2007年12月29日
白虎隊V 【京都守護職】
ロシア・イギリスなど諸外国が開国を迫ってくる中で、幕藩体制を支える思想でもあった尊皇攘夷思想は、ペリーの来航後、不平等な日米通商条約を結んだ幕府の弱腰の姿勢に対して反幕府・改革の思想にその姿を変えました。幕府は、その弱腰でビジョンの無い対応の故に、急速に求心力を失って行きます。
長州藩を中心とする尊攘派は、京において、朝廷・公家に色々な働きかけをしていました。そのころ京では、尊皇攘夷を自称する過激で無頼の浪人が横行し、天誅の嵐が吹き荒れるなど治安が乱れていました。
この混乱を打開するべく、有力諸藩により公武合体・幕政改革が試みられました。薩摩藩主・島津久光は、中央政界への進出を試み、京に上った後、尊攘派を伏見寺田屋に襲い弾圧しました。また、江戸に赴き幕政改革を行わせました。これにより、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永(春嶽)が政治総裁職に就任しました。
その後、京都の治安を所司代のみでは維持できなくなり、京都守護職を新設。松平容保は、春嶽らの推薦・受任説得により京都守護職に任じられました。
時、京都守護職に就任するということは、あらゆる面で幕府の矢面に立たされるということであり、幕府に対して徐々に不満が充満し世情が混乱している状態の中で、この役職を引き受けることは、藩の存亡に関わる危険を含んでいました。各藩が二の足を踏む中で、会津・容保に就任要請がありました。
会津藩内では、国家老の西郷頼母・田中土佐らが、容保の京都守護職への就任受諾を思いとどまるように説得をしましたが、容保はその意見には一切耳を貸さず、守護職の任を受けました。
容保の考えの中には、藩祖である保科正之から伝わる家訓(かきん)がありました。
将軍には忠義をつくし、他国の例をもって判断してはならない。
もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない
もし将軍家に対して二心があれば(藩祖)の子孫ではなく、家臣は従ってはならない
という教えに対して、あまりにも生真面目すぎる忠誠を誓っていたと云われています。
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