安祥寺(あんしょうじ)は、京都市山科区にある高野山真言宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は十一面観音。朝廷縁の定額寺の一つ。
寺内は非公開だが、2019年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として、本尊十一面観音像が初めて一般公開される(2019年4月26日から5月10日まで)。
沿革
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により、恵運(入唐僧)によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。
安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。
しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。
江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年(1906年)には多宝塔を焼失、以後再建されていない。
現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。
境内
観音堂 - 文化十四年建立で本尊は十一面観音菩薩立像(奈良時代の僧、越智山泰澄の造像)で四天王像(平安時代のもの)、不動明王像(鎌倉時代のもの)、安祥寺復興を命じた徳川家康坐像(江戸時代のもの)が安置される。
地蔵堂 - 明和九年に建立、本尊は地蔵菩薩像(鎌倉時代後期のもの)。
大師堂 - 安永二年に建立、本尊は弘法大師像(江戸中期の仏師、清水隆慶の造像)でその両隣に恵運僧都像(平安時代のもの)、宗意律師像(平安時代のもの)、興雅僧正像(江戸時代のもの)、宥快法印像(江戸時代のもの)が安置される。
鐘楼堂 - 梵鐘は嘉元四年の鋳造、摂州渡邊安曇寺の銘が刻まれている。秀吉の朝鮮出兵にあたり五畿内から陣鐘として出された鐘の1つだが安曇寺のものが何かの間違いで安祥寺に返納されたと伝わる。
青龍大権現 - 安祥寺の鎮守社
十二社神社 - 上野地区の鎮守、素戔嗚尊を祀る
弁天社 - 弁財天を祀る
文化財
国宝
木造五智如来坐像 5躯 - 京都国立博物館に寄託。大日如来を中心とする金剛界の五仏で、安祥寺創建時の制作と推定される。明治39年(1906年)に焼けた多宝塔に安置されていたが、当時から京都国立博物館に寄託されていて難を逃れる(2019年度国宝指定)。
重要文化財
木造十一面観音立像 - 本堂安置
安祥寺流
弘法大師が伝えた真言密教は平安時代に12の流派に分かれ、安祥寺流というのがこの寺の11代目である宗意律師によって樹立され、22代目の宥快法印によって高野山の方にこの安祥寺流が伝えられたために密接な関係が結ばれる。
交通
京阪線山科駅から徒歩10分。ただし、非公開寺院で境内に立ち入ることはできない。琵琶湖疏水に面しており、近辺は春は桜の名所である。
所在地 京都府京都市山科区御陵平林町22
位置 北緯34度59分44.44秒 東経135度48分56.84秒
山号 吉祥山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 嘉祥元年(848年)
開山 恵運
開基 藤原順子
中興 宗意
別称 高野堂
文化財 木造五智如来坐像(国宝)ほか
2023年04月13日
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