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2023年05月08日

ジョルダーノ・ブルーノ
5/8改訂【宇宙の無限を説き異端審問を受けた殉職者】

こんにちはコウジです!
「ジョルダーノ・ブルーノ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。
【以下改訂した原稿です】



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【1548年生まれ ~ 1600年2月17日没】


ジョルダーノ・ブルーノはイタリア生まれの哲学者にして


ドミニコ会の修道士です。ルネッサンスの時代の人で


有名なガリレオ・ガリレイと生きた時代が重なります。


科学者のご紹介という視点からは少しずれますが、


自然観の変遷という観点から科学史の中で論じます。


 

コペルニクスの時代から時が過ぎ、


教会の世界観は変化しています。


当時のヨーロッパの人々の世界観について


教会が支配的立場をとるのです。その中で、


現代の我々の視点からは当時人々の不合理さは


受け入れ難いです。最終的にはブルーノは


火炙りに処されてしまいます。宇宙は有限ではなく無限で、


地球や太陽も星の中の1つ、というブルーノの考えは


当時の社会的な価値観と合いませんでした。


当時としては不愉快な考えだとも思われたのです。


そして火あぶり。酷い話です。


 

何よりも、ブルーノは


ドミニコ会の修道士でした。


「神の作りたもう世界は限り無い」


という信念をもっていて、


権威に立ち向かいつつも


彼なりに良心的な判断をして


考え方を構築していったのです。


 

数学的モデルで検証して欲しかった。


実験結果と照らして判断して欲しかった。


科学が得意な人々と議論して欲しかった。


私は勝手に、そう思います。


 

最後に、ブルーノの名誉回復の話です。


20世紀になってヨハネ・パウロ2世の時代に


過去の見直しが成され、ブルーノの処刑は不当である


として、異端判決を取り消しています。新しい発想を


作り出したブルーノが再評価されたのです。


今、ブルーノは思想の自由に殉じた


”殉職者”として評価されています。





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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


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2020/10/23_初回投稿
2023/05/08_改定投稿


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(対応英訳)


Giordano Bruno is an Italian-born philosopher and Dominican monk. Bruno lives with the famous Galileo Galilei.


This paper discusses Bruno in the history of science from the perspective of nature.


 

Time has passed since the days of Copernicus, and the world view of the church has changed. The church takes a dominant position in the worldview of the European people at that time. Among them, the absurdity of people at that time is unacceptable from our modern point of view. Eventually Bruno will be burned at the stake. Bruno's idea that the universe is not finite but infinite, and that the earth and the sun are one of the stars, did not fit the social values ​​of the time.


It seemed like an unpleasant idea at the time. And Bruno burns at the stake. It's a terrible story.


Above all, Bruno was a Dominican monk.
He had his belief that "the world created by God is endless," and he built his mindset while confronting authority and making his own conscientious decisions.


He wanted it to be verified with a mathematical model. He wanted him to judge in the light of the experimental results. He wanted to discuss with people who are good at science. I think so without permission.


Finally, the story of Bruno's rehabilitation. In the 20th century, during the time of John Paul II, and the heretical judgment was revoked, saying that the execution was unjustified. Bruno, who created a new idea, was re-evaluated. Bruno is now regarded as a free-spirited line of duty death.


2023年05月07日

ティコ・ブラーエ5/7改訂【ケプラーを助手として独自の宇宙論(宇宙体系)を展開】

こんにちはコウジです!
「ティコ・ブラーエ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
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【以下改訂した原稿です】


【1546年12月14日生まれ ~ 1601年10月24日没】



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【;Tycho Brahe‐1546年 ~】


ティコ・ブラーエはデンマークの貴族です。


多彩な能力を持っていて天文学で業績を残した他に、


作家・占星術師・錬金術師としても活動していました。


実際そうした活動領域の「あいまいさ」は当時の科学者


と呼ばれていた人に広く見受けられる傾向で、


自然科学が広く行き渡った我々の時代からは全く


想像出来ない環境です。概念的に今でも


心理学やマーケティングでペルソナという概念が


使われていたりしますが、当時は真面目に悪魔の存在


が信じられていたりしました。むしろ悪魔の概念を、当時の


キリスト教会の指導者達が利用した面もあります。


 

さて、意外なエピソードとして


「ティコ・ブラーエの鼻」の話があります。


その鼻は若き日の決闘によって鼻梁が無くなっていて、


それ以降、ティコは金属製の付け鼻をしていたのです。


ティコ・ブラーエの考え方では


地球が世の中の中心にあり、太陽は地球の


周りを回転していると考えていました。天動説です。


天体運動を考えた時にプトレマイオスの


「アルマゲスト」という著作が有名で、慣性を考慮せずに


「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」だから


(実際には)「地球は動かない」人々は信じていました


確かに相対的な位置関係としては


太陽の動きは説明出来ますが、後の学者達


が整理した色々な星のデータベースと


整合性がとれる考えではありませんでしたでした。


特に、コペルニクスの著書である「天球の回転について」


をティコ・ブラーエは所蔵していて


綿密な書き込みをしていたという研究報告もあります。


当時のコペルニクスの著作は売れていない本だったよう


ですが天体関係者達のネットワークの中で「天体の…」


「良書」だと噂され議論の題材となっていたのです。


そのようにして、ティコ・ブラーエが科学的アプローチを


続ける中で当時の知見を使って判断していたのです。


ただ何より、ティコ・ブラーエの観測データは


正確無比でした。後にデータを引き継いだ


ケプラーがコペルニクス的転回をして地動説の知見


に立ち返り、データをもとに地球が自転しながら


太陽の周りをまわる理論を打ち出します。


全体的に見て、ティコ・ブラーエの考えは間違いでしたが、


星の観測の業績としてはとても大きかったと言えるでしょう。


また、色々な人の業績がつながっていく視点で見た時に、


ティコ・ブラーエの残したデータが後に使われていた事実は


とても重要だといえます。間違った点があったことは事実ですが、


ティコ・ブラーエ彼はそれでも追及を続けていて、


彼の残したデータをもとに後の人々が議論をして、


宇宙の理解へと進んでいったのです。


現代の考えに近づきロケットが飛び知見が重なり、


これからも進化するのです。





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(対応英訳)



Tycho Brahe is a Danish aristocrat.
In addition to his versatile abilities and achievements in astronomy,
He was also active as a writer, astrologer, and alchemist.
Also, as a surprising episode, there is a story about "Tycho Brahe's nose".
The nose of Tycho Brahe has lost its bridge
due to a young duelSince then, Tycho has had a metal nose.


Tycho Brahe thought that the earth was at the center and the sun was rotating around the earth.


It is true that the movement of the sun can be explained as a relative positional relationship, but it was not an idea that was consistent with the database of various stars organized by later scholars.


In particular, there is a research report that Tycho Brahe possessed Copernicus's book "On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books" and wrote it in detail. That is how Tycho Brahe used his knowledge at the time to make decisions as he continued his scientific approach.


But above all, the observation data of Tycho Brahe is
It was unmatched in accuracy. Kepler, who later took over the data, makes a Copernican revolution, and based on the data, he proposes a theory that the earth rotates around the sun.


Overall, Tycho Brahe's idea was wrong, but it was a huge achievement in star observation.


Also, from the perspective of connecting the achievements of various people, the fact that the data left by Tycho Brahe was used later is very important. It's true that there was something wrong, but Tycho Brahe was still pursuing,


Based on the data he left behind, later people argued and proceeded to understand the universe.


Rockets will fly closer to modern ideas, and knowledge will overlap, and they will continue to evolve.

2023年05月06日

ゲオルク・レティクス_
5/6改訂【コペルニクスと天動説をまとめた】

こんにちはコウジです!
「レティクス」の原稿を改定します。
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【1514/2/16 〜 1574/12/4】



天文学のパイオニア・レティクス


その名はGeorge Joachim Rheticus または Rhäticus, Rhetikus と記します。
(外国の方ですから正確にコピペしました。)
天文学者レティクスはオーストリアに生まれました。


フェルトキルヒ、チューリッヒ、ウィッテンベルクでレティクスは数学的な素養を収めた後に1537年にウィッテンベルク大学で教授として働きだします。そして、その二年後から二年間の間、コペルニクスと共に暮らします。影響を与えあっていたのです。


当時の学問体系を考えたらニュートン力学も成立していませんし、
電磁気に関する理解もありません。道具立てとして使える学問は
天文学と数学なのです。


あえて他の道具を考えていくとすれば
ユダヤ教の発展と共に伝わってきた
「カバラ」
と呼ばれる数の体系です。キリスト教の色々な
話に基づき
数字一つ一つに意味を付けていきます。
13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に
一つ一つの数字に意味が加わるのです。


数秘術としてカバラは占い師が受け継いでいる体系です。
中世には王家の意思決定などの時に(真面目に)「議論」
カバラの流儀で交わされて実際の祭り事が行われていました。


有名な人ではミッシェル・ノストラダムスはフランス王家に仕え、
カバラの思想に基づき助言を与え地位を確立しています。
レティクスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。



レティクス時代の宗教と政治


また、当時の宗教が政治的にも力を持っていた側面が大きいです。
特に中世以前はキリスト教の教えに従い
協会自治区が地方のあちらこちらにありました。

そうした経緯で、1096年から1303年にかけての期間に十字軍の時代には
聖地を確保するために十字軍が組織され、
大規模な軍事行動が行われました。


斯様な時代背景のもと、16世紀前半に
宗教改革をしたマルチン・ルター(1483- 1546)
によるコペルニクス(1473 - 1543)への批判が有名です。


宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは
聖書の一節であるヨシュアによる


「日よとどまれ」(ヨシュア10:12〜13)


という言葉に着目しています。


「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」
という概念が聖書の中での世界観が天文学にも
適用される事が好ましい世の中だったのです。


実験と経験を重視して考える思考はルター思想の中では目立ちません。
ルターによれば千年以上前に著された聖書の言葉が何より重いのです。
それだからルターはコペルニクスの考えを受け入れていないのです。


教会が権威を持ち堕落しているとの批判的な観点からルターは
神の言葉としての「聖書の文言」を大事にする聖書絶対主義を掲げました。


キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが
天文学に対して異なる見解を示します。


科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年に
ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」を
公式に謝罪するまで続きます。



レティクスとコペルニクス


精力的にレティクスはコペルニクスを支持し続けました。
時代背景にも関わらずに天動説を進めていきます。

コペルニクスの死後まもなく発刊された
「天球の回転について」

において天動説を形にします。


後世の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。
いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に
理解されなかった時代に、レティクスは理解と復旧を進めたのです。






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2023/05/06‗改訂投稿


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(2022年10月時点での対応英訳)



Rheticus is an astronomer


I write down the name with George Joachim Rheticus or Rhäticus, Rhetikus.
(because he was foreign one, I copied and pasted it exactly.)
Rheticus is an astronomer born in Austria.


After having put the mathematical quality in felt Kirch, Zurich, Wittenberg, Rheticus begins to work as a professor in Wittenberg University in 1537. And, during two years after two years later, Rheticus lived with Copernicus. They affected each other.


The Newton dynamics was not there at that time, and there was no understanding about the electromagnetism, too. They must study Dynamics to be usable as preparations was astronomy and mathematics.



Era of Rheticus 


There was a system of the number called "The Cabala" that came with development of Judaism if I think about other learmings daringly. They add a meaning to one one number based on Christian various stories. They gave a meaning  to each gradually each number to be the number, that 13 and 7 are relatively lucky.


This thought is the system which a fortune-teller still inherits as a number secret art. They had done such a "discussion"  at the time of decision making of the royal family seriously in the Middle Ages, and every real festival was held.


Michelle, nostole dams served a French royal family in the famous people and Michelle gave advice based on Cabara and establish a position.
Rheticus continues studied it with some patrons, too.


On the oyher hand, the side that religion at the time had power politically was very strong. There was an association autonomous district in local many places according to Christian teaching before the Middle Ages in particular. They had organized Crusade to secure a "sacred place as process" in the times of the Crusade during a period from 1096 through 1303, and they had carried out a large-scale military campaign.



Rheticus and Religion


Copernicus criticism by Martin Luther who did the Reformation in the cause, the early 16th century of the background in such times has it pointed out. Religion has a big influence on science. By Jehosua who is one node of the Bible as for Luther "stay a day", and pay the attention to the word (Jehosua 10:12 - 13).


It was the world where it was preferable for a view of the world in the Bible, "the earth did not move, and the sun moved" to be applied to astronomy. The thought to focus on an experiment and experience in the thought of Luther, and to think about is not founded. Words of the Bible written according to Luther more than 1,000 years ago are heavy Important above all.


Because it is it, Luther does not accept a thought of Copernicus. Luther raised the Bible aesthetic absolutism to take good care of "the words of the Bible" as words of God from a critical point of view that Chnrch was corrupted if they paid a church for too many authority.


In addition, Protestantism and a Roman Catholic show a different opinion for astronomy in Christianity.
that the circumstances that Christianity prejudiced against for science continue until John Paul II apologizes for "the mistake of the Galileo trial" formally in 1973


Rheticus continues supporting Copernicus without being concerned in the background in those days and pushes forward the Ptolemaic theory.


Rheticus made the Ptolemaic theory a form in "about the turn of the celestial sphere" published soon posthumously of Copernicus. Rheticus made up the concept that a later astronomer used carefully. In the times when so-called "Copernican change" was not understood by most people, Rheticus pushed forward understanding and restoration.


 

2023年05月05日

コペルニクス
【1473年2月19日生まれ ~ 1543年5月24日没】5/5改訂

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コペルニクスの若き時代


コペルニクスは王領プロイセンの一部であった現在のポーランドで生まれました。特に第2次大戦までのナショナリズムの時代には、その地に生まれた人々はドイツ人であると言われたりしていましたが、今日ではドイツ系ポーランド人と呼ばれることが多いです。地中海沿岸で生まれた科学の芽が世界中へと広がっていきます。天文学の知見も色々な所で議論されます。


プトレマイオスの時代からコペルニクスの時代まで千数百年が経っている点も指摘すべきです。後に考察しますがプトレマイオス後の長い期間の常識をコペルニクスは覆します。世界観の転換です。 


生活の面を考えていくとコペルニクスは職業として天文学に専念出来る仕事に従事していませんでした。日々の仕事としては宗教の布教に伴う様々な仕事をしていたようです。そんなコペルニクスは若い時代にイタリアに2度留学に出ておりボローニャ大学とパトバ大学で、それぞれ法律と医学を学んでいます。



コペルニクスの経済的な仕事


様々な仕事の一つとして、


コペルニクスは聖堂参事会の財産管理


をしていましたが、その仕事の中で


「悪貨は良貨を駆逐する」


という概念を初めて用いています。


良質のお金は各人の手元に残されて、


流通する貨幣は質の悪いものになっていくのです。


流通紙幣の品質に関連した議論です。


そういった社会的な活動もしていたという事実は


特筆すべきです。いずれにしてもコペルニクスは


知識人としての活動を続けていました。半面で、


時代の流れがありドイツ騎士団がポーランド王領


プロイセン内ヴァルミアに侵攻する中で


コペルニクスの生活は変わっていきます。



コペルニクスの宗教的側面


宗教的なコペルニクスの人生の側面を


考えてみると、教会側からコペルニクスが


何時も批判にさらされていた訳ではないようです。


コペルニクス自身が教皇に『天球の回転について』


と名付けた著書を献呈していたりする事実も有り、


コペルニクスと教会側との一定の良好な関係があります。


その半面でガリレオの時代には同書が閲覧出来ない


措置が取られていたり、著名な


宗教家であるルターが考えを批判をしています。


コペルニクスは聖書の考えに沿わないと解釈したのです。


幾多の時代の世界観を大きく変える議論だったのです。


別途、地動説を唱えていたプトレマイオスの論陣も、また


当時の科学的な知見に立脚して議論を進めていますが、


その中ではまだ確立されていなかった「慣性」という概念が


理論に必要だった筈だと後に科学史で議論されています。


ちなみに、コペルニクス以前の時代の天体運動の常識では


プトレマイオスの「アルマゲスト」という著作が有名で、


慣性を考慮せずに「地球が動くなら空の鳥は西に流されていく」


だから(実際には)「地球は動かない」といった判断基準


で話を進めていました。



コペルニクスと学問


さて、1539年にヴィッテンベルク大学の教授であった


ゲオルク・レティクスがコペルニクスを尋ねましたが、


面会の中でレティクスはコペルニクスから地動説の思想を


説明してもらい得心し、その考えを継承・発展したい


と思うようになりました。コペルニクスとレティクス


師弟関係が始まっていくのです。



コペルニクスが直面した「天体と人体」の関係 


こんな話を私が調べていき興味を持った点は


コペルニクスが研究領域を確立していく道筋です。


当時は天文学という学問分野は明確にありませんでしたが、


コペルニクスは医学を修める中で、医学の学問体系に


含まれていた「天体と人体」という関連に着目して、


基礎分野となる天体の知識が当時不足していた事実


に気付くのです。今の我々にとって(一見すると)


天体の運動は月くらいしか人間に関係があると思えません。


関連を極めていく事情も釈然としない部分があります。


また、当時の天文の知識は不十分だった筈です。


いわゆる「天動説」に立脚した理解体系では


「つじつまの合わない」事態に突き当たったはずです。


彼らの自然との対話の中で、


レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収し、


理論体系の流布へ向け出版をするように


コペルニクスに進言します。。そうした話を受け


コペルニクスは自らの理論を纏めていこうと考えました。



「天球の回転について」の出版 


1539年にはレティクスが自身の天文学の師、


ヨハネス・シェーナーに長い手紙を送りました。


その手紙の中においてコペルニクスの理論の抜粋


を盛り込んでいます。その写しをレティクス


グダニスクの出版業者に持ち込み、翌年には


「最初の報告」として出版しました。そこでコペルニクスは


レティクスと共に執筆を進めました。その2年後には


「天球の回転について」の草稿が完成し印刷されたのです。


所がレティクスのライプツィヒ大学の数学教授への


就任に伴い、レティクスが後任指名した神学者


アンドレアス・オジアンダーが校正を続けます。


しかしそうした中、コペルニクスは脳卒中で倒れ、


半身不随となり、完成した製本原稿を読むことは


できませんでした。最終的に仕上がった印刷物は、


コペルニクスが亡くなった当日に


彼のもとに届いていたという逸話が残っています。


享年70歳の生涯でした。



〆最後に〆




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対応英訳


 Copernicus was born in  Poland


Copernicus was born in what is now Poland, which was part of the Royal Prussia. Especially in the era of nationalism until World War II, it was said that the people born there were Germans, but today they are often called German Poles. Copernicus did not engage in astronomy-focused work as his profession. As for his daily work, he seems to have done various jobs associated with the mission of religion. Copernicus went to Italy twice when he was young and studied law and medicine at the University of Bologna and the University of Padua, respectively.


As one of those jobs, Copernicus managed the property of the Chapter Chapter, and in that job he used the concept of "bad money drives out good money" for the first time.


Good quality money is left in the hands of each person, and the money in circulation becomes poor quality. This is a discussion related to the quality of banknotes in circulation. The fact that he was also involved in such social activities is noteworthy. The life of Copernicus changes as the Teutonic Order invades Warmia in Polish Royal Prussia.



Another aspect of Copernicus 


Commenting on that aspect of Copernicus's life, it seems that Copernicus was not always criticized by the church. There is also the fact that Copernicus himself dedicates a book entitled "On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books" to the Pope, and a certain good relationship with the church side can be seen.


On the other hand, in Galileo's time, measures were taken to prevent the book from being read, and prominent Luther criticized it. It was an argument that drastically changed the world view of many times.


Separately, Ptolemy's argument, which advocates the heliocentric theory, is also proceeding with discussions based on the scientific knowledge of the time, but the concept of "inertia", which had not yet been established, must have been necessary for the theory. It was later discussed in the history of science.


Now, in 1539, Georg Joachim Reticus, a professor at the University of Wittenberg, asked Copernicus, where he was convinced that Copernicus explained the idea of ​​the heliocentric theory, and would like to inherit and develop that idea. It came to be. The teacher-apprentice relationship between Copernicus and Retics begins.


What I was interested in investigating such a story is the way Copernicus establishes his research area. At that time, the academic field of astronomy was not clear,



Many aspect of Copermolcus


While studying medicine, Copernicus focused on the relationship between celestial bodies and the human body, which was included in the academic system of medicine, and realized that he lacked knowledge of celestial bodies, which is the basic field at that time. At first glance, for us now, the movement of celestial bodies seems to be related to humans only for the moon.


There is a part that is not surprising even in the circumstances that go extremely far there.


Also, the knowledge of astronomical science at that time must have been insufficient. The understanding system based on the so-called "Geocentric theory" must have encountered a situation that "doesn't make sense".


In such a dialogue with nature, Retics rapidly absorbs Copernicus's theory and advises Copernicus to publish it for the dissemination of the theoretical system. .. In response to such a story, Copernicus decided to put together his own theory. In 1539 Retics sent a long letter to his own astronomy teacher, Johannes Schöner.



Last ofCopermocus 


The letter contains an excerpt of Copernicus's theory. Retics brought a copy to a Gdansk publisher and published it as the "first report" the following year. So Copernicus worked with Retics. Two years later, the draft of "On the Revolutions of the Heavenly Spheres" was completed and printed.


With the appointment of Retics as a professor of mathematics at Leipzig University, the theologian Andreas Oziander, appointed by Retics, will continue to proofread.


However, in the meantime, Copernicus suffered a stroke and became paralyzed and could not read the completed bound manuscript. There is an anecdote that the final printed matter arrived at Copernicus on the day he died.
At that time, He was 70 years old.



2023年05月04日

クラウディオス・プトレマイオス‐5/4改訂【三角法を考案し天動説の体型を考案】

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【_83年頃 - 168年頃】



アルマゲストの著者プトレマイオス


(ラテン語表記: Claudius Ptolemæus)


天動説を強力に展開した書籍である「アルマゲスト」を
著したプトレマイオスは古代ギリシアの天文学者(の祖)で
古代ギリシャ語では Κλαύδιος Πτολεμαῖος, と表記されます。
プトレマイオス後、中世のケプラーやガリレオの登場する時代まで
プトレマイオスの学説は広く支持され
その後の神学の理論的な基礎にもなっていきます。


天動説は地球が世界の中心近辺にあり、太陽や月は地球の周りを
ほぼ円形上の軌跡をたどって移動しているという理論です。
プトレマイオスはアルマゲストで地動説の理論的な枠組みを作り上げ
当時の観測レベルでつじつまの合う天文体系を作り上げたのです。



中世における天文学の進展


その後、多くの観測がなされ、中世に至って「ティコ・ブラーェ」
等の観測データをケプラーが体系立てるまでは主に天動説が正しいと
思想の世界では一般に信じられていました。


さて、一般の人々が「天文学」をどう考えているかを考えてみます。
天文学は慣れ親しんだ夜空を表していて非常に分かりやすいです。
ところが、その内容を考えていくと内容はほとんど理解しません。


多くの人は中学生くらいの時期に天文学を教養として勉強しますが
大抵はほとんど忘れます。特に定量的な表現は忘れます。
太陽の質量がどのくらいであるとか、地球との距離がどのていどあるか
などの値を正確に言える人がどのくらいいるでしょうか。
1000人に一人もいないと思います。試験前に勉強して
後に忘れて、忘れたことは気にしません。大事ではないのです。


それだから、詳しいことはどうでもよくて天動説でも地動説でも
どちらでもいいと思います。どちらでも説明がつくのです。



プトレマイオスの業績


プトレマイオスの作り上げた三角法は重要です。
三角関数表作成とともに発展してきました。
三角法は今の三角関数の起源となっています。


三角法は弦の長さと円弧の長さの関係を使っています。
現在使われている三角関数が角度と弦の長さを使っている
関係の基本となっているので三角法は重要です。


建築現場でも多用しています。自動車や航空機の設計でも
三角関数は必須です。



〆最後に〆


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Author Ptolemy of the almagest


Ptolemy who wrote "Almagest" which is the book which presented the Ptolemaic theory strongly is transcribed into ΚλαύδιοςΠτολεμαῖος by the Ancient Greek in astronomers (father) of the ancient Greece.
The theory of Ptolemy is supported widely until the times when Kepler and Galileo of the Middle Ages appear, and it is in the later theological theoretical basics afterwards.


The Ptolemaic theory has earth in the world central neighborhood and is a theory that the sun and the moon almost trace the trace in the circle around the earth and move.
Ptolemy built up a theoretical frame of Copernican theory in almagest and built up a correct astronomy system of the consistency at an observation level at the time.



Astronomical progress in the Middle Ages


Much observation was accomplished and were able to believe observation data such as "Tycho ブラーェ" generally afterwards in the world of the thought to the Middle Ages until Kepler put up a system if the Ptolemaic theory was right mainly.


I think about how general people are thinking about "astronomy" here.
The astronomy expresses the night sky where I got used to and is very plain.


However, most of the contents do not understand it when they think about the contents.
Many people study astronomy as culture at the time of a junior high student, but almost usually forget it. I forget the particularly quantitative expression.
How much will the person whom mass can say a value which degree distance with the earth has how long to exactly with sun be?
I think that there is no it in 1,000 people. I study before an examination and I forget it afterwards and do not mind that I forgot it. It is not important.


Because it is it, the detailed thing does not matter, and even the Ptolemaic theory is the Copernican theory, but thinks that both are enough. Either is explicable.



Achievements of Ptolemy


In addition, the trigonometry that Ptolemy made up is important.
It developed with trigonometric function tabulation.
The trigonometry is the origin of the present trigonometric function.


The trigonometry uses the relations of the length of the string and the length of the arc.
The trigonometry is important now as it is the basics of the relations that a used trigonometric function uses an angle and the length of the string for.


I use many it in the building site. The trigonometric function is required by the design of a car and the plane.

2023年05月03日

アルキメデス
5/3改訂【兵器を発案し円周率を推定(幾何学的考察)】

こんにちはコウジです!
「アルキメデス」の原稿を改定します。
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【紀元前287年頃 〜 紀元前212年】



多彩な人であったアルキメデス



【英:Archimedes・希: Ἀρχιμήδης】
アルキメデスは、古代ギリシアの数学者で、物理学者で、
技術者で、発明家で、天文学者です。
古典古代においてのトップクラスの科学者といえます。
鉤爪の兵器や光線の兵器を発案して、多角形をつきつめて
円周率を推定していたりしました。


アルキメデスは古代ローマ時代に生きた人で、

その生涯は、アルキメデス亡くなった後に、
後の世界の歴史家たちによって
記録を元に推定されました。

歴史上の人物は誰しも記録に頼る
部分があるのですがアルキメデス
の場合は特に死後何百年経ってから
編纂されたとされており、それ故に
不確かな部分が多いです。何より
アルキメデスは多くの仕事を残しました。



アルキメデスの業績



アルキメデスの友人等が、
その伝記を残しておらず、
正確にわかっているのは
戦記に裏付けられた
最後の瞬間だけなのです。

アルキメデスがローマ軍の
シラクサ攻囲戦で死んだことが、
彼の死に関する故事の記述から
正確に判明しているのです。
例えば、アルキメデスの生年は、
死んだ日時の年齢から逆算して
「推定」されています。


アルキメデスの関心は美学に基づいていて、
純理論による論理体系の構築が特徴です。そして半面で
実利的な有用性が顕著です。具体的にアルキメデスの原理とは、
アルキメデスが発見した流体力学での法則です。
圧力というパラメターを発見される前に、
圧力のもたらす(半面的な)効果を利用しました。
論理的に考えていき対象があった部分の
空間が及ぼしている力を浮力として考えたのです。

定式化された形としては、
「流体(液体や気体)中の物体は、対象となる物体が
【押しのけている流体の重量】と同じ大きさで
(ベクトル的に)逆向きの浮力を受ける」
という原理です。他、円周率や数列で
アルキメデスは仕事を残しています。



アルキメデス最後の逸話



話戻って、アルキメデスの亡くなる時のお話です。
その評判を知っていた指揮官・マルケッルスは、
アルキメデスには危害を加えないよう指示しました。

彼の家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは
砂盤(今でいえばノートの役割)に描いた図(円形)
の上で、何か考えこんでいました。
入り込んだ部屋がアルキメデスの部屋だとは理解していない
ローマ兵が名前を聞きましたが、没頭していたアルキメデス
は無視し、そのことに兵は腹を立てアルキメデスを殺したのです。


アルキメデス最期の言葉は
「私の円をこわすな!」(Noli turbare circulos meos!)だったと言われています。そのローマ人は命令に反し、アルキメデスを殺害してしまったのです。



そして、後にアルキメデスを殺害してしまった事をとても遺憾に思い、苦慮したと言われています。




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[English: Archimedes / Greeks: Ἀρχιμήδης]
Archimedes is an ancient Greek mathematician, physicist, engineer, inventor, and astronomer. He is one of the top scientists in classical antiquity. He devised claw weapons and ray weapons, and used polygons to estimate pi.

Archimedes was a person who lived in ancient Roman times, and his life was estimated based on records by historians of the later world after Archimedes died.

Every historical figure relies on records, but Archimedes is said to have been compiled hundreds of years after his death, so there are many uncertainties. Above all, Archimedes left a lot of work.

Archimedes' friends and others have not left the biography,

and only the last moment supported by the war record is known exactly.

Archimedes died in the Roman siege of Syracuse, exactly as the story of his death reveals.

For example, Archimedes' year of birth is "estimated" by back-calculating from the age of his death.

Archimedes's interest is in the construction of a logical system based on a pure theoretical structure based on aesthetics, and the practical aspect is remarkable.

Specifically, what is Archimedes' principle?
It is a law in fluid mechanics discovered by Archimedes.
Before discovering the parameter of pressure
He took advantage of the one-sided effect of pressure.
The part where there was an object to think logically
He considered the force exerted by space as buoyancy.

As a formalized form,
"An object in a fluid (liquid or gas) is a target object.
With the same size as [the weight of the fluid being pushed away]
Receives buoyancy in the opposite direction (vectorly) "
Is the principle. In addition, in pi and sequence
Archimedes is leaving work.

Returning to the story, it is the story of Archimedes' death.
Marcus, a soldier who knew his reputation,
He ordered to his stuff as Archimedes not to harmed !
When Roman soldiers entered his house, Archimedes
Figure (circular) drawn on the sandboard (the role of a notebook now)
On top of that, Archimedes was thinking about something.
The Roman doesn't understand that the room he entered is

Archimedes' room.

Roman soldiers heard the name, but Archimedes was absorbed
Ignored, and the soldiers got angry and killed Archimedes.

Archimedes' last words
"Don't break my circle!" (Noli turbare circulos meos!)

It is said that it was. Military personnel violate orders, about Archimedes.
He is said to have suffered because he was very regrettable to had  killed Archimedes.

2023年05月02日

こんにちはコウジです!
「デモクリトス」の原稿を改定します。
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【BC460年頃 ~ BC370年頃】




 原子論の始まり


デモクリトスは、古代ギリシアの哲学者です。苗字と名前がありそうだから調べてみたら見つかりません。この時代には未だ無いのかも知れません。何よりデモクリトスは初期の原子論を明確に示した人です。

デモクリトスはレウキッポスを師匠として、その理論を確立しました。ベルシャの僧侶やエジプトの神官に学び、果てはインドやエチオピアまで出かけて見聞を広めたそうです。そんな活動的な人生を歩んでいて、仕舞いには生活に困るようになってしまい、最後は故郷のご兄弟に扶養の世話になっていたそうです。ただ死後はデモクリトスの著作物の公開朗読によって多額の贈与を受け国葬されたと伝えられています。

デモクリトスと統計的総合作用


 小さな単位元を設けて統計的な総合作用として特定の物体を考えていく「手法」がデモクリトスによって始められました。世界解釈として非常に重要です。ハイゼンベルグはその著書「現代物理学の自然像」(1955)において指摘しています。
「デモクリトスは次の命題を立てている。『甘いもの、または酸っぱいものはただ見かけだけであり、色はただ見かけだけであり、実際にはただ原子と空間があるだけである。』 」


デモクリトスは統計的な手法を発展させられる時代には生きていませんが、「統計的考え方の土壌を作った」と断言できます。
食物は、燃やしてしまえば匂いも舐めた味もほぼ均一化されるのです。
人間生活の上で大事なものは対象物の、@特定時間での統計的法則性でありまた、観測する(または過去の事象の場合はパラメターを採取する)Aタイミングなのです。結果として統計的な作業の結果は事実の近似として「統計の解」が求まります。その「解が最適解であるか?」という議論が出来るのです。


また、上記@、Aと最適解の判断が、会話の中で出来ていない人は残念な人として扱われてしまいます。皆さん、少しでも良い議論を交わして下さい。

デモクリトスは哲学、詩学、倫理学、数学、天文学、音楽、生物学などで博識を示し、「知恵 (Sophia)」の異名を受けていました。私の視点では(物理学の観点から)原子論を創り出した点が特に重要です。

物質根源への定性的アプローチ 


物質の根元についての学説は、(後の)アリストテレスが完成させた四大元素(火・空気・水・土)が別途あって、時代ごとに原子論か四代元素かのどちらかが主流となって人々は根源物質を考えていました。デモクリトス以後、原子論は長らく反主流でしたが、ジョン・ドルトンの時代に彼によって優勢となりました。

【ドルトン以降の原子論は、デモクリトスの説と全く同じではありません。】ドルトンの時代には対象原子の質量やサイズに関する議論は無かったようですが、物質の根源物質を原子として考えて、元素の種類があると考えたのです。

実際には核反応で原子は変化していきますが、日常生活を
支えている物質が「元素」という最少単位を使って表現出来る
とデモクラテスは議論していったのです。
化学的手段が無い時代に、こうした基礎知見を
確立できたのは驚くべき考察録です。


デモクリトスの導き出した洞察は
後の物理学の発展に大きく寄与しました。
どんどん現在でも知識が深められているのです。



〆最後に〆




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The beginning of atomism


Democritus is an ancient Greek philosopher. I can't find it when I look it up because his last name and name are likely to be there. It may not be there yet in this era. Above all, Democritus is a person who clearly showed the early atomism.


Democritus established the theory with Leucippus as his mentor. He learned from Bersha monks and Egyptian priests, and eventually went to India and Ethiopia to spread his sights. He was living such an active life, and his disposition made him difficult to live, and in the end he was taken care of by his brothers in his hometown. However, after his death, it is reported that he was given a large gift and was state funeral by public reading of Demox's work.


Democrates has shown knowledge in philosophy, poetry, ethics, mathematics, astronomy, music, biology, etc., and has been nicknamed "Sophia". From my point of view, it is especially important that I created atomism (from a physics point of view).



Qualitative approach to material origin


The theory about the roots of matter has four major elements (fire, air, water, and soil) completed by (later) Aristotelis, and either atomism or the fourth element is the mainstream for each era. People were thinking about the source material. Atomism has long been anti-mainstream since Democrates, but was dominated by him during the time of John Dalton. [Atomism after Dalton is not exactly the same as Democritus's theory. ] It seems that there was no discussion about the mass and size of the target atom, but I thought that the source substance of the substance was considered as an atom and that there were different types of elements. In reality, atoms change due to nuclear reactions, but Democrates argued that substances that support daily life can be expressed using the smallest unit called "elements." It is a surprising record that we were able to establish such basic knowledge in an era when there was no chemical means. The insights derived by Democrates contributed significantly to the later development of physics. Knowledge is being deepened steadily even now.


〆Finally〆

2023年05月01日

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【BC582 ~ BC496】

謎に包まれたピタゴラスの人生


ピタゴラスは古代ギリシャの数学者です。

皆さんもピタゴラスの定理(三平方の定理)

という言葉は聞いた事があると思います。

初等幾何学で出てくる話で、色々と応用が効きます。

同じギリシャのデモクラテスは朗らかなイメージ

なのに対し、ピタゴラスのイメージは暗く

謎に包まれています。トルコの辺りで生まれた

らしいと言われています。そして、

その後は現代に余り情報が残っていません。そもそもピタゴラスが組織したと言われた教団は秘密主義を徹底して、組織内の話しを外部に漏らすことを厳しく禁じました。実際に秘密結社ですから掟に背いた時は罰を受け、海に突き落とされたそうです。

何度聞いても残酷な話しみたいで、その時代の人は泳げなかったから死刑に相当しました。たまたま漁師で泳げる信者が浮かんできたとしたら、船から棒で突かれたりしたのでしょう。こうした秘密主義の教団だったので、ピタゴラスの肖像画も見れませんし、遺稿も無いそうです。

我々がピタゴラスの人物像を垣間見れるのは2次情報で、教団との関わりが無くなってきた御弟子さんの話とか著作物なのです。そうした2次情報によると、ピタゴラスの若い時代にはエジプトやインドを旅したりしていて、幾何学、天文学、算術、比率、宗教密儀、ゾロアスター教などに関わりピタゴラスは知識を深めました。

 ピタゴラスの独自性


ピタゴラスの考え方で特徴的なのは「あらゆる事象には数が内在している」という客観的な事実の提唱でした。確かに後の理解で整理すると、その時々に万物には質量があり、「固体・気体・液体」といった状態があり、空間上で占めている体積があって、その時の温度があります。

各種パラメターを使い、後の学者たちはそれぞれの関係を法則化して体系化していくのですが、それは後の話です。そうした議論の土壌をピタゴラスじは作り始めたと言えます。非常に大きな進歩だったと思えます。音楽の世界や天文の世界でも数(数値)が大きな役割を果たすことをピタゴラスは示したのです。

ピタゴラス学派の活動と顛末


エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率の知識を得て、ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれています。そうした修行・研修の時期を過ごした後にピタゴラスはイタリア半島を拠点とし活動しています。

色々な人々をピタゴラスは言動で惹き付け、やがては沢山の弟子を集めピタゴラス学派(ピタゴラス教団)と呼ばれる団体を組織します。この組織にはいつしかパトロンが出来たりした時期もあったのですが、組織に対抗する人も出てきたりして、最終的には暴動が起きてしまいピタゴラスも殺されてしまったようです。

〆最後に〆


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The mysterious life of Pythagoras


Pythagoras is an ancient Greek mathematician. I think you have heard the term ”Pythagorean theorem” (three squares theorem). It is a story that comes out in elementary geometry, and it can be applied in various ways. The same Greek Democrates has a cheerful image, while the image of Pythagoras is dark and mysterious. They said Pythagoras to have been born around Turkey. and,

After that, there is not much information left in modern times. The sect, which they said to have been organized by Pythagoras in the first place, strictly prohibited the leakage of stories within the organization to the outside. Since it is actually a secret society, he was punished when he violated the rules and had pushed into the sea.


No matter how many times I heard it, it seemed  for me like a cruel story, and people of that era couldn't swim, so it was equivalent to the death penalty. If a believer who happened to be a fisherman had been floating, they would have stabbed  with a stick from the ship. Since it was such a secretive cult, we could not see the portrait of Pythagoras, and there was no manuscript.


For the Pythagoras's era is extreemly old. What we can get a glimpse of is the story and copyrighted work of the disciple who has lost his connection with the cult in the secondary information. According to such secondary information, Pythagoras traveled to Egypt and India when he was young, and he deepened his knowledge about geometry, astronomy, arithmetic, ratios, religious esoterics, Zoroastrianism, and so on.



Uniqueness of Pythagoras


A characteristic of Pythagoras's thinking was the advocacy of the objective fact that "every event has a number inherent in it." Certainly, if we summarize it later, there is a mass in everything at that time, there is a state such as "solid / gas / liquid", there is a volume occupied in space, and there is a temperature at that time.


Using these various parameters, later scholars will systematize and systematize their relationships, but that is a later story. Pythagoras created the ground for such discussions. I think it was a huge step forward. Pythagoras has shown that he also plays a number of major roles in the world of music and astronomical.



Activities and consequences of the Pythagorean school


Pythagpras had said to have studied geometry and religious esoterics in Egypt, gained knowledge of arithmetic and proportions in Phoenicia, and studied under a Zoroastrian priest.


After spending such training and training, Pythagpras had based in the Italian Peninsula. Pythagoras had attracted various people with words and deeds, and eventually gathers many disciples and organizes an organization They called the Pythagorean School (Pythagorean Church). There was a time when a patron had formed in this organization, but some people opposed the organization, and they said that Pythagoras was eventually rioted and killed.

2023年04月30日

時代別(順)での物理学者のご紹介
コペルニクス以前の時代から‗4/30改訂

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4月に7名を新たに盛り込みました。
(パワー・赤崎・シュバルツヴァルト・鈴木
ヘルツシュブルング・ガイガー・伏見)


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以下に時代別(順)に


物理学者を羅列します


ご覧下さい。


 

まだ力学の原理も電磁気学の原理も使えない時代に、


手触りの他に大きさを確かめ重さを確かめ、夜には


天文観察から始めて、現象を数値化していきました。


そして人々は現象を定式化していきました。


そんな時代から順次ご紹介致します。


 

17世紀以前の生まれ


ピタゴラス_BC582 ~ BC496
デモクリトス_BC470  ~BC399
アルキメデス_BC287頃 ~ BC212
プトレマイオス_ 83年頃 - 168年頃
N・コペルニクス_1473年2月19日 ~ 1543年5月24日
ゲオルク・レティクス_1514年2月16日 〜 1574年12月4日
ティコ・ブラーエ_ 1546年12月14日-1601年10月24日
ジョルダーノ・ブルーノ_1548年 ~ 1600年2月17日
ガリレオ・ガリレイ_1564年2月15日 ~ 1642年1月8日
ヨハネス・ケプラー_1571年12月27日 ~ 1630年11月15日
ルネ・デカルト_1596年3月31日 〜1650年2月11日



ヘンリー・パワー_Henry Power FRS‗1623年生まれ ~ 1668年没
ブレーズ・パスカル_1623年6月19日 ~ 1662年8月19日

ロバート・ボイル_1627年1月25日 ~ 1691年12月31日
クリスティアーン・ホイヘンス_1629年4月14日 ~ 1695年7月8日
アイザック・バロー_1630年10月 ~ 1677年5月4日

ロバート・フック_1635年7月28日 ~ 1703年3月3日
アイザック・ニュートン_1642年12月25日 〜 1727年3月20日
建部賢弘(たけべ かたひろ)_1664年(寛文4年)6月 〜 1739/8/24
P・V・ミュッセンブルーク_1692年3月14日 ~ 1761年9月19日

コリン・マクローリン_1698年2月 ~ 1746年6月14日



18世紀生まれ 


ダニエル・ベルヌーイ_1700年2月8日 ~ 1782年3月17日
ベンジャミン・フランクリン_ 1706年1月17日 ~ 1790年4月

L・オイラー_1707年4月15日 ~ 1783年9月18日
平賀源内_1728 ~ 1780年1月24日(番外編)
ジェームズ・ワット_ 1736年1月19日 ~ 1819年8月25日

ルイ・ラグランジュ_1736年1月25日 ~ 1813年4月10日
C・A・クーロン__1736年6月14日 ~ 1806年8月23日
アントニオ・ヴォルタ_1745年2月18日 ~ 1827年3月5日
ジャック・C・シャルル_1746年11月12日 – 1823年4月7日
ジョン・ドルトン_1766年9月6日~1844年7月27日
トマス・ヤング_ 1773年6月13日 ~ 1829年5月10日

アンドレ・アンペール_1775年1月20日 ~ 1836年6月10日
ヨハン・C・F・ガウス_1777年4月30日 ~ 1855年2月23日
ハンス・エルステッド_1777年8月14日 ~ 1851年3月9日
オーギュスタン・J・フレネル_1788年5月10日 ~ 1827年7月14日
G・S・オーム_1789年3月16日 ~ 1854年7月6日
ルイ・コーシー_1789年8月21日 ~ 1857年5月23日
マイケル・ファラデー_1791年9月22日 〜 1867年8月25日
N・L・S・カルノー_1796年6月1日 ~ 1832年8月24日



19世紀生まれ


C・A・ドップラー_1803年11月29日 ~ 1853年3月17日
H・レンツ_1804年2月12日 ~ 1865年2月10日
W・R・ハミルトン‗1805年8月4日 ~ 1865年9月2日



J・R・マイヤー_1814年11月25日 ~ 1878年3月20日
J・P・ジュール1818年12月24日 〜 1889年10月11日
Sir・G・G・ストークス_1819年8月13日 ~ 1903年2月1日

L・フーコー_1819年9月18日 ~1868年2月11日
A・H・ルイ・フィゾー_1819年9月23日 〜 1896年9月18日



L・F・ヘルムホルツ_1821年8月31日生まれ - 1894年9月8日没
R・J・E・クラウジウス_1822年1月2日 〜1888年8月24日

G・ロベルト・キルヒホフ_1824年3月12日 ~ 1887年10月17日
W・トムソン_1824年6月26日 ~ 1907年12月17日


J・C・マクスウェル_1831年6月13日~1879年11月5日
E・W・モーリー__1838年1月29日 ~ 1923年2月24日
エルンスト・マッハ_ 1838年2月18日 ~ 1916年2月
ウィラード・ギブズ_1839年2月11日 ~ 1903年4月28日


トマス・メンデンホール‗1841年10月4日〜1924年3月23日
J・W・ストラット_1842年11月12日 ~ 1919年6月30日

E・ボルツマン_1844年2月20日 〜 1906年9月5日
W・C・レントゲン_1845年3月27日 ~ 1923年2月10日

トーマス・A・エジソン_1847年2月11日 ~ 1931年10月18日
J・A・フレミング_1849年11月29日 ~ 1945年4月18日


A・A・マイケルソン_1852年12月19日 ~ 1931年5月9日
H・A・ローレンツ_1853年7月18日 ~ 1928年2月4日
カメリー・オネス_1853年9月21日 ~ 1926年2月21日
アンリ・ポアンカレ_1854年4月29日 ~ 1912年7月17日
山川 健次郎_1854年9月9日 ~ 1931年6月26日
ニコラ・テスラ__1856年7月10日 ~ 1943年1月7日

田中舘愛橘_1856年10月16日 ~ 1952年5月21日
J・J・トムソン_1856年12月18日~1940年8月30日
ハインリヒ・R・ヘルツ_1857年2月22日 ~ 1894年1月1日
マックス・プランク_1858年4月23日 ~ 1947年10月4日
ピエール・キューリ_1859年5月15日 ~ 1906年4月19日


ダーヴィット・ヒルベルト-1862年1月23日 ~ 1943年2月14日
ヴィルヘルム・C・W・ヴィーン_1864年1月13日 ~ 1928年8月30日
ピーター・ゼーマン_1865年5月25日 ~ 1943年10月9日

長岡半太郎_1865年8月19日 ~ 1950年12月11日
マリ・キュリー_1867年11月7日 ~ 1934年7月4日
ロバート・ミリカン_1868年3月22日 ~ 1953年12月19日
ゾンマーフェルト_1868年12月5日 ~ 1951年4月26日
中村清二_1869年10月28日~1960年7月18日


本多光太郎_1870年3月24日 ~ 1954年2月12日
アーネスト・ラザフォード_1871年8月30日~1937年10月19日
ポール・ランジュバン_1872年1月23日 ~ 1946年12月19日
アイナー・ヘルツシュプルング ‗1873年10月8日 ~ 1967年10月21
カール・シュヴァルツシルト‗1873年10月9日 ~ 1916年5月11日
鈴木 梅太郎_1874年4月7日 ~ 1943年9月20日
F・ハーゼノール_1874年11月30日 – 1915年10月7日

高木 貞治_1875年4月21日 ~ 1960年2月28日
ヘンリー・ノリス・ラッセル_1877年10月25日 〜 1957年2月18日

寺田寅彦_1878年11月28日 ~ 1935年12月31日
大河内正敏 _1878年12月6日 ~ 1952年8月29日
A・アインシュタイン_1879年3月14日 ~ 1955年4月18日


ポール・エーレンフェスト_1880年1月18日 ~ 1933年9月25日
石原敦_1881年1月15日 ~ 1947年1月19日
ハンス・ガイガー‗1882年9月30日 ~ 1945年9月24日
マックス・ボルン_1882年12月11日 ~1970年1月5日

F・W・マイスナー_1882年12月16日 ~ 1974年11月16日
アウグスト・ピカール__1884年1月28日 ~ 1962年3月24日
ピーター・デバイ_ 1884年3月24日 ~ 1966年11月2日
西川 正治_1884年12月5日 ~ 1952年1月5日
ニールス・ボーア_1885年10月7日~1962年11月18日
シュレディンガー_1887年8月12日 ~ 1961年1月4日
オットー・シュテルン_1888年2月17日 ~ 1969年8月17日
ハリー・ナイキスト_1889年2月7日 ~ 1976年4月4日
ヴァルター・ゲルラッハ_1889年8月1日 ~ 1979年8月10日
エドウィン・P・ハッブル_1889年11月20日 ~ 1953年9月28日


仁科 芳雄_1890年12月6日 ~ 1951年1月10日


J・チャドウィック_1891年10月20日 ~ 1974年7月24日
ルイ・ド・ブロイ_1892年8月15日~1987年3月19日
アーサー・コンプトン_1892年9月10日~1962年3月15日
サティエンドラ・ナート・ボース_1894年1月1日 ~ 1974年2月4日



20世紀生まれ


J・F・ジョリオ=キューリー_ 1900年3月19日 〜 1958年8月14日
ヴォルフガング・E・パウリ_1900年4月25日 ~ 1958年12月15日

アーネスト・O・ローレンス_1901年8月8日 ~ 1958年8月27日
エンリコ・フェルミ_1901年9月29日 ~ 1954年11月28日
ハイゼンベルク 1901年12月5日 ~ 1976年2月1日
ポール・ディラック_1902年8月8日 ~ 1984年10月20日
和達清夫_1902年(明治35年)9月8日 ~ 1995年1月5日

E・ウィグナー_1902年11月17日 ~ 1995年1月1日
セシル・パウエル_1903年12月5日 ~ 1969年8月9日
フォン・ノイマン_1903年12月28日 – 1957年2月8日

J・R・オッペンハイマー__1904年4月22日 ~ 1967年2月18日
朝永振一郎_1906年3月31日 ~ 1979年7月8日
ハンス・アルプレヒト・ベーテ__1906年7月2日 ~ 2005年3月6日
湯川秀樹_1907年1月23日 ~ 1981年9月8日
エドワード・テラー__1908年1月15日 ~ 2003年9月9
レフ・ランダウ_1908年1月22日 ~ 1968年4月1日
ジョン・バーディーン_1908年5月23日 ~ 1991年1月30日
ネイサン・ローゼン_, 1909年3月22日 – 1995年12月18日
伏見康治‗1909年6月29日 〜 2008年5月8日
ニコライ・N・ボゴリューボフ_1909年8月21日 ~ 1992年2月13日


坂田 昌一_1911年1月18日 ~ 1970年10月16日
武谷三男_1911年10月2日 ~ 2000年4月22日
矢野 健太郎_1912年3月1日 ~ 1993年12月25日

D・J・ボーム_1917年12月20日 ~ 1992年10月27日
R・P・ファインマン__ 1918年5月11日 〜1988年2月15日



アイザック・アシモフ_1920年1月2日 ~ 1992年4月6日

久保亮五_1920年2月15日 ~ 1995年3月31日
竹内均_1920年7月2日 ~ 2004年4月20日

南部 陽一郎_1921年1月18日 ~ 2015年7月5日
フィリップ・W・アンダーソン_1923年12月13日 ~ 2020年3月29日
中嶋 貞雄_1923年6月4日 ~ 2008年12月14日
江崎玲於奈_1925年3月12日 ~ 【ご存命中】
小柴昌俊 _1926年9月19日 ~ 2020年11月12日
西島 和彦_1926年10月4日 ~ 2009年2月15日
小出昭一郎_1927年3月25日 ~ 2008年8月30日

広重 徹 1928年8月28日 ~ 1975年1月7日
大貫 義郎_1928年 ~ ご存命中
赤ア 勇‗1929年1月30日 ~ 2021年4月1日

マレー・ゲルマン_1929年9月15日 ~ 2019年5月24日


レオン・クーパー__1930年2月28日 ~(ご存命中)
有馬朗人_1930年9月13日 ~ 2020年12月6日

ロバート・シュリーファー _1931年5月31日 ~ 2019年7月27日
ロジャー・ペンローズ_1931年8月8日生まれ ~ (ご存命中)
_J・J・サクライ __1933年1月31日 ~ 1982年11月1日
ムツゴロウさん【本名:畑 正憲_1935年4月17日 -生まれ_ご存命中】
村上陽一郎_1936年9月9日生まれ-(ご存命中)
B・D・ジョゼフソン_1940年1月4日〜 (ご存命中)
益川敏英_1940年2月7日生まれ~2021年7月23日
S・W・ホーキング_1942年1月8日生まれ~2018年3月14
小林誠‗1944年4月7日生まれ 〜 ご存命中
ブライアン・ハロルド・メイ_1947年7月19日~ご存命中
大栗 博司‗1962年生まれ個人情報非公開〜ご存命中




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以下アドレスまでお願いします。
全て読んでいます。
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2020/09/14_初稿投稿
2023/04/30_改定投稿


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2023年04月29日

【Topics】量子コンピューターの原理における回路量子電磁力学(特に超伝導共振器)4/29改訂

こんにちはコウジです。


「量子コンピューターの原理」関連の投稿を改訂します。
本稿は色々な関心につながっているので特に、
関連技術との繋がりを意識して発展させていくつもりです、
ご覧ください。


(写真は従来の基盤の写真です)




理研の中村泰信さんの論文から


最近、中村さんに大変注目していて、そこから話を始めます。

特に最近稼働を始めた量子コンピューターを勉強している中で

私が今まで分かりづらかった情報読み出し機構について

明快に2021年の論文で説明をしています。


ジョセフソン接合


ユーチューブで公開されていますが、
理化学研究所導入の量子コンピュータでは
「線幅100nm~200nmのジョセフソン接合」
を使い量子ビットの回路を作り上げています。


ジョセフソン接合は具体的に超伝導体(例えばAL)
で絶縁体(例えばAL2O3)を挟みます。これを使い
従来型の回路であるLC共鳴回路を発展させていく
事が出来ます。
【以下、応用物理‐第90巻より引用(太字部)】


超伝導体と超伝導体の間のトンネル接合であるジョセフソン
接合の寄与により,強い非線形性を導入することができる.
ジョセフソン接合は回路上で非線形なインダクタンス
として振
る舞う.



理化学研究所で導入している量子コンピュータを始めとして
世界中で今開発されているほとんど全ての量子コンピュータ
では回路量子電磁力学の考え方に基づき、
以下で述べるアイディアを応用しています。


超伝導共振器を使うアイディア


【以下、応用物理‐第90巻より引用(太字部)】

量子情報を非調和的な量子ビット回路に蓄えるのではなく,
超伝導共振器に蓄えようという アプローチである.
後者の利点として,ジョセフソン接合を必 要としないため,
電磁場モードが空間中に広がり表面・界面 欠陥の影響を
受けにくい 3 次元的な空洞共振器を用いるなどして,
量子ビットと比べて高い Q 値(=ω/k)すなわち長いコヒーレンス時間
を実現することが容易であることが挙げられる.加えて,
共振器中のデコヒーレンスは光子の損失によるエネルギー緩和
が支配的で位相緩和がほぼ無視できること,また調和振動子特有の
等間隔に並んだ多数のエネルギー準位によって形成される大きな
状態空間を用いた量子誤り訂正符号を実装可能 であることも利点である.

₍中略)
量子ビット状態の非破壊射影読み出し機構として,
こ の回路量子電磁力学のアイデアが使われている.すなわち,
量子ビットにそれとΔだけ離調した読み出し用共振器を結合させ,
量子ビットの状態に応じた読み出し用共振器の共鳴周波 数シフト
(分散シフト〜(g^2) /Δ)を,読み出し用マイクロ波パルスの受ける
反射位相の変化として検出することによる


また、もともとの考えは

A. Wallraff, D.I. Schuster, A. Blais, L. Frunzio,

J. Majer, M.H. Devoret, S.M. Girvin, and R.J. Schoelkopf

等によって Phys. Rev. Lett. 95, 060501 (2005).にて議論

されていた内容です。中村氏がSQUIDなどと合わせて

全体像を解説してくれている中で紹介されています。


私はこの考えに教えられ、今まで見てきたユーチューブなどでの

量子コンピュータ基盤のパターンが納得出来るようになりました。
共振側の回路でのコヒーレント時間が確保できれば
実用上、量子コンピューターの計算が進められます。

コヒーレントな時間とは量子コンピュータを考えるうえで

非常に大事な概念で、量子的に考察した時の性能指標

と言えます。それはおおよそ0.1ナノ秒程度の

時間を目安に考えて下さい。この時間が

量子コンピュータでの計算では重要となります。

またコヒーレント時間を私は

「情報の(電源)トランスミッター」といったイメージで
超伝導共振器を考えています。


共振を始めた時点で古典力学的な振り子運動がイメージ出来て
離散的な2準位系で|0>|1>という2つの状態(ケット)
が共振していくのです。重ねあわされた量子ビットの完成です。


また時間を作り、

量子コンピューターについて更に考えてみる積りですが、

こうした明快な論文を出来るだけ見つけていきたいです。

時は金なり。ありがたい時間です。



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問題点に対しては
適時、返信・改定をします。


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2023/04/14‗初稿投稿
2023/04/29‗改訂投稿


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