弥谷寺(いやだにじ)は、香川県三豊市三野町にある真言宗大本山の寺格を持つ仏教寺院。弥谷山(標高382m)の中腹225m辺りに本堂があり、その背後の岩盤には創建時に千手佛が納められた岩穴が残り、山全体が霊山であるとの信仰があり、日本三大霊場(他は恐山・臼杵磨崖仏)の一つに数えられたといわれる。四国八十八箇所霊場の第七十一番札所。本尊は千手観音。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:悪人と行き連れなむも弥谷寺(いやだにじ) ただかりそめもよき友ぞよき
納経印:本尊印、奥之院御学問所、七ヶ所参り大黒天
歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。
807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し獅子之岩屋にて護摩を修し千座満願のとき蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、仏の住む山である弥山から仏の谷という意味とされる弥谷に改めたと伝わる。
室町時代には天霧城主・香川氏の庇護を受け、東院・西院・中尊院と6坊を備えて大寺になっていたが、天正期に兵火により荒廃し(剣御山弥谷寺略縁起によると、【天正年中、香川氏没落の時、兵火当山に移りて】とあるがこの山を確実に攻めたとされるのは三好軍で、その後にも香川氏は没落せず長曾我部から養子を跡継ぎとして迎え隆盛しているのでこの記述の解釈が不明)、現在の中尊院のみが存続、のち丸亀藩主京極氏の帰依により1600年(慶長5年)復興された。
また、縁起によると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説あり)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、石造と木造の2体の厄除大師像が祀られている。また、澄禅の『四国遍路日記』(承応2年・1653年)には、木像がお祀りされていると記述され、寂本の『四国遍禮霊場記』(元禄2年・1689年)には、「いにしヘは木像にてありけるを石にて改め作り奉る」と記されている。2014年、大師堂厨子内に安置されているその秘仏木造厄除大師像が元禄2年以来320年ぶりに、同時に江戸期以来300年ぶりに本堂に安置されていた木造伝持の大師像、また、金銅四天王五鈷鈴(重文)も公開された。
文化財
重要文化財
金銅五鈷鈴 - 唐時代、弘法大師が唐より請来したとされる。明治34年3月27日指定、
国の史跡
曼荼羅寺道(三豊市・善通寺市) - 「讃岐遍路道 根香寺道」に弥谷寺へ向かう石段下分岐から蛇谷池の堤までの0.9kmが追加指定され、「讃岐遍路道 曼荼羅寺道 根香寺道」になる。平成26年10月6日追加指定。
香川県指定有形文化財
仏説観仏三昧海経 巻第二 - 平成19年3月30日指定
香川県指定史跡
弥谷寺信仰遺跡:「賽(さい)の河原」「獅子窟」「比丘尼谷の磨崖仏」「比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔」、 昭和43年6月指定
金剛拳菩薩
多宝塔
弥陀三尊磨崖仏
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 予讃線 - みの駅 (3.3km)
バス
三豊市コミュニティバス 三野線「ふれあいパークみの」下車 (0.5km)
道路
一般道:香川県道48号善通寺詫間線 三野町大見 (1.3km)
自動車道:高松自動車道 三豊鳥坂IC (4.7km)、さぬき豊中IC (10.3km)
所在地 香川県三豊市三野町大見乙70
位置 北緯34度13分47秒 東経133度43分27.34秒
山号 剣五山
宗派 真言宗善通寺派
寺格 大本山
本尊 千手観世音菩薩
創建年 (伝)奈良時代
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
正式名 剣五山 千手院 弥谷寺
別称 弘法大師御学問所
札所等 四国八十八箇所71番
文化財 金銅四天王五鈷鈴(国の重要文化財)
仏説観仏三昧海経(県文化財)
弥谷寺信仰遺跡(県史跡)
2023年04月05日
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