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2023年04月05日

弥谷寺(いやだにじ)は、香川県三豊市三野町にある真言宗大本山の寺格を持つ仏教寺院

弥谷寺(いやだにじ)は、香川県三豊市三野町にある真言宗大本山の寺格を持つ仏教寺院。弥谷山(標高382m)の中腹225m辺りに本堂があり、その背後の岩盤には創建時に千手佛が納められた岩穴が残り、山全体が霊山であるとの信仰があり、日本三大霊場(他は恐山・臼杵磨崖仏)の一つに数えられたといわれる。四国八十八箇所霊場の第七十一番札所。本尊は千手観音。

本尊真言:おん ばさら たらま きりく

ご詠歌:悪人と行き連れなむも弥谷寺(いやだにじ) ただかりそめもよき友ぞよき

納経印:本尊印、奥之院御学問所、七ヶ所参り大黒天

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歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。

807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し獅子之岩屋にて護摩を修し千座満願のとき蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、仏の住む山である弥山から仏の谷という意味とされる弥谷に改めたと伝わる。

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室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受け、東院・西院・中尊院と6坊を備えて大寺になっていたが、天正期に兵火により荒廃し(剣御山弥谷寺略縁起によると、【天正年中、香川氏没落の時、兵火当山に移りて】とあるがこの山を確実に攻めたとされるのは三好軍で、その後にも香川氏は没落せず長曾我部から養子を跡継ぎとして迎え隆盛しているのでこの記述の解釈が不明)、現在の中尊院のみが存続、のち丸亀藩主京極氏の帰依により1600年(慶長5年)復興された。

また、縁起によると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説あり)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、石造と木造の2体の厄除大師像が祀られている。また、澄禅の『四国遍路日記』(承応2年・1653年)には、木像がお祀りされていると記述され、寂本の『四国遍禮霊場記』(元禄2年・1689年)には、「いにしヘは木像にてありけるを石にて改め作り奉る」と記されている。2014年、大師堂厨子内に安置されているその秘仏木造厄除大師像が元禄2年以来320年ぶりに、同時に江戸期以来300年ぶりに本堂に安置されていた木造伝持の大師像、また、金銅四天王五鈷鈴(重文)も公開された。

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文化財
重要文化財
金銅五鈷鈴 - 唐時代、弘法大師が唐より請来したとされる。明治34年3月27日指定、

国の史跡
曼荼羅寺道(三豊市・善通寺市) - 「讃岐遍路道 根香寺道」に弥谷寺へ向かう石段下分岐から蛇谷池の堤までの0.9kmが追加指定され、「讃岐遍路道 曼荼羅寺道 根香寺道」になる。平成26年10月6日追加指定。

香川県指定有形文化財
仏説観仏三昧海経 巻第二 - 平成19年3月30日指定

香川県指定史跡
弥谷寺信仰遺跡:「賽(さい)の河原」「獅子窟」「比丘尼谷の磨崖仏」「比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔」、 昭和43年6月指定

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金剛拳菩薩

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多宝塔

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弥陀三尊磨崖仏

交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - みの駅 (3.3km)
バス
三豊市コミュニティバス 三野線「ふれあいパークみの」下車 (0.5km)
道路
一般道:香川県道48号善通寺詫間線 三野町大見 (1.3km)
自動車道:高松自動車道 三豊鳥坂IC (4.7km)、さぬき豊中IC (10.3km)

所在地 香川県三豊市三野町大見乙70
位置 北緯34度13分47秒 東経133度43分27.34秒
山号 剣五山
宗派 真言宗善通寺派
寺格 大本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)奈良時代
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 剣五山 千手院 弥谷寺
別称 弘法大師御学問所
札所等 四国八十八箇所71番
文化財 金銅四天王五鈷鈴(国の重要文化財)
仏説観仏三昧海経(県文化財)
弥谷寺信仰遺跡(県史跡)
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2023年04月04日

瀬底土帝君(せそことていくん、しーくてぃーてぃんく)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある農耕神を祀った祠

瀬底土帝君(せそことていくん、しーくてぃーてぃんく)は、沖縄県国頭郡本部町瀬底島にある農耕神を祀った祠。1997年(平成9年)12月3日に国の重要文化財に指定された。

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瀬底土帝君の拝殿

概要
土帝君は、中国古来の土地関係の神の一種で、一般には土地神と呼ばれる。瀬底の土帝君像は2体の脇士を伴った男神1体の像であるが、当初の像は第二次世界大戦中に盗難に遭い紛失した。現在は、1957年(昭和32年)に瀬底土帝君の所有者である上間家が購入した同様の像が祀られている。

土帝君は沖縄各地に祀られているが、その中でも瀬底土帝君は最大規模を保つ礼拝施設である。建設年代は不明だが、本殿および拝殿の軸部、石組の状態から、上間家二世健堅親雲上(きんきんぺーちん、またはけんけんぺーちん)が木像を請じて帰朝した時期、18世紀中頃の造営と考えられている。本殿や拝殿の屋根は元は茅葺であったと推定されるが、その後本瓦葺に変わり、壁面は珊瑚石の巨石を用いて建てられている。正面の石垣は1965年(昭和40年)頃に一部を積み直しセメントで補強したほかは大きな改変はなく、全体として保存状態も良いため、土帝君信仰に関する建造物の形態をよく保つ代表的な遺構として高く評価されている。

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歴史
沖縄における農神土帝君の信仰については、琉球の正史『球陽』第九に、大嶺親方弘良が1689年(尚貞30年)に神像を持ち帰り、自領の旧小禄村大嶺に祀ったのが始まりと記されているその後、父の尚円王と母の北谷平安山村の金満との間に内密の子として生まれた山内親方が清国に渡った際、それに随行した健堅親雲上が1723年に、農神土帝君の木像を請じて祀ったのが瀬底土帝君の始まりとされている。

信仰
瀬底における土帝君信仰は、農業の神、大漁の神、商売繁盛の神として信仰され、その集落ごとの生産意版として結び付けられている。

瀬底土帝君の祭祀は、「土帝君正月」(てぃーてぃんくそーぐゎち)と呼ばれ、中国の土地神の誕生日と言われている毎年旧暦2月2日に催されるが、地域によっては旧暦8月15日に催す場合もある。祭祀は、共通の始祖を持ち、父系血縁によって結びついた集団「門中」が参加して行われていたが、大正時代からは村人(区長や有志)も参加するようになった。

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2023年04月03日

宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は、福岡県福津市にある神社

宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は、福岡県福津市にある神社。年に2度、「光の道」とよばれる境内石段から玄界灘まで真っすぐ伸びる参道の延長線上に夕日が沈むことで知られる。

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概要
社伝によると、創建は約1700年前にさかのぼり、息長足比売命(神功皇后)が、渡韓のおりに宮地岳の頂に祭壇を設け天神地祇を祀り、祈願し船出したのが始まりと伝わる。その後、息長足比売命(神功皇后)の功績をたたえ主祭神として祀り、随従の勝村大神、勝頼大神も併せ祀り、三柱の神を「宮地嶽三柱大神」として祀っている。

現在の境内は祭壇を設けたとされる宮地岳の山腹に位置する。また、宮地岳山頂には宮地嶽古宮の祠、日の出参拝所がある。

全国にある宮地嶽神社の総本社である[3]。毎年220万人以上の参拝客が訪れ、特に正月三が日には100万人以上の人々が訪れている。開運商売繁昌の神社として知られている。宗像地方では宗像大社と並んで参拝客が多く、日本一大きいと称される大注連縄と大太鼓・大鈴も有名である。境外の表参道には多くの土産店が立ち並んでおり、商売繁昌にちなんで招き猫やダルマを販売している店が多い。また「松ヶ枝餅」が売られている。餅の表面には宮地嶽神社の神紋・三階松紋がある。

境内正面の石段は「男坂」と呼ばれ、また、石段から西向きに伸びる境外表参道は、門前町を通り宮地浜に至り相島を望むことができ、約800mに渡る直線道路となっている。9月の秋季大祭においては、この参道を御神幸行列が牛車で往復する。また、この参道の延長線上に夕日の沈む期間が、年に二期(2月下旬および10月下旬)あり、「光の道」として知られる。なお、石段である「男坂」のすぐ脇にも境内と参道を繋ぐ坂道があり、こちらは「女坂」と呼ばれ、各種車両や前述の牛車、参拝客などの通行に利用されている。

2010年に屋根の一部が補修され柔らかい金色の荘厳な屋根となったが、チタン製屋根が採用されており、最新技術を伝統建築に採用された代表例となっている。

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祭神
下記、三柱の神を「宮地嶽三柱大神」として祀る。

息長足比売命(神功皇后)
勝村大神
勝頼大神

光の道・夕日の祭
2月下旬、10月下旬の年に2度、男坂の石段から宮地浜まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日の沈み、「光の道」と呼ばれている。この夕日と参道が一直線に並ぶ光景は、2016年2月に放映された嵐が出演する日本航空のCMをきっかけに有名になり、「光の道」とよばれるようになった。この時期に「夕日のまつり」が開催され、参道の階段は観覧席として使用される為、閉鎖される。参道の階段の上段は、祈願特別席として有料で事前予約制、中段以下は無料の整理券配布により観覧できる。

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本殿

交通
JR鹿児島本線 福間駅から徒歩約25分(2km)、もしくは同駅から西鉄バス津屋崎橋方面行き乗車、宮地嶽神社前バス停下車 徒歩5分。
自動車
九州自動車道古賀インターチェンジから7.5q。駐車場あり(700台)
かつては西日本鉄道宮地岳線(現:貝塚線)宮地岳駅が最寄駅であったが、2007年(平成19年)に廃止された。

毎年、大晦日深夜から正月三が日は参拝による渋滞が発生する。また、JR福間駅 - 宮地岳宮前バス停間には西鉄バス宗像による多数の直行臨時バスが運行される。

所在地 福岡県福津市宮司元町7-1
位置 北緯33度46分47.2秒 東経130度29分9.9秒
主祭神 神功皇后
社格等 県社・別表神社
創建 (伝)神功皇后の時代
例祭 9月21日 - 9月23日(御神幸祭)
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2023年04月02日

安積歴史博物館(あさかれきしはくぶつかん)は、福島県郡山市に所在する福島県立安積高等学校の敷地内に存在する歴史的建造物

安積歴史博物館(あさかれきしはくぶつかん)は、福島県郡山市に所在する福島県立安積高等学校の敷地内に存在する歴史的建造物(国の重要文化財 旧福島県尋常中学校本館)を利用した博物館である。1984年に安積高校の創立百周年記念事業により博物館として整備、一般公開され現在に至る。東日本大震災による被害のため休館中であったが、2013年10月5日より、土日祝日に限り仮オープン。同11月20日、公益財団法人となる。2014年9月6日には、グランドオープンし、通常営業に復する。

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歴史
1884年(明治17年) 9月11日「福島中学校」として開校
1889年(明治22年) 「福島県尋常中学校」として現在地に移転。現存の本館が建造される。
1901年(明治34年) 「福島県立安積中学校」と校名改称
1948年(昭和23年) 新学制により「福島県立安積高等学校」となる
1961年(昭和36年) 福島県文化財申請。
1973年(昭和48年) 3月までほぼ旧状を踏襲して福島県立安積高校校舎として使用
1973年(昭和48年) 3月、福島県の指定文化財指定
1977年(昭和52年) 6月、国の重要文化財に指定[1]
1978年(昭和53年) 7月、明治時代に建築された当初の姿に復元するため文化庁の指導により半解体修理工事
1980年(昭和55年) 6月、解体工事完了。9月、解体事業一切終了
1984年(昭和59年) 9月、創立百周年記念式典挙行。安積歴史博物館と呼称
2008年(平成20年) 経済産業省、近代化産業遺産認定
2009年(平成21年) NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で秋山真之と正岡子規が通った神田共立学校という設定でここでロケが行われた。
2011年(平成23年) 3月11日「東日本大震災」発生。内部の漆喰壁が多量に崩れ落ちる。
2013年(平成25年) 10月5日仮オープン。
2013年(平成25年) 11月20日運営主体の財団法人安積歴史博物館が公益財団法人安積歴史博物館となる。
2014年(平成26年) 9月6日グランドオープン。

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その他
市内大槻町上ノ山(北緯37度22分41秒 東経140度17分52秒)に旧福島県尋常中学校の建物として利用されていた「ハリハツクスの家」が保存されている。

利用情報
開館日
火曜日 - 日曜日
開館時間
午前10時 - 午後5時
特記事項
概ね10人以上のグループは事前予約が必要
館内禁煙

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所在地
〒963-8851 福島県郡山市開成五丁目25番63号

交通アクセス
東北自動車道 - 郡山インターチェンジから5.5Km
東北新幹線 - JR郡山駅から3.5Km
バス - JR郡山駅9番バス乗り場より市役所経由大槻、市役所経由静団地、または11番バス乗り場よりコスモス循環池の台先回りで「安積高校」下車すぐ
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2023年04月01日

遺愛女子中学校・高等学校(いあいじょしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、北海道函館市杉並町に所在し中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校

遺愛女子中学校・高等学校(いあいじょしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、北海道函館市杉並町に所在し中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校。併設混合型中高一貫校で、略称は「愛中愛高」・「遺愛女子」・「遺愛」。

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概要
明治期に創設されたミッションスクールで日本人により創設された女子校より古い学校の一つであり、東北地方以北では最古の女子校である。

安政五カ国条約により、日本で初めて開港した市の一つ箱館で、アメリカ・メソジスト教会牧師メリマン・ハリス夫妻が女子教育の必要性を強く感じ、アメリカで発行されているメソジスト監督派教会婦人伝道局の機関誌に、現状と学校が必要であることを報告して創設された学校である。創設時は「日々学校」(Day School)という私塾で、6人の女学生でスタートした。

1882年(明治15年)、文部省認可の正式な女学校「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」となる。校名を「遺愛」としたのは1885年(明治18年)のことである。これには設立時の経緯が大きく関わっている。Day Schoolは、メリマン・ハリス夫妻の報告に心を打たれた、アメリカのカロライン・ライト夫人の献金によるものである。ライト夫人は最愛の娘を病気で失い、悲しみに暮れていた。敬虔なクリスチャンであるライト夫人は昇天された愛娘への祈りと神へのご恩に報いるために、そして良き奉仕として、愛娘の教育資金にと貯めていたお金を献金として申し出た。「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」から覚えやすい日本語の校名が望まれるようになり、文学者内藤鳴雪に本校創立のいきさつを知らせて校名選定を依頼し「遺愛」の名が生まれた。

キリスト教精神を信条とするプロテスタントのミッションスクールである。三大精神を「信仰・犠牲・奉仕」とし女子教育を行っている。

入試は函館と札幌、帯広、北見で実施され、道内各地からを募集するため「遺愛寮」を設置している。

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歴史
女子教育ミッションスクールの動き
明治初期に全国の開港都市で創設されたミッションスクールの中でも有数の歴史を持つ。北海道では札幌市所在の藤女子中学校・高等学校と共に双璧をなす女子校として知られる。

メリマン・ハリス
オハイオ州出身のアメリカ・メソジスト教会牧師。1873年(明治6年)、妻フローラ・ハリスとともに来日。1874年(明治7年)に来函、キリスト教を伝え、遺愛女学校の前身である日々学校を開設するとともにアメリカ合衆国領事も兼ねた。また、英語教師として札幌農学校においても教鞭を執った。1877年(明治10年)4月にウィリアム・スミス・クラーク博士が、ハリスに札幌農学校一期生の信仰的指導を仰いだ。同年9月2日、クラーク博士門下の札幌農学校の第一期生佐藤昌介、大島正健ら15人に洗礼を授け、続いて1878年(明治11年)6月2日に第二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らの7名にも洗礼を授けた。

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交通アクセス
函館市電「杉並町」電停下車徒歩1分
函館バス「杉並町」停留所下車徒歩1分

文化財の指定または登録
遺愛女子は東北以北最古の女学校で、歴史的建築物は国の文化財指定または登録を数多く受けている。

校舎は国の重要文化財に指定されている「本館」(設計:ジェームズ・ガーディナー)、高等部の教室が入っている「新館」、食堂などが入っている「ライト館」、チャペルや理科室、および放送室などが入っている「科学館」、中学部の教室、および新設の図書館が入っている「東館」からなる。

さらに、通称ホワイトハウスと呼ばれ親しまれている旧遺愛女学校宣教師館(日本国の重要文化財)、登録有形文化財の「講堂」(設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築事務所[8])、茶道のための和室や同窓会室のある「謝恩館」(登録有形文化財)がある。

遺愛学院(旧遺愛女学校)本館 - 日本国重要文化財
遺愛学院(旧遺愛女学校)旧宣教師館 - 日本国重要文化財
遺愛学院講堂 - 日本国登録有形文化財
遺愛学院(旧遺愛女学校)謝恩館 - 日本国登録有形文化財

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観光への協力と貢献
「観光庁長官表彰」の受賞
函館港の外国クルーズ客船寄港時に、英語科生徒が通訳ボランティアとして受入に関わり、観光案内や学校を開放して書道や茶道の体験メニューを提供するなど市民レベルからの国際交流の推進や日本文化の発信、魅力ある地域づくりに貢献したとして、2015年(平成27年)10月に、国土交通省観光庁から「第7回観光庁長官表彰」を受賞した。

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過去の名称 ミセスカロラインライトメモリアル女学校
遺愛女学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人遺愛学院
校訓 信仰・犠牲・奉仕
設立年月日 1874年
創立者 メリマン・ハリス夫妻
共学・別学 男女別学(女子校)
中高一貫教育 併設型(外部混合有)
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科(25学級)
英語科(3学級)
学科内専門コース 一般コース
特進コース
高校コード 01522K
中学校コード 010818
所在地 〒041-8543
北海道函館市杉並町23-11
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2023年03月31日

大村神社(おおむらじんじゃ)は、三重県伊賀市阿保(あお)にある神社

大村神社(おおむらじんじゃ)は、三重県伊賀市阿保(あお)にある神社。式内社で、旧社格は県社。

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祭神
祭神は次の21柱。

主祭神
大村神(おおむらのかみ)
社伝では、第11代垂仁天皇皇子の息速別命(いこはやわけのみこと/おきはやわけのみこと)をこれにあてる。

配祀神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)

合祀神
応神天皇など計17柱

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祭神について
祭神は、『延喜式』神名帳では1座とする。一方、嘉吉元年(1441年)の『興福寺官務牒疏』では「大村神 二座」とあり、春日神が神護景雲2年(768年)に常陸(鹿島神宮)から三笠山(春日大社)に遷幸する際に休息した地であるとしている。現在の配祀神である武甕槌命・経津主命・天児屋根命ら春日神3柱はこの遷座伝承に由来するが、その史実性は明らかでない。

これらに対して、現在大村神にあてられている息速別命は、古代史料に阿保地域との関わりが見られる人物である。まず『続日本紀』延暦3年(784年)11月21日条では、息速別命は伊賀国阿保村に住み、その四世孫の須禰都斗王(須珍都斗王)が「阿保君」姓を賜ったという。また『新撰姓氏録』右京皇別 阿保朝臣条においても、垂仁天皇により伊賀国阿保村に宮室が作られて息速別命に封邑として授けられ、その子孫が阿保朝臣(阿保氏)になる旨が記されている。大村神社付近には息速別命の宮内庁治定墓も存在するが、こちらは近年の考古学では6世紀に下ると見られているため、大村神社境内の古墳(宮山古墳群)の1つを息速別命の墓に比定する説がある。

以上のほか、祭神については由気忌寸や大名草命(大村直祖)にあてる説もある[3]。なお合祀神17柱は、明治23年から41年(1890年-1908年)の間に行われた旧阿保町28社・旧種生村3社の合祀になる。

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歴史
創建
創建は不詳。前述の通り、神護景雲2年(768年)の春日神遷幸伝承が存在するほか(史料上初見は1441年)、当地を本貫とした阿保氏(息速別命後裔氏族)の関わりを想定する説が知られる。社名については、古来「大森社/大森明神」と見えることから社叢を表す「大森」から「大村」への転訛とする説や、地名「阿保村」から「大村」への転訛とする説があるが不詳。

境内
現在の本殿は、明治23年(1890年)の造営[2]。春日造で、屋根は檜皮葺である。

現本殿以前に使用された旧本殿は、宝殿として現本殿の西側に隣接する。この宝殿は、安土桃山時代の天正15年(1587年)の造営になる。一間社入母屋造、妻入で、屋根は檜皮葺。その形式とともに彫刻や彩色等においても造営当時の様子を残すとされ、国の重要文化財に指定されている。

そのほか境内には、霊石として信仰される要石や、奇鐘「虫喰鐘」がある[2]。「虫喰鐘」の名は化学変化により表面の瘤が落ちたことに由来するが、元々は禅定寺(旧別当寺)の梵鐘で明暦2年(1656年)の完成になる。また境内の参道から社殿付近には、「宮山古墳群」と称される円墳数基が分布する。

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本殿

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拝殿

文化財
重要文化財(国指定)
宝殿(附 棟札3枚)(建造物) - 大正9年4月15日指定[5]。

現地情報
所在地
三重県伊賀市阿保1555

交通アクセス
鉄道:近畿日本鉄道(近鉄)大阪線 青山町駅 (徒歩約10分)

周辺
息速別命墓 - 宮内庁治定墓。
阿保頓宮跡 - 持統天皇・聖武天皇・斎王の頓宮伝承地。
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2023年03月30日

白石城(しろいしじょう)は、陸奥国刈田郡白石にあった日本の城

白石城(しろいしじょう)は、陸奥国刈田郡白石にあった日本の城である(平山城)。別名益岡城(枡岡とも)。この場所は現在の宮城県白石市に当たり、城は白石市指定史跡となっている。中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だったと伝わる。戦国時代末期に城主が何度か変遷し、江戸時代には仙台藩家臣の片倉氏の城となった。九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。現在ある三階櫓や門は1995年(平成7年)に復元されたものである。続日本100名城(105番)に選ばれている。

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構造
白石城は平山城である。江戸時代の間、白石城は絵図に描かれており、時代の異なる絵図の比較から、白石城の城域は拡張傾向にあったとみられている。白石城は最終的に、丘陵の頂きに本丸、二の丸、中の丸、西曲輪、中段に沼の丸、南の丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪、平地部分に三の丸、外曲輪という六丸五曲輪構成になった。

本丸には大櫓(三階櫓)があった。正保年間の絵図では二階櫓が描かれ、寛文年間の絵図では三階櫓が描かれていることから、二階櫓から三階櫓に改造されたのではないかとも言われるが、絵図の研究を基に『片倉小十郎の城 白石城跡発掘調査報告書』は最初から三階櫓だった可能性が高いとする。三階櫓は天守の代用で、藩の支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけられたとされる。

現存する白石城の遺構としては、厩口門が市内の延命寺山門に、東口門が市内の当信寺山門に、上屋敷の門かもしれないものが名取市の耕龍寺山門に、奥方御門かもしれないものと煙硝蔵が市内の個人宅に、それぞれ移築されている。土塁は当時のものがそのまま残っている。

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歴史
中世・近世
白石城が、いつ、誰の手によって造られたのか、はっきりしたことはわかっていない。中世に刈田氏がここを居城としていたとも伝わるが、推測が困難なほど、この時代の白石城についての史料は乏しい。刈田氏は後に白石氏を名乗り、やがて伊達氏の勢力下に組み込まれていった。

豊臣秀吉によって奥州仕置が行われると、1591年(天正19年)より刈田郡は会津に封じられた蒲生氏郷の領地となり、白石城には氏郷の家臣蒲生郷成が入った。郷成により、白石城は近世的な城へと改造されて益岡城と呼ばれ、城下町も造られたと伝わるが、やはり史料が存在せず、全貌は明らかでない。郷成は1595年(文禄4年)に白石から須賀川に移るが、この時に白石城は破却されたという伝承もある。1598年(慶長3年)、蒲生氏は宇都宮に移封された。これに代わって上杉景勝が会津へ入り、その家臣である甘糟景継が白石城主となった。この時の白石城について、良好な史料ではないともされるが、古城に縄張りして築城されたとする史料がある。

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別名 益岡城、枡岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 大櫓(三階櫓)複合式層塔型3重3階(1819年再、非現存。1995年木造復元)
築城主 白石氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 藤原経清
主な城主 白石氏、蒲生氏、甘糟景継、登坂勝乃(上杉氏)、片倉氏
廃城年 1874年
遺構 石垣、移築門、移築蔵
指定文化財 白石市指定史跡
再建造物 三階櫓、門、塀
posted by Kazu at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 宮城県

2023年03月29日

極楽寺(ごくらくじ)は、宮崎県串間市にある高野山真言宗の寺院

極楽寺(ごくらくじ)は、宮崎県串間市にある高野山真言宗の寺院。山号は大田井山と称する。九州三十六不動霊場十四番札所。本尊は不動明王である。また、島津忠親が飫肥城の祈願寺と定めるなど島津家に深い関わりを持つ寺院であり、境内には島津家氏族の新納家一統の墓とされる五輪塔群がある。

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歴史
仁平2年(1152年)に当時の国主大名が開基し、幸覚院一世を招き迎えて開山(初代住職)とした。以来、領主の保護により栄えていたが、乱世に変遷する中衰退していく。鎌倉時代になると、建長5年(1253年)に僧澄舜(ちょうしゅん)が寺院を復興させた。

戦国時代になると、天文24年(1555年)に島津忠親が寺院の建物群を再興し、飫肥城の祈願寺と定めた。忠親は都之城城主北郷忠相の嫡男であったが、島津本家の命により天文15年(1547年)飫肥城に養子縁組して城下を治めた。また、忠親は神仏に対し信仰があつく、極楽寺の他にも社殿を興しており、永禄6年(1563年)櫛間院十三所大明神(現在の串間神社)の社殿を荘厳にしている。

天保2年(1831年)不慮の火災に見舞われ焼失してしまう。さらに、明治維新の廃仏毀釈において廃寺となったが、檀信徒の手により明治12年(1879年)に再建された。

現在の本堂は昭和51年(1976年)に改築されたものである。

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文化財
鰐口
五輪塔群

所在地 宮崎県串間市大字北方5472
位置 北緯31度28分26秒 東経131度14分50秒
山号 大田井山
宗派 高野山真言宗
本尊 不動明王
創建年 仁平2年(1152年)
開山 幸覚院一世
正式名 太田井山 極楽寺
札所等 九州三十六不動霊場14番
文化財 鰐口、五輪塔群(市指定文化財)
posted by Kazu at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 宮崎県

2023年03月28日

上杉神社(うえすぎじんじゃ)は、山形県米沢市にある神社

上杉神社(うえすぎじんじゃ)は、山形県米沢市にある神社。松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

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歴史
上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を首席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。

併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。

明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、伊東忠太の設計により現在に残る社殿が再建された。

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主な神事
例大祭 4月29日。謙信の歿日を太陽暦に換算したもの。

境内
本殿
拝殿
稽照殿(宝物殿)
上杉謙信公像 参道を右手に入ったところに立つ。
上杉鷹山公像 参道沿いに立つ。
上杉景勝公と直江兼続公像(天地人像) 参道沿いに立つ。
春日神社
福徳稲荷神社
赤穂事件殉難追悼碑 - 木村東介建立

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交通アクセス
鉄道
奥羽本線(山形新幹線)米沢駅から徒歩で約20分。
米坂線南米沢駅から徒歩で約20分。
バス
米沢駅から山交バス白布温泉行きで8分。「上杉神社前」で下車、徒歩3分。
米沢駅から市民バス市街地循環右回りバス(青色のバス)で11分。「上杉神社前」で下車、徒歩3分。
仙台駅から高速バス・仙台 - 米沢線で130分。「上杉神社前」で下車、徒歩3分。
道路
高速道路…東北中央自動車道米沢八幡原ICから国道13号を山形方面へ。13号米沢バイパスから車で約15分。
一般国道…喜多方方面からは国道121号、新潟方面からは国道113号をそれぞれ利用。
米沢駅から車で約10分。

所在地 山形県米沢市丸の内1丁目4-13
位置 北緯37度54分33.5秒 東経140度6分14.7秒
主祭神 上杉謙信公
社格等 別格官幣社
創建 明治4年(1871年)
例祭 4月29日
posted by Kazu at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 山形県

2023年03月27日

瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口市香山町にある曹洞宗の寺院

瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口市香山町にある曹洞宗の寺院。国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されている。

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歴史
香積寺
室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成した。また、後の天文9年(1540年)に建てられた仏殿は広島市の不動院に移築され、国宝に指定されている。

仁保瑠璃光寺
陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。

移転
江戸幕府成立後、萩に依った毛利輝元が慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、跡地に元禄3年(1690年)、仁保瑠璃光寺を移転した。これが現在の瑠璃光寺である。

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境内
五重塔
国宝。大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。

高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。二層にのみ回縁(まわりえん)がついているのが特徴である。建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採り入れられている。初重(1階)には日本の仏塔では唯一となる円型の須弥壇があり、僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像を祀っている。夜間は年間を通して日没から22:00までライトアップされており、周囲に咲く季節の花々とともに美しく浮かび上がる。

大内義弘の亡骸は一旦堺で葬られた後に香積寺に改葬されたとされるが、その墳塋がこの塔であり、通常なら仏舎利が納められている五重塔の下に大内義弘の柩があるとの口伝がある。

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文化財
国宝
五重塔
史跡(国指定)
香山墓所(「萩藩主毛利家墓所」のうち)
山口県指定文化財
瑠璃光寺開山から三世までの肖像画3幅(伝雪舟筆)

山口県山口市香山町瑠璃光寺.jpg

交通アクセス
JR西日本山口線山口駅より徒歩30分または車で5分
中国自動車道小郡ICより車で20分
山口市コミュニティバス大内ルート・香山公園五重塔前下車

所在地 山口県山口市香山町7-1
位置 北緯34度11分23.4秒 東経131度28分18.4秒
山号 保寧山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建年 文明3年(1471年)
開山 大庵須益
開基 陶弘房夫人
正式名 保寧山瑠璃光禪寺
文化財 五重塔(国宝)
萩藩主毛利家墓所(国の史跡)
瑠璃光寺開山から三世までの肖像画3幅(県指定文化財)
posted by Kazu at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 山口県
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