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2007年12月31日 Posted by のろ at 15:14 | 白虎隊 | この記事のURL
白虎隊 【はじめに】


1986年の年末時代劇として日本テレビが製作した『白虎隊』は、僕が幕末を理解するきっかけとして、多大な影響を与えたドラマです。僕は学校の勉強で年表を覚えるのが苦手で、歴史は大嫌いな科目でした。

しかし、今まで点と点で覚えてきた歴史が、あるきっかけで一本の線として理解できた瞬間、歴史は点で考えるものではなく流れで理解するべき分野なんだと気がつきました。

あまり内容のあるものにはならないとは思いますが、僕の頭を整理する意味で進めていきたいと思います(^。^)y-.。o○






18世紀末、ロシア・イギリスは日本に対して通商を求めて来ました。それに対し幕府は、外国船打ち払い令を出して対応しました。1844年、オランダ国王が現在の世界情勢を説明し日本に対し開国を勧めましたが、幕府はこれを聞かず、外国の侵攻に備えました。つまり、これを尊皇攘夷といいます。幕府を中心に外圧を廃する(攘夷)という考え方ですね。1847年、それに伴い会津は、江戸湾警備を命じられました。

1853、4年の度重なるペリー来航に、威圧された幕府大老井伊直弼は、1858年、ハリスと日米通商条約を結びました。この開国政策に対し、強固な尊皇攘夷派である水戸藩は強く反発し、井伊直弼を桜田門外にて刺殺しました・・・

ドラマ『白虎隊』の物語はここから始まります。幕末の動乱の中で、生真面目すぎるほどの幕府への忠誠を示した会津藩は、この時、間違いなく立場は官軍でした。しかし、時代の流れの中で、一転、賊軍の立場に立たされることになります。

時代の流れが早すぎる

この言葉が、白虎隊というドラマのテーマだったと思います(^^♪


≫≫白虎隊U【会津年表】につづく
≫≫白虎隊V【京都守護職】につづく


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2007年12月30日 Posted by のろ at 15:35 | 白虎隊 | この記事のURL
白虎隊U 【会津年表】


幕末。会津藩主・松平容保が京都守護職に就任した当時、会津は間違いなく官軍(天皇側)の立場として国を守る使命に燃えていました。しかし、幕末という時代の流れでしょうか?会津藩は一転、朝敵(反天皇側)へと立場が変わります。

そして、旧幕府討伐隊が会津へと進行していきます。会津は、7箇所もの天然の要害である峠を有してはいるものの、各所の守りを固める為には白虎隊のような少年兵部隊を編成しなくてはならないほど逼迫した状態になります。

1868年(閏8月23日)『会津の長い一日』が始まります。そして城が落ちたと誤認した白虎隊士は飯盛山にて自刃します。白虎隊が自刃した後、会津は約1ヶ月間の篭城戦に突入し・・ついに開城・・・そして会津藩が北への移行となるところまでを描いているのが、年末時代劇『白虎隊』です。詳細は解説で書きます(^^ゞ


(会津戦争の簡単な年表)
1860年(万延元年) 桜田門外の変(大老井伊直弼が水戸浪士に暗殺される)
1862年(文久2年)  松平容保が京都守護職に就任、藩兵1000人を率いて京都に入洛
1863年(文久3年)  8・18の政変が勃発し、尊攘派の七卿が都を落ちる
1864年(元冶元年) 池田屋事件・新撰組誕生・蛤御門の変(禁門の変)・薩摩・会津藩と長州藩が対峙し、長州藩が京から長州へと敗走
1866年(慶応2年) 薩長同盟が成立・15代将軍として徳川慶喜が即位・攘夷佐幕派の孝明天皇崩御
1867年(慶応3年) 幕府が朝廷に大政を奉還する・討幕の勅命が下る・朝廷から王政復古の大号令が発せられる。
1868年(慶応4年→明治元年)
   1月 3日 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)幕府軍敗退す
      6日 松平容保、慶喜に伴って開陽丸にて江戸へ向かう
   2月10日 容保、慶喜より登城を禁止される
      13日 会津藩用人・神保修理、鳥羽伏見での敗退の責めを受けて自刃
      22日 容保、会津に到着。挙藩防戦を決定する
   3月 8日 白虎隊などの諸隊を編成する
   4月17日 会津藩恭順嘆願が九条総督によって拒否される。
   5月 3日 奥羽越列藩同盟が結成
   8月21日 石延口・母成峠の戦い
      22日 猪苗代・十六橋が落ちる
      23日 『会津の一番長い日』始まる
          ・ 戸ノ口原の戦い(官軍が会津城下に侵入する)
          ・ 家老・西郷頼母一族自刃
          ・ 白虎隊・飯盛山にて自刃
          ・ 鶴ヶ城篭城戦開始
   9月 8日  明治に改元
      22日  鶴ヶ城開城
1869年(明治2年)  五稜郭戦争で、榎本武揚ら旧幕派が降伏

≫≫白虎隊V【京都守護職】につづく


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2007年12月29日 Posted by のろ at 15:44 | 白虎隊 | この記事のURL
白虎隊V 【京都守護職】


ロシア・イギリスなど諸外国が開国を迫ってくる中で、幕藩体制を支える思想でもあった尊皇攘夷思想は、ペリーの来航後、不平等な日米通商条約を結んだ幕府の弱腰の姿勢に対して反幕府・改革の思想にその姿を変えました。幕府は、その弱腰でビジョンの無い対応の故に、急速に求心力を失って行きます。

長州藩を中心とする尊攘派は、京において、朝廷・公家に色々な働きかけをしていました。そのころ京では、尊皇攘夷を自称する過激で無頼の浪人が横行し、天誅の嵐が吹き荒れるなど治安が乱れていました。

この混乱を打開するべく、有力諸藩により公武合体・幕政改革が試みられました。薩摩藩主・島津久光は、中央政界への進出を試み、京に上った後、尊攘派を伏見寺田屋に襲い弾圧しました。また、江戸に赴き幕政改革を行わせました。これにより、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永(春嶽)が政治総裁職に就任しました。

その後、京都の治安を所司代のみでは維持できなくなり、京都守護職を新設。松平容保は、春嶽らの推薦・受任説得により京都守護職に任じられました。





時、京都守護職に就任するということは、あらゆる面で幕府の矢面に立たされるということであり、幕府に対して徐々に不満が充満し世情が混乱している状態の中で、この役職を引き受けることは、藩の存亡に関わる危険を含んでいました。各藩が二の足を踏む中で、会津・容保に就任要請がありました。

会津藩内では、国家老の西郷頼母・田中土佐らが、容保の京都守護職への就任受諾を思いとどまるように説得をしましたが、容保はその意見には一切耳を貸さず、守護職の任を受けました。

容保の考えの中には、藩祖である保科正之から伝わる家訓(かきん)がありました。

将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。
もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない

という教えに対して、あまりにも生真面目すぎる忠誠を誓っていたと云われています。

≫≫白虎隊W 【禁門の変】につづく


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2007年12月28日 Posted by のろ at 16:06 | 白虎隊 | この記事のURL
白虎隊W 【禁門の変】


ロシア・イギリスなど諸外国が開国を迫ってくる中で、幕藩体制を支える思想でもあった尊皇攘夷思想は、ペリーの来航後、不平等な日米通商条約を結んだ幕府の弱腰の姿勢に対して反幕府・改革の思想にその姿を変えました。幕府は、 その弱腰でビジョンの無い対応の故に急速に求心力を失って行きます。




幕府は権威を回復するべく将軍家茂が上京し、尊攘運動を弾圧し公武合体の強化を図る政策を採りましたが、そらは逆に尊攘運動に押される形となってしまいました。結果、幕府内部でも結束が乱れ、将軍をはじめ有力者達が京を離れました。

このとき、将軍護衛でお供した浪士組のうち、 京都残留組24名が容保の預かり浪士となり「新撰組」の名をもらい、市中警備にあたる様になりました。会津からは、千余名の兵が上京していました。この後、新撰組は、最後まで会津藩・幕軍と共に戦いました。



長州をはじめとする尊攘派はさらに強く朝廷に働きかけ、攘夷親征の詔を出させる事に成功しました。こうした情勢を心配した薩摩藩と容保は、公武合体派の代表中川宮と共に、一挙に尊攘派を朝廷から追放しました。これが有名な8・18の政変(七卿の都落ち)で、七卿は長州に逃れました。この政変で尊攘派(長州)を京から排除した功により、容保は孝明天皇の信頼を得、「お前の忠誠を喜ぶ」という、宸翰(しんかん=親書)を与えられ、一橋慶喜(のちの15代将軍)と共に、 朝議に参加する事を命じられました。しかし、このことで容保は、尊攘派の憎しみを一手に引き受けることになりました。

この時点では会津藩は間違いなく「官軍」でした。


尊攘の志士達は、ゲリラ的手法による勢力回復を狙っていました。長土肥の志士達は、中川宮邸を焼き討ちし、容保を殺害し孝明天皇を奪還する相談の為、池田屋に集結しました。しかし、会津藩・新撰組はこれを察知し、新撰組がこれらの志士達を斬殺しました。この池田屋事件の功により、一気に新撰組の名声が高まりました。

しかし、これに悲憤慷慨した長州藩士が続々上京し、蛤御門付近で会津・薩摩・桑名軍と衝突し、撃退されました。この戦いを蛤御門の戦い(禁門の変)といいます。





この戦いの結果、幕府は長州征伐の勅命を得、第一次長州征伐(1864年)が行われました。しかし、幕軍の士気は弱く、長征の総督・徳川慶勝に相談された参謀・西郷隆盛は「蛤御門の変の首謀者三老中と四参議を処罰し、恭順の意を示せば、陣を解く」という策を進言し、この申し出どうり事は進みました。このことで、長州藩は尊皇攘夷派を弾圧し、幕府への恭順派が攘夷派に取って代わるようになります。

≫≫白虎隊X【大政奉還】へとつづく


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2007年12月21日 Posted by のろ at 12:27 | 映画日記 | この記事のURL
スティング−解説−

監督:ジョージ・ロイ・ヒル
主演:ポール・ニューマン、ロバート・レットフォード
公開:1974年(映画)

ポール・ニューマンとロバート・レットフォード、そしてジョージ・ロイ・ヒル監督のトリオで作り出された『明日に向かって撃て!(1969年)』に続く2本目の映画がこの『スティング』です。

「明日に・・」の時と同様に、天真爛漫で自由な二人の雰囲気は似たものがあるものの、二転三転のどんでん返し、裏の世界の危うさの中でありながら、その筋の仲間たちとの職人技とも云えるチームワークで生き抜こうとする小気味よさがこの作品には溢れています。

また、軽快なリズムのハムリッシュ編曲による音楽は、この映画を知らなくても一度はどこかで聴いたことがある名曲です。当時のファッションセンスもとても素敵な、そして粋な雰囲気を漂らせているのも見所。

この映画は場面展開ごとに全6幕の表題が用意されています。

第1幕:『はじまり』
第2幕:『THE SET-UP(仕掛け)』
第3幕:『THE HOOK(釣針)』
第4幕:『THE TALT(筋書)』
第5幕:『THE WIRE(有線)』
最終幕:『THE STING(本番)』

スティングのはじまりは『仕掛け』から。そして『本番』までの緻密に計算された一連の詐欺師達の技が繰り広げられます。どこまでが計算で誰が信じられる人間なのかわからないスリルと醍醐味、そして爽快感が味わえるのも魅力ですね。

1930年代のシカゴと云えば、アル・カポネに代表されるギャング達の血を血で洗う暗黒街のメッカであり、この時代を描いた作品は数多くありますが、全ては拳銃とマシンガンが解決する世界観の中で終結します。しかし、この映画『スティング』は血なまぐさい暴力を軽蔑し、頭脳で相手を出し抜くことを粋とするその道(詐欺師)のエリート達による痛快な物語です。

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2007年06月10日 Posted by のろ at 23:18 | この記事のURL
スターターキット始動!
6月10日(日)21:30
ついに、以前から公約していたスターターキットの公開を果たすことができました。

構想段階までは、結構長い時間を費やしてあれこれと考えてはいたのですが、いざ作ってみるか。って段階になると、いやはや手間取ることばかりでした(T_T)

おとといから作り始めて、かれこれ丸2日半をかけて、ようやく公開出来るまでになりました。実際、ねこたんメール会員の方にメール配信をしたのが、21:30だったのですが、ホントのことを云えば作業は終わっていませんでした。とにかく、あんまり遅くなれないってことが先に立って、各HPでの告知は配信を先に済ませてからの作業となりました(T_T)

大して影響力も無いとは思っていながら、それでも、しっかり完成したものを公開したいという自己満足にこだわりつづけていたのですが、時間に追われて出来上がったサイトを見れば、決して満足いくものになっているわけもなく、ようやくスタートラインに立ったのかなぁ・・って思いしかありません<m(__)m>


    ねこたん企画Present's
    携帯HP初心者のための
    スターターキット


スターターキットを作ろうと考え始めたキッカケは、ジャストメールの営業活動の中から始まりました。携帯HPの営業しながら、いろんな社長さんたちと話をしているときに、

「お客さんのために、自分の店にはこだわりがある!」



そう口をそろえたように言葉では言っているものの、話の中から見えてくることは、

宣伝効果が最優先だってことだけ。所詮、自分にとって携帯は話せればいいもので、自分が使わないんだから持ったってしょうがない!っていう思い込みと決め付けでした。何とも的外れな答えばかり・・

そもそも携帯ホームページって何だろ?

今まで、店側の利害だけで話を進めてきた営業活動が、ふと、方向転換をした瞬間でした。ほんとのことを云うと、効果云々の前に儲けだけが先にあって、お客さんの立場でものを考えることがないんじゃないか?こだわりがあるんだ!とは云っているものの、ほんとは伝えたいことなんか別にないんじゃないだろうか?

今、店に来てくれているお客さんの利益を考えないで、なにが顧客満足度を高める努力をしてるっていうんだい?伝えたいことは、伝える努力を最大限すればいいんじゃないか?それが、ほんとうにいいものだったら、誰が振り向かないものか!

正直、今さら無料携帯HPなんて当たり前の時代だし、そんなに魅力的なものではないって思いもあります。でも、携帯電話の原点は伝える道具であるはずなんです。人はそんな便利な武器を手に入れたときに、いったい何ができるんだろうか?

そんな、半ばやけくそな思いからこのスターターキットは生まれたんです。


2007年06月06日 Posted by のろ at 22:57 | この記事のURL
おサイフケータイ元年
先月14日、おサイフケータイ元年の起爆剤だと噂されていたコンビニ最大手7−11が始めるnanaco(ナナコ)が姿を現しました。

昨日のニュースの中に、おサイフケータイ対応機所有者(435人)に利用状況をたずねたところ、「よく利用する」14.02%(61人)、たまに利用する13.56%(59人)、「あまり利用したことはない」8.74%(38人)を合わせ、利用したことがあるユーザーは36.32%(158人)で4割。残りの約6割が「まったく利用したことはない」と回答したとありました。

じつは、nanacoが始まるまでは、僕もその4割の中に含まれる一人でした。

おサイフケータイのことは、ジャストメールのミーティングの中でドコモの人たちとは交流がありましたから、かなり以前から気にはなっていましたし、その影響からおサイフ機能を持ったケータイには買い換えていたのですが、実際、使うというほど簡単な感じは持てず、正直、

@使えるところがハッキリしない
AedyとかIDとかSuicaとか沢山ある
B端末を扱ってるお店自体が宣伝しない

などの理由から、結局、使いませんでした。
一番迷っていたことは、

@小銭が必要なく買い物できる
Aポイントが貯まる
B最先端を行っている気がする(笑)

という利点はよくわかっているものの、扱うお店側の対応が悪すぎたってことです。
あくまでも、うちでも使えますよ・・・ただそれだけ。

お客さんサイドが使い方を知ってないと、簡単には使えない代物だったって気がします。それが、nanacoの登場で一変した感じがします。

nanacoの登場によっておサイフケータイ(カードでもいいんですけど)の利用がし易くなったことと、利用している人を頻繁に見かける機会が増えたことだけは間違いない事実だと思います。僕も実際に使ってみて、もう手放せないって気がしています。

これが、おサイフケータイ元年と前から噂されていた実態なのか?と、驚いているのが正直な気持ちです。初めての人たちはカード利用からのスタートでしょうが、カードを作るのに300円かかるというシステム自体、ケータイでの利用の方が残金やポイントも画面で確認できて、尚且つ無料で使えて便利だよ。ってスタンスが見え見えな気がしてなりません。

今年も残り半年となりましたが、ケータイ利用の時代の流れは僕たちの想像を超える勢いで流れるって気がしているのですが、みなさんはどうお感じですか?


次回は、6月10日(日)に公開する「初心者専用・携帯スターターキット」について書く予定です。

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