして哲学者です。


17世紀頃までの自然科学に関わる学者達は


細分化が出来ていない傾向があり、


時代を感じさせる部分でもあります。


 

そして何よりパスカルといえば、その残した言葉、


「人間は考える葦である」がまず思い浮かびます。


思考法を確立していった人であって、


その点では古代ギリシャの哲学者に近い印象です。


中世に至るまでの人間の歴史には「科学的な側面」を


あまり感じません。経験の蓄積、文化の蓄積から生じた


機能美があるのですが、素材も含めて経験からの


アプローチが大きかったのではないでしょうか。


 

無論、思想の停滞は今迄に沢山の場で


論じられてきた話題だと思えます。話戻って、


パスカルは考え続けた人でした。



パスカルの業績 


パスカルの遺稿集であるパンセは有名です。


総合的に物事を考えています。


死後、遺品整理で改めて分かったのは


「神」をも思考の対象として考えて、


様々な思考を繰り返し


確率論、優先順位を考え、様々な証明方法


を使っていたということです。


 

実際に分かり易い例として、


数学の上では三角形の内角の和を考えた時に


合計180度であると子供時代に証明していたようです。


平行になる工夫をして補助線を一本引く


だけなのですが、それを思い付いたときは


どれだけ嬉しかったことでしょう。


きっと感動があったはずです。



パスカルが残した沢山の発明


 

物理学の面では圧力に関する


パスカルの原理が有名で


その後、今に至るまで油圧機器に多用されてます。


またパスカルは実業家としての側面も持っていて、


今日で言うバスのシステムを乗り合いタクシー


という形で実現しています。


 

またパスカルは


子供時代から機械式計算機の制作をしています。


徴税吏員である父親の仕事軽減が目的だったようです。


少し、ほのぼのする逸話ですね。また、


昔フランスでの500フランにパスカルの顔


が描かれていたようです。そしてパスカル


は39歳で亡くなっています。


何よりも圧力の概念を面積との関係で確立していき、


後の定量的議論の土台として確立した


功績は大きいのではないでしょうか。


現在では圧力の単位としてパスカルは名を残してます。



フランスの誇る偉人ですね。




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(対応英訳)


 Blaise Pascal ,Born in France, is a physicist, mathematician and philosopher. Until around the 17th century, scholars involved in the natural sciences tended to be undivided, which is a part that makes us feel the times.


And above all, when it comes to Pascal, the remaining word, "human beings are reeds to think about," comes to mind first. He was the one who established the way of thinking, which gives an impression close to that of an ancient Greek Philosopher. I don't really feel the "scientific side" of human history up to the Middle Ages.


There is a functional beauty that arises from the accumulation of experience and culture, but I think the approach from experience, including the materials, was the main part of Way Of Tinking. Of course, the stagnation of thought seems to be a topic that has been discussed in many places. Returning to the story, Pascal was the one who kept thinking. His collection of Pascal's manuscripts, Pensées, is famous. He thinks about things comprehensively.



After his death,


what he learned from his relics was that he also considered "God" as an Object  Of Thought, repeated various thoughts, considered probability theory and priorities, and used various proof methods. ..


As a practically straightforward example, he seems to have proved in his childhood that mathematically, when considering the sum of the angles of a triangle, the total is 180 degrees. He only draws one auxiliary line, but how happy he was when he came up with it. He must have been impressed.



Pascal’s works


In terms of physics, Pascal's principle regarding pressure is famous, and since then, it has been widely used in hydraulic equipment. Pascal also has an aspect as a businessman, and realizes the Bus System that we call today in the form of a shared taxi.


Pascal has also been making mechanical calculators since his childhood. It seems that his purpose was to reduce the work of his father, his tax collector. It's a little heartwarming anecdote. Also, it seems that Pascal's face was drawn on 500 francs in France long ago. And Pascal died at the age of 39.


Above all, he established the concept of pressure in relation to area, and I think he has made great achievements in establishing it as the basis for later quantitative discussions. Today, Pascal has left its name as a unit of pressure.
He is a great man in France.

2023年05月12日

ヘンリー・パワー:H Power FRS
‗5/12改訂【圧力と体積の関係の定式化】

こんにちはコウジです!
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【1623年生れ ~ 1668年没】


ヘンリー・パワー:Henry Power FRS



ヘンリー・パワーの来歴


ヘンリー・パワーは日本ではあまり聞かれない名前です。
調べてみると英国物理学で「しっかりとした仕事」をしています。
それにも関わらず日本ではあまり紹介がされていません。
日本語版ウィキペディアでの紹介が無く、
紹介は英語版のみです。


実際には
「圧力と体積の関係の定式化」を考えていくともう少し後の時代に
ウィリアム・へンリーという別人も「気体の研究で出てくる」ので
注意が必要です。ヘンリーの法則はヘンリーパワーとは無関係のようです。
今回ご紹介するヘンリー・パワーは
王立協会で初めて選出された フェローの なかの1 人です。


具体的にパワーは、1641 年にケンブリッジで有名な
「クライスト カレッジ」で文学士号を得ました。
パワーは 1663 年 に王立協会のフェローに選出されています。
パワーと準男爵 ジャスティ・ニアヌス イシャムは、
最初に選出されたメンバーなのです。



ヘンリー・パワーの業績


パワーの唯一の出版された著作は「実験哲学」です。
3 冊のからなる彼の本は、それぞれ観測の方法論(corpuscularian theory)
と粒子理論を扱っています。また、
ヤコブス・グランダミクス(ジャック・グランダミ、1588–1672)
の論文に対して反論をしています。


ボイルの法則との関連も特筆すべきです。
あらかじめ行った実験で、パワーは、後に「ボイルの法則」
として知られるガスの圧力と体積の関係を発見しました。


圧力と体積の関係は、「実験哲学」でヘンリーが紹介しています。
しかし、それにもかかわらず、「実験哲学」の出版とリチャード・タウンリーの
唯一の仕事との混同がされているようです。


ボイルの理論への言及は、「実験哲学」の出版よりも 1 年先行し、
ボイルのアイデアの上記宣伝と、貴族の科学者としてパワーは有名なので、
パワーの理論が「ボイルの法則」として知名度があります。


ボイルはタウンリーが唯一の研究者であると誤解して、
パワーの貢献が歴史上ほとんど失われているのです。
最後に、英語版ウィキペディアからパワーの業績部分を抜粋します。
ご参考としてください。(以下6行抜粋)


Henry Power discovered the relationship between the pressure and volume of a gas that later became known as Boyle's law. This relationship was outlined in "Experimental Philosophy". However, many may argue nevertheless that a prepublication manuscript of "Experimental Philosophy" cited the hypothesis as the sole work of Richard Towneley.


Boyle's mention of the theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by one year, which, combined with Boyle's promotion of the idea and his significant status as an aristocratic scientist, ensured the theory would be known as "Boyle's Law". Boyle attributed Towneley as the sole researcher, ensuring that Power's contributions were all but lost to history.




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2023/04/07‗初稿投稿
2023/05/12‗改訂投稿


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(2023年4月時点での対応英訳)


 Perdonal History of Henry Power


Henry Power is a name not often heard in Japan.
I looked it up and he has "a solid job" in British Physics.
Despite this, it has not so famous much in Japan.
in addition,
There is no introduction on the Japanese version of Wikipedia,
The introduction is in English only.


in fact
Considering the "formulation of the relationship between
pressure and volume", in a little later era
Another person named William Henry also "appears in the study of gases," so
Caution is required.


Henry's law seems to have nothing to do with Henry power.
Henry Power to introduce this time
One of his Fellows who was first elected to the Royal Society.


Specifically Power was founded in Cambridge in 1641 by the famous
He earned a Bachelor of Arts degree from 'Christ College'.
He had power in which he was elected a Fellow of the Royal Society in 1663.
Power and his Baronet Justy Nianus his Isham,
I am the first elected member.


Achievements of Henry Power


Power's only published work is "Experimental Philosophy".
His three books each deal with a corpuscular theory.
and particle theory. again,
Jacobus Grandamicus (Jacques Grandami, 1588–1672)
I am arguing against the paper of


He is also notable for his connection with Boyle's law.
In his preliminary experiments, power was later found in "Boyle's Law"
discovered the relationship between gas pressure and volume known as .


The relationship between pressure and volume is outlined in "Experimental Philosophy".
But nevertheless the publication of "Experimental Philosophy" and Richard Townley's
It seems that there has been confusion with only one job.


References to Boyle's theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by a year,
Because of the above publicity of Boyle's ideas and his power as an aristocratic scientist,
The theory of power became known as "Boyle's Law".


Boyle misunderstood that Townley was the sole researcher,
The contribution of power is largely lost to history.
Finally, I will excerpt Power's achievements from the English Wikipedia.
Please use it as a reference. (6 lines below)


Henry Power discovered the relationship between the pressure and volume of a gas that later became known as Boyle's law. This relationship was outlined in "Experimental Philosophy". the sole work of Richard Towneley.


Boyle's mention of the theory preceded the publication of "Experimental Philosophy" by one year, which, combined with Boyle's promotion of the idea and his significant status as an aristocratic scientist, ensured the theory would be known as " Boyle's Law". Boyle attributed Towneley as the sole researcher, ensuring that Power's contributions were all but lost to history.



2023年05月11日

ルネ・デカルト 
5/11改訂【我思う、故に我あり|近代(合理)哲学の祖】

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【1596年3月31日〜1650年2月11日没】



デカルト概説


ルネ・デカルト(仏: René Descartes)は、


フランスに生まれた哲学者にして、数学者です。
そして。合理主義哲学の祖でもあります。
一般には近世哲学の祖として知られています。


「我思う、ゆえに我あり」の言葉は有名です。


思索の主体と対象を考えている命題で、


当時主流だったスコラ哲学による考え方と大きく異なります。


スコラ哲学時従えば、信仰とは元来、自己を捧げる事で成立する行為で、


信仰が人間では作り上げられない「真理」の獲得へと繋がっていくのです。


当時流行していたスコラ哲学の保守的な考え方にデカルトは疑問を抱き、


新しい哲学的な命題を打ち立てたのです。


太陽の光が大地に降り注ぐように、


人間の理性が自然に活動する中で真理へと


近づいていけるであろうという考えがデカルトの信念なのです。



デカルトの修業時代


経緯を考えていくと、デカルトは
イエズス会の学校に所属して研鑽を進めます。


先ずイエズス会のラ・フレーシュ (La Flèche) 学院
に入学します。当時、


イエズス会の学校はフランスに15校。


その中でもフランス王アンリ4世自身が


関わっていたラ・フレーシュ学院です。


当時はとても有名でした。


 

ラ・フレーシュ学院ではフランス中から
優秀な教師、生徒が集まっていました。


プロテスタントは「信仰と理性は調和しえない」
という教義に基づきます。


それに対してカソリックを掲げるイエズス会は
理性を信仰に取り入れて
スコラ哲学を
教育カリキュラムに取り入れていました。


更に自然科学の前進となる考えも好意的に取り入れていて、


ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で初めて木星の衛星をとらえた時には


学院ではお祝いの催しが開かれたそうです。


デカルトが教えを受けた学院での教義の中では哲学は不完全なもので、


「その完成には哲学が必要である」と断言しています。


デカルトは学院で論理学・形而上学・自然学、占星術、


秘術(今で言う魔術の系統)を学んでいきます。


とりわけ自然科学の中で数学を好んで数学的な論法で


議論する事もありました。そうした基礎教養を身に着けた後に



デカルトの遍歴時代


遍歴の時代をデカルトは過ごします。


22歳のときにデカルトはオランダで軍隊に参加します。


対象の時期は80年戦争での休戦期間なので、


デカルトの実戦参加は無かったであろうという考えが定説です。


それよりも寧ろ、軍隊の中での最新兵器の
開発にデカルトは興味を持ちました。


優秀な技術者と交流して知見を広める事が
大きな軍隊参加の目的の一つでした。



ベークマンとの幸運な出会い


後にデカルトはイザーク・ベークマンという人物


に出会い知的な刺激を受けます。ベークマンは医者でありながら


自然科学や数学に長けていました。


ベークマンからデカルトが知った概念は次のようなものです。
@原子の概念、
A真空の概念、
B運動保存の概念、です。


それらは現代の物理学へと繋がっていく概念です。
この時期にそうした概念の「基礎」が出来てきたのですね。
そしてベーグマンはコペルニクスの考えに共鳴していて指示していました。
ベーグマンと共にデカルトは思想を発展させていきます。
自由落下に対して見識を深め、
水圧に対して見識を深め、
三次方程式などの数学的な概念も発展させていきます。






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About Descartes


René Descartes was a philosopher and mathematician born in France.
And. He is also the founder of rationalist philosophy.
He is generally known as the founder of early modern philosophy.


He is famous for saying, "I think, therefore I am. It is a proposition that considers the subject and object of contemplation.


This is a proposition that differs greatly from the viewpoint of Scholastic philosophy, which was the mainstream at the time.


According to the Scholastic philosophy, faith is an act that is originally formed by offering oneself.


Faith leads to the acquisition of "truth" that cannot be created by human beings.


Descartes questioned the conservatism of the scholastic philosophy


and Descartes questioned the conservatism of scholastic philosophy and formulated a new philosophical proposition.


Just as the sun's rays fall on the earth. As the sun's rays fall on the earth,


the natural activity of human reason Descartes' belief is that


we can come closer to the truth through the natural activity of human reason,


just as the sun's rays fall on the earth.



scholl days of Descartes


Descartes belonged to the school of the Jesuits,


where he studied. He first entered the Jesuit Institute of La Flèche.


At the time, there were 15 Jesuit schools in France.


Among them was the famous La Flèche Institute, where King Henry IV of France himself had involved.


There, excellent teachers and students gathered at that Jesuits.


Protestantism is based on the doctrine that "faith and attitude cannot be reconciled.


The Jesuits, on the other hand, were catholic, and they adopted reason


as an aggressor and incorporated scholastic philosophy into their educational curriculum.


They also favored ideas that advanced the natural sciences,


and celebrations they held at the Institute when Galileo Galilei first observed


the moons of Jupiter through his telescope.


In the doctrine of the Institute where they taught Descartes, philosophy was incomplete.


In the doctrine of the Institute where Descartes was taught,


philosophy is incomplete and "needs philosophy for its perfection".


Descartes studied logic, metaphysics, natural science, astrology, and the mystic arts


(the lineage of what we now call witchcraft) at the Institute.


He was especially fond of mathematics in the natural sciences,


and sometimes used mathematical arguments in his discussions.



itinerancy of Descattes


After acquiring such a basic education, Descartes spent a period of itinerancy.


At the age of 22, Descartes joined the army in the Netherlands.


They said that he would not have fought in actual battles during this period,


as it was a period of truce during the 80 Years War.


Rather, Descartes had been interested in the development of the latest weapons in the army.


It seems that his goal was to interact with excellent engineers and broaden his knowledge.



Meet with Beekman


Descartes then met Isak Beekman, they gave an intellectual stimulus with each other.


Beekman was a doctor. Beekman also had knowkedge in the natural sciences and mathematics.


Descartes learned the following concepts from Beekman.
(1) the concept of the atom,
(2) the concept of the vacuum, and
(3) the concept of the conservation of motion.


These are concepts that lead to modern physics.


It was during this period that Desvarts got the "foundation" for such concepts.


And Beegman was sympathetic to and directed Copernicus' ideas.


Descartes developed his ideas together with Beegman.


He gained insight into free fall, he gained insight into water pressure,


and he also developed mathematical concepts such as cubic equations.


(At first, I translated with www.DeepL.com/Translator (free version) and collected)

2023年05月10日

ヨハネス・ケプラー:Kepler
5/10改訂【年間の観測情報から数学を使い天文学を確立】

こんにちはコウジです!
「ケプラー」の原稿を改定します。
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【1571年12月27日生まれ ~ 1630年11月15日没】



ケプラーの生い立ち


ドイツのヴァイル(Weil-der-studt(1935年の記載))
に生まれたケプラーは天文学者にして数学者、
哲学者、占星術師でありました。


そして、不幸な家庭環境で育ちます。
ケプラーの母は薬草治療をしてました。楽しい思い出は
「家族で月食を見た」くらいだったと言われています。


ケプラーは数字を厳密に扱う反面で無頓着な側面


もあったと言われています。例えば自分の名前を書くときに


kepler, keppler, khpler, kepierusを同じ時期に使っていた
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)


と言われています。 なにより、  


ケプラーの天文物理学の仕事として素晴らしい点は、


年間の観測情報から数学を使った考察を進め、


天体の星達が(基本的には平面上で)楕円軌道を描く


とか公転周期と面積速度の関係を導き出すといった


秩序だった理論的な結果を導き出した点です。


ケプラーは「数学モデル」を物理学に当てはめた


初めての物理学者だったという事実も見逃せない点です。


今では当たり前に思えるのですがケプラーの時代は


物事を考える土壌が出来上がっていませんでした。


更に実験を結びつけて議論の裏付けをとり、


後の時代の物理学者たちは説得力を増すのです。


 

そんなケプラーは幼少期に苦労します。


ケプラーの父は家族の為に傭兵として戦いに参加します。


ケプラーが5歳から17歳の間、頑固で喧嘩好きな父は家族と離れ


暮らしていました。そして八十年戦争と呼ばれた戦いで、父は


ネーデルランド(現.オランダ)で亡くなったと言われています。


そしてケプラーは幼少時代に
神学校に通い教養を身に付けます。
そこでは
日常会話もラテン語で行われる、厳格な教育がなされました。
後のケプラーのドイツ語で書かれた手紙などの文体は
「天真爛漫で泥臭く魅力的であるものとなっており、
あたかも厳しい講義室から解放されて、
田舎の縁日か何かで楽し気な歌声をあげている、
というような響きがある。」と評されています。
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)
逆説的ですがラテンの教養はケプラーの人生に
重要な
効果を与えていたのではないでしょうか。 


また、ケプラー本人は天然痘にかかり視力低下にあい、
一生続く苦難を受けました。また天然痘では、、、
ケプラーは妻子を失ってしまいます。



ケプラーの業績


 

そんなケプラーは天文学者として地動説に出合いました。


特にコペルニクスがコペルニクス的転回を打ち出した


タイミングでケプラーは天文を学びましたが、


ケプラーはコペルニクスを全面的に支持します。


そういった考え方を読んで推し進めるケプラーを


今度はガリレオ・ガリレイが支持します。


そして何よりケプラーはティコ・ブラーエに出会います。



ケプラーと科学の進歩


科学が飛躍的に進化する時代があると思えますが、


ケプラーの前後の時代はまさに、そんな時代でしょう。


この時代の動きがあったからこそ、後の時代の思索の中で


力学が生まれてきて、電磁気学が生まれてきたのです。


20世紀の初頭にも国を超えて人々が議論して


科学技術に大きな進展が見受けられました。


そんな視点で「社会史」の側面を垣間見ながら


「科学史」を考えてみると人類の進化を感じられます。


私が「進化」と呼んだ「変化」が好ましいか


という議論がありますが、私は好ましいと思います。


可能性が広がるからです。


技術(知見)を制御する責任は別問題で別に議論します。


 

ティコ・ブラーエは遺言で集めた膨大な


データを遺産としてケプラーに残しました。


価値ある貴重なデータをケプラーがが受け取り


そして整理して様々な法則を作り出します。


2人の業績から今に残るケプラーの法則が完成したのです。


惑星の運動は体系立てて幾何学上で表現されています。


ケプラーは星を考える枠組みを作り出したのです。


そして次なる様々な理論体系に繋がっていったのです。



〆最後に〆


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Kepler's Birth Born


Kepler's Birth Born in Germany, Kepler was an astronomer, mathematician, philosopher, and astrologer. And Kepler's mother was doing herbal remedies. The great thing about Kepler's work in astronomical physics is that it advances mathematical consideration from annual observation information, and the stars of the celestial body draw elliptical orbits (basically on a plane), orbital period and area velocity. It is the point that we have derived an orderly theoretical result such as deriving a relationship. It is also worth noting that Kepler was the first physicist to apply a "mathematical model" to physics.


Kepler struggles in his childhood. Kepler's father participates in the battle as a mercenary for his family. While Kepler was between the ages of five and 17, his father lived away from his family. Kepler's father died in the Netherlands in a battle called the Eighty Years War. In addition, Kepler himself suffered from smallpox and suffered from his poor eyesight for the rest of his life. Also in smallpox, Kepler loses his wife and children.



 Kepler's Work


Kepler came across the heliocentric theory as an astronomer. Kepler learned astronomical, especially when Copernicus launched a Copernican Revolution, but Kepler fully supports Copernicus. Galileo Galilei now supports Kepler who read such an idea. And above all, Kepler meets Tycho Brahe.


It seems that there is an era in which science will evolve dramatically, but the era before and after Kepler is exactly such an era. It seems that the movement of this era was the reason why mechanics was born and electromagnetics was born in the thoughts of later times.


Even at the beginning of the 20th century, people from different countries discussed and made great progress in science and technology. If you think about "history of science" while glimpsing the aspect of "social history" from that perspective, you can feel the evolution of humankind. There is some debate about whether "change," which I called "evolution," is preferable, but I think it is preferable. Because the possibilities open up. Responsibility for controlling technology is discussed separately on a separate issue.



Kepler's Data


Tycho Brahe left Kepler with the vast amount of data he collected in his will as his legacy. Kepler receives valuable and valuable data and organizes it to create various laws. From the achievements of the two, Kepler's law that remains today was completed.


The movement of planets is systematically and geometrically represented. Kepler created a framework for thinking about stars. And he was connected to the following various theoretical systems.



2023年05月09日

ガリレオ・ガリレイ
【近代科学の父、天文学の父|数学的モデルを作り実験】

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「ガリレオ」の原稿を改定します。
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【1564年2月15日生まれ ~ 1642年1月8日没】



ガリレオの生きた時代


イタリアのガリレオ・ガリレイの名は世界中で
近代科学の父、天文学の父として知られています。


数学的なモデルを確かにして現象から
パラメターを選びその数値を観測可能な
道具を選ぶ事で実験検証する手法は
ガリレオが確立したものです。


そして、
ガリレオの生誕年での西暦はユリウス暦で
死没年の西暦はグレゴリオ暦です。


ガリレオ・ガリレイはそんな
2つの暦を使う時代に生きていました。


そんなガリレオが生きた時代には自然科学の考えに対して


暗黒の時代背景がありました。教会が力を持ち、


表現が不適切とされた時には社会的な制裁を受けました。


ジョルダーノ・ブルーノという哲学者は火炙りに処されています。


ブルーノの断罪は多岐に渡ります。


その中の一つが天体関連です。


当時の教会の考えでは、地球が太陽や土星の様に


運行してはならないのです。今では理不尽とも思えますが。



ガリレオの研究環境と業績


そんな時代の中でガリレオも艱難辛苦に晒されます。


権力争いに巻き込まれ、天体に関する考えから


異端審問を受け、社会的立場を悪くします。


軟禁状態にあり、体調も悪くなっていきます。


そんな有り様を知ったデカルトは論文発表を控えた


と伝えられています。更にはガリレオは失明します。


これは一説には過度の天体観測のせいだとも


言われています。ただ、その後も息子や弟子達の


助けを借りて出版をしたり振り子時計を発明したりしています。


振り子の等時性をもとにして,周期を起点に考えていき、


時を刻む仕組みを設計していたのです。


まさにプロトタイプの精密機械ですよね。


そして、最後は77歳で亡くなっています。



〆最後に〆




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(対応英訳)


First, Galileo's birth year is the Julian calendar and the death year is the Gregorian calendar. Galileo Galilei lived in an era of using these two calendars.


The name Galileo Galilei of Italy is known all over the world as the father of modern science and the father of astronomy.


Galileo has established a method for experimentally verifying by making sure of a mathematical model, selecting parameters from phenomena, and selecting tools that can observe the numerical values.


When Galileo lived, there was a dark background to the ideas of the natural sciences. He was subject to social sanctions when the church was powerful and improperly expressed. A philosopher named Giordano Bruno is burned at the stake.


Bruno's condemnation is wide-ranging. One of them is related to celestial bodies. The idea of ​​the church at that time was that the earth should not operate like the sun or Saturn. It seems unreasonable now.


In such an era, Galileo is exposed to hardships.


He gets caught up in a power struggle, gets an inquisition from his thoughts on celestial bodies, and makes his social position worse. He is under house arrest and his condition is getting worse.


It is reported that Descartes, who knew such a situation, refrained from publishing his treatise.


Furthermore, Galileo loses his eyesight. It is said that this is due to excessive astronomical observation in one theory. However, he has continued to publish and invent pendulum clocks with the help of his sons and disciples.


Based on the isochronism of the pendulum, he started thinking from the cycle and designed a mechanism to keep track of time. It's a prototype precision machine, isn't it?


And he finally died at the age of 77.

2023年05月08日

ジョルダーノ・ブルーノ
5/8改訂【宇宙の無限を説き異端審問を受けた殉職者】

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【1548年生まれ ~ 1600年2月17日没】


ジョルダーノ・ブルーノはイタリア生まれの哲学者にして


ドミニコ会の修道士です。ルネッサンスの時代の人で


有名なガリレオ・ガリレイと生きた時代が重なります。


科学者のご紹介という視点からは少しずれますが、


自然観の変遷という観点から科学史の中で論じます。


 

コペルニクスの時代から時が過ぎ、


教会の世界観は変化しています。


当時のヨーロッパの人々の世界観について


教会が支配的立場をとるのです。その中で、


現代の我々の視点からは当時人々の不合理さは


受け入れ難いです。最終的にはブルーノは


火炙りに処されてしまいます。宇宙は有限ではなく無限で、


地球や太陽も星の中の1つ、というブルーノの考えは


当時の社会的な価値観と合いませんでした。


当時としては不愉快な考えだとも思われたのです。


そして火あぶり。酷い話です。


 

何よりも、ブルーノは


ドミニコ会の修道士でした。


「神の作りたもう世界は限り無い」


という信念をもっていて、


権威に立ち向かいつつも


彼なりに良心的な判断をして


考え方を構築していったのです。


 

数学的モデルで検証して欲しかった。


実験結果と照らして判断して欲しかった。


科学が得意な人々と議論して欲しかった。


私は勝手に、そう思います。


 

最後に、ブルーノの名誉回復の話です。


20世紀になってヨハネ・パウロ2世の時代に


過去の見直しが成され、ブルーノの処刑は不当である


として、異端判決を取り消しています。新しい発想を


作り出したブルーノが再評価されたのです。


今、ブルーノは思想の自由に殉じた


”殉職者”として評価されています。





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Giordano Bruno is an Italian-born philosopher and Dominican monk. Bruno lives with the famous Galileo Galilei.


This paper discusses Bruno in the history of science from the perspective of nature.


 

Time has passed since the days of Copernicus, and the world view of the church has changed. The church takes a dominant position in the worldview of the European people at that time. Among them, the absurdity of people at that time is unacceptable from our modern point of view. Eventually Bruno will be burned at the stake. Bruno's idea that the universe is not finite but infinite, and that the earth and the sun are one of the stars, did not fit the social values ​​of the time.


It seemed like an unpleasant idea at the time. And Bruno burns at the stake. It's a terrible story.


Above all, Bruno was a Dominican monk.
He had his belief that "the world created by God is endless," and he built his mindset while confronting authority and making his own conscientious decisions.


He wanted it to be verified with a mathematical model. He wanted him to judge in the light of the experimental results. He wanted to discuss with people who are good at science. I think so without permission.


Finally, the story of Bruno's rehabilitation. In the 20th century, during the time of John Paul II, and the heretical judgment was revoked, saying that the execution was unjustified. Bruno, who created a new idea, was re-evaluated. Bruno is now regarded as a free-spirited line of duty death.


2023年05月07日

ティコ・ブラーエ5/7改訂【ケプラーを助手として独自の宇宙論(宇宙体系)を展開】

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【1546年12月14日生まれ ~ 1601年10月24日没】



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【;Tycho Brahe‐1546年 ~】


ティコ・ブラーエはデンマークの貴族です。


多彩な能力を持っていて天文学で業績を残した他に、


作家・占星術師・錬金術師としても活動していました。


実際そうした活動領域の「あいまいさ」は当時の科学者


と呼ばれていた人に広く見受けられる傾向で、


自然科学が広く行き渡った我々の時代からは全く


想像出来ない環境です。概念的に今でも


心理学やマーケティングでペルソナという概念が


使われていたりしますが、当時は真面目に悪魔の存在


が信じられていたりしました。むしろ悪魔の概念を、当時の


キリスト教会の指導者達が利用した面もあります。


 

さて、意外なエピソードとして


「ティコ・ブラーエの鼻」の話があります。


その鼻は若き日の決闘によって鼻梁が無くなっていて、


それ以降、ティコは金属製の付け鼻をしていたのです。


ティコ・ブラーエの考え方では


地球が世の中の中心にあり、太陽は地球の


周りを回転していると考えていました。天動説です。


天体運動を考えた時にプトレマイオスの


「アルマゲスト」という著作が有名で、慣性を考慮せずに


「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」だから


(実際には)「地球は動かない」人々は信じていました


確かに相対的な位置関係としては


太陽の動きは説明出来ますが、後の学者達


が整理した色々な星のデータベースと


整合性がとれる考えではありませんでしたでした。


特に、コペルニクスの著書である「天球の回転について」


をティコ・ブラーエは所蔵していて


綿密な書き込みをしていたという研究報告もあります。


当時のコペルニクスの著作は売れていない本だったよう


ですが天体関係者達のネットワークの中で「天体の…」


「良書」だと噂され議論の題材となっていたのです。


そのようにして、ティコ・ブラーエが科学的アプローチを


続ける中で当時の知見を使って判断していたのです。


ただ何より、ティコ・ブラーエの観測データは


正確無比でした。後にデータを引き継いだ


ケプラーがコペルニクス的転回をして地動説の知見


に立ち返り、データをもとに地球が自転しながら


太陽の周りをまわる理論を打ち出します。


全体的に見て、ティコ・ブラーエの考えは間違いでしたが、


星の観測の業績としてはとても大きかったと言えるでしょう。


また、色々な人の業績がつながっていく視点で見た時に、


ティコ・ブラーエの残したデータが後に使われていた事実は


とても重要だといえます。間違った点があったことは事実ですが、


ティコ・ブラーエ彼はそれでも追及を続けていて、


彼の残したデータをもとに後の人々が議論をして、


宇宙の理解へと進んでいったのです。


現代の考えに近づきロケットが飛び知見が重なり、


これからも進化するのです。





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Tycho Brahe is a Danish aristocrat.
In addition to his versatile abilities and achievements in astronomy,
He was also active as a writer, astrologer, and alchemist.
Also, as a surprising episode, there is a story about "Tycho Brahe's nose".
The nose of Tycho Brahe has lost its bridge
due to a young duelSince then, Tycho has had a metal nose.


Tycho Brahe thought that the earth was at the center and the sun was rotating around the earth.


It is true that the movement of the sun can be explained as a relative positional relationship, but it was not an idea that was consistent with the database of various stars organized by later scholars.


In particular, there is a research report that Tycho Brahe possessed Copernicus's book "On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books" and wrote it in detail. That is how Tycho Brahe used his knowledge at the time to make decisions as he continued his scientific approach.


But above all, the observation data of Tycho Brahe is
It was unmatched in accuracy. Kepler, who later took over the data, makes a Copernican revolution, and based on the data, he proposes a theory that the earth rotates around the sun.


Overall, Tycho Brahe's idea was wrong, but it was a huge achievement in star observation.


Also, from the perspective of connecting the achievements of various people, the fact that the data left by Tycho Brahe was used later is very important. It's true that there was something wrong, but Tycho Brahe was still pursuing,


Based on the data he left behind, later people argued and proceeded to understand the universe.


Rockets will fly closer to modern ideas, and knowledge will overlap, and they will continue to evolve.