賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。
賀茂御祖神社(下鴨神社) 楼門
概要
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。
境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。
神社は2つの川の合流点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。
御手洗社の水は葵祭の斎王代清めの聖水である。現存。飲料可。
御手洗社
祭神
東殿 - 玉依姫命(たまよりひめのみこと)。賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母。
西殿 - 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。玉依姫命の父(賀茂別雷命の祖父)。
歴史
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。また一方、文献上の初見は『続日本後紀』承和15年(848)ともいう。
上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座」として名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載される。弘仁元年(810年)以降約400年にわたり、斎院が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに官幣大社の筆頭とされ、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列された。
1910年(明治43年)、旧制第三高等学校(京都大学の前身の1つ)の学生が、慶應義塾ラグビー部からラグビーの手ほどきを受け、糺の森馬場で練習が行われていた。日本で2番目となるラグビーチーム「第三高等学校嶽水会蹴球部」が創部され、後に京都大学ラグビー部となる。1969年(昭和44年)、それを記念する石碑「第一蹴の地」が京都大学ラグビー部OBによって雑太社(さわたしゃ)に建てられた。この石碑は「関西ラグビー発祥の地」であることも意味している。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により拝殿、楼門両脇の塀が倒壊する被害を受ける。
平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである。
文化財
社殿のうち2棟が国宝、31棟が国の重要文化財に指定され、17棟が重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
国宝
賀茂御祖神社 2棟(建造物)
東本殿。
西本殿。
東本殿 (国宝) (京都)
西本殿 (国宝) (京都)
本殿
交通アクセス
鉄道
最寄駅:京阪電鉄・叡山電鉄出町柳駅 (徒歩約10分)
バス
京都市営バス(1号・4号・205号系統)で、「下鴨神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
なお、「下鴨神社前」バス停は本殿に最寄りであるが、裏参道扱いの西参道からの参拝となる。糺の森を通る表参道からの参拝や、表参道入口近くの摂社・河合神社への参拝は、上記と同系統の「新葵橋」バス停が近い。
車
駐車場:有り
所在地 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
位置 北緯35度2分20秒 東経135度46分21秒
主祭神 玉依姫命
賀茂建角身命
社格等 式内社(名神大)
山城国一宮
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 不詳
(崇神天皇7年頃?)
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第101番(京都第21番)
例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)
2023年10月18日
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