大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある仏教寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。
歴史
正確な創建年代は不明だが、寺伝によれば奈良時代に行基の開創とされている(延慶3年(1310年)『関東下知状』)。本尊である薬師如来像の様式などから、実際の創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。天文14年(1545年)の『大善寺諸堂建立炎上記』によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。
本堂
本堂は国宝に指定されている。屋根は寄棟造、檜皮葺。平面は桁行(間口)、梁間(側面)とも五間(ここでいう「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。組物は二手先(ふたてさき)とする。堂の北東隅と北西隅の柱にそれぞれ「弘安九年」(1286年)の刻銘があり、この年に立柱されたことがわかる。
拝観
9:00〜16:00 拝観は有料
アクセス
公共交通機関
JR中央本線の甲斐大和駅や塩山駅前を発着する甲州市市民バスの「甲州市(塩山・勝沼・大和)縦断線」と、塩山駅や勝沼ぶどう郷駅前を発着する「勝沼地域バス ワインコース2」が大善寺バス停を通る。
自家用車など
国道20号柏尾交差点近く
中央自動車道勝沼インターチェンジから車で約3分
中央本線 勝沼ぶどう郷駅からタクシーで約5分
所在地 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
2023年03月26日
2023年03月25日
五坊寂静院(ごぼうじゃくじょういん)は、和歌山県伊都郡高野町にある、高野山真言宗の寺院
五坊寂静院(ごぼうじゃくじょういん)は、和歌山県伊都郡高野町にある、高野山真言宗の寺院。高野山(金剛峯寺)の子院の一つで、高野十谷のうちの一心院谷に位置する。
概要
寺伝によると「妙法蓮華経」に因む、妙智坊・法智坊・蓮智坊・華智坊・経智坊という宿坊があり、これらを一心院としたのが明寂上人であるという。その後、行勝上人が相伝し、貞暁上人が五坊寂静院と改称したという。後醍醐天皇・後村上天皇・後土御門天皇・後柏原天皇などの歴代天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。平安時代以降、高野山を構成した高野三方の学侶方に属し、相当な有力寺院であった。
歴史
1198年(建久9年)八条女院は、不動堂・八大童子像・不動明王像を寄進する。
1223年(貞応2年)貞暁上人は、伽藍を再建し、五坊寂静院と改称する。
1248年(宝治2年)日蓮が遊学する。
1908年(明治41年)不動堂・八大童子像・不動明王像を金剛峯寺へ移設する。
1940年(昭和15年)火災により、本堂が焼失する。
1967年(昭和42年)中宮寺旧本堂を五坊寂静院へ移築する。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及両脇侍立像
絹本著色不動明王三童子像
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山684
位置 北緯34度12分59.9秒 東経135度34分53.1秒
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・1198年(建久9年)
開山 伝・明寂上人
開基 伝・八条女院
文化財 阿弥陀如来及両脇侍立像(重文)ほか
概要
寺伝によると「妙法蓮華経」に因む、妙智坊・法智坊・蓮智坊・華智坊・経智坊という宿坊があり、これらを一心院としたのが明寂上人であるという。その後、行勝上人が相伝し、貞暁上人が五坊寂静院と改称したという。後醍醐天皇・後村上天皇・後土御門天皇・後柏原天皇などの歴代天皇より綸旨を賜り、勅願寺となった。平安時代以降、高野山を構成した高野三方の学侶方に属し、相当な有力寺院であった。
歴史
1198年(建久9年)八条女院は、不動堂・八大童子像・不動明王像を寄進する。
1223年(貞応2年)貞暁上人は、伽藍を再建し、五坊寂静院と改称する。
1248年(宝治2年)日蓮が遊学する。
1908年(明治41年)不動堂・八大童子像・不動明王像を金剛峯寺へ移設する。
1940年(昭和15年)火災により、本堂が焼失する。
1967年(昭和42年)中宮寺旧本堂を五坊寂静院へ移築する。
文化財
重要文化財(国指定)
木造阿弥陀如来及両脇侍立像
絹本著色不動明王三童子像
所在地 和歌山県伊都郡高野町高野山684
位置 北緯34度12分59.9秒 東経135度34分53.1秒
山号 高野山
宗派 高野山真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・1198年(建久9年)
開山 伝・明寂上人
開基 伝・八条女院
文化財 阿弥陀如来及両脇侍立像(重文)ほか
2023年03月24日
旧大國家住宅(きゅうおおくにけじゅうたく)は、岡山県和気郡和気町にある国の重要文化財の民家
旧大國家住宅(きゅうおおくにけじゅうたく)は、岡山県和気郡和気町にある国の重要文化財の民家である。
大國家について
大國家は元来、大森姓を名乗っていた。祖先は大森新四郎道明といい、辛川城(岡山市北区西辛川)の城主の弟であったと言われている。道明は戦国時代末期に和気に移り、定住したと伝えられている。
江戸時代中期の享保12年(1727年)大森武助満體(おおもり ぶすけ みつもと)は、18歳で運送業を興した。延享4年(1747年)に本家より分家し、屋号を「光基」とし、尺所村(現在地)に居を構えた。
大森家発祥から初代当主・満體が宝暦10年(1760年)に家屋を新築する頃までの記録については、3代目当主・文助勝衛(ぶんすけ かつえ)が『大森氏覚書』に書き留めている。
歴代当主は家業を営む傍ら、文人墨客とも親交を持ち、地域文化振興の一翼を担った。岡山藩に運上金を拠出し、橋を架けたり、貧困者の救済を行うなどの慈善事業を行った。幕末、7代目・武須計道善(ぶすけ みちよし)が当主であった安政6年(1859年)、尺所村の大庄屋格となった。また、道善の時代に大國姓を名乗るようになった。
住宅の概要
特色
『大森氏覚書』の記述によれば、大森武助満體が宝暦10年(1760年)に主屋を建造したとある。
主屋は上から見るとほぼ正方形で、一部に2階を設ける。入母屋造の屋根2つを前後に並べ、これらの間を棟が直交する切妻屋根で連結した比翼入母屋造形式の屋根となっており、棟は上から見ると「エ」の字形を呈する。屋根は入母屋部分は茅葺で、切妻部分は棟が瓦葺で下部は茅葺、庇は瓦葺となっている。建造当初は、平行する2つの棟の間に樋を通して雨水を流していたと、『大森氏覚書』に記載されている。内部は西半(通りから見て右側)を床上部とし、東半は通り土間で、一部を仕切って小部屋とする。
主屋の上手(西)に接して建つ「蔵座敷」には床(とこ)・棚付きの「御成の間」を設ける。この部屋は床の間を通常より幅広にしており、違い棚の框にはフナクイムシに食べさせた穴に胡粉を塗り込んだ材を用いる。東側の隣室との境の襖は、正面側に倉敷の文人・井上端木に鶴を描かせ、裏側に4代目当主・黄谷(武右衛門森斐)が亀を描いている。「御成の間」には鴨方藩主や岡山藩家老・土倉氏などを招待した。「御成の間」の南隣には四畳半の茶室が設けられている。主屋・蔵座敷と表の通りとの間の庭は狭いため、土塀を高く築き、庭に水堀代わりのやや深めの泉水を設けるなどの外敵から賓客を守る工夫がなされている。なお、「御成の間」「茶室」は賓客のための部屋であったため、明治以降は家族が立ち入ることはまれであった。
大國家の家屋は家相の影響を大きく受けており、主屋の土間にあった柱を家相判断により切り取っている。また、家相判断を記入した家の見取り図が多数見つかっている。
規模
敷地面積:2,859平方メートル
延床面積:1,020.8平方メートル
文化財指定
平成12年(2000年)、岡山県重要文化財に指定された。平成14年(2002年)、大國家より和気町に寄贈。平成16年(2004年)7月6日、国の重要文化財に指定された。指定対象は主屋など6棟(下記)及び宅地で、土塀が附(つけたり)指定となっている。特異な屋根形式をもつ主屋のほか、蔵などの付属建物や石垣、池などの工作物を含めた屋敷構えが良好に保存されていること、古文書や部材の墨書などにより各建物の建築年代が明確であること等から、文化財として高く評価されている。
主屋:宝暦10年(1760年)
蔵座敷:享和元年(1801年)
中蔵:文化5年(1808年)
乾蔵:文化5年(1808年)
酉蔵:文化5年(1808年)
井戸場:寛政4年(1851年) - 安政5年(1858年)
(附指定)土塀:天保年間(1830年 - 1844年)
利用情報
一般公開:年1回、但し5人以上であれば、1週間以上前に「学び館サエスタ」または「和気町歴史民俗資料館」に申し込めば、見学可能。
入場料:無料、駐車場あり
所在地 岡山県和気郡和気町尺所38
位置 北緯34度48分4.3秒 東経134度9分22.0秒
類型 商家・庄屋住宅
形式・構造 木造、比翼入母屋造、瓦葺・茅葺
敷地面積 2,859平方メートル
延床面積 1,020.8平方メートル
建築年 (主屋)宝暦10年(1760年)
大國家について
大國家は元来、大森姓を名乗っていた。祖先は大森新四郎道明といい、辛川城(岡山市北区西辛川)の城主の弟であったと言われている。道明は戦国時代末期に和気に移り、定住したと伝えられている。
江戸時代中期の享保12年(1727年)大森武助満體(おおもり ぶすけ みつもと)は、18歳で運送業を興した。延享4年(1747年)に本家より分家し、屋号を「光基」とし、尺所村(現在地)に居を構えた。
大森家発祥から初代当主・満體が宝暦10年(1760年)に家屋を新築する頃までの記録については、3代目当主・文助勝衛(ぶんすけ かつえ)が『大森氏覚書』に書き留めている。
歴代当主は家業を営む傍ら、文人墨客とも親交を持ち、地域文化振興の一翼を担った。岡山藩に運上金を拠出し、橋を架けたり、貧困者の救済を行うなどの慈善事業を行った。幕末、7代目・武須計道善(ぶすけ みちよし)が当主であった安政6年(1859年)、尺所村の大庄屋格となった。また、道善の時代に大國姓を名乗るようになった。
住宅の概要
特色
『大森氏覚書』の記述によれば、大森武助満體が宝暦10年(1760年)に主屋を建造したとある。
主屋は上から見るとほぼ正方形で、一部に2階を設ける。入母屋造の屋根2つを前後に並べ、これらの間を棟が直交する切妻屋根で連結した比翼入母屋造形式の屋根となっており、棟は上から見ると「エ」の字形を呈する。屋根は入母屋部分は茅葺で、切妻部分は棟が瓦葺で下部は茅葺、庇は瓦葺となっている。建造当初は、平行する2つの棟の間に樋を通して雨水を流していたと、『大森氏覚書』に記載されている。内部は西半(通りから見て右側)を床上部とし、東半は通り土間で、一部を仕切って小部屋とする。
主屋の上手(西)に接して建つ「蔵座敷」には床(とこ)・棚付きの「御成の間」を設ける。この部屋は床の間を通常より幅広にしており、違い棚の框にはフナクイムシに食べさせた穴に胡粉を塗り込んだ材を用いる。東側の隣室との境の襖は、正面側に倉敷の文人・井上端木に鶴を描かせ、裏側に4代目当主・黄谷(武右衛門森斐)が亀を描いている。「御成の間」には鴨方藩主や岡山藩家老・土倉氏などを招待した。「御成の間」の南隣には四畳半の茶室が設けられている。主屋・蔵座敷と表の通りとの間の庭は狭いため、土塀を高く築き、庭に水堀代わりのやや深めの泉水を設けるなどの外敵から賓客を守る工夫がなされている。なお、「御成の間」「茶室」は賓客のための部屋であったため、明治以降は家族が立ち入ることはまれであった。
大國家の家屋は家相の影響を大きく受けており、主屋の土間にあった柱を家相判断により切り取っている。また、家相判断を記入した家の見取り図が多数見つかっている。
規模
敷地面積:2,859平方メートル
延床面積:1,020.8平方メートル
文化財指定
平成12年(2000年)、岡山県重要文化財に指定された。平成14年(2002年)、大國家より和気町に寄贈。平成16年(2004年)7月6日、国の重要文化財に指定された。指定対象は主屋など6棟(下記)及び宅地で、土塀が附(つけたり)指定となっている。特異な屋根形式をもつ主屋のほか、蔵などの付属建物や石垣、池などの工作物を含めた屋敷構えが良好に保存されていること、古文書や部材の墨書などにより各建物の建築年代が明確であること等から、文化財として高く評価されている。
主屋:宝暦10年(1760年)
蔵座敷:享和元年(1801年)
中蔵:文化5年(1808年)
乾蔵:文化5年(1808年)
酉蔵:文化5年(1808年)
井戸場:寛政4年(1851年) - 安政5年(1858年)
(附指定)土塀:天保年間(1830年 - 1844年)
利用情報
一般公開:年1回、但し5人以上であれば、1週間以上前に「学び館サエスタ」または「和気町歴史民俗資料館」に申し込めば、見学可能。
入場料:無料、駐車場あり
所在地 岡山県和気郡和気町尺所38
位置 北緯34度48分4.3秒 東経134度9分22.0秒
類型 商家・庄屋住宅
形式・構造 木造、比翼入母屋造、瓦葺・茅葺
敷地面積 2,859平方メートル
延床面積 1,020.8平方メートル
建築年 (主屋)宝暦10年(1760年)
2023年03月23日
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市誉田にある神社
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、大阪府羽曳野市誉田にある神社。旧社格は府社。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の南に隣接して鎮座する。
歴史
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。なお、この地は応神天皇陵(誉田御廟山古墳)がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住していたところでもあり、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。
奈良時代には行基によって神宮寺である長野山護国寺が境内に創建されている。
平安時代の永承6年(1051年)には創建の地より1町ほど南にある現在地に遷座し、後冷泉天皇による行幸が行われた。
八幡神が源氏の氏神とされることから、建久7年(1196年)には源頼朝によって社殿が修復され国宝の神輿などが寄進されている。室町幕府第6代将軍足利義教は、重要文化財の「誉田宗廟縁起」と「神功皇后縁起」を奉納している。 このように、当社は源姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けて栄えた。
南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内紛により社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸時代には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。
河内国を支配下に置いた織田信長により社領は全て没収された。その後、豊臣秀吉により社領200石が寄進されて社殿が再建されたが、天正14年(1586年)に焼失してしまった。後に社領200石は河内国志紀郡古室村に転換されている。
慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して本殿・中門・拝殿などの再建を行っている。しかし、拝殿の仕上げ中に大坂の陣及び豊臣氏の滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
神宮寺の長野山護国寺は搭頭十五坊を誇っていたが(誉田八幡宮は社人十三家)、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈により本堂などの建物が取り壊され、南大門のみが残された。また、府社に列せられている。明治には幕末の剣客として知られる桃井直正が宮司を務めた。
祭神
主祭神 - 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
境内
南大門
本殿 - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。
中門 - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。
拝殿(割拝殿) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。寛永年間(1624年 - 1645年)に改修。
当宗社(まさむねしゃ) - 祭神:素盞鳴尊。式内社で、旧社格は無格社。元々は誉田八幡宮より東100mほど先にある当宗垣内という場所に鎮座していたが、1907年(明治40年)11月16日に当社の境内へ遷座した。旧地一帯は5世紀頃、楽浪郡からの渡来人である当宗忌寸が居住するようになり、後に子孫にあたる当宗直が治めていた。宇多天皇の外祖母にあたる人物が当宗氏であったため、当宗忌寸の祖神である山陽公(『寛平御記』には河内当宗神とされている)が祀られるようになり、延喜式神名帳における「當宗神社三座」と比定されている。
放生橋(羽曳野市指定有形文化財) - 17世紀後半から18世紀前半頃に建造。かつてはこの橋を渡って誉田御廟山古墳の後円部の墳丘に参拝できた。
石造多宝塔 - 石造の三重塔。
姫待稲荷社
恵比寿社
絵馬堂
安産社
南大門 - 旧長野山護国寺の南大門。
神庫
拝観庫
御輿庫
誉田宝殿
放生池
社務所
祭事
日の丸神酒
元日の歳旦祭をはじめ、正月三が日に無料授与される神酒が地元河内産の赤ワインとなっており、白い盃とのコントラストから「日の丸神酒」と呼ばれている。羽曳野市や柏原市は大阪府におけるぶどうの主産地で、ワインの醸造も早くから行われている。
文化財
国宝
塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)(鎌倉時代)
金銅透彫鞍金具 2具分 応神天皇陵陪塚丸山古墳出土
附:金銅轡鏡板1、金銅花形辻金具一括、鹿角装刀残欠一括、馬具鉄鏃及び鐙等残闕一括
附:発掘関係書類1
交通アクセス
近鉄南大阪線 古市駅、徒歩約10分
所在地 大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8
位置 北緯34度33分31.9秒 東経135度36分35.6秒
主祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
社格等 旧府社
創建 欽明天皇20年(559年)
札所等 河内飛鳥古社寺霊場客番
例祭 9月15日
歴史
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。なお、この地は応神天皇陵(誉田御廟山古墳)がある地であるが、応神天皇が幼少の頃に居住していたところでもあり、また、皇后の仲津姫はこの地を治める誉田真若王の娘でもあり、応神天皇にとって特別なゆかりのある地である。
奈良時代には行基によって神宮寺である長野山護国寺が境内に創建されている。
平安時代の永承6年(1051年)には創建の地より1町ほど南にある現在地に遷座し、後冷泉天皇による行幸が行われた。
八幡神が源氏の氏神とされることから、建久7年(1196年)には源頼朝によって社殿が修復され国宝の神輿などが寄進されている。室町幕府第6代将軍足利義教は、重要文化財の「誉田宗廟縁起」と「神功皇后縁起」を奉納している。 このように、当社は源姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けて栄えた。
南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内紛により社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸時代には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。
河内国を支配下に置いた織田信長により社領は全て没収された。その後、豊臣秀吉により社領200石が寄進されて社殿が再建されたが、天正14年(1586年)に焼失してしまった。後に社領200石は河内国志紀郡古室村に転換されている。
慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して本殿・中門・拝殿などの再建を行っている。しかし、拝殿の仕上げ中に大坂の陣及び豊臣氏の滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
神宮寺の長野山護国寺は搭頭十五坊を誇っていたが(誉田八幡宮は社人十三家)、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈により本堂などの建物が取り壊され、南大門のみが残された。また、府社に列せられている。明治には幕末の剣客として知られる桃井直正が宮司を務めた。
祭神
主祭神 - 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
境内
南大門
本殿 - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。
中門 - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。
拝殿(割拝殿) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建。寛永年間(1624年 - 1645年)に改修。
当宗社(まさむねしゃ) - 祭神:素盞鳴尊。式内社で、旧社格は無格社。元々は誉田八幡宮より東100mほど先にある当宗垣内という場所に鎮座していたが、1907年(明治40年)11月16日に当社の境内へ遷座した。旧地一帯は5世紀頃、楽浪郡からの渡来人である当宗忌寸が居住するようになり、後に子孫にあたる当宗直が治めていた。宇多天皇の外祖母にあたる人物が当宗氏であったため、当宗忌寸の祖神である山陽公(『寛平御記』には河内当宗神とされている)が祀られるようになり、延喜式神名帳における「當宗神社三座」と比定されている。
放生橋(羽曳野市指定有形文化財) - 17世紀後半から18世紀前半頃に建造。かつてはこの橋を渡って誉田御廟山古墳の後円部の墳丘に参拝できた。
石造多宝塔 - 石造の三重塔。
姫待稲荷社
恵比寿社
絵馬堂
安産社
南大門 - 旧長野山護国寺の南大門。
神庫
拝観庫
御輿庫
誉田宝殿
放生池
社務所
祭事
日の丸神酒
元日の歳旦祭をはじめ、正月三が日に無料授与される神酒が地元河内産の赤ワインとなっており、白い盃とのコントラストから「日の丸神酒」と呼ばれている。羽曳野市や柏原市は大阪府におけるぶどうの主産地で、ワインの醸造も早くから行われている。
文化財
国宝
塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)(鎌倉時代)
金銅透彫鞍金具 2具分 応神天皇陵陪塚丸山古墳出土
附:金銅轡鏡板1、金銅花形辻金具一括、鹿角装刀残欠一括、馬具鉄鏃及び鐙等残闕一括
附:発掘関係書類1
交通アクセス
近鉄南大阪線 古市駅、徒歩約10分
所在地 大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8
位置 北緯34度33分31.9秒 東経135度36分35.6秒
主祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
社格等 旧府社
創建 欽明天皇20年(559年)
札所等 河内飛鳥古社寺霊場客番
例祭 9月15日
2023年03月22日
安国寺(あんこくじ)は、大分県国東市国東町安国寺にある臨済宗妙心寺派の寺院
安国寺(あんこくじ)は、大分県国東市国東町安国寺にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は太陽山。
歴史
足利尊氏が後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために日本全国68か所に建てた安国寺のひとつで、応永元年(1394年)にその最後(68番目)の寺として建立された。
最盛期には、七堂伽藍を有し、28の末寺を有するほどの大寺であったが、天正年間(1573年-1591年)の島津氏の豊後侵攻の際に全伽藍を焼失した。以後、寺院は衰退したが、明治時代に入って再建され、廃寺となった京都山科の地蔵寺から、足利尊氏坐像や地蔵菩薩立像(延命地蔵)が移されるほどとなった。
近隣に弥生時代から古墳時代初期にかけての集落遺跡の安国寺集落遺跡がある。
文化財
重要文化財
木造足利尊氏坐像(2012年(平成24年)9月6日指定)
足利尊氏の存命中に製作された最古とされる尊氏像で、束帯姿、等身大の寄木造の像である。元は京都・東岩蔵山(京都市左京区粟田口大日山)にあった東岩蔵寺に尊氏の分骨とともに安置されていた。東岩蔵寺は南北朝時代に将軍家祈祷所となっており、本像は2代将軍義詮によって奉納されたと推定される。応仁の乱で同寺が焼失すると、尊氏の信仰が篤かった京都山科の地蔵寺に移されていた。だが、廃仏毀釈により地蔵寺が明治11年(1878年)廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された。構造技法から足利将軍家に重用された院派仏師の作と推定され、中世俗人肖像彫刻の代表的な作例として貴重である。
大分県指定有形文化財
木造地蔵菩薩立像(1994年(平成6年)3月25日指定)
寺伝では恵心僧都作と伝えるが鎌倉時代の制作と思われる。「延命地蔵」と呼ばれる地蔵像で、尊氏の信仰が篤く、この像を本尊として京都山科に地蔵寺を創建したとされる。また、赤穂藩筆頭家老大石良雄(大石内蔵助)が浅野家断絶後に山科に隠棲した際に祈願をしたと言われ、足元の蓮華座には、当時の住職逸山祖仁禅師が冥福を祈って収めた四十七士の戒名が書かれた巻物が収められている。足利尊氏坐像と同様に廃仏毀釈により地蔵寺が明治11年(1878年)廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された。
所在地 大分県国東市国東町安国寺2245
位置 北緯33度33分41.4秒 東経131度43分11.2秒
山号 太陽山
宗派 臨済宗妙心寺派
創建年 応永元年(1394年)
開基 足利尊氏
文化財 足利尊氏坐像(重要文化財)
地蔵菩薩立像(県指定文化財)
歴史
足利尊氏が後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために日本全国68か所に建てた安国寺のひとつで、応永元年(1394年)にその最後(68番目)の寺として建立された。
最盛期には、七堂伽藍を有し、28の末寺を有するほどの大寺であったが、天正年間(1573年-1591年)の島津氏の豊後侵攻の際に全伽藍を焼失した。以後、寺院は衰退したが、明治時代に入って再建され、廃寺となった京都山科の地蔵寺から、足利尊氏坐像や地蔵菩薩立像(延命地蔵)が移されるほどとなった。
近隣に弥生時代から古墳時代初期にかけての集落遺跡の安国寺集落遺跡がある。
文化財
重要文化財
木造足利尊氏坐像(2012年(平成24年)9月6日指定)
足利尊氏の存命中に製作された最古とされる尊氏像で、束帯姿、等身大の寄木造の像である。元は京都・東岩蔵山(京都市左京区粟田口大日山)にあった東岩蔵寺に尊氏の分骨とともに安置されていた。東岩蔵寺は南北朝時代に将軍家祈祷所となっており、本像は2代将軍義詮によって奉納されたと推定される。応仁の乱で同寺が焼失すると、尊氏の信仰が篤かった京都山科の地蔵寺に移されていた。だが、廃仏毀釈により地蔵寺が明治11年(1878年)廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された。構造技法から足利将軍家に重用された院派仏師の作と推定され、中世俗人肖像彫刻の代表的な作例として貴重である。
大分県指定有形文化財
木造地蔵菩薩立像(1994年(平成6年)3月25日指定)
寺伝では恵心僧都作と伝えるが鎌倉時代の制作と思われる。「延命地蔵」と呼ばれる地蔵像で、尊氏の信仰が篤く、この像を本尊として京都山科に地蔵寺を創建したとされる。また、赤穂藩筆頭家老大石良雄(大石内蔵助)が浅野家断絶後に山科に隠棲した際に祈願をしたと言われ、足元の蓮華座には、当時の住職逸山祖仁禅師が冥福を祈って収めた四十七士の戒名が書かれた巻物が収められている。足利尊氏坐像と同様に廃仏毀釈により地蔵寺が明治11年(1878年)廃寺となったのに伴い、近くの華山寺に移され、明治40年(1897年)に安国寺に移管された。
所在地 大分県国東市国東町安国寺2245
位置 北緯33度33分41.4秒 東経131度43分11.2秒
山号 太陽山
宗派 臨済宗妙心寺派
創建年 応永元年(1394年)
開基 足利尊氏
文化財 足利尊氏坐像(重要文化財)
地蔵菩薩立像(県指定文化財)
2023年03月21日
伊曽乃神社(いそのじんじゃ、旧字体:伊曾乃神社)は、愛媛県西条市中野にある神社
伊曽乃神社(いそのじんじゃ、旧字体:伊曾乃神社)は、愛媛県西条市中野にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「御所車」。
豪華絢爛な「西条祭り」で最大規模のだんじりが奉納される神社として知られる。古くは「磯野宮」とも称した。
祭神
祭神は次の2柱。2柱をして「伊曽乃神」と総称する。
天照大神の荒魂
武国凝別命
祭神は、はじめは1座で「伊曽乃神」といったとする。社伝および旧記によると、はじめの一座は天照大神の荒魂で、のちに武国凝別命を加えて2座となったとする。主神の天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、脇殿神の武国凝別命はその左に祀られている。
歴史
創建
社伝によれば、第13代成務天皇7年に伊予御村別(みむらわけ)の祖の武国凝別命(景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は御舟川沿いにある)。
孝徳天皇の大化年中(645年-650年)にこの地方が「神野郡」(のちの新居郡)と命名されたのは、伊曽乃神社などにより既に神が祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていた事に由来するとの説がある。
境内
一ノ鳥居:石製。石鎚の神の投げ石が向かって右にあり。
二ノ鳥居:銅製
石柱門
神門の前:この空間でだんじりの引廻しが演じられる。
拝殿:本殿拝殿は祭神が天照大神のため東向きであるが、一の鳥居からの参道は市街地からの入口の方向であるため、参道と本殿の向きが直角になっている。
本殿:昭和15年建築。総檜の神明造り。
木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)命像:大山祇神の次女。平成25年3月18日除幕。
神輿庫:大人神輿と子供神輿が一台ずつ収納。
社叢:境内正面の神木のクスは高さ30m周5.5m推定樹齢700年で、西条市名水名木50選。平成3年3月選定。
宝物館:大人300円、子供100円
伊曽乃文庫
斎館
句碑:小林一茶「扒上頭に花の雫かな」が二ノ鳥居を越えすぐ右に副碑と共にある。「神馬にも打撤きくにて初詣」がその先の左にある。「風光る大楠仰ぎ息吹うく 川入りの御神輿追ふてだんじりは 爽やか笑顔に晴れ着七五三」が駐車場の南側にある。
駐車場:大駐車場あり無料。例大祭の時は使用不可。
例大祭
伊曽乃神社例大祭10月15日・16日。
だんじり(楽車・屋台)77台、みこし(御輿楽車。氏子の奉納屋台で神輿(おみこし)とは違う、なお、当地では神輿のことはかみさんと呼ぶ)4台が奉納され、一つの神社に奉納される屋台の数としては全国最多とも言われ 他の地方に例を見ない大規模なものである。15日未明に当社の神門前にて順次だんじりが宮入りをして演技をする。16日夕刻、かみさんが川(当社の約1km北の加茂川)を渡り切ると祭が終わるので、帰ろうとするかみさんの行く手を川の中で地元神戸地区のだんじり11台が阻む。
所在地 愛媛県西条市中野甲1649
位置 北緯33度53分34秒 東経133度11分12.8秒
主祭神 天照大神荒魂
武国凝別命
社格等 式内社(名神大)
旧国幣中社
別表神社
創建 (伝)第13代成務天皇7年
本殿の様式 神明造
例祭 10月15日・16日
豪華絢爛な「西条祭り」で最大規模のだんじりが奉納される神社として知られる。古くは「磯野宮」とも称した。
祭神
祭神は次の2柱。2柱をして「伊曽乃神」と総称する。
天照大神の荒魂
武国凝別命
祭神は、はじめは1座で「伊曽乃神」といったとする。社伝および旧記によると、はじめの一座は天照大神の荒魂で、のちに武国凝別命を加えて2座となったとする。主神の天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、脇殿神の武国凝別命はその左に祀られている。
歴史
創建
社伝によれば、第13代成務天皇7年に伊予御村別(みむらわけ)の祖の武国凝別命(景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。武国凝別命は天照大神の分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いたという(「御船森」は御舟川沿いにある)。
孝徳天皇の大化年中(645年-650年)にこの地方が「神野郡」(のちの新居郡)と命名されたのは、伊曽乃神社などにより既に神が祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていた事に由来するとの説がある。
境内
一ノ鳥居:石製。石鎚の神の投げ石が向かって右にあり。
二ノ鳥居:銅製
石柱門
神門の前:この空間でだんじりの引廻しが演じられる。
拝殿:本殿拝殿は祭神が天照大神のため東向きであるが、一の鳥居からの参道は市街地からの入口の方向であるため、参道と本殿の向きが直角になっている。
本殿:昭和15年建築。総檜の神明造り。
木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)命像:大山祇神の次女。平成25年3月18日除幕。
神輿庫:大人神輿と子供神輿が一台ずつ収納。
社叢:境内正面の神木のクスは高さ30m周5.5m推定樹齢700年で、西条市名水名木50選。平成3年3月選定。
宝物館:大人300円、子供100円
伊曽乃文庫
斎館
句碑:小林一茶「扒上頭に花の雫かな」が二ノ鳥居を越えすぐ右に副碑と共にある。「神馬にも打撤きくにて初詣」がその先の左にある。「風光る大楠仰ぎ息吹うく 川入りの御神輿追ふてだんじりは 爽やか笑顔に晴れ着七五三」が駐車場の南側にある。
駐車場:大駐車場あり無料。例大祭の時は使用不可。
例大祭
伊曽乃神社例大祭10月15日・16日。
だんじり(楽車・屋台)77台、みこし(御輿楽車。氏子の奉納屋台で神輿(おみこし)とは違う、なお、当地では神輿のことはかみさんと呼ぶ)4台が奉納され、一つの神社に奉納される屋台の数としては全国最多とも言われ 他の地方に例を見ない大規模なものである。15日未明に当社の神門前にて順次だんじりが宮入りをして演技をする。16日夕刻、かみさんが川(当社の約1km北の加茂川)を渡り切ると祭が終わるので、帰ろうとするかみさんの行く手を川の中で地元神戸地区のだんじり11台が阻む。
所在地 愛媛県西条市中野甲1649
位置 北緯33度53分34秒 東経133度11分12.8秒
主祭神 天照大神荒魂
武国凝別命
社格等 式内社(名神大)
旧国幣中社
別表神社
創建 (伝)第13代成務天皇7年
本殿の様式 神明造
例祭 10月15日・16日
2023年03月20日
大須観音(おおすかんのん)は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山の寺院
大須観音(おおすかんのん)は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山の寺院。山号は北野山。本尊は聖観音。寺号は北野山真福寺宝生院である。宗教法人としての公称は「宝生院」(ほうしょういん)だが、一般には「大須観音」の名で知られる。日本三大観音の1つともいわれる観音霊場。なごや七福神の一である布袋像を安置する。寺内に、『古事記』の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する「真福寺文庫」がある。
歴史
そもそもは建久年間(1190年 - 1199年)に建立された尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあった中島観音が発祥であるという。
元亨4年(1324年)に後醍醐天皇によりその地に北野天満宮が創建される。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺とその塔頭宝生院が当寺の始まりである。そして、摂津国四天王寺の観世音菩薩を移して本尊としたとする。その後、後村上天皇により伽藍が建立され、勅願寺となっている。
3代目住職である任瑜法親王の時には寺領1万石となり、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃6か国の真言宗寺院を末寺としている。
戦国時代には、織田信長により寺領500石が寄進されている。
慶長17年(1612年)、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正成によって宝生院は本尊や真福寺文庫と共に大須郷から現在地に移転する。
文化12年(1815年)には五重塔が建立され、空海が彫った愛染明王像が五重塔内に安置された。1892年(明治25年)3月21日には、境内にあった宝生座(芝居小屋)裏手からの出火(大須の大火)により本堂、五重塔と仁王門を焼失した。同年4月には大須の大火で焼失した本堂、五重塔、仁王門を再建する為、「再建寄附金帳」という帳が書かれた。帳の内容には再建のために本堂、五重塔、仁王門の建地割図(設計図)が描かれ、本堂、五重塔、仁王門に関する再建内容が5丁で記されていた。大須大火後に本堂と仁王門は再建されたが、五重塔は再建されなかった。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で2度目の焼失。戦後の1949年(昭和24年)に仮の本堂と仁王門が建てられ、大須の人達や関係者から大須のシンボルである大須観音の早期の正式な本堂の再建が期待された。しかし、資金難で再建が大幅に遅れ、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリートで再建し現在に至る。また、当初の再建計画では回廊や五重塔も建設予定であったが、建設資金として当てにしていた浄財がなかなか集まらず、建設は中止された。以後、五重塔などの再建は現在にいたるまで立ち消えた状態である。
戦前まで大須観音以上に大須で大いに栄えて賑わっていた寺は、七堂伽藍で有名であった七寺であった。大須観音も七寺も空襲で焼失するが、戦後、七寺の七堂伽藍は再建の期待はあったものの再建されることはなく、現在では大須観音が栄え、大須のシンボル的な寺院となっている。
境内
本堂 - 1970年(昭和45年)再建。
普門殿
紫雲殿
庫裏
客殿
旧文庫
奥書院
鐘楼 - 1966年(昭和41年)再建。梵鐘は華精の鐘(女人梵鐘)と呼ばれている。
弘法大師修行像
仁王門
西門
自動車祈祷殿
文化財
真福寺文庫(大須文庫) - 大須観音にある文庫(図書館)。醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の1つ。あるいは仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される。15,000冊もの古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本という。国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として知られ、同書の現存最古の写本である。
国宝
古事記 賢瑜筆 3帖
漢書食貨志 第四 1巻
琱玉集(ちょうぎょくしゅう)巻第十二、第十四 天平十九年書写奥書 2巻
翰林学士詩集 1巻
所在地
愛知県名古屋市中区大須2-21-47
交通手段
名古屋市営地下鉄鶴舞線 大須観音駅下車、徒歩ですぐ。
名古屋市営バス中巡回系統 大須観音停留所下車、徒歩ですぐ。
名古屋市営バス名駅18系統 大須停留所下車、徒歩。
歴史
そもそもは建久年間(1190年 - 1199年)に建立された尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあった中島観音が発祥であるという。
元亨4年(1324年)に後醍醐天皇によりその地に北野天満宮が創建される。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺とその塔頭宝生院が当寺の始まりである。そして、摂津国四天王寺の観世音菩薩を移して本尊としたとする。その後、後村上天皇により伽藍が建立され、勅願寺となっている。
3代目住職である任瑜法親王の時には寺領1万石となり、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃6か国の真言宗寺院を末寺としている。
戦国時代には、織田信長により寺領500石が寄進されている。
慶長17年(1612年)、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正成によって宝生院は本尊や真福寺文庫と共に大須郷から現在地に移転する。
文化12年(1815年)には五重塔が建立され、空海が彫った愛染明王像が五重塔内に安置された。1892年(明治25年)3月21日には、境内にあった宝生座(芝居小屋)裏手からの出火(大須の大火)により本堂、五重塔と仁王門を焼失した。同年4月には大須の大火で焼失した本堂、五重塔、仁王門を再建する為、「再建寄附金帳」という帳が書かれた。帳の内容には再建のために本堂、五重塔、仁王門の建地割図(設計図)が描かれ、本堂、五重塔、仁王門に関する再建内容が5丁で記されていた。大須大火後に本堂と仁王門は再建されたが、五重塔は再建されなかった。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲で2度目の焼失。戦後の1949年(昭和24年)に仮の本堂と仁王門が建てられ、大須の人達や関係者から大須のシンボルである大須観音の早期の正式な本堂の再建が期待された。しかし、資金難で再建が大幅に遅れ、1970年(昭和45年)に鉄筋コンクリートで再建し現在に至る。また、当初の再建計画では回廊や五重塔も建設予定であったが、建設資金として当てにしていた浄財がなかなか集まらず、建設は中止された。以後、五重塔などの再建は現在にいたるまで立ち消えた状態である。
戦前まで大須観音以上に大須で大いに栄えて賑わっていた寺は、七堂伽藍で有名であった七寺であった。大須観音も七寺も空襲で焼失するが、戦後、七寺の七堂伽藍は再建の期待はあったものの再建されることはなく、現在では大須観音が栄え、大須のシンボル的な寺院となっている。
境内
本堂 - 1970年(昭和45年)再建。
普門殿
紫雲殿
庫裏
客殿
旧文庫
奥書院
鐘楼 - 1966年(昭和41年)再建。梵鐘は華精の鐘(女人梵鐘)と呼ばれている。
弘法大師修行像
仁王門
西門
自動車祈祷殿
文化財
真福寺文庫(大須文庫) - 大須観音にある文庫(図書館)。醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の1つ。あるいは仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される。15,000冊もの古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本という。国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として知られ、同書の現存最古の写本である。
国宝
古事記 賢瑜筆 3帖
漢書食貨志 第四 1巻
琱玉集(ちょうぎょくしゅう)巻第十二、第十四 天平十九年書写奥書 2巻
翰林学士詩集 1巻
所在地
愛知県名古屋市中区大須2-21-47
交通手段
名古屋市営地下鉄鶴舞線 大須観音駅下車、徒歩ですぐ。
名古屋市営バス中巡回系統 大須観音停留所下車、徒歩ですぐ。
名古屋市営バス名駅18系統 大須停留所下車、徒歩。
2023年03月19日
浅井愛宕神社(あさいあたごじんじゃ)は、岩手県奥州市江刺藤里にある神社
浅井愛宕神社(あさいあたごじんじゃ)は、岩手県奥州市江刺藤里にある神社。旧社格は村社。日本各地に数ある愛宕神社の一つであり、「浅井智福愛宕神社」とも呼ばれる。木造兜跋毘沙門天立像は国の重要文化財に指定されている。
歴史
祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)。伝承によれば808年(大同3年)創建。1875年(明治8年)の神仏分離令により「毘沙門堂」を「愛宕神社」に改称し、旧藤里村の村社となった。堂内には多くの文化財を有する。
文化財
重要文化財
木造兜跋毘沙門天立像
像高175cm、木造、トチ材一木造り、荒彫り。天冠台上正面に冠飾を施す。左手は屈臂して宝塔を掲げ、右手は屈臂し鉾をとる。腰を左に捻り、両足をやや開いて立つ。 地天は木造、荒彫りで素地を表し、髪を左右に振り分け、正面、両手掌を仰いで、毘沙門天の両足を支える。丸刀を横に使った装飾的な彫り方は類例の少なく、貴重。1959年(昭和34年)12月18日、重要文化財に指定された。
有形文化財(県指定)
智福毘沙門堂
桁行7.72m、梁7.68m、向拝の出1.75m。2間四面、方3間。棟札より再建年は1692年(元禄5年)。中央1間四方を母屋として一段高く天井を張る。海老紅梁、向拝紅梁、かえる股等の装飾から地方色が強く見られる。
木造十一面観音立像、毘沙門天立像、吉祥天立像、善賦師童子立像
木造十一面観音立像は平安時代後期の製作となる等身の菩薩像であり、中尊寺の影響を受けたと考えられる。他の三像は県内でも最古の違例と思われ、毘沙門天は鉈彫りが珍しい鎌倉時代の作で、吉祥天も同時代の作と推定される。1963年12月24日、県から有形文化財に指定された。
現地情報
所在地
岩手県奥州市江刺藤里智福39
交通アクセス
東北新幹線水沢江刺駅より車30分
駐車場
あり
歴史
祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)。伝承によれば808年(大同3年)創建。1875年(明治8年)の神仏分離令により「毘沙門堂」を「愛宕神社」に改称し、旧藤里村の村社となった。堂内には多くの文化財を有する。
文化財
重要文化財
木造兜跋毘沙門天立像
像高175cm、木造、トチ材一木造り、荒彫り。天冠台上正面に冠飾を施す。左手は屈臂して宝塔を掲げ、右手は屈臂し鉾をとる。腰を左に捻り、両足をやや開いて立つ。 地天は木造、荒彫りで素地を表し、髪を左右に振り分け、正面、両手掌を仰いで、毘沙門天の両足を支える。丸刀を横に使った装飾的な彫り方は類例の少なく、貴重。1959年(昭和34年)12月18日、重要文化財に指定された。
有形文化財(県指定)
智福毘沙門堂
桁行7.72m、梁7.68m、向拝の出1.75m。2間四面、方3間。棟札より再建年は1692年(元禄5年)。中央1間四方を母屋として一段高く天井を張る。海老紅梁、向拝紅梁、かえる股等の装飾から地方色が強く見られる。
木造十一面観音立像、毘沙門天立像、吉祥天立像、善賦師童子立像
木造十一面観音立像は平安時代後期の製作となる等身の菩薩像であり、中尊寺の影響を受けたと考えられる。他の三像は県内でも最古の違例と思われ、毘沙門天は鉈彫りが珍しい鎌倉時代の作で、吉祥天も同時代の作と推定される。1963年12月24日、県から有形文化財に指定された。
現地情報
所在地
岩手県奥州市江刺藤里智福39
交通アクセス
東北新幹線水沢江刺駅より車30分
駐車場
あり
2023年03月18日
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)は、茨城県笠間市にある神社(稲荷神社)
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)は、茨城県笠間市にある神社(稲荷神社)である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷。
五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間300万人を超える参拝客が訪れる。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇る。
日本三大稲荷の一つとされている。
「笠間稲荷と佐白山」として茨城百景に選定されている。
東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある。
祭神
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
祭礼
例祭
例祭は4月9日に行われる例大祭である。4月9日は創建の日とされている。
笠間の菊まつり
10月中旬から11月末にかけて、笠間稲荷神社を中心に開催されている。
明治23年(1890年)以来、境内で「朝顔会(朝顔展示)」を開催していたが、これを明治41年(1908年)、当時の宮司が発展させ、農園部を設置し、菊花の展示を開始した。元は人々の心を和ませ、信仰を育むために始めたものという。大正2年(1913年)からは全国菊花品評会が、戦後の昭和23年(1948年)からは菊人形展がそれぞれ開催されるようになった 。
近年は「笠間の菊まつり」として、笠間稲荷神社初詣と並び、80万人弱の観光入込客数を記録するイベントに発展した。開催期間中には、神事流鏑馬、奉納笠間示現流居合抜刀術、大和古流奉納式、舞楽祭等の神事が行われている。
歴史
創建
創建に関する伝承は口碑によるもので、文献記録はない[9]。勧請元となった稲荷神社も不詳である。
社伝では、孝徳天皇御代の白雉2年(651年)、現在の地にあった胡桃樹の下に創建したものという。
笠間便覧では、白雉年間、佐白山に鎮座していた六座のうちの稲荷社を、現在の地にあった胡桃樹の下に奉遷したものという。ただし、この伝承が記述されているのは笠間便覧のみである[10]。近隣に鎮座する城山稲荷神社に、旧址を佐白山上とする同旨の由緒がある。
笠間稲荷神社ウェブサイトの由緒では、当時、社地一帯は胡桃の密林であったという。戦前の取材による茨城県神社写真帳には、「広漠とした荒野の片野の一本の胡桃樹下」であったと記されている[11]。新編常陸国誌には、「胡桃の大木」の下であったと記されている。
文化財
重要文化財
本殿 - 万延元年(1860年)建立。外陣(旧拝殿)、内陣(本殿)からなる複合社殿。
交通アクセス
自動車
北関東自動車道友部ICから国道355号で約15分、又は笠間西ICから茨城県道64号土浦笠間線の福原バイパスと国道50号を利用し約20分(約10km)。
常磐自動車道水戸ICから国道50号で約25分。
※駐車場:市内に市営駐車場(有料)、市営観光駐車場、民間駐車場(有料)等有り。
鉄道
JR水戸線笠間駅
タクシーで約5分
徒歩約20分(約2km)
JR友部駅
かさま観光周遊バス(月曜運休) 稲荷神社下車
高速バス
関東やきものライナー 笠間稲荷神社入口下車
所在地 茨城県笠間市笠間1
位置 北緯36度23分9.9秒 東経140度15分14.8秒
主祭神 宇迦之御魂命
社格等 旧村社
別表神社
創建 伝 白雉2年(651年)
別名 胡桃下稲荷
紋三郎稲荷
例祭 4月9日
主な神事 追儺式
初午祭
御田植祭
五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間300万人を超える参拝客が訪れる。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇る。
日本三大稲荷の一つとされている。
「笠間稲荷と佐白山」として茨城百景に選定されている。
東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある。
祭神
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
祭礼
例祭
例祭は4月9日に行われる例大祭である。4月9日は創建の日とされている。
笠間の菊まつり
10月中旬から11月末にかけて、笠間稲荷神社を中心に開催されている。
明治23年(1890年)以来、境内で「朝顔会(朝顔展示)」を開催していたが、これを明治41年(1908年)、当時の宮司が発展させ、農園部を設置し、菊花の展示を開始した。元は人々の心を和ませ、信仰を育むために始めたものという。大正2年(1913年)からは全国菊花品評会が、戦後の昭和23年(1948年)からは菊人形展がそれぞれ開催されるようになった 。
近年は「笠間の菊まつり」として、笠間稲荷神社初詣と並び、80万人弱の観光入込客数を記録するイベントに発展した。開催期間中には、神事流鏑馬、奉納笠間示現流居合抜刀術、大和古流奉納式、舞楽祭等の神事が行われている。
歴史
創建
創建に関する伝承は口碑によるもので、文献記録はない[9]。勧請元となった稲荷神社も不詳である。
社伝では、孝徳天皇御代の白雉2年(651年)、現在の地にあった胡桃樹の下に創建したものという。
笠間便覧では、白雉年間、佐白山に鎮座していた六座のうちの稲荷社を、現在の地にあった胡桃樹の下に奉遷したものという。ただし、この伝承が記述されているのは笠間便覧のみである[10]。近隣に鎮座する城山稲荷神社に、旧址を佐白山上とする同旨の由緒がある。
笠間稲荷神社ウェブサイトの由緒では、当時、社地一帯は胡桃の密林であったという。戦前の取材による茨城県神社写真帳には、「広漠とした荒野の片野の一本の胡桃樹下」であったと記されている[11]。新編常陸国誌には、「胡桃の大木」の下であったと記されている。
文化財
重要文化財
本殿 - 万延元年(1860年)建立。外陣(旧拝殿)、内陣(本殿)からなる複合社殿。
交通アクセス
自動車
北関東自動車道友部ICから国道355号で約15分、又は笠間西ICから茨城県道64号土浦笠間線の福原バイパスと国道50号を利用し約20分(約10km)。
常磐自動車道水戸ICから国道50号で約25分。
※駐車場:市内に市営駐車場(有料)、市営観光駐車場、民間駐車場(有料)等有り。
鉄道
JR水戸線笠間駅
タクシーで約5分
徒歩約20分(約2km)
JR友部駅
かさま観光周遊バス(月曜運休) 稲荷神社下車
高速バス
関東やきものライナー 笠間稲荷神社入口下車
所在地 茨城県笠間市笠間1
位置 北緯36度23分9.9秒 東経140度15分14.8秒
主祭神 宇迦之御魂命
社格等 旧村社
別表神社
創建 伝 白雉2年(651年)
別名 胡桃下稲荷
紋三郎稲荷
例祭 4月9日
主な神事 追儺式
初午祭
御田植祭
2023年03月17日
旧海軍大湊要港部水源地堰堤(きゅう かいぐんおおみなとようこうぶすいげんちえんてい)
旧海軍大湊要港部水源地堰堤(きゅう かいぐんおおみなとようこうぶすいげんちえんてい)は、青森県むつ市にある国の重要文化財。1910年(明治43年)に大日本帝国海軍(旧海軍)大湊要港部の水道施設として青森県大湊村(現:むつ市)に建設されたもので、第二次世界大戦後は大湊町(現:むつ市)の水道施設として1976年(昭和51年)3月まで使用され、1978年(昭和53年)からは公園として市民の憩いの場となっている。1985年(昭和60年)5月 近代水道百選に選定、2001年(平成13年) 土木学会選奨土木遺産に認定、2009年(平成21年)12月 国の重要文化財に指定された。
概要
1908年(明治41年)に起工された当施設は、背後にそびえる釜臥山から切り出された安山岩を用いた重力アーチ式石造堰堤で、有効貯水容量5,000 tと比較的小規模な施設である。アーチ式で整備された経緯については、水圧をアーチで受け、軸力を両端基部に支持させることによって堤体厚を薄くすることができるというアーチ式ダムの工学的理由よりは、アーチによって構造景観を整えたものと考えられている。堤長中央に設けられた六角形の洋風上屋や、溢流口の曲線意匠(アーチ)も含め、美しい景観をなしている。設計は、当時横須賀鎮守府経理部建築科長だった桜井小太郎が手がけ、同建築科により施工されている。なお堰堤本体は1909年(明治42年)5月に竣工しているが、附属施設を含めた水源地施設全体としての竣工は翌1910年(明治43年)3月となっている。
当施設は海軍専用水道として使用されていたが、第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)より大湊町が町内の水道施設として国より無償貸付を受けて使用を開始した。その後1963年(昭和38年)8月にこれら水道施設が無償譲与を受け、第一水源地として使用されてきた。しかし、昭和40年代になると施設の老朽化が進んでいたことから1974年(昭和49年)までに代替の水源が整備された結果、1976年(昭和51年)3月末で水道施設としての役目を終えた。同所は、竣工当時から海軍の手によると思われる桜が周辺施設も含めて数千株植樹されていたようで、1935年(昭和10年)発行の「大湊町誌」(笹沢魯羊著)によれば、「1918年(大正7年)5月5日、要港部水源池の桜が満開で一般に開放されて参観させた」とあり、海軍施設時代から桜の名所として地域に知られていたことから、市では1978年(昭和53年)より都市公園整備事業に着手したが、この事業により沈澄池の一部埋め立てや施設の大幅な改変が行われることになった。これに対して文化財保存に見識のある方々からの声の高まりや、それを踏まえて「旧大湊第一水源池堰堤及び附属施設緊急調査」が行われた。その結果、沈澄池堰堤を中核とした水道施設は、全国に誇りうる明治期の文化遺産として、その造形の美しさと極めて高い技術水準を持った石造建造物は日本水道史上貴重な産業遺産であり、保存すべきとの報告が取りまとめられ、結果的に一部附属施設の撤去はあったものの、ほぼ往時の形を残したうえでむつ市水源池公園の景勝地として保存・一般公開されている。
なお、アーチ式ダムの設計概念に基づく施設といえるかどうかは別として、日本国内最初期に属するアーチ式堰堤である。また、貯水池の側壁・底面も全て石張りで仕上げられており、全国的に珍しい施設となっている。重要文化財「旧大湊水源地水道施設」の一つとして、周辺施設と共に指定されている。
施設概要
設計 - 桜井小太郎
竣工 – 1910年(明治43年)
構造・規模 – 石造アーチ式、堤高7.865 m、堤長26.45 m
所在地 - 〒035-0092 青森県むつ市宇田町368(むつ市水源池公園内)
備考 –2009年(平成21年)12月8日 国の重要文化財に指定
1985年(昭和60年)5月 近代水道百選に選定
2001年(平成13年) 土木学会選奨土木遺産に認定
交通アクセス
大湊線 大湊駅からバスで10分、海上自衛隊前停留所下車、さらに徒歩10分。
概要
1908年(明治41年)に起工された当施設は、背後にそびえる釜臥山から切り出された安山岩を用いた重力アーチ式石造堰堤で、有効貯水容量5,000 tと比較的小規模な施設である。アーチ式で整備された経緯については、水圧をアーチで受け、軸力を両端基部に支持させることによって堤体厚を薄くすることができるというアーチ式ダムの工学的理由よりは、アーチによって構造景観を整えたものと考えられている。堤長中央に設けられた六角形の洋風上屋や、溢流口の曲線意匠(アーチ)も含め、美しい景観をなしている。設計は、当時横須賀鎮守府経理部建築科長だった桜井小太郎が手がけ、同建築科により施工されている。なお堰堤本体は1909年(明治42年)5月に竣工しているが、附属施設を含めた水源地施設全体としての竣工は翌1910年(明治43年)3月となっている。
当施設は海軍専用水道として使用されていたが、第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)より大湊町が町内の水道施設として国より無償貸付を受けて使用を開始した。その後1963年(昭和38年)8月にこれら水道施設が無償譲与を受け、第一水源地として使用されてきた。しかし、昭和40年代になると施設の老朽化が進んでいたことから1974年(昭和49年)までに代替の水源が整備された結果、1976年(昭和51年)3月末で水道施設としての役目を終えた。同所は、竣工当時から海軍の手によると思われる桜が周辺施設も含めて数千株植樹されていたようで、1935年(昭和10年)発行の「大湊町誌」(笹沢魯羊著)によれば、「1918年(大正7年)5月5日、要港部水源池の桜が満開で一般に開放されて参観させた」とあり、海軍施設時代から桜の名所として地域に知られていたことから、市では1978年(昭和53年)より都市公園整備事業に着手したが、この事業により沈澄池の一部埋め立てや施設の大幅な改変が行われることになった。これに対して文化財保存に見識のある方々からの声の高まりや、それを踏まえて「旧大湊第一水源池堰堤及び附属施設緊急調査」が行われた。その結果、沈澄池堰堤を中核とした水道施設は、全国に誇りうる明治期の文化遺産として、その造形の美しさと極めて高い技術水準を持った石造建造物は日本水道史上貴重な産業遺産であり、保存すべきとの報告が取りまとめられ、結果的に一部附属施設の撤去はあったものの、ほぼ往時の形を残したうえでむつ市水源池公園の景勝地として保存・一般公開されている。
なお、アーチ式ダムの設計概念に基づく施設といえるかどうかは別として、日本国内最初期に属するアーチ式堰堤である。また、貯水池の側壁・底面も全て石張りで仕上げられており、全国的に珍しい施設となっている。重要文化財「旧大湊水源地水道施設」の一つとして、周辺施設と共に指定されている。
施設概要
設計 - 桜井小太郎
竣工 – 1910年(明治43年)
構造・規模 – 石造アーチ式、堤高7.865 m、堤長26.45 m
所在地 - 〒035-0092 青森県むつ市宇田町368(むつ市水源池公園内)
備考 –2009年(平成21年)12月8日 国の重要文化財に指定
1985年(昭和60年)5月 近代水道百選に選定
2001年(平成13年) 土木学会選奨土木遺産に認定
交通アクセス
大湊線 大湊駅からバスで10分、海上自衛隊前停留所下車、さらに徒歩10分。