2007年12月28日
白虎隊W 【禁門の変】
ロシア・イギリスなど諸外国が開国を迫ってくる中で、幕藩体制を支える思想でもあった尊皇攘夷思想は、ペリーの来航後、不平等な日米通商条約を結んだ幕府の弱腰の姿勢に対して反幕府・改革の思想にその姿を変えました。幕府は、 その弱腰でビジョンの無い対応の故に急速に求心力を失って行きます。
幕府は権威を回復するべく将軍家茂が上京し、尊攘運動を弾圧し公武合体の強化を図る政策を採りましたが、そらは逆に尊攘運動に押される形となってしまいました。結果、幕府内部でも結束が乱れ、将軍をはじめ有力者達が京を離れました。
このとき、将軍護衛でお供した浪士組のうち、 京都残留組24名が容保の預かり浪士となり「新撰組」の名をもらい、市中警備にあたる様になりました。会津からは、千余名の兵が上京していました。この後、新撰組は、最後まで会津藩・幕軍と共に戦いました。
長州をはじめとする尊攘派はさらに強く朝廷に働きかけ、攘夷親征の詔を出させる事に成功しました。こうした情勢を心配した薩摩藩と容保は、公武合体派の代表中川宮と共に、一挙に尊攘派を朝廷から追放しました。これが有名な8・18の政変(七卿の都落ち)で、七卿は長州に逃れました。この政変で尊攘派(長州)を京から排除した功により、容保は孝明天皇の信頼を得、「お前の忠誠を喜ぶ」という、宸翰(しんかん=親書)を与えられ、一橋慶喜(のちの15代将軍)と共に、 朝議に参加する事を命じられました。しかし、このことで容保は、尊攘派の憎しみを一手に引き受けることになりました。
この時点では会津藩は間違いなく「官軍」でした。
尊攘の志士達は、ゲリラ的手法による勢力回復を狙っていました。長土肥の志士達は、中川宮邸を焼き討ちし、容保を殺害し孝明天皇を奪還する相談の為、池田屋に集結しました。しかし、会津藩・新撰組はこれを察知し、新撰組がこれらの志士達を斬殺しました。この池田屋事件の功により、一気に新撰組の名声が高まりました。
しかし、これに悲憤慷慨した長州藩士が続々上京し、蛤御門付近で会津・薩摩・桑名軍と衝突し、撃退されました。この戦いを蛤御門の戦い(禁門の変)といいます。
この戦いの結果、幕府は長州征伐の勅命を得、第一次長州征伐(1864年)が行われました。しかし、幕軍の士気は弱く、長征の総督・徳川慶勝に相談された参謀・西郷隆盛は「蛤御門の変の首謀者三老中と四参議を処罰し、恭順の意を示せば、陣を解く」という策を進言し、この申し出どうり事は進みました。このことで、長州藩は尊皇攘夷派を弾圧し、幕府への恭順派が攘夷派に取って代わるようになります。
≫≫白虎隊X【大政奉還】へとつづく
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