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2024年01月27日

ルイ・ド・ブロイ
1/27改訂【電子の仮説を極め、新概念の物質波を生んだフランス貴族】

こんにちはコウジです!
「ド・ブロイ」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
ド・ブロイが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。


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【1892年8月15日生まれ~1987年3月19日没】



名門家に生まれたド・ブロイ


ルイ・ド・ブロイはフランス貴族、公爵の血を引いてます。


その血筋は由緒正しいのです。そもそも、


フランス国王ルイ14世により授爵頂いていた


名門貴族・ブロイ家の血筋であって、ルイ・ド・ブロイは


直系子孫です。兄の没後は兄に子供が居なかった


事情もあって、正式に侯爵家の当主を務めています。


ルイ・ド・ブロイはフランスの首相を二期務めた第4代の当主である
アルベール・ド・ブロイの孫です。それだから、
ルイの生誕時に、その父は当時公子でした。
こんな逸話が沢山あるのですね。


そんなルイ・ド・ブロイは独自に優れた仮説を進め、


ド・ブロイ波(物質波)の考えにたどり着くのです。



ドブロイの物質波 


そのルイ・ド・ブロイの考えは初めは中々
理解されませんでした。
関連して
超有名なエピソードがあります。


ルイ・ドブロイの博士論文の審査過程で教授達が
ド・ブロイの考えを理解出来ず、
かのアインシュタインに意見を求めたのです。


すると、
「ド・ブロイの考えは博士論文よりも
ノーベル賞に値する」
とアインシュタインから評価され、
絶賛され、更に物質波の考えを進めていく事が出来たのです。


その考えはパラダイムシフトでした。
粒子の二面性の考えは
現代量子力学の根幹をなしていて、
とても大事な考えです。
ドブロイを含めた学者達が議論を重ね、
当時の物理学の常識を変えていったのです。



物質の二面性


波が粒子性を持つのと同時に、
粒子である
と考えられていた電子も、
実際には波動性を持つだろう
という考え
がドブロイ波の本質です。


現代量子力学の理解ではこの二面性は当たり前ですが、
波動性を持つ故に特定元素の周りを周期的に
運動する
と考えた時に電子は
特定波長の整数倍のみ許された
軌道を描いている
と考えられるのです。


実際に我々は原子の周りを運動する電子を
直接の観測にかける事は出来ません。


しかし、水素、ヘリウム、リチウム、、と色々な原子を
考えていった時に、それらを構成する
陽子と中性子の
結合条件を詳細に吟味した結果として
電子の軌道半径
は規則があり、
ド・ブロイ波の理論が理に叶うのです。


逆に考えれば特定波長の整数倍の運動しか、
その電子が取る状態は許されないのです。


特定原子核の周りを回る電子は特徴的な波長の整数倍
を定常状態として周期運動を続け、
定常状態間の遷移が
起きる際に放射線が生じる事実は、
ドブロイを初めとする
考えがあってこそ
成立する概念なのです。


それこそが電子の存在なのです。


実際に数年後にルイ・ド・ブロイは
ノーベル賞
を受賞します。


いつの時代も中々、斬新な新しい考えは
理解出来されないものですね。




以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全て返信出来てませんが
必要箇所は適時、改定をします。


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De Broglie was born into a prestigious family


Louis de Broglie is of the duke's blood, a French aristocrat. The lineage is venerable. In the first place, Louis de Broglie is a direct descendant of the prestigious nobleman, the Broy family, who was conferred by King Louis XIV of France. He is officially the head of the Marquis family, partly because his brother had no children after his brother's death.


Louis de Broglie is the grandson of Albert de Broglie, the fourth head of the French Prime Minister for two terms. So, at the time of Louis' birth, his father was a prince at the time. There are many such anecdotes. Such Louis de Broglie advances his own excellent hypothesis and arrives at the idea of ​​de Broglie wave (material wave).



Matter wave of debroi


The idea of ​​Louis de Broglie was not well understood at first. There is a related super famous episode. During the process of reviewing Louis de Broglie's dissertation, the professors could not understand De Broglie's ideas and asked Einstein for his opinion.


Then, "De Broglie's idea deserves the Nobel Prize more than his dissertation," was evaluated and praised by Einstein, and he was able to further advance the idea of ​​material waves. The idea was a paradigm shift. The idea of ​​two-sidedness of particles forms the basis of modern quantum mechanics and is a very important idea. Scholars, including Matter Wave, had many discussions and changed the common sense of physics at that time.



Two-sidedness of matter


The essence of de Broglie waves is the idea that at the same time that waves have particle nature, electrons that were thought to be particles will actually have wave nature. This duality is natural in the understanding of modern quantum mechanics, but when we think that it moves periodically around a specific element because it has wave nature, it is said that the electron draws an orbit that is allowed only an integral multiple of the specific wavelength. You can think of it. In fact, we cannot directly observe the electrons moving around an atom.


However, when considering various atoms such as hydrogen, helium, and lithium, as a result of detailed examination of the bonding conditions of the protons and neutrons that compose them, there is a rule in the orbital radius of the electron, and de Broglie. The theory of waves makes sense. Conversely, the electron is only allowed to move an integral multiple of a specific wavelength.


The fact that electrons orbiting around a specific nucleus continue to move periodically with an integral multiple of the characteristic wavelength as a steady state, and radiation is generated when a transition between steady states occurs is only possible with the idea of ​​de Broglie. It is a concept to do. That is the existence of electrons.


In fact, a few years later Louis de Broglie will win the Nobel Prize. It's hard to understand new ideas in all ages.


2024年01月26日

J・チャドウィック
1/26改訂【中性子を発見しガン治療に応用|マンハッタン計画でのリーダー】

こんにちはコウジです!
「チャドウィック」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
チャドウィックが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


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【1891年10月20日 ~ 1974年7月24日】



ラザフォードの弟子チャドウィック


ジェームズ・チャドウィックは研究環境で恵まれていました。


マンチェスター大学の時代からラザフォードの指導を受け、
海外修業時代にはガイガーの下で放射線計測の知見を積み上げました。


開発されたばかりのガイガーカウンターを使い
放射線特性での実績をあげます。第一次大戦終了後は
ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で
再び
ラザフォードの下で研究を続けます。


ドクター修了後も10年以上、
ラザフォードの助手を務めていました。


キャンデビッシュ研究所での討論や助言は
多分に
有益だったであろうと思われます。


チャドウィック以外にも有能な研究者達が集まっていました。
その中で
議論を交わしたのです。そんな中で
チャドウィックは
中性子を発見していきます。



チャドウィックと中性子


ベリリウムにアルファ粒子を衝突させたボーテ【Walther Bothe(独)】
1950年代の実験でチャドウィックは知見を得て、
電荷をもたない理論的な粒子である
「中性子」
を予感し考察を進め、キューリ夫妻の息子である
イレーヌ・ジョリオ=キュリーによるポロニウムとベリリウムで行った
1932年の実験検証を進めます。実験装置を工夫し、
理論を完成させます。


原子核の理解にとって大きな前進です。
中性子が説明されたのです。


ハイゼンベルク が「中性子とは陽子と電子の組ではなく
新たな核子である」と
考察していましたが質量は未確定でした。


その時点では実態の完全把握が未完でした。
そうした
中性に対してチャドウィックは明確に質量を示し、
重陽子の光壊変によって中性子質量を確定します。


質量の発見で原子構造をまた一つ明らかにしたのです。
更にチャドウィックは中性子がガン治療に有益であろうと考えます。




 軍需産業と物理学者


ただ残念な事に、チャドウィックの時代は世界大戦の時代と重なります。
マンハッタン計画では
イギリスチームのリーダーとして計画を進めて
いました。
トリニティー実験も目の当たりにしたようです。


自身が心血を注いで作り上げた概念が政治的に
利用されていく有り様をチャドウィックは、
どう感じていたのでしょうか。
不満だった筈です。


その他、パウリとの議論の発展、
サイクルトロンの導入、
ノーベル賞の賞金の
使い道については
追って、きちんと整理して再投稿したいです。


本稿はひとまず筆を納めます。


チャドウィックはキーズ・カレッジの学寮長として
晩年を過ごしています。そして、リヴァプール大学
には
彼の名を冠した研究所が残っています。



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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。


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2020/10/29_初回投稿
2024/01/26‗改定投稿


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Rutherford's disciple Chadwick


James Chadwick was blessed with a research environment. He has been under the guidance of Rutherford since the days of the University of Manchester, and during his overseas studies he accumulated his knowledge of radiation measurement under Geiger. He uses the newly developed Geiger counter to achieve a proven track record in radiation characteristics.


After the end of World War I, he continued his work under Rutherford again at the Cavendish Laboratory at the University of Cambridge. After graduating from his doctor, he was an assistant to Rutherford for more than 10 years. The discussions and advice at the Candebish Institute were probably helpful. In addition to Chadwick, talented researchers were gathered. We had a discussion in that. Meanwhile, Chadwick discovers neutrons.



Chadwick and neutrons


In the 1950s experiment of Beaute [Walther Bothe (Germany)] in which alpha particles collided with berylium, Chadwick gained knowledge and foresaw "neutrons", which are theoretical particles without electric charges, and proceeded with consideration. We will proceed with the 1932 experimental verification of polonium and berylium by Irene Joliot-Curie, the son of Mr. and Mrs. Curie.


He devises experimental equipment and completes the theory. It's a big step forward in understanding the nucleus. Neutrons were explained. Heisenberg considered that neutrons are new nucleons rather than proton-electron pairs, but their masses are uncertain. At that time, a complete grasp of the actual situation was incomplete.


Chadwick clearly indicates the mass for such neutrality, and the neutron mass is determined by the photodestruction of deuterons. The discovery revealed another atomic structure. In addition, Chadwick believes that neutrons may be beneficial in treating cancer.



Munitions industry and physicist


Unfortunately, the era of Chadwick overlaps with the era of World War. He was the leader of the British team in the Manhattan Project. He also seems to have witnessed the Trinity experiment. How did Chadwick feel that the concept he had created with all his heart and soul was being used politically? He must have been dissatisfied.


In addition, I would like to keep track of the development of discussions with Pauli, the introduction of Cycletron, and the use of the Nobel Prize money, and repost it properly. This article will be written for the time being. Chadwick spends his later years as a dorm director at Keys College. And the University of Liverpool still has a laboratory bearing his name.


2024年01月25日

仁科 芳雄
1/25改訂【サイクロトロンを開発し素粒子を研究した「人たらし」】

こんにちはコウジです!
「仁科 芳雄」の原稿を改定します。
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【1890年12月6日生まれ ~ 1951年1月10日没】



人を育てた仁科さん


仁科芳雄は稀代の「人たらし」だったと言われています。
仁科さんは人に惚れ込む性格でした。


仁科さんが人に入れあげる性格で、
その人の良い所を見つけて、それを伸ばす。
そんな仁科さんの元に人が集まる。


そんな風にして仁科さんの下に集まった沢山の人達を
育てあげていった凄さが仁科さんにはあるんです。


仁科さん本人はオランダ・コペンハーゲンの
ニールス・ボーアのもとで育ち、その自由闊達な
コペンハーゲンの学風を日本に持ち込み、
多くの学者を育てました。


1928年にオスカル・クラインとコンプトン散乱の
有効断面積を議論しています。


また帰国後にはハイゼンベルクディラック
日本に招待して日本の中での物理学への
理解を深め啓蒙活動を続けています。


更には、師であるボーアを日本に呼び寄せています。



仁科さんとサイクロン 


研究内容として仁科さんはサイクロンの建設を進めて、
様々な成果をあげてます。そのサイクロトロンは
国内初、世界で二番目の開発でした。
以後理化学研究所を拠点として開発は進み
「サイクロトロン建造技術はまさに理研のお家芸」
となっていくのです。【理化学件HPより抜粋】
そして、現在でもサイクロトロンを使った
素粒子の研究は続いています。


そのサイクロンを大型化する際には仁科さんは
大変苦労しています。
先行する
カリフォルニア大学のローレンスとは日米関係の悪化に伴い
関係が悪くなっていったのです。実際、サイクロトロン関係の
情報交換は
軍事的な側面を持つので出来なります。


そして終戦と共に、
仁科さんが
苦心して作り上げたサイクロンは
GHQにより東京湾に破棄されてしまいます。



仁科さんの晩年 


戦後には仁科さんは理化学研究所の所長を務め、
科研製薬の前身となる会社で社長を務めましたが、
肝臓ガンを患い61歳で亡なってしまいます。


放射線被ばくの影響もあったであろうと言われていて、
残念です。多くの人材育成に捧げた人生だったと感じています。


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Nishina who raised people


Yoshio Nishina is said to have been a rare "human being". Nishina-san had a personality that fell in love with people. He has the personality that Nishina puts into a person, and he finds the good points of that person and develops them. People gather under Mr. Nishina. In that way, many people gathered under Mr. Nishina, and Mr. Nishina has the awesomeness of raising them.


Mr. Nishina himself grew up under Niels Bohr in Copenhagen, the Netherlands, and brought his free-spirited Copenhagen academic style to Japan and raised many scholars. He discusses the effective cross-sectional area of ​​Compton scattering with Oskar Klein in 1928. After returning to Japan, he invited Heisenberg and Dirac to Japan to deepen his understanding of physics in Japan and continue his enlightenment activities. In addition, he is calling his teacher, Bohr, to Japan.



Nishina-san and Cyclone


As a research content, Mr. Nishina is proceeding with the construction of a cyclone and has achieved various results. Mr. Nishina is having a great deal of trouble in enlarging the cyclone. His relationship with the University of California, Berkeley, which preceded him, became worse as the relationship between Japan and the United States deteriorated. In fact, exchanging information related to cyclotrons is possible because it has a military aspect. And at the end of the war, the cyclone that was painstakingly created will be destroyed by GHQ in Tokyo Bay.



Nishina's later years


After the war, Mr. Nishina was the director of RIKEN and the predecessor of Kaken Pharmaceutical, but he suffered from liver cancer and died at the age of 61. It is a pity that he was said to have been affected by radiation exposure. He feels that he was a life dedicated to a lot of human resources development.


2024年01月24日

エドウィン・パウエル・ハッブル
_1/24改訂【赤方偏移を示し膨張宇宙論を論じました】

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【1889年11月20日 ~ 1953年9月28日】



ハッブルの意外な側面


ハッブルは近代の天文学者で、


膨張宇宙論を特徴づける


ハッブルの法則等が有名です。


そんな大天文学者ですが、高校時代は陸上で
イリノイ州の
記録を更新したりしていました。


そんな少年時代は後の人生と全く違いますね。
そして、
大学時代はボクシングでならし、
とあるプロモーターから世界チャンピオン
との一戦を
持ちかけられた程の強さでした。


これまた意外ですね。



ハッブルの業績


ハッブルの業績で大きいのは赤方偏移の発見でしょう。
1929年にセファイド変光星の観測から
明るさと変光周期の関係観測していく事で
赤方偏移の考え方を導きました。


赤方偏移とはドップラー効果を考慮した考えで
観測可能な大部分の銀河の光が波長の短い方向
(赤い色の方向)へ変化している現象です。


遠ざかっていく救急車の音が鈍くなっていくと
思い出してください。


ハッブルが考える宇宙論では、無論、直接の実験は出来ません。
使える理論も検証の為に理論が必要となる学問体系でした。


反面ハッブル提唱の赤方偏移は宇宙理論に明快な方向性を与え、
次の考えに繋がっていくのです



の後のハッブルの軌跡


赤方偏移の考えから
膨張宇宙論の考えが裏付けられ、ひいては
ビックバーン理論へとつながっていったのです。


また、我々が暮らす銀河と
別の銀河を見つけた業績も特筆するべきです。




 

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The surprising side of Hubble


Hubble is a modern astronomer who is famous for Hubble's law, which characterizes the theory of expanding cosmology. Although he is such a great astronomer, he used to break records in Illinois on land when he was in high school. Such a boyhood is completely different from later life. And when I was in college, I was so strong that I was able to get used to boxing and a promoter offered me a fight against a world champion. This is also surprising.


Hubble's achievements


Hubble's achievements will be the discovery of a redshift. He derived the idea of ​​redshift by observing the relationship between brightness and variable period from the observation of Cepheid variable stars in 1929. Redshift is a phenomenon in which the light of most galaxies that can be observed is biased toward a shorter wavelength (red direction) in consideration of the Doppler effect. Recall that the sound of an ambulance moving away is slowing down. Twice


Hubble's cosmology, of course, does not allow direct experiments. The theory that can be used was also an academic system that required theory for verification. On the other hand, Hubble's redshift gives a clear direction to the theory of the universe and leads to the next idea.


Hubble's trajectory after that


The idea of ​​redshift supported the idea of ​​expanding cosmology, which in turn led to the Big Burn theory.


Also noteworthy is his achievement in finding a galaxy different from the one we live in.


2024年01月23日

ヴァルター・ゲルラッハ
1/23改訂【シュテルンと銀粒子の縮退解放の実験を実現】

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 実験家ゲルラッハ


ゲルラッハはシュテルンと共に行った


実験で有名です。


本ブログの中ではシュテルンのご紹介は関連人物を中心としており、
実験内容が伝えられていませんでした。
対照的に
ゲルラッハと実験内容について語りたいと思います。


その実験はゼーマンとローレンツによる実験と通じる部分があります。
古典的な考えだけでは説明出来ない量子力学的な
状態の縮退を考慮する
必要があるという結論に繋がります。


ゼーマン効果ではナトリム原子からの電磁波が対象で
波動的側面から現象が理解できます。一方で
ゲルラッハの実験では加熱して蒸発した銀粒子が対象
ですので粒子的側面から現象が理解できます。


其々の実験対象において磁場をかけた時に縮退が
解けていく様子が観察されます。


古典的な予測では輝点に幅が出ると予想されます。
二つの輝点に分かれる現象は古典的に説明が出来ません。



実験の歴史的意義 


具体的にゲルラッハとシュテルンが行った実験では、
磁場で銀粒子の中の
電子スピンが分離されています。


加熱された銀粒子がビーム状に放射されている時に
ビーム経路
に対して垂直に磁場をかけます。


壁に当てたビームの輝点を見てみた時に古典論では輝点は一つです。
所が、
ゲルラッハとシュテルンの実験では
「縮退の解けた」2点が
はっきりと見てとれたのです。


量子力学的な考えに従うと、電子はスピンを持ち、
磁場に対して
同じ方向のスピンと逆の方向のスピンが存在します。
だから、磁場に対する軌跡が異なるのです。


この実験はゲルラッハが実現したようですが
シュテルンがドイツから亡命していた事情と、
政治絡みの判断、が相まって当初は
ゲルラッハの名は表に出ませんでした。



後日談 


さて、話を現代に近づけると、
2012年に日本で半導体内部で
同じ原理を使い同じ結果を得てます。


アイディアの種は色々な所にありますね。


強磁性体外部磁場を用いずに電子のスピン
揃えることに世界で初めて成功_2012年12月


https://www.ntt.co.jp/journal/1212/files/jn201212058.pdf




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Famous experimenter Gerlach


Gerlach is famous for his experiments with Stern. The introduction of Stern was centered around related people, and the content of the experiment was not communicated. I would like to talk about Gerlach and his experiments. The experiment has some similarities to the experiment by Zeeman and Lorenz. It leads to the conclusion that it is necessary to consider the degeneracy of quantum mechanical states that cannot be explained by classical ideas alone.


In the Zeeman effect, electromagnetic waves from Natrim atoms are targeted, and the phenomenon can be understood from the wave side. On the other hand, in the Gerlach experiment, the target is silver particles that have been heated and evaporated, and the phenomenon can be understood from the particle side. It is observed that the degeneracy is released when a magnetic field is applied to each experimental object. The classical prediction is that the bright spots will be wider. The phenomenon of splitting into two bright spots cannot be explained classically.



Historical significance of the experiment


Specifically, in the experiments conducted by Gerlach and Stern, the electron spins in the silver particles are separated by a magnetic field. When the heated silver particles are radiated in a beam shape, a magnetic field is applied perpendicular to the beam path. When you look at the bright spots of the beam that hits the wall, there is only one bright spot in classical theory. However, in the experiments of Gerlach and Stern, two points that were "degenerate" were clearly visible.


According to quantum mechanics, electrons have spins, and there are spins in the same direction and spins in the opposite direction to the magnetic field. Therefore, the trajectory with respect to the magnetic field is different. This experiment seems to have been realized by Gerlach, but the name of Gerlach was not revealed at the beginning due to the combination of Stern's exile from Germany and political judgment.



Later talk


Now, let's get closer to the present age. In 2012, we used the same principle inside semiconductors in Japan and obtained the same results. There are many seeds of ideas.


World's first success in aligning electron spins without using ferromagnets or external magnetic fields_December 2012

https://www.ntt.co.jp/journal/1212/files/jn201212058.pdf



2024年01月22日

ハリー・ナイキスト
_1/22改訂【微視的な揺らぎと熱を考察したアメリカの物理学者】

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【1889年2月7日 ~ 1976年4月4日】



アメリカに帰化したナイキストの生まれ


ナイキストはスウェーデンに生まれました。


1907年に家族がアメリカ合衆国に移り住み
その後、帰化しています。


その時点でナイキストはハイスクール修了くらいでしょう。
アメリカの名門、
イェール大学を卒業した後に
1917年からAT&T研究所
で研究します。


その後にナイキストはベル研究所で研究します。アインシュタインがブラウン運動で考えた様に、
ナイキストは微視的な分子の運動と
巨視的に観測
される物理量の間の応答関係を考えています。


ベル研究所でナイキストは研究を進め1926年に
ジョンソンが発見した熱雑音に対して、
「揺動散逸定理」を駆使して理論的な根拠を与えます。


ナイキストの熱雑音とは揺らぎという言葉
でも表現
される新しい概念です。


例えば交流電流が流れる時の熱雑音を考えてみると、
流れる交流の周波数に関わらずに
回路の設計とも
無関係に電流が流れる時点で熱雑音が生じます。


熱雑音とはそうした性質を持つ物理量なのです。



 ナイキストの様々な業績


また、
ナイキストは一方でFB(フィードバック)増幅器の
安定性を研究します。別途、特筆すべきは
離散化された信号の「サンプリング」に関する
処理手法でしょう。そのナイキストが提唱した周波数は
ナイキスト周波数と呼ばれ信号処理の世界では
今や基礎的な理念となっています。


実用的には2の8乗である256から考えて、
2.56倍のサンプリング周波数を使い計測する事で
(現代主流となっている回路設計では)
ナイキスト周波数を保証しています。


また、彼の考案した「ナイキスト線図」は
極座標を使い対象系の安定性を議論します。


ナイキスト線図も系の安定性を考える為に
現代の信号処理の世界で使われていて、
今でも市販のアナライザーに一つの機能として搭載されています。
そうした数々の成果をナイキストは残しました。




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Nyquist naturalized in the United States


Nyquist was born in Sweden. He has been naturalized since his family moved to the United States in 1907. At that point, Nyquist will have completed high school. He has been studying at the AT & T Institute since 1917 after graduating from the prestigious Yale University in the United States. Nyquist then studies at Bell Labs.


As Einstein thought in Brownian motion, Nyquist considers the response relationship between microscopic molecular motion and macroscopically observed physical quantities. At Nokia Bell Labs, Nyquist pursues his research and uses the "fluctuation-dissipation theorem" to provide a rationale for the thermal noise discovered by Johnson in 1926. The thermal noise there is also expressed by the word fluctuation. For example, considering the thermal noise when an alternating current flows, it occurs when the current flows regardless of the frequency of the flowing alternating current and regardless of the circuit design. Thermal noise is a physical quantity that has such properties.


Various achievements of Nyquist


Nyquist also studies the stability of FB amplifiers, on the other hand. Separately, what should be noted is the processing method related to sampling of discretized signals. The frequency advocated by Nyquist is called the Nyquist frequency and is now a basic idea in the world of signal processing. Practically, considering from 256, which is 2 to the 8th power, the Nyquist frequency is guaranteed (in the mainstream circuit design) by measuring using a sampling frequency of 2.56 times.


In addition, his "Nyquist diagram" uses polar coordinates to discuss the stability of the target system. The Nyquist diagram is also used in the modern signal processing world to consider the stability of the system, and is still installed as a function in commercially available analyzers.

2024年01月21日

オットー・シュテルン
1/21改訂【アインシュタインと同じくドイツを逃れた実験家】

こんにちはコウジです!
「シュテルン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
シュテルンが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
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【1888年2月17日生まれ ~ 1969年8月17日没】



 戦時下の物理学者シュテルン


シュテルンはドイツ生まれの物理学者でナチスに追われ


アメリカへ移ります。シュテルンは先ず、ポーランドの


プラハ大学でアインシュタインに会い、


共にチューリッヒ工科大学に移ります。


きっと気の合う議論相手だったのでしょう。


調べていくと共にユダヤ系である事情が大きい気がしてきました。
何より、
ホロコーストが実際に行われていた時代です。


同じ恐怖と憤りを感じて反体制の話もしていたことでしょう。


シュテルンはドイツ本国で当時の感心事であった
原子線の研究をします。実験の様子としては、
温度をどんどんあげていって金属が光り出して
からもさらに温度をあげていきます。


例えば、具体的に金属を恒温槽の中にいれて
小さな窓から出てくる様子を見るのです。



シュテルンの実験の様子 


その窓から連続して特定の粒子を放出する事で
粒子の性質を明らかにしていきます。


結果としてヴァルター・ゲルラッハと共に
歴史的な実験を完成させました。


この実験で注目したのは「個別粒子の磁気的性質」です。
加熱して蒸発させた銀の粒子をビーム状に放出した時に
その粒子線に対して磁界をかけたのです。


すると、
粒子は二つに分かれて
一点だった輝点
(粒子の当たった場所)が
二点の輝点となります。
この事実は
粒子にスピンがある事で説明が出来るのです。
つまり、粒子自体が磁気的な性質を
初めから持っているのです。


戦争に伴い、ナチスにハンブルグ大学の
地位を追われたシュテルンはアインシュタインと共に
1933年アメリカに亡命します。


戦後ナチス政権下で教授を続けたゲルラッハと対照的ですね。
最終的にはUCB(カリフォルニア大学バークレー校)
名誉教授を務めます。81歳の生涯でした。



〆 


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Wartime physicist Stern


Stern is a German-born physicist who is chased by the Nazis and moves to the United States. Stern first met Einstein at the University of Prague in Poland and moved to the ETH Zurich together. Was he a friendly debate? As he proceeded with his investigation, I felt that he was of Jewish descent. Above all, it was the time when the Holocaust was actually taking place. He would have felt the same fear and resentment and talked about the dissident.


Stern will study atomic beams in Germany, which was a sensation at the time. In his experiment, he keeps raising the temperature even after the metal shines. For example, he specifically puts metal in a constant temperature bath and sees it coming out of a small window.



Stern's experiment


We will clarify the properties of particles by continuously emitting specific particles from the window. As a result, he completed his historic experiment with Walther Gerlach. The focus of this experiment is on the "magnetic properties of individual particles." When the heated and evaporated silver particles are emitted in the form of a beam, a magnetic field is applied to the particle beams. Then, the particle is divided into two and the bright spot (the place where the particle hits), which was one point, becomes two bright spots. This fact can be explained by the fact that the particles have spin.


Stern, who was displaced by the Nazis from the University of Hamburg due to the war, went into exile in the United States in 1933 with Einstein. This is in contrast to Gerlach, who continued to teach under the Nazi regime after the war.


He will eventually be an emeritus professor at UCB (University of California, Berkeley). He was 81 years old.


 

2024年01月20日

エルヴィン・シュレディンガー
1/20改訂【仮想の猫を使った思考実験で量子的に実在を考察】

こんにちはコウジです!
「シュレディンガー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
シュレディンガーが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
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【1887年8月12日生まれ ~ 1961年1月4日没】



シュレディンガーの生い立ち


その名は Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger 。
シュレディンガーはオーストリア=ハンガリー帝国
に生まれました。個人的に注目している人物です。
20世紀初頭での議論の中で議論の中心に居た
という印象があります。確率波としての
「波動関数」を提唱し、1935年の論文では
「エンタングルメント」を言語化しています。


コペンハーゲン学派とは一定の距離を置きながら
概念形成で重要な役割を果たしました。
シュレディンガーの猫として例えられる話
や、エンタングルメントの議論でも
シュレディンガーは本質に
ぐんぐん迫っていきます。


目で見えないものに対して議論する時に
必要とされる大事なものを
シュレディンガーは考え続けました。


シュレディンガーはその父に影響を受けたと
言われていますが、その父とはバイエルン王国
に生まれ広い教養をもった人だったようです。その点が、
シュレディンガーの性格に影響しているかと思われます。


色々調べるにつけ分かってくるのですが、
シュレディンガーの考えは物理学の枠囚われない所があります。
未知の事象を捕まえていく際に、
また対象を色々な視野から
洗い出していく際に、
活用できるような「考え方のモデル」
沢山作られていったのでしょう。


他の人が作りえないような独自のモデルを作るという
大きな目標が物理学にはあります。



シュレディンガーの猫


シュレディンガーは猫の例えで有名です。
具体的には「量子力学的現象」と連動して
「猫を毒殺する仮想実験」を議論しました。


議論の帰結としてミクロな物理現象が確率的な実在として
表現出来るという
シュレディンガーの解釈が完成したのです。


具体的には空間的に広がる確率波を数学的に考えていきます。
確率波の時間発展はシュレディンガー方程式と呼ばれ
量子力学の基礎方程式となるのです。


私は大学院時代にそこから考え始めて超伝導現象に挑みました。
新しい現象理解に繋がっていったのです。
今もその枠組みで議論がされています。
世界中で議論がされています。



シュディンガ―音頭


こぼれ話となりますが、
若手の物理学者の
勉強会である「物性若手夏の学校」では
シュレディンガー音頭という歌があり
Ψ(ぷさい)とφ(ふぁぃ)
を取り入れて
楽しげに、形の違いを確認出来ます。


英文で表記したりする時にこの二つは似ていて混同しがち
なのですが、直ぐに思い出せます。


シュレディンガー音頭で手のひらを上にあげる方がΨです。
一度踊ると
踊った人は一生忘れません。 



シュレディンガー形式 


そうした量子力学の表現形式としては、
ハイゼンベルク形式(描像)とシュレディンガー形式があり、
その2つは完全に等価です。


数学の側面から大まかに表現すると、
ハイゼンベルク形式は
ヒルベルト空間上の行列とベクトルを使い、
シュレディンガー形式では同空間での演算子と波動関数を使います。


共に直感に響く側面を持ち相補して全体を補い合うのですが、
私には「粒子の二面性を感じる時などに初学者がイメージを
「作る段階」ではシュレディンガー形式が適していると思われました。
そんな記述を
シュレディンガーは纏めたのです。



ボルツマンとシュレディンガー


最後に、もう一度シュレディンガーの人となりに話を戻したいと思います。
シュレディンガー
はウィーン大学でボルツマンの後任である
ハゼノール
の教えを受けていて、ボルツマンと関わりが出来たのです。


彼はボルツマンの示した道筋を受け継いでいた人でした
彼はボルツマンに対して
い想いを持っていました。曰く、


「ボルツマンの考えた道こそ
科学に於ける
私の初恋
と言っても良い亅_


【万有百科大事典 16 物理・数学の章より引用しました。】


いわば、ボルツマンが完全に確立出来なかった原子論を


シュレディンガーは彼らしい表現方法で具現化したのです。


また、ボルツマンを中心に考えると、もう一人の弟子である
エーレンフェストが思い浮かびます。
彼は統計力学の切り口から
原子の表現に挑みました。


エーレンフェストの定理は個別粒子の運動を分かり易い形で記述する
と思えます。それまでの物理学と量子力学を上手くつなげています。
他方でシュレディンガーは波動的側面から
原子の表現に挑みました。


量子力学の初学者がこの二人のどちらを先に知るかといえば
シュレディンガーでしょう。
量子力学の議論の範囲で説明出来るからです。


大学ごとの教育カリキュラムで別途統計関係の講義との兼ね合い
も考えなければいけません。ただ、
歴史的にはシュレディンガーの理解が後なのです。


そして二人ともボルツマンの考えを受け継いでいるのです。


 

〆最後に〆


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2024/01/20‗原稿改定


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Schrodinger's upbringing


Schrodinger was born in the Austro-Hungarian Empire. He is said to have been influenced by his father, who seems to have been born in the Kingdom of Bavaria and well-educated. It seems that this influences Schrodinger's personality. As you can see from various investigations, Schrodinger's idea is not bound by the framework of physics. It seems that many "models of thinking" have been created that can be used when capturing unknown events and when identifying objects from various perspectives. Physics has the big goal of creating unique models that no one else can.



Schrodinger's cat


Schrodinger is famous for the analogy of cats. Specifically, we discussed "a virtual experiment to poison cats" in conjunction with "quantum mechanical phenomena". As a result of the argument, Schrodinger's interpretation that microscopic physical phenomena can be expressed as stochastic reality has been completed. Specifically, he mathematically considers the probability waves that spread spatially. The time evolution of stochastic waves is called the Schrodinger equation and becomes the basic equation of quantum mechanics. When I was in graduate school, I started thinking about it and challenged the superconducting phenomenon. It led to a new understanding of the phenomenon. Discussions are still being held within that framework. There is debate all over the world.



Shudinger Ondo


It's a spillover story, but at the study session for young physicists in Japan, "Schrödinger Young Summer School," there is a song called Schrodinger Dance, and Ψ (Psi) and φ (Phi) are incorporated to happily confirm the difference in shape. can. When writing in English, the two are similar and often confused, but I can easily remember them. It is Ψ to raise the palm up with Schrodinger dance. Once you dance, you will never forget the person who danced. Twice



Schrodinger format


There are two forms of expression of such quantum mechanics, the Heisenberg form (picture) and the Schrodinger form, and the two are completely equivalent. Roughly speaking from a mathematical point of view, the Heisenberg form uses matrices and vectors in Hilbert space, and the Schrodinger form uses operators and wavefunctions in the same space. Both have intuitive aspects and complement each other to complement each other, but I think that the Schrodinger format is suitable for "the stage where beginners create images when they feel the duality of particles". rice field. Schrodinger put together such a description.



Boltzmann and Schrodinger


Finally, I would like to return to Schrodinger's personality. Schrodinger was taught by Hazenor, Boltzmann's successor, at the University of Vienna, and was able to get involved with Boltzmann. He was the one who inherited the path Boltzmann showed. He had a passion for Boltzmann. He says


"The way Boltzmann thought
In science
My first love
You can say that _


[Encyclopedia of Banyu 16 Quoted from the chapter on physics and mathematics. ]


So to speak, Schrodinger embodied the atomism that Boltzmann could not completely establish in his own way of expression. Also, when we think about Boltzmann, I think of another disciple, Ehrenfest. He challenged the expression of atoms from the perspective of statistical mechanics. Ehrenfest's theorem seems to describe the motion of individual particles in an easy-to-understand manner. Schrodinger, on the other hand, challenged the expression of atoms from the wave side.


Schrödinger is the first to know which of these two scholars of quantum mechanics knows first. This is because it can be explained within the scope of the discussion of quantum mechanics. In the educational curriculum of each university, it is necessary to consider the balance with the lectures related to statistics. However, historically, Schrodinger's understanding was later. And both of them inherit the idea of ​​Boltzmann.

2024年01月19日

ニールス・ボーア
1/19改訂【概念構築|新たな原子模型の提唱を通じて原子モデルを洗練化】

こんにちはコウジです!
「ボーア」の原稿を改定します。
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【1885年10月7日生まれ ~ 1962年11月18日没】



ボーアの生い立ち


ボーアは量子力学の発展で需要な役割を果たしました。


ソルベー会議でも議論の中心に居て、TOP画で


使っている写真では中列右端に立っています。


そんなボーアは北海に面したユトランド半島および、
その近辺の
多くの島々からなる、立憲君主制国家である、
デンマーク王国にボーアは生まれました。


若い時代にはアマチュアサッカー選手リーグの
ABコペンハーゲンでゴールキーパーを務めていた
という一面もあります。
ボーアはそんな人でもあるのです。



ボーアと原子論


そしてボーアは前期量子論形成に於いて
先駆的な理論
を提供し続けました。
ボーアは当時、不完全であった
原子像を洗練させて
独自の原子模型を提唱します。議論の渦中に飛び込んで
色々な人々と切磋琢磨して新しい「かたち」
を作り上げたのです。


先ず1911年にイギリスへ留学し、J・J・トムソン
ラザフォード_の元で原子核に対する基礎知識を吸収
して
先進的な考察の土台を作っていきます。


そもそも光学顕微鏡で見えないほど
小さい領域にまで議論が進んでいくのですが、
その世界に対して考察を止めることなく
幾多の議論を重ね、
量子力学を確立していきます。


例えば今でも原子の大きさを議論する時に
「ボーア半径」という言葉を使います。


この言葉はボーアの時代に確立されていった概念です。


その後、ボーアはイギリスから帰国後に
幾多の仲間を
コペンハーゲンに集め、
コペンハーゲン学派と呼ばれた
仲間を形成します。


コペンハーゲンでまとまった解釈は
コペンハーゲン解釈と呼ばれるようになり、
それまでの物理学でのスタイルを変えていきます。



ボーアとコペンハーゲン解釈 


コペンハーゲン解釈は微視的世界での


「観測に対する考え方」です。


光学顕微鏡で微細な世界を覗いても分解能の問題で
どうしても
画像がぼやけてしまう「限界」にいきつきます。


アルファー線やベータ―線といった粒子線を
純度の高い物質に当てて光路から
内部構造を予想しようとする試みも
色々な形で繰り広げられました。


日本では寺田寅彦の時代にそうした解析が
行われています。解析の蓄積を辻褄(つじつま)の合う
総合理論で結びつける体系が必要とされていたのです。


目で見てとれる現象は顕微鏡の分解能の範囲で
終わってしまいます。実際にはそれ以下の大きさで
繰り広げられる現象が存在していて、
観測しようとして光を当てると(光子を作用させると)、
「観測する事情」で「状態をかき乱してしまう」のです。


位置と運動量の微視的分解能の限界をA・アインシュタイン
ボーアが論じた話などが今に残っています。


また段々に分かってくるのですが、後にパウリが示す
スピンの自由度も電子は持っていて「軌道半径だけを
イメージして議論すれば話が終わる」訳ではないのです。


その中でボーアは本質的な「ボーアの量子化条件」を用いて
様々な現象を新しい議論の枠組みで説明してみせます。


長さスケールで10の‐23乗メートルのスケールでの議論では
「位置等の観測値」が「とびとびの値」を示すのですが、
その事象を現実世界での本質的な性質であると提唱したのです。


原子半径、磁気的性質も現代では、その形式で考えるが方が
わかりやすい訳です。師であるラザフォードの原子モデルに
改良を加えてボーアモデルを作りあげます。



そして晩年


ボーアはデンマーク最高の勲章である
エレファント勲章を受けています。
その際には東洋密教で使う陰陽のマーク
を模してボーア家の紋章を
デザインしたと言われています。


また、英国の王立協会では
外国人会員の栄誉を受けていました。



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Bohr's upbringing


Bohr played a demanding role in the development of quantum mechanics. He was also at the center of the discussion at the Solvay Conferences, standing at the right end of the middle row in the photo used in the TOP picture.


Bohr was born in the Kingdom of Denmark, a constitutional monarchy of the Jutland Peninsula facing the North Sea and many of its surrounding islands. On the one hand, he was a goalkeeper in the amateur soccer player league, AB Copenhagen, when he was young. Bohr is also such a person.



Bohr and Atomism


And Bohr continued to provide pioneering theories in old quantum theory. Bohr refines the imperfect atomic image at the time and proposes his own atomic model.


He first studied abroad in England in 1911, and under the guidance of JJ Thomson and Rutherford, he absorbed basic knowledge about atomic nuclei and proceeded with advanced consideration. In the first place, the discussion goes to a level that is too small to be seen with an optical microscope.


He continues to discuss the world with many discussions and establish quantum mechanics. For example, he still uses the term "Bohr radius" when discussing the size of an atom. This word is a concept established in this era.


After returning from England, Bohr gathered many friends in Copenhagen to form a group called the Copenhagen School. The collective interpretation came to be called the Copenhagen interpretation, changing the style of physics up to that point.



Bohr and Copenhagen Interpretation


The Copenhagen Interpretation is the "thinking about observation" in the microscopic world. Even if you look into the minute world with an optical microscope, you will reach the "limit" where the image will be blurred due to the problem of resolution.


Attempts to predict the internal structure from the optical path by applying particle beams such as alpha rays and beta rays to high-purity substances have also been made in various forms. In Japan, such an analysis was carried out during the time of Torahiko Terada. There was a need for a system that would connect such accumulations with a theory that fits Tsujitsuma.


Phenomena that are visible to the eye end up within the resolution of the microscope. Actually, there is a phenomenon that unfolds in a size smaller than that, and when light is applied to observe it (when photons act), it "disturbs the state" due to "observation circumstances". There is a story that discusses the limit of microscopic resolution of position and momentum with A. Einstein.


Also, as we gradually understand, electrons also have the degree of freedom of spin that Pauli shows later, and the discussion does not end if we discuss only by imagining the orbital radius.


In it, Bohr explains various phenomena using the essential "Bohr's quantization condition". In the discussion on the scale of 10-23 meters on the length scale, "observed values ​​such as position" indicate "staggered values", but we propose that the phenomenon is an essential property in the real world. I did.


In modern times, it is easier to understand the atomic radius and magnetic properties in that format. He will improve the atomic model of his teacher, Rutherford, to create the Bohr model.



And his later years


Bohr has received the Order of the Elephant, Denmark's highest medal. At that time, he is said to have designed the coat of arms of the Bohr family, imitating the Yin-Yang mark used in Oriental esoteric Buddhism. He also received the honor of a foreign member at the Royal Society of England.



2024年01月18日

西川 正治
1/18改訂【植物由来の構造体|X線解析で現象論を確立し後進を育てた偉人】

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食物繊維と西川


西川 正治は寺田寅彦の指導を受け


物理学を学んでいきます。特に、


彼は竹や麻等の植物由来の構造体


に着目して繊維構造物質に対して


電磁波がどう作用するか考えました。


手法としてはX線回折を駆使して


スピネル群結晶内の電子配置を


決定しています。



X線解析での問題


そもそも、電子は不可視の存在ですが、
電磁波に対して作用して結果を残すので
その結果を画像で解析できます。


解析をすることで、
結晶内での微視的な電子配置の情報が得られるのです。


初学者は単純なモデルから学ぶので電子が個々の性質を見せる
と思いがちです。実際はそんな事は無くて電子単体で
「観測にかかる」事象はなかなか見当たりません。


たとえば相互作用を考えていって「輝点」の議論をしている時でも、
話の中には色々な要素があって、どこまでが観測事実か、
はたまた勝手な想像であるか、判断に迷うことがあります。


万人に説得力を持つ議論を進めるのはとても大変な作業です。
加えて、当時の時点での知識で原子からの寄与と、
電子からの寄与を明確にしていくには
多くの知見が必要だったと思われます。


X線情報の精度を考えるだけで大変で、
一つ一つ推論を裏付けていった筈です。


そうした「新しい計測手法」を手掛かりに


西川正治は解析していったのです。


西川正治はそうした業績を残しながら


二人のお子様を育て、其々が学者として


名を残しています。また、同時に


幾人もの弟子を育て、日本物理学会に


今も続く、大きな足跡を残しています。




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Dietary fiber and Nishikawa


Shoji Nishikawa will study physics under the guidance of Torahiko Terada. In particular, he focused on plant-derived structures such as bamboo and hemp and considered how electromagnetic waves act on fibrous structural materials. As a method, the electron configuration in the spinel group crystal is determined by making full use of X-ray diffraction.



Problems with X-ray analysis


In the first place, electrons are invisible, but they act on electromagnetic waves and leave results, so if you analyze the results with images, you can obtain information on the microscopic electron configuration in the crystal. Beginners tend to think that electrons show individual properties because they learn from simple models. Actually, there is no such thing, and it is difficult to find an event that "observes" an electron alone. For example, even when thinking about interaction and discussing "bright spots", there are various elements in the story, and it is judged how far the observation facts are, or whether it is a selfish imagination.


You may get lost. Proceeding with a convincing discussion for everyone is a daunting task. In addition, it seems that a lot of knowledge was needed to clarify the contribution from atoms and the contribution from electrons with the knowledge at that time. It was difficult just to think about the accuracy of X-ray information, and it should have supported the inference one by one.


Shoji Nishikawa analyzed using such a "new measurement method" as a clue. Shoji Nishikawa raised two children while leaving such achievements, and each of them has left his name as a scholar. At the same time, he raised a number of disciples and left a large footprint that continues to the Physical Society of Japan.