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2024年07月23日

ハンス・ガイガー
‗7/23改訂【不活性ガスを利用し放射線量を計測|ドイツ生まれ】

こんにちは。コウジです。
ガイガーの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)


ガイガーカウンター
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【1882年9月30日 ~ 1945年9月24日】


ガイガーはドイツ生まれです、研究機関としては
ニュルンベルク大学やマンチェスター大学で研究してます。


修行時代に英国のラザフォード卿のもとで研究者として
育っていきます。新しい知見である放射能に関して、
法則を確立して、計測器を作っていきます。


ガイガーは、弟子のミュラーと開発した放射線量を測定する
「ガイガー=ミュラー」計数管で有名です。
別名「ガイガーカウンター」としても知られていて、
パソコン入力時に一発で出てきました。


最早(もはや)ありふれた言葉です。
原理としては
不活性ガスを封入した筒の軸部分に
電極を取付け+極と−極の間に高電圧
を印加します。


電子機器で言う無通電の状態です。
ところが不活性ガスの電離により、陰極と陽極の間に
パルス電流が流れるのです。この特徴的な
通電回数を数える訳です。


また、原子構造の検証実験も有名です。


実験当時は原子の中に電子がバラバラに
(葡萄パンの中での葡萄のように)
存在するモデルも想定されていました。


鉄だとか炭素だとか元素の概念が確立できて来た後に
その中身がどうなっているのだろうという疑問が湧いたのです。


具体的には原子のサイズを大まかに見積もり、
それを検知できる粒子線を使って手探りで
原子の観測を始めていきます。


現在の知見である原子核の発見は重要です。
ガイガー=マースデンの実験と呼ばれます。


具体的にはラザフォードの指導下で、
ガイガーとマースデンはアルファ粒子の
ビームを金属の薄い箔に当て、更に蛍光板
を使って散乱を測定しました。


また、ガイガーの業績としてα線の
半減期に関する法則があげられます。
法則は


「ガイガー・ヌッタルの法則」


(英: Geiger–Nuttall law


と呼ばれます。放出されるアルファ粒子の
エネルギーが大きいと早く減衰します。

経験的に得られた関係です。




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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。


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2023/04/03‗初稿投稿
2024/07/23_改訂投稿


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(2023/4月時点での対応英訳)


Geiger was born in Germany, as a research institute
He has studied at the Universities of Nuremberg and Manchester.
During his apprenticeship, he grew up as a researcher under Lord Rutherford in England.
Regarding his new knowledge of radioactivity,
He establishes various laws and makes measuring instruments.


Geiger developed with his protégé Müller a measure of radiation dose
Famous for the "Geiger-Muller" counter tube.
Also known as a "Geiger counter"
It came out in one shot when I entered the computer.


It's the first common word. as a principle
At the shaft part of the cylinder filled with inert gas
Attach the electrode and apply a high voltage
between the + and - poles.is applied.


This is the state of no electricity in electronic equipment.
However, due to the ionization of the inert gas, a
A pulse current flows. this characteristic
It counts the number of calls made.


It is also famous for its atomic structure verification experiments.
At the time of the experiment, the electrons were scattered in the atom
(Like grapes in grape bread)
Existing models were also assumed.


The discovery of the atomic nucleus, which is the current knowledge, is important.
It's called the Geiger-Marsden experiment.
Specifically, under the guidance of Rutherford,


Geiger and Marsden are alpha particles
The beam is applied to a thin metal foil, and a fluorescent screen
was used to measure scattering.


In addition, Geiger's achievements of alpha rays
There is a law about half-life.
the law is


"The Geiger-Nuttal Law"


(English: Geiger–Nuttall law)


called. The higher the energy of the emitted alpha particles, the faster they decay.
It is an empirical relationship.



2024年07月21日

ポール・エーレンフェスト
7/21改訂【波動関数を統計的な手法で解釈・定理化し|後進を多数輩出】

こんにちは。コウジです。
エーレンフェストの原稿を改訂します。


今回の改定点はリンク切れ情報の改定です。
ご覧ください。(以下原稿)

【←ローレンツとアインシュタイン_
エーレンフェストの自宅前で
Crediit;:_ pinterest.com_】


量子論の基礎講座
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【1880年1月18日生まれ ~ 1933年9月25日没】



エーレンファストと期待値と波動関数
【現象をつなげたエーレンファスト】


ポール・エーレンフェストは


統計力学量子力学


洗練された形で結びつけたと言えるでしょう。


それぞれの分野での2つの指標である


期待値波動関数を結びつけたのです。


また、本稿の中で使っている写真も意義深いです。アインシュタインローレンツという2人の偉人をより強く結びつけているのがエーレンフェストだからです。エーレンフェストの家で沢山の考え方(議論)が進んでいったのです 。

オーストリアに生まれウィーンで育ったエーレンフェストは
研究生活において
非常に恵まれていたと思います。


まず、ボルツマンの講義を受ける環境をもち、
熱力学の考えや気体分子の運動論に大変、感銘を受けます。
柔らか頭の時期にボルツマンの熱意に触れることが出来たのです。


ミクロの世界と可視下で想像できる質点モデルの世界を
繋げる事が出来たのです。更に小旅行でローレンツに出合い、
互いに刺激を受け、その後、
アインシュタインと交友関係を結びます。
アインシュタインとエーレンフェストは共に
ユダヤ系でしたので多くの
「思想」・「話題」を共有したことでしょう。



より詳細な期待値の解説


冒頭に、エーレンフェストは2つの指標、期待値と波動関数を
関連付けたと記載しましたが
「期待値」とは簡単に言えば
「平均値」の事です。


例えば、距離(長さ)で考えてみると
精度を上げるほど実測値には幅が出てきます。
長さをノギスで測定してみたら
4.155oだったり4.154oだったりします。


そこで数回の測定の平均値をとって確からしい
と思われる数値を決めます。期待値です。
【測長の例ではより細かくレーザー測長器
によって計測が進める事が出来ます。しかし
それでも、光学的限界に突き当たります。】


期待値という言葉を使う時には分散値とか誤差とか併記され
統計的な処理がなされていると思って下さい。
【より細かい話としては離散値だけでなく連続値
に対して
期待値・分散値を考えていきます。】



より詳細な波動関数の解説


また、エーレンフェストが考えていたもう一つの概念である波動関数は、
細かい世界を表現するにあたり、当時は観測にかからない、とも
考えられたミクロな対象に対する物理量を表現する数学的手段です。


ヒルベルト空間で議論される関数で、無限次元の基底をとります。
ミクロの物質には粒子性と波動性が混在する事情もあり、
双方を具現化する波動関数が登場します。


エーレンフェストの定式化した定理によると
波動性が顕著に表れていると思える現象でも
その運動量や速度が求まり粒子と比較して
議論する事が可能です。2つの手法が繋がるのです。



 エーレンファストの定理の時代背景
【人々をつなげたエーレンファスト】


フランスのド・ブロイが提唱した物質波という概念は
論文審査の時点で独逸のアインシュタインが高く評価して、
オランダのエーレンフェストが定量的な議論を深めたのです。


その概念形成の達成は国を超えて人々が求め続けた疑問の解決でした。
そして今では大学生であっても共有できている人類の知識なのです。


また、ボルツマンの没後にエーレンフェストは
その大きな業績をいくつも纏めて発表しました。


そうした活動を知った人々は当然、
エー
レンフェストに期待を寄せます。
ボルツマンが執筆中だった未完の仕事に
エーレンフェストは着手します。


数学者が統計力学を考える仕事だったそうですが、
形になっていないモデルの検証に対して鋭い考察がありました。


また、棚上げになっていた問題を洗い出して整理していました。
その作業には数学者であったエーレンフェストの
奥様が協力していて、
共に数学モデルを駆使して未解決の物理での
問題に挑んでいました。


また、
エーレンフェストは優れた教育者でした。
1912年にドイツ語圏の大学訪問の中で
プランクに会い、
ゾンマーフェルトに会い、
アインシュタインに会います。

そしてオランダのライデン大学での
ローレンツの地位を引き継ぎます。


ライデン大学の教授を務めた彼のもとには
多彩な人材が集まり育っていきました。
彼は弟子達をヨーロッパの研究機関で修行
する事を勧め、海外の違った環境で研究を
する事を奨励しました。
ヘンリク・クラマース、
ジェラルド・カイパー
などが学生として所属、
グンナー・ノルドシュトルム、
エンリコ・フェルミ
イーゴリ・タム、オスカル・クライン、
ロバート・オッペンハイマー
ハイゼンベルク
ポール・ディラック
_が外国人研究者として

長期間研究をしました。


たとえばエーレンフェストはパウリと手紙をやりとり
する中で
オッペンハイマーの育て方を語り合っています。
詳細は
藤永茂著「ロバート・オッペンハイマー」を参照願います


ボルツマンを思い返すとエーレンフェストという人が点であって、
その点がオーストリアという糸で
ボルツマンと結ばれていったような気がします。
そして、
ボルツマンの考えを受け継いだエーレンフェストが
他国の糸と絡み合っていく気がします。


た、


ボルツマンの考えを受け継いだシュレディンガー
エーレンフェストの研究室で議論したディラックと同時に
1933年のノーベル物理学賞を受賞します。


人を育てるという大変さと重要さを感じます。大きな仕事です。



そして晩年


そして晩年なのですが、エーレンフェストは
重度のうつ病に苦しんでいたようです。
アインシュタインが仕事量を減らすように職場に
働きかけたたようです。しかし友情も空しく終わり、
最後はダウン症だった末っ子Wassikを
打ち殺し自らも命を絶ちます。
ご冥福をお祈りするしか出来ません。
彼が考え抜いた末の結論だったのです。


そして、エーレンフェストが始めた
ライデン大学での夜間・物理学コロキウムは、
今でも「Colloquium Ehrenfestii」と呼ばれ、
続いているそうです。
今晩も議論しているかも知れません。




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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
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2020/10/21_初版投稿
2024/07/21_改定投稿


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(2021年10月時点での対応英訳)



Ehrenfast, expected value and wavefunction


Paul Ehrenfest can be said to be a sophisticated combination of statistical mechanics and quantum mechanics. He combined two indicators in each field, the expected value and the wave function.


The photos used in this article are also significant. It is Ehrenfest that more strongly connects the two great men, Einstein and Lorenz. A lot of thoughts should have gone on at Ehrenfest's house. Born in Austria and raised in Vienna, Ehrenfest in his research life


I think he was very fortunate.


First of all, he has an environment where he receives Boltzmann's lectures, and he is very impressed with the idea of ​​thermodynamics and the kinetic theory of gas molecules. He was able to connect the micro world with the world of mass model that can be imagined under the visible. He also met Lorenz on a short trip, inspired each other, and then made friends with Einstein. Since Einstein and Ehrenfest were both Jewish, they probably shared many "thoughts" and "topics."



More detailed explanation of expected value


At the beginning, Ehrenfest stated that he associated two indicators, the expected value and the wave function, but the "expected value" is simply the "average value". For example, when considering the distance, the higher the accuracy, the wider the measured value. It can be 4.155 mm or 4.154 mm. So he takes the average of several measurements to determine what he thinks is likely. Expected value. When you use the word expected value, please think that the variance value and the error are written together and statistically processed.
[As a more detailed story, not only discrete values ​​but continuous values
We will consider the expected value and variance value for. ]



More detailed wave function explanation


In addition, Ehrenfest's other concept, the wave function, is a mathematical means for expressing physical quantities for microscopic objects that were thought to be unobservable at the time when expressing the fine world. A function discussed in Hilbert space, which takes an infinite dimensional definition. There is also a situation where microscopic substances have both particle and wave properties, and a wave function that embodies both will appear.


According to Ehrenfest's formalized theorem, it is possible to find the momentum and velocity of a phenomenon in which wave nature appears prominently and to discuss it in comparison with particles. The two methods are connected.


 

Background of the era of Ehrenfast's theorem


The concept of matter waves advocated by France's de Broglie was highly evaluated by Einstein, who was unique at the time of the dissertation review, and Ehrenfest of the Netherlands deepened the quantitative discussion. Achieving that concept formation was the solution to the questions that people continued to seek across countries. And now it is the knowledge of humankind that even university students can share.


Also, after Boltzmann's death, Ehrenfest summarized and announced a number of his great achievements. People who know about such activities naturally have high expectations for Ehrenfest. Ehrenfest embarks on an unfinished work that Boltzmann was writing. He was said to have been a mathematician's job of thinking about statistical mechanics, but he had a keen eye for the verification of unformed models. In addition, the problems that had been shelved were identified and sorted out. Ehrenfest's wife, who was a mathematician, cooperated in the work, and both worked on unsolved physics problems by making full use of mathematical models.



Ehrenfest was also an excellent educator.


He met Planck, Sommerfeld, and Einstein during a visit to a German-speaking university in 1912. And he will take over Lorenz's position at Leiden University. He was a professor at Leiden University, and a diverse group of human resources grew up under him. He encouraged his disciples to practice at European research institutes and to study in different environments abroad.
Hans Kramers,
Gerard Kuiper
Etc. belong as a student,
Gunnar Nordström,
Enrico Fermi,
Igor Tamm, Oskar Klein,
Robert Oppenheimer,
Heisenberg,
Paul Dirac
_ Has studied for a long time as a foreign researcher.


Looking back on Boltzmann, I think that the point was Ehrenfest, and that point was tied to Boltzmann with a thread called Austria. And I feel that Ehrenfest, who inherited Boltzmann's ideas, is intertwined with threads from other countries. In addition, Schrodinger, who inherited Boltzmann's ideas, won the 1933 Nobel Prize in Physics at the same time as Dirac discussed in Ehrenfest's laboratory. He feels the difficulty and importance of raising people. It's a big job.



And his later years


And in his later years, Ehrenfest seems to have suffered from severe depression. Einstein seems to have worked on the workplace to reduce his workload. In the end, he kills his youngest child, Wassik, who had Down Syndrome, and kills himself. You can only pray for your soul. It was the final conclusion he had thought out.


And the night and physics colloquium at Leiden University, which Ehrenfest started, is still called "Colloquium Ehrenfestii" and it seems to continue. I may be discussing it tonight as well.

2024年03月15日

ムツゴロウさん【本名:畑 正憲】
3/15改訂【動物王国の主で九州男児の東大卒】

こんにちはコウジです!
「ムツゴロウさん」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
ムツゴロウさんが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。


SNSは戦略的に使っていきます。そして記述に誤解を生む表現がないかを
チェックし続けてます。ご意見・関連投稿は歓迎します。



ムツゴロウの青春記
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【1935年4月17日生まれ -2023年4月5日没】




 ムツゴロウさんの人生


2023年4月5日に87歳で亡くなられたばかりです。


お悔やみを申し上げると共に、ムツゴロウさんの


一面を紹介したいので投稿します。


私は少年時代に面白い人生だと思いました。


ムツゴロウさんという愛称で知られて


いますが、中身は九州男児です。


大分県でバンカラな青春時代を過ごします。


私はその様子をムツゴロウさんの著書である


「ムツゴロウの青春期」で読みました。


ムツゴロウさんが高校時代に今の奥様に出合い結ばれる様子


生き生きと描かれ、同時に東京大学を目指し


猛勉強する様子が描かれていました。



若き日のムツゴロウさん


ムツゴロウさんが九州で高校生活を送っていた時代に


「君等が知っちょるか知らんか(私は)知らんが」


という口癖の先生が居て、
物理学への魅力を伝えていて、
若き日のムツゴロウさん達が集まって
話を聞いていて、
友達同士で話して共鳴して奮起するストーリー
だったかと思います。そしてムツゴロウさんは猛勉強するのです。
小説の終わりでは東京大学に合格するのです。


後で時間を作りムツゴロウの青春期に続く著作の結婚紀、冒険記等も読んでみたいと思っていますが、ムツゴロウさんは東京大学を卒業後に文筆での人生を選び、当時の学研社で活動を始めます。そこに至るまでに色々と考えたと思います。


東大で在学中には駒場寮で暮し、医学・動物学・等を学びます。そもそも物理学科という呼び方ではなく東大はT類・U類・・・と分けていたので(私が知ってた時代。)対象が無機質の剛体であろうがアメーバであろうが研究対象といえば研究対象な訳です。最高学府の頂点として東大は様々な学科を少数精鋭で網羅しています。そもそも微視的な視点に立ち見てみたら其々に性質があり、寿命があるのです。


「意志を持ってるかもしれないアメーバ」


だったり


「デコヒーレンスしていく量子素子」


を研究している訳です。そんな見方も出来ますよね。
話戻ってムツゴロウさんですが、もっと時間をとって調べて書き足していきたいです。彼の人生は喜びと失望に満ちています。徹夜でマージャンをしたり(プロ級の腕前)、事業で破産をしたり、お子さんの性格で思い悩んだりしていました。そんな中でムツゴロウさん突き進んでいました。いつまでも見続けていたい生き様でした。
訃報を聞き非常に残念です。


ムツゴロウさんには
6億円あると言われていた借金がありましたが、
それも全て返済して晩年まで動物に関わっていました。
リンク:有限会社ムツ牧場


2023/9/5に発売される
「ムツゴロウさんの最後の動物回顧録」
の発売に合わせて日経新聞に回顧録が掲載されて
ました。
ライオンに食いちぎられた指で最後の原稿を書いていた
そうです。「学びたい!!」「伝えたい!!」
という情熱が伝わってくる人でした。 




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次のアドレスまでお願いします。
問題点には適時、
返信改定を致しします。


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2020/11/14_初稿投稿
2024/03/15_改定投稿


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(2021年11月時点での対応英訳)



Mutsugoro's life


2021/08/21 I am sorry that I am alive as of now, but I would like to introduce one side of Mr. Mutsugoro, so I will post it.
I thought it was an interesting life when I was a boy.


Known by the nickname of Mr. Mutsugoro, the contents are Kyushu boys. He spends his youth in Oita prefecture. I read the situation in Mr. Mutsugoro's book "Mutsugoro's Youth". It was a lively picture of Mr. Mutsugoro meeting his current wife in high school, and at the same time, a picture of studying hard toward the University of Tokyo.



Young mudskipper


There was a teacher who had a habit of saying, "Do you know or don't know (I) don't know?", Telling the charm of physics, and young mudskippers gathered and listened. I think it was a source of excitement by talking with friends and resonating with each other. And study hard.


Later, I would like to make time to read the marriage history and adventures of Mutsugoro's youth, but Mr. Mutsugoro chose his life as a writer and started his activities at Gakken at that time. I think he thought a lot before he got there.


At the University of Tokyo, I live in Komaba Dormitory and study medicine, zoology, etc. In the first place, the University of Tokyo is not called the Department of Physics, but it is divided into Class I, Class II, etc. (the era I knew). That's why.


As the pinnacle of the highest school, the University of Tokyo covers various departments with a small number of elites. In the first place, if you look at it from a microscopic point of view, each has its own characteristics and has a limited lifespan. I am studying "amoeba that may have a will" or "nucleus that has a half-life". You can see that as well.


Returning to the story, Mr. Mutsugoro, I would like to take some time to investigate and add. Because his life was full of joy and disappointment. Under such circumstances, Mr. Mutsugoro was pushing forward. I feels that he is a way of life that he wants to keep watching for a while.


Mr. Mutsugoro had a debt that was said to be 600 million yen, but he repaid all of it and he is still involved in animals.
Link: Mutsu Ranch Co., Ltd.


2024年01月28日

アーサー・コンプトン
1/28改訂【ガンマ線の散乱・吸収を研究|粒子の波動性と粒子性を研究】

こんにちはコウジです!
「コンプトン」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
コンプトンが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


初見の人が検索結果を見て記事内容が分かり易いように再推敲します。


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【1892年9月10日 ~ 1962年3月15日】



コンプトン効果


アメリカのコンプトンは波動の粒子性を示した実績と


マンハッタン計画で指導的役割を果たしたこと


知られています。コンプトンは1919年に英国の


キャンデビッシュ研究所に留学しました。


キャンでビッシュ研究所でガンマ線の散乱・吸収を研究します。
「波動のコンプトン効果」を発見するのです。


コンプトンの考えは今では量子力学の基幹をなしていますが、
大まかには以下の理解を
していれば良いと思います。つまり、


「微視的に物事を考え始めた時に粒子性と


波動性が同時に具現化する」


ということです。


コンプトンの考えで話を進めると自由電子により散乱された
X線量子がより長い波長となるという事実に対して


「波長が長くなる状態」つまり


「光線のエネルギーが落ちる状態」で


子性に着目して弾性散乱の視点で考えていくのです。



コンプトンの微視的な視点 


具体的に量子力学では不確定関係という枠組みで
物事を考えますので2つの値が同時に確定しません。


例えば位置と運動量を同時に確定しません。また、
時間とエネルギーを同時に確定しません。但し、
時間×エネルギーや位置×運動量といった値を
物理量として確定出来るのです。


これは作用と呼ばれる次元の物理量です。
時間という物理量やエネルギーという物理量と
関連していますが異なります。


以上は量子力学を理解した人々には納得出来ても
一般の人々には中々説明がし辛い部分です。


誤解無く伝わっているかいつも不安になります。
そんな意識改革をコンプトンが進めていたのですね。
波動として考えていたガンマ線やX線に粒子性を見出したのです。



コンプトンとマンハッタン計画 


また、コンプトンはマンハッタン計画を進めた主要メンバーでもあります。
そもそも原子爆弾は
原子炉の製造から計画しなければいけません。
計画の中
でウランをプルトニウムに変換して、
プルトニウムと
ウランの混合物からプルトニウムを分離するプロセス
が必要です。コンプトンはこのプロセスをSEとして設計してプロジェクトが
進んでいく現場で働きました。


また、原子爆弾を兵器として使用するには敵国で使用時に、
出来るだけ早くに最大限の攻撃力を
発揮しなといけませんが、
そうした損傷兵器
の仕組みをを設計する方法についても
コンプトンは計画をしていきました。


なお同計画はオッペンハイマーの設計もあり、
フェルミローレンスとの議論も経ています。
全米の知能を集め計画を進めていたのです。


 

そしてコンプトンの業績はノーベル賞を初めとする
々たる栄誉で称えられています。それと同時に、
マンハッタン計画の主導者として計画自体の是非を論じる際に
何度もコンプトンの名があがります。


もともとは、コンプトンはもともと星の好きな少年でした。
そんな所からガンマ線の究明に話が進みましたが、
彼の名はガンマ線検出の為のNASAの衛星に残されています。




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Compton effect


Compton in the United States is known for its track record of wave particle nature and for its leadership role in the Manhattan Project. Compton studied abroad at the Candevisch Institute in the United Kingdom in 1919, where he studied gamma-ray scattering and absorption.


There he discovers the "Compton effect of waves".
This idea is now the basis of quantum mechanics, but I think it is good to have the following general understanding. In other words, "when you start thinking microscopically, particle nature and wave nature are realized at the same time." If we proceed with that idea, we will focus on the particle nature in the "state where the wavelength becomes longer", that is, the "state where the energy of light rays falls", in contrast to the fact that the X-ray quantum scattered by free electrons has a longer wavelength. Think from the perspective of elastic scattering.



Compton's microscopic perspective


Specifically, in quantum mechanics, things are considered in the framework of an uncertain relationship, so two values ​​may not be fixed at the same time. For example, the position and momentum are not fixed at the same time. Also, time and energy are not fixed at the same time. However, values ​​such as time x energy and position x momentum can be determined as physical quantities. This is a physical quantity of a dimension called action. It is related to but different from the physical quantity of time and the physical quantity of energy.


The above is a part that is difficult to explain to the general public even if it is convincing to those who understand quantum mechanics. I'm always worried if it's transmitted without any misunderstandings. Compton was promoting such a change in consciousness. He found particle nature in gamma rays and X-rays, which he thought of as waves.



Compton and Manhattan Project


Compton is also a key member of the Manhattan Project. In the first place, the atomic bomb must be planned from the production of the reactor. Therefore, a process is required to convert uranium to plutonium and separate plutonium from the mixture of plutonium and uranium. Compton designed this process as an SE and worked in the field where the project progressed.


In addition, in order to use an atomic bomb as a weapon, it is necessary to exert maximum attack power as soon as possible when using it in an enemy country, and Compton also plans how to design the mechanism of such a damaged weapon. I went on. The plan was also designed by Oppenheimer and has been discussed with Fermi and Lawrence. He was gathering intelligence from all over the United States and working on a plan.


And Compton's achievements are praised for its lush honors, including the Nobel Prize. At the same time, as the leader of the Manhattan Project, he is often mentioned when discussing the pros and cons of the plan itself.


Originally, Compton was originally a star-loving boy. From that point on, we went on to investigate gamma rays, but his name remains on NASA's satellite for gamma ray detection.


2024年01月26日

J・チャドウィック
1/26改訂【中性子を発見しガン治療に応用|マンハッタン計画でのリーダー】

こんにちはコウジです!
「チャドウィック」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。また、
チャドウィックが生まれた頃、ベートーベンはもう居ません。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


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【1891年10月20日 ~ 1974年7月24日】



ラザフォードの弟子チャドウィック


ジェームズ・チャドウィックは研究環境で恵まれていました。


マンチェスター大学の時代からラザフォードの指導を受け、
海外修業時代にはガイガーの下で放射線計測の知見を積み上げました。


開発されたばかりのガイガーカウンターを使い
放射線特性での実績をあげます。第一次大戦終了後は
ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で
再び
ラザフォードの下で研究を続けます。


ドクター修了後も10年以上、
ラザフォードの助手を務めていました。


キャンデビッシュ研究所での討論や助言は
多分に
有益だったであろうと思われます。


チャドウィック以外にも有能な研究者達が集まっていました。
その中で
議論を交わしたのです。そんな中で
チャドウィックは
中性子を発見していきます。



チャドウィックと中性子


ベリリウムにアルファ粒子を衝突させたボーテ【Walther Bothe(独)】
1950年代の実験でチャドウィックは知見を得て、
電荷をもたない理論的な粒子である
「中性子」
を予感し考察を進め、キューリ夫妻の息子である
イレーヌ・ジョリオ=キュリーによるポロニウムとベリリウムで行った
1932年の実験検証を進めます。実験装置を工夫し、
理論を完成させます。


原子核の理解にとって大きな前進です。
中性子が説明されたのです。


ハイゼンベルク が「中性子とは陽子と電子の組ではなく
新たな核子である」と
考察していましたが質量は未確定でした。


その時点では実態の完全把握が未完でした。
そうした
中性に対してチャドウィックは明確に質量を示し、
重陽子の光壊変によって中性子質量を確定します。


質量の発見で原子構造をまた一つ明らかにしたのです。
更にチャドウィックは中性子がガン治療に有益であろうと考えます。




 軍需産業と物理学者


ただ残念な事に、チャドウィックの時代は世界大戦の時代と重なります。
マンハッタン計画では
イギリスチームのリーダーとして計画を進めて
いました。
トリニティー実験も目の当たりにしたようです。


自身が心血を注いで作り上げた概念が政治的に
利用されていく有り様をチャドウィックは、
どう感じていたのでしょうか。
不満だった筈です。


その他、パウリとの議論の発展、
サイクルトロンの導入、
ノーベル賞の賞金の
使い道については
追って、きちんと整理して再投稿したいです。


本稿はひとまず筆を納めます。


チャドウィックはキーズ・カレッジの学寮長として
晩年を過ごしています。そして、リヴァプール大学
には
彼の名を冠した研究所が残っています。



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(2021年10月時点での対応英訳)



Rutherford's disciple Chadwick


James Chadwick was blessed with a research environment. He has been under the guidance of Rutherford since the days of the University of Manchester, and during his overseas studies he accumulated his knowledge of radiation measurement under Geiger. He uses the newly developed Geiger counter to achieve a proven track record in radiation characteristics.


After the end of World War I, he continued his work under Rutherford again at the Cavendish Laboratory at the University of Cambridge. After graduating from his doctor, he was an assistant to Rutherford for more than 10 years. The discussions and advice at the Candebish Institute were probably helpful. In addition to Chadwick, talented researchers were gathered. We had a discussion in that. Meanwhile, Chadwick discovers neutrons.



Chadwick and neutrons


In the 1950s experiment of Beaute [Walther Bothe (Germany)] in which alpha particles collided with berylium, Chadwick gained knowledge and foresaw "neutrons", which are theoretical particles without electric charges, and proceeded with consideration. We will proceed with the 1932 experimental verification of polonium and berylium by Irene Joliot-Curie, the son of Mr. and Mrs. Curie.


He devises experimental equipment and completes the theory. It's a big step forward in understanding the nucleus. Neutrons were explained. Heisenberg considered that neutrons are new nucleons rather than proton-electron pairs, but their masses are uncertain. At that time, a complete grasp of the actual situation was incomplete.


Chadwick clearly indicates the mass for such neutrality, and the neutron mass is determined by the photodestruction of deuterons. The discovery revealed another atomic structure. In addition, Chadwick believes that neutrons may be beneficial in treating cancer.



Munitions industry and physicist


Unfortunately, the era of Chadwick overlaps with the era of World War. He was the leader of the British team in the Manhattan Project. He also seems to have witnessed the Trinity experiment. How did Chadwick feel that the concept he had created with all his heart and soul was being used politically? He must have been dissatisfied.


In addition, I would like to keep track of the development of discussions with Pauli, the introduction of Cycletron, and the use of the Nobel Prize money, and repost it properly. This article will be written for the time being. Chadwick spends his later years as a dorm director at Keys College. And the University of Liverpool still has a laboratory bearing his name.


2023年10月31日

ダニエル・ベルヌーイ
10/31改訂【数学を駆使して「流体力学」を発展】

こんにちはコウジです!
「ベルヌーイ」の原稿を改定します。ようやく18世紀ですね。
今回の主たる改定はAI情報の再考です。ベートーベンは未だ居ない時代。
(彼の人生は1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)


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【1700年2月8日生まれ ~ 1782年3月17日没】



 ベルヌーイ一族


ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli)
の名前で
ダニエルって大事です。
科学史に詳しい人ならピンと来るのですが、
ベルヌーイ一族は沢山、
科学史に出てきます。


3世代で8人が著名人です。



先ず、今回取り上げたダニエルはスイスに生まれ3兄弟で、全て物理学者・数学者です。また、ダニエルの父の世代にも何人かの学者が居るようで、ダニエルの叔父の仕事を父が引継ぐ場面もあったようです。


ダニエルは、18世紀のスイスの数学者および物理学者で、ダニエルの業績は流体力学、確率論、統計学、および数学のさまざまな分野にまたがっています。以下に、ベルヌーイに関する主要な業績と貢献について詳しく説明します。



ベルヌーイの定理:


ダニエル・ベルヌーイの最も有名な業績は、流体力学に関するもので、彼の名前を冠した「ベルヌーイの定理」です。この定理は、流体の速度、圧力、高さの変化が密接に関連していることを示しています。ベルヌーイの定理は、流体の運動やエネルギー保存の法則に関する重要な原理の一つとなっており、現代でも航空工学や流体力学の基本的な理論の一部として広く使用され続けています。



統計学への貢献:


ダニエル・ベルヌーイは、確率論および統計学の先駆者としても知られています。彼は「ベルヌーイ試行」として知られる試行に関する理論を発展させ、確率論の基本的な概念を研究しました。これは後に統計学の発展に大きな影響を与えました。



複利の発明:


ベルヌーイは金融数学においても重要な貢献をしました。彼は複利に関する数学的な原理を発展させ、これが投資や金融取引における複利計算の基盤となりました。そのため、彼は現代の金融数学においても重要な人物と見なされています。



家族の数学の伝統:


ダニエル・ベルヌーイはベルヌーイ家の一員で、その家族は数学と科学において多くの著名な人物を輩出しました。彼の兄弟や親戚たちも数学や物理学において重要な業績を持ち、ベルヌーイ家は18世紀のヨーロッパにおいて数学と科学の中心的存在となりました。


ダニエルの業績は数学、物理学、統計学、および金融数学の複数の分野にまたがっており、彼の貢献は現代の科学と数学の基盤を築く上で非常に重要です。



 

 ダニエルベルヌーイとその父


また、こんな事もありました。


1734年のパリ・アカデミー大賞で父のヨハンと息子のダニエルが同時に賞を受賞した事が父の名誉を傷つけダニエルはベルヌーイ家から出入り禁止の扱いを受けます。


父は死ぬまでダニエルを恨んでいました。有名なダニエルの流体力学に関する著作でヨハンによる盗用もあったようです。家名が重い故に、ヨハンは名誉で目がくらみ、良識を忘れています。


そんな事もありましたが、ダニエルは研究を続け、パリ・アカデミー大賞の受賞も10回になったようです。何よりニュートン力学と数学を考え合わせ「流体力学」を発展させました。非粘性流体に対する「ベルヌーイの法則」は有益で、変形する物体にニュートン力学の適用範囲を広めています。


そうした仕事は船舶の運航等に大変、役立ちました。


 


 



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(2021年8月時点での対応英文)


Daniel is important in the name of Daniel Bernoulli. If you are familiar with the history of science, it will come to you, but there are many Bernoulli families in the history of science. Eight people are celebrities in three generations.


First of all, Daniel, who was born in Switzerland, has three brothers, all of whom are physicists and mathematicians.


Also, it seems that there are some scholars in Daniel's father's generation, and there was a scene where his father took over the work of Daniel's uncle.


Also, there was such a thing.


The simultaneous award of his father Johann and his son Daniel at the 1734 Paris Academy Awards hurts his father's honor and Daniel is banned from the Bernoulli family.


His father had a grudge against Daniel until his death. It seems that there was plagiarism by Johann in the famous work on fluid dynamics of Daniel. Because of his heavy family name, Johann is dazzled by honor and forgets good sense.


However, Daniel continued his research and seems to have won the Paris Academy Awards 10 times. Above all, he developed "fluid mechanics" by considering Newtonian mechanics and mathematics.


"Bernoulli's principle" for non-viscous fluids is useful and extends Newtonian mechanics to deforming objects.


Such work was very useful for the operation of ships.


2023年07月16日

マリ・キュリー
7/16改訂【ウラン含有量に注目|元素崩壊|特定原子の遷移を示し物理学に殉じたフランスの偉人】

こんにちはコウジです!
「マリ・キュリー」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。ベートーベンは居ない時代?
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【1867年11月7日生れ ~ 1934年7月4日没】



マリア・スクウォドフスカ=キュリー


:Maria Salomea Skłodowska-Curieですが


フランス語でマリ・キューリと呼ばれる事が多いです。


彼女は物理学と化学で2度ノーベル賞を受けています。マリ・キューリの父は研究者でしたが貴族階級の出身だった為に、帝政ロシアの支配下の元で教壇に立つことを禁じられていました。マリ・キューリは10歳をなる前に大変苦労します。父の非合法の講義が発覚して職・住を失い、母の結核による他界があり、更には投機での失敗もあり、マリーは親戚等の世話になります。


 

そんな苦しい時期にマリ・キューリにも


恋をした時間がありました。


当時、マリ・キューリは家庭教師を生業としていましたが、カジュミェシュ・ゾラフスキという青年と恋仲に落ちます。共に避暑旅行に出かけたりして幸せな時間を過ごしますが、最終的には破局を迎えました。この事がマリ・キューリのパリ行きに繋がった様です。



パリでもマリ・キューリは苦労します


屋根裏部屋に住んで、寒い時には持っている全ての服を着ながら勉学に励みます。そんなパリ生活は大学の学部を卒業する迄、続きました。


 

そんなマリ・キューリに


光明がさします。知り合いを通じて


ピエール・キューリと出会ったのです。


 

そのピエール・キューリは国外で評価を受けていて1893年には英国のケルヴィン卿が訪ねてくる程でした。ところが、ピエール・キューリは勲章を辞退してしまうような性格でひたすら研究に励んでいました。


そんな二人が惹かれ合い、認め合い、マリの帰国後もピエールは恋文を贈り続け、遂にはマリの心が動き、2人は簡素な結婚式をあげます。


幸せな結婚だったと思います。


祝いの宴もなく、結婚指輪も無い、


つつましい形式でしたが


祝い金で買った自転車に乗り、


フランスの片田舎へと新婚旅行に旅立ちます。


ピエールが自転車をこぎ、


その後ろにマリが乗り、長閑な道を


語りながら進んでいった事でしょう。


料理を頑張り、長女に恵まれながら学問を続け、ベクレルの見出した放射線に対して二人は研究していきました。そこで。光や温度といったパラメターではなくウラン含有量の「量」が放射現象には本質的であるとの結論を得ます。
その後、マリとピエールの夫妻は元素の精製に心血を注ぎます。純度をあげる事で同位体の存在に近づいていったのです。関心のある精製にキューリー夫妻は全てを注ぎ込みます。結果として、夫ピエールは度重なる発作に苦しみ、妻マリは神経衰弱から睡眠時遊行症に陥ります。
そんな中で第2子を流産してしましました。そうした犠牲を払い、夫婦は物理学で大きな成果をあげます。



新しい概念の提唱に至ります


新しい発見とは即ち、


「特定元素は別の元素へ変化する」


という事実です。


そして、その過程で放射線を放出して一見エネルギー保存の法則に相反する変化を起こしますが、それを追ってラザフォードらが研究成果を次々に発表します。
原子核の崩壊過程では素粒子の結合に関わる様々なエネルギーが関与します。現在では簡素にダイヤグラムで理解する手法が確立されていますが、当時は手探りの状況理解でした。
そして夫ピエールが放射線に医学的効果を期待出来ると発見をしていくのです。ラジウムの効果でした。微量のラジウムならば古くから「ラジウム温泉」の効果は広く知られていました(ただし、明確に「ラジウム」という言葉は使われていませんでした)。


また、現在では分かっているのですが過度のラジウムは身体に悪影響を与えます。放射線の影響を直接・装置で患者に対して考慮し始めたのです。ピエールの発見は大きな人類の知見へと繋がっていきます。


当初は、妻マリーの博士学位習得が放射線研究の目的であったのですが最終的にはマリー・ピエール・ベクレルの3人に対してノーベル賞が贈られます。苦労してきた二人にとって、まさに栄誉の極みでした。


所が、その後突然の不幸が訪れました。夫ピエールが46歳の若さにして交通事故で命を落とすのです。妻マリーは悲痛にくれます。当然でした。その後、傷が癒えるまでに多くの言葉と時間が必要でしたが、最終的に妻マリーは夫ピエールの大学での職位と実験室の後任を引き継ぎます。研究者として活動を始めたのです。



ケルビン卿との議論


マリー・キューリ―はケルヴィン卿と対峙します。夫を認めてくれていた恩人でもあるのですがケルビン卿はラジウムを元素ではなく化合物であると考えていたのです。マリーは実験事実で論破してケルビン卿の誤りを正しました。そしてカメリーオネスと低温状態のラジウム放射線を研究していこうと話を進めます。


また第一回ソルベー会議で論文を発表していた若き日のアインシュタインを評価して、チューリッヒ大学教職への推薦状を書いています。そうした当時の綺羅星の物理学者が彼女と交流を持ちました。反面、ゴシップ騒動に追われていた部分も有、マリーはマスコミを嫌います。二度目のノーベル賞を受ける際にはスウェーデン側からも授与を見合せる打診がありましたがマリーは毅然と対応して、ゴシップネタとされた関係を「成果をあげた関係」であると語りました。
旦那様の教え子、ランジュバンとの成果でした。


そして、、、語らなければなりません。何より悲しかったのは放射線のもたらした弊害です。研究の過程で放射線被曝が重なりマリーは頭痛・耳鳴り・怪我がなかなか治らないといった障害に悩まされ続けます。そして終には死に至りますが、当時はまだその関連性が明確ではなかったようです。


波乱に満ちたマリー・キューリの人生は幕を閉じましたがその後人々は彼女の残した物を高く評価しています。1995年、夫妻の墓はパリのパンテオンに移されました。フランス史の偉人の一人として今でも祭られています。そして、物理の世界の偉人として世界中で語り継がれています。




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(2021年9月時点での対応英訳)



Maria Salomea Skłodowska-Curie
She is often called Mari Curie in French.


She has received two Nobel Prizes in physics and chemistry. Mari Curie's father was a researcher, but because he was from the aristocratic class, he was forbidden to teach under the rule of imperial Russia. Mari Curie has a hard time before she turns 10. Marie takes care of her relatives and others as her father's illegal lectures are discovered and she loses her job and residence, her mother died of tuberculosis, and her speculative failure. Become.


I had a time when I fell in love with Mari Curie during such a difficult time. At the time, Mari Curie was a tutor, but she fell in love with a young man named Kajumjesh Zorafski. She spends a happy time together on a summer trip, but in the end it was catastrophic. This seems to have led to Mari Curie going to Paris.


Mari Curie has a hard time even in Paris. She lives in the attic and works hard at her studies while wearing all her clothes she has when it's cold. Her life in Paris continued until she graduated from college.


Her light shines on such Mari . She had met Pierre Curie through her acquaintance. The Pierre Curie was well received abroad, and in 1893, Sir Kelvin of England visited him. However, Pierre Curie was devoted to his research with a personality that would decline his medal.


The two were attracted to each other and acknowledged each other, and even after her return to Paris, Pierre continued to give her a love story, and finally Mali's heart moved, and the two had a simple wedding ceremony. I think it was a happy marriage. There was no celebration party, no wedding ring, and although it was a humble format, I rode a bicycle I bought for the celebration and set out on my honeymoon to a remote country in France. Pierre would ride a bicycle, and Mali would ride behind him, talking about a quiet road. They worked hard on cooking, continued their studies while being blessed with her eldest daughter, and studied the radiation found by Becquerel.


Therefore. We conclude that the "amount" of uranium content, rather than parameters such as light and temperature, is essential for radiation phenomena. After that, Mari and Pierre devoted themselves to the purification of the elements. By increasing the purity, we approached the existence of isotopes.


Mr Curie and his wife put everything into the refinement of interest. As a result, her husband Pierre suffers from repeated seizures and his wife Mari suffers from sleepwalking due to memory weakness. Meanwhile, I had a miscarriage of my second child. At that cost, we come up with a new concept. That is, "a specific element changes to another element"
The fact is.


Then, in the process, it emits radiation and causes changes that seemingly contradict the law of conservation of energy, but Rutherford et al. Will announce their research results one after another. Various energies involved in the bonding of elementary particles are involved in the decay process of atomic nuclei. Nowadays, a simple method of understanding with a diagram has been established, but at that time it was a fumbling understanding of the situation.


And her husband Pierre discovers that radiation can be expected to have a medical effect. It was the effect of radium. The effect of "radium hot springs" has long been widely known for trace amounts of radium (although the word "radium" was not explicitly used). Also, as we now know, excessive radium has a negative effect on the body. We began to consider the effects of radiation on patients directly and with equipment. The discovery of Pierre will lead to great human knowledge.


Initially, the purpose of radiation research was to obtain a doctoral degree from his wife Marie, but in the end, the Nobel Prize will be given to three people, Marie Pierre Becquerel. It was a great honor for the two who had a hard time.


However, sudden misfortune came after that. Her husband, Pierre, died in a car accident at the young age of 46. Her wife Marie is in pain. It was natural. After that, it took a lot of words and time for her wounds to heal, but eventually her wife Marie took over her husband Pierre's college position and laboratory successor. She started her career as a researcher.



Discussion with Sir Kelvin


Marie Curie confronts Sir Kelvin. Sir Kelvin, who was also her benefactor who acknowledged her husband, considered radium to be a compound rather than an element. Marie argued with her experimental facts and corrected Sir Kelvin's mistakes. She then goes on to study Cameriones and cold radium radiation. She wrote a letter of recommendation for the University of Zurich teaching profession in recognition of her youthful Einstein, who had published her treatise at the first Solvay Conferences. The physicist of Kirasei at that time had an exchange with her.


On the other hand, Marie Curie has been chased by the gossip turmoil, and Marie hates the media. When sMari received her second Nobel Prize, the Swedish side also asked her to forgo her award, but Marie responded resolutely and described her relationship as her gossip story as "successful." "It's a relationship," she said.
It was an achievement with her husband's student, Langevin.


And ... I have to talk. The most sad thing was the harmful effects of radiation. In the process of her research, radiation exposure overlaps and Marie continues to suffer from disabilities such as her headaches, tinnitus and injuries that are difficult to heal. She and she eventually died, but it seems that the relevance was not yet clear at the time.


Her turbulent life with Marie Curie ended, but people have since appreciated her leftovers. In 1995, the tombs of the couple were moved to the Pantheon in Paris. She is still celebrated as one of the great men of French history. And she has been handed down all over the world as she is a great man in the physical world.

2023年06月05日

A・J・フレネル
6/5改訂【光が横波であると説明しての偏向や屈折を説明】

こんにちはコウジです!
「フレネル」の原稿を改定します。
今回の主たる改定はタイトルの再考です。
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【1788年5月10日 ~ 1827年7月14日】



フレネルとナポレオン


その名はオーギュスタン・ジャン・フレネル;
Augustin Jean Fresnelです。


フランスのノルマンディー地方で
建築家の父のもとに生まれます。
ナポレオン時代に生きた人で、
ナポレオンの運命で人生を大きな影響を受けました。
物理学者としてナポレオンに関わった
ヴォルタとは対照的です。
ヴォルタはナポレオンに好かれていて
伯爵の栄誉を受けています。


それに対してフレネルはナポレオンの
敵方についているのです。先ず、
フレネルは国立土木学校を卒業後に
色々な地方の地方の現場に赴任して
建設の仕事の経験を重ねます。


その傍らで関心のあった
光学関係の知見を得ていきます。
1815年におけるナポレオン・ボナパルトの
エルバ島脱出の際には国王勢の味方
となりましたが、その為にナポレオン施政下では
軟禁生活を余儀なくされます。
私見(しけん:私の考え)では、
この時の時間の過ごし方が少しニュートン
似ている気がしてしまいます。


実際にニュートンはペスト流行時に
学術交流できない時間を活用して
プリンキピアに繋がる思索の時間を作り、
まとめ上げました。


フレネルはナポレオン施政時の軟禁生活の
時間を使って光学の研究を進め、
波動性による考え方を確立して
回析現象を示したのです。


ナポレオンの百日天下が終わり、ルイ18世が再び即位すると
フレネルは復職しパリにて技師としての仕事を再開しました。



フレネルと光 


パリでの仕事としてフレネルは生活の為の仕事をし乍ら光学の研究を続けました。クリクリスティアーン・ホイヘンストマス・ヤングらが考えていた光の伝番についての当時の考えは縦波だろうと考えられていました。つまり、光は波動(波)として考えられますが、光は音波と同様に媒質(実は真空でも伝わります)を伝わる時は「縦波」であると考えられていたのです。それに対してフレネルは、偏光の説明を突き詰めて、光の波動説を実証したうえで、光が横波であると考えたのです。
『ここでの「縦波」や「横波」は進行方向に対してそれぞれ「平行」が「垂直」であるかに対応します。』


こうしたフレネルの光学理論は、複屈折現象などを上手く説明しました。またフレネルは、地球のような移動体での光路差について研究していきました。それはマイケルソン・モーレーの実験に繋がり、特殊相対論に示唆を与えたと言われています。


フレネルは光学理論をまとめあげ、1823年に「反射が偏光に与える諸変形の法則に関する論文」として発しました。この功績は広く称えられ、、フランス科学アカデミーの会員に選ばれたほか、物理学の世界で次々と認められました。


最後にフレネルはとても病弱でした。残念な事に結核を患い39歳で若くして亡くなってます。






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(2021年10月時点での対応英訳)



Fresnel and Napoleon


Its name is Augustin Jean Fresnel. Born to an architect's father in the Normandy region of France. A man who lived during the Napoleonic era, Napoleon's fate greatly influenced his life. First, after graduating from the National Civil Engineering School, Fresnel will be assigned to various local sites to gain experience in construction work. Beside him, he gains optics insights that he was interested in. He became an ally of the royal family when


Napoleon Bonaparte escaped from Elba Island in 1815, which forced him to live under house arrest under Napoleon's administration. In my opinion, the way I spend my time at this time is a bit like Newton. In fact, Newton made use of the time when academic exchange was not possible during the plague epidemic to create and organize a time for thinking that would lead to Principia. Fresnel used his time under house arrest during Napoleon's administration to study optics, establishing a wave-based mindset and showing the phenomenon of diffraction.


When Napoleon's Hundred Days ended and Louis XVIII reigned, Fresnel returned to work and resumed his work as his engineer in Paris.



Fresnel and light


As his work in Paris, Fresnel continued his optics research while working for a living. It was thought that the thoughts of Christiaan Huygens and Thomas Young on the transmission of light at that time would be longitudinal waves. In other words, light can be thought of as a wave, but when it travels through a medium (actually, it can also be transmitted in a vacuum) like sound waves, it was thought to be a "longitudinal wave."


Fresnel, on the other hand, scrutinized the explanation of polarized light, demonstrated the wave theory of light, and thought that light was a transverse wave.
"The" longitudinal wave "and" transverse wave "here correspond to whether" parallel "is" vertical "with respect to the traveling direction. 』\


Fresnel's optical theory explained the birefringence phenomenon well. Fresnel has also studied optical path lengths in mobile objects such as the Earth. It is said that it led to Michelson-Morley's experiment and gave suggestions to special relativity.


Fresnel summarized the theory of optics and published it in 1823 as "A Paper on the Laws of Deformation of Reflection on Polarized Lights". This achievement was widely praised, he was elected a member of the French Academy of Sciences and was recognized one after another in the world of physics.


Finally Fresnel was very sick. He unfortunately suffered from tuberculosis and died at the young age of 39.


2023年02月05日

ユージン・ポール・ウィグナー2/5改訂
_【ディラックの義理の兄でバーディンの(BCS理論のB)指導教官】

こんにちはコウジです!
「ユージン・ウィグナー」の原稿を改定します。


投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。
今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使いません。
2021/7/11(日)から始めていてSNSの感じが分かりました。
流入はありますが労力がかかります。
今後はSEO中心に考えてSNSはブログと常時関連させません。
SNSは戦略的に使っていきます。


何より紹介の内容を吟味します。【以下改訂した原稿です】



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【1902年11月17日 ~ 1995年1月1日】



その名を書き下すと


ユージン・ポール・ウィグナー


(Eugene Paul Wigner)。


ハンガリー生まれのユダヤ人です。


後程詳しくご紹介しますが、ウィグナーは


ポール・ディラックの義理のお兄さんで、


BCS理論の作成者3人組の中心、


バーディーンの指導教官です。


物凄い人脈を持っている人ですね。


また、「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」
に対して1963年のノーベル物理学賞を受賞しています。


対称性に着目した素粒子の整理は有効でその分類方法が
無ければ
進まなかった話が沢山あります。


 

 ドイツでのウィグナー


ユージン・ウィグナーは現在のベルリン工科大学
卒業後にベルリン工科大学で
勤務していましたが
ナチスドイツのユダヤ人迫害に対して研究継続の困難
を感じアメリカに亡命をします。


米国に亡命後はウィスコンシン大学で物理学の教授を務め、
その後にプリンストン大学で数学の教授を務めました。


そんなウィグナーはレオ・シラードエドワード・テラーらと、
ナチスドイツが原子爆弾を開発した時の危険性を
アメリカ政府に対して訴えていきました。


実際にベルリンを追われた過去を持つウィグナーは
現実に当時の状況を分析していたのだろうと思います。


つまり、当時のドイツの科学の水準を分かっていて
ナチスが有していた兵器を理解していたから、
ナチスによる原爆開発の危険を強く感じていたのだと思えます。
ただ、実際の歴史を知っている今の我々にとって見たら取り越し苦労です。


ノルマンディー上陸作戦以降の連合軍の通常兵器での反攻を思えば、
優秀とはいえ、
一国のドイツがヨーロッパ大陸を長期間占領
し続ける
事は出来なかったでしょう。


現在で考えると強大化する中国に対して
欧米諸国
がどういった対応をするか気になる所でありますよね。


いずれにせよ、
英米が原爆を所有するきっかけをウィグナー達は作ったのです。



 原爆とウィグナー


ウィグナーはアメリカの原爆開発のきっかけとなった
アインシュタイン名による大統領宛書簡の起草対して
シラードや
テラーと連名で加わりました。


加えて、
原爆を開発するマンハッタン計画
にはメンバーとして加わりました。


晩年にウィグナーは哲学的な傾向を深め、
講演録
「自然科学における数学の理不尽な有効性」
を残しています。
著名なこの著作は多分野に影響を与えています。


また、ウィグナーの妹は食事の席にディラックを招いた縁で、


彼の奥さんになっています。とても意外な取り合わせですね。




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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をしていきます。


nowkouji226@gmail.com


2021/04/06_初版投稿
2023/02/05_改定投稿


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(2021年11月時点での対応英訳)



If you write down the name


Eugene Paul Wigner.


He is a Hungarian-born Jew. As I will explain in detail later, Wigner is Paul Dirac's brother-in-law and the supervisor of Bardeen, the center of the trio of creators of BCS theory. He has a tremendous network of contacts, isn't he? He also received the 1963 Nobel Prize in Physics for his "discovery of symmetry in the theory of nuclei and elementary particles". There are many stories that the arrangement of elementary particles focusing on symmetry is effective and would not have progressed without the classification method.



Wigner in Germany


Eugene Wigner worked there after graduating from the current Berlin Institute of Technology, but found it difficult to continue his research on the persecution of Jews in Nazi Germany and went into exile in the United States.


After his exile in the United States, he was a professor of physics at the University of Wisconsin and then a professor of mathematics at Princeton University. Wigner, along with Leo Szilard and Edward Teller, appealed to the US government about the dangers of Nazi Germany developing an atomic bomb.


I think Wigner, who had a past of being ousted from Berlin, was actually analyzing the situation at that time. In other words, he knew the level of German science at the time and understood the weapons that the Nazis had, so it seems that he was strongly aware of the danger of the Nazis developing an atomic bomb. However, for those of us who know the actual history, it is a difficult move. Given the counterattack of the Allied forces with conventional weapons since the Invasion of Normandy, Germany would not have been able to continue to occupy the continent for a long time, albeit excellent. When you think about it now, you are wondering how Western countries will respond to the growing power of China. In any case, the Wigners created the opportunity for Britain and the United States to own the atomic bomb.



Atomic bomb and Wigner


Wigner joined Szilard and Teller jointly in drafting a letter to the president in the name of Einstein, which triggered the development of the American atomic bomb. In addition, he joined the Manhattan Project to develop the atomic bomb as a member.


In his later years Wigner deepened his philosophical tendencies, leaving behind his lecture "The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences". His prominent work has influenced many disciplines. Wigner's sister is also his wife because he invited Dirac to his dining table. It's a very surprising combination.



2023年01月07日

ヘンリー・ノリス・ラッセル_
1/7改訂【HR図を示し星の進化を研究】

こんにちはコウジです!
「ラッセル」の原稿を改定します。


投稿作業としては関連リンク、内部リンクの改定、個別の人物の追加をしています。
今後もご覧下さい。また、ブログ宣伝でツイッター使います。
2021/7/11(日)朝の時点でフォロワーは合計【11691】でした。半年後の2/9と7/3の時点で‗
@SyvEgTqxNDfLBX‗3385⇒3575‗ABLLpQ8kta98RLO9‗2543⇒5477
アカウント凍結に伴い合計を考えるのはやめます。


作業としてフォロワー増は暢気に続けます。
それよりも紹介の内容を吟味します。【以下改訂した原稿です】



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【1877/10/25 〜 1957/2/18】



はじめに


ヘンリー・ノリス・ラッセルは星の進化を考えていたアメリカの天文学者です。
プリンストン大学で学び研究生活を始めます。


私が初めてラッセルの事を知ったのは多読を心がけていた高校時代に、C.セーガンと共に出てきた学者さんでした。当時はマンハッタン計画に関わっていたアインシュタインなどの学者さん達と天文学者の学者さん達が、私の中でごちゃ混ぜになっていました。


高校時代の「そもそもの理解の浅さ」が懐かしいくらいです。ラッセルと言えば「哲学者のラッセルと混同してはいけない」とか真面目に考えていました。



ラッセルとHR図 


ラッセルの研究で有名なものは
HR図(Hertzsprung-Russell diagram)です。


HR図は所謂「星の進化」に関しての理解に


不可欠な研究となっています。


概説すると以下の概念です。


(本稿は星の進化に関しての記述が主です)


宇宙の無数の石ころが万有引力で(自重の為に)


他の物体と一緒になっていき段々に


大きな重心を持つ物体になっていきます。


宇宙空間で星の流れを考えた時に流れが速い部分や


渦が出来たりする時には流れの中で


重力が沢山集まる場所や、


その効果が薄い場所が出来てきます。


重力の効果が集まる部分にはより重心の集まっている物体が蓄積してきてお月様のクラスの塊が宇宙で無数に出来ていくと想像されます。


未だお月様の内部構造は正確に観測されていませんが、宇宙を飛び交う岩石クラスの大きさであれば実際にサンプルを持ち帰り内部を調べることが出来ます。


大気圏に入ってきた岩石もまたサンプルとなり研究材料と出来ます。こうした類の大きさスケールが分かりやすい物体が宇宙には無数にあります。その物体自体は暗い寒い宇宙の中で(真空中に)沢山漂っています。


そうした物体が様々な要因で更に集まってくると地球や火星、木星のような内部に地殻を持った衛星になってきます。内部に地殻を持つ事情は万有引力で地球内部の物体が中心方向に集まってくる事情からです。


例えば地球の場合にはすべての物体が地球の重心に落ちていこうとするから重心近くには物凄い圧力がかかってきて地球内部では核反応が起きています。


圧力の大きさに個々の原子核が耐えられないで崩壊するのです。地球表面は比較的冷えていますが地球の内部は物凄い高熱です。


更に重力で重量物が集まってくると重力によって集まってくる物質の表面が冷えている状態が壊れます。地球の表面は人間が暮らせる程度の暖かさに保たれていて冷たい宇宙空間で冷やされている状態と地球内部からマグマで温められている状態に均衡がとれています。


地球が奇跡の星と呼ばれる理由の一つで温度での均衡で水が沸騰せず、かつ凍らない温度域でタンパク質、その他の物質が出来ていて肉体を持つ様々な動植物が存在出来ています。


もしも地球が100度以上の温度下であったら今の生命はほとんど生活が出来ないでしょう。生命の誕生、その後の進化には好ましい条件だったわけです。


近くを構成しているようなバランスが崩れると太陽のようにいつも光り続ける星となります。大きくなり、もはや地殻が維持できなくなって、その上で生き物が生活できる状態ではありません。


内部での核反応が非常に活発になり、外部に絶えず光を放射して輝き続けます。光だけではなく各種素粒子やあらゆる波長の電磁波を放出します。


そうした活動として全体の重量が減っていく恒星(太陽のように光る)もあれば、ほかの星を取り込んで更に重量を増していく恒星もあります。


そうした膨張や減衰を恒星はしていきますが、全体重量がもっともっと大きくなってくると白色矮星、ブラックホールへと変化していくだろうと言われています。


最終的には全体の重力が大きくなり、光の素子である光子さえもブラックホールから脱出できなくなるのです。当然。ブラックホールは見えません。



最後に


1947年に引退するまで30余年の間、プリンストン大学天文台の所長として研究を続けラッセルは余生を迎えました。今もその研究成果は受け継がれ発展し続けています。



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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
問題点に対しては適時、
返信・改定をします。


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2022/10/03_初版投稿
2023/01/07_改訂投稿


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(2022年10月の時点の英訳)



Preface


Henry Norris Russel is an American astronomer thinking about the evolution of the star.
I learn in Princeton University and begin study life.


It was the scholar who came out with Carl Sagan in the high school days when I kept a multi-reading in mind that I knew Russel for the first time.


Scholars and the scholars such as Einstein concerned with Manhattan Project of the astronomer became mixed-up among me in those days. I feel nostalgic for "shallowness of the very beginning understanding" at that time. Speaking of raschel, I thought, "you must not confuse it with the raschel of the philosopher" seriously.



Raschel and figure of HR


The thing which is famous for a study of the raschel
It is a figure of HR (Hertzsprung-Russell diagram).


The figure of HR for understanding about so-called "evolution of the star"


It becomes the essential study.


It is the following concepts when I give an outline.


(as for this report, a description about the evolution of the star is important)


Innumerable stones of the space are universal gravitation; (for self-respect)


Meet other objects; to steps


It becomes the object with a big center of gravity.


The part which is fast in a flow when I thought about the flow of the star in outer space


When there is a vortex; in a flow


The place where a lot of gravity gathers,


There is the place where the effect is light.


When the object that a part attracting gravitational effects attracts centers of gravity more accumulates, and there is the lump of the of class innumerably in space in a month, I am imagined.


The internal structure of moon is not yet observed exactly, but I actually take a sample home with me and can check the inside if it is the size of the rock class flying about the space.


The rock which entered the atmosphere also becomes the sample, and there is it with study materials. There are innumerable objects that the size scale of such a kind is plain in the space. Object itself drifts a lot (during a vacuum) in dark cold space.


When such objects gather in various factors more, it becomes the satellite with the earth crust in the earth and Mars, the inside such as the Jupiter. Circumstances having the earth crust are from the circumstances that objects in the earth gather in the central direction by universal gravitation inside.


For example, because all objects are going to fall into the center of gravity of the earth in the case of the earth, it comes under frightful pressure near the center of gravity, and nuclear reaction is taking place in the inside of the earth.


I collapse without individual atomic nucleuses being able to tolerate volume of pressure. The earth surface relatively gets cold, but the inside of the earth is terrible high heat.


Furthermore, the state that the surface of the material which gathers by gravity when heavy goods gather gets cold with gravity is broken. I am balanced in a state warmed with magma from a state and the inside of the earth that the appearance of the earth is kept by the warmth of the degree that a human being can spend, and are cooled in cold outer space.


Various animals and plants which the earth is one of the reasons called the miraculous star, there are protein, other materials in temperature area water does not boil and not to freeze, and have the body can exist. The present life may hardly live a life if there is the earth under the temperature more than 100 degrees. It was a favorable condition for birth of the life, the later evolution.


It becomes the star which continues always shining like the sun when balance constituting neighborhood collapses. It grows big and cannot maintain the earth crust anymore, and, after that, a creature is not in condition to be able to live. Nuclear reaction in the inside becomes very active and it emits light consistently outside and continues shining.


I release the electromagnetic wave of various elementary particles and every wavelength as well as light. If such an activity includes the fixed star (I shine like the sun) where overall weight decreases, there is the fixed star which takes other stars, and adds to weight more.


The fixed star does such expansion and decrement, but it is said that I will change into a white dwarf, a black hole when the whole weight grows big more and yet more. Overall gravity finally grows big, and even the photon that is an element of the light cannot escape from a black hole. Naturally. I do not see the black hole.



Finally


I continued studying it as a director of the Princeton University astronomical observatory,


and, during 30 rest of life, Russel reached the rest of life until I retired in 1947.


The results of research are inherited, and they continue still developing.


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