深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町にある仏教寺院。天台宗別格本山で、山号は浮岳山。
日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」で知られている[4]。隣接する東京都立神代植物公園は旧寺領であった。
調布市 深大寺
沿革
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の733年(天平5年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。東京都では浅草の浅草寺(縁起によれば628年開基)に次ぐ古刹である。
平安時代の859年、天台宗へ改宗する。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建である。
本尊は本堂に安置されている宝冠阿弥陀如来像。他に、元三大師(がんざんだいし)像を秘仏として祀る。
文化財
国宝
銅造釈迦如来倚像
1909年(明治42年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂に安置。飛鳥時代後期(白鳳時代)、7世紀の作。像高(坐高)60.6センチメートル、全高83.5センチメートル。関東地方には数少ない古代の仏像であり、童顔の面相、眉から鼻に連なる線、平行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは、時代の特色を表している。下腿部の互い違いに表された衣文、両足間の三角状の衣文、裳裾部分の衣文の処理などはいずれも法隆寺の銅造観音菩薩立像(通称夢違観音)と共通する。像内は頭部内面まで空洞である。像は火災に遭っており、表面の鍍金はほとんど失われている。倚像(いぞう)は、椅子に腰掛けたポーズの像を指す。日本の仏像では倚像は比較的珍しいが、7 - 8世紀の金銅仏には作例を見る。
本像は2017年9月15日付けで国宝に指定された。
銅造釈迦如来倚像(国宝)
山門
水と深大寺
深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内に複数の湧水源を持つ。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」に選定されている[10]。 門前町の側溝には多量の水が流れ、また周囲には神代植物公園の分園・水生植物園やわさび田を擁する都立農業高校神代農場など、谷戸地形と潤沢な水を利用した施設が広がっている。
崖線から湧き出す豊富な水は古くから田畑を潤し、人びとの素朴な信仰を集めてきた。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかという。
「深大寺そば」が付近の名物として発達したのも水の恵みと無関係ではない。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われてきた。
アクセス
IN 京王井の頭線 JC JR中央線快速 JB JR中央・総武線吉祥寺駅南口から、小田急バス 吉04 深大寺行き
JC JR中央線快速 JB JR中央・総武線三鷹駅南口から、小田急バス 鷹65 深大寺行き
KO 京王線調布駅北口から、京王バス 調34 深大寺行き
KO 京王線つつじヶ丘駅北口から、京王バス 丘21 深大寺行き
KO 京王線布田駅北口徒歩約3分(甲州街道沿い)の布田バス停から、京王バス 調34 深大寺行き
KO 京王線布田駅北口徒歩約3分(甲州街道沿い)の布田バス停から、吉14吉祥寺駅行き 鷹66三鷹駅行き 調35杏林大学病院行き (いずれも京王バス/小田急バス共同運行) 深大寺小学校下車徒歩3分
所在地 東京都調布市深大寺元町五丁目15番地1
位置 北緯35度40分3.09秒 東経139度33分1.7秒
山号 浮岳山
院号 昌楽院
宗派 天台宗
寺格 別格本山
本尊 宝冠阿弥陀如来像
創建年 天平5年(733年)
開基 満功上人
正式名 浮岳山 昌楽院 深大寺
札所等 多摩川三十四ヶ所観音霊場客番
調布七福神(毘沙門天)
文化財 銅造釈迦如来倚像(国宝)
梵鐘(重要文化財)
2023年04月25日
2023年04月24日
石堂寺(いしどうじ)は、千葉県南房総市石堂にある、天台宗の寺院
石堂寺(いしどうじ)は、千葉県南房総市石堂にある、天台宗の寺院。山号は長安山。院号は東光院。本尊は十一面観世音菩薩。
概要
伝承では726年(神亀3年)行基の開創という。また708年(和銅元年)奈良の僧・恵命と東照が創建し、851年〜854年(仁寿年間)円仁(慈覚大師)が再興したともいうが、これらはどこまで史実を伝えるものかは定かでない。
当初は「石塔寺」と称し、近江国(滋賀県)の阿育王山石塔寺と上野国(群馬県)の白雲山石塔寺(妙義大権現境内)とともに日本三塔寺に数えられたという。1487年(文永19年)の火災で全焼するが、当地を支配していた丸氏の援助で、1522年(大永2年)までに再興された(火災は1486年(文永18年)ともいう)。室町時代末期、当寺で養育された足利頼氏の幼名石堂丸にちなみ、「石塔寺」を「石堂寺」に改めたという。
文化財
重要文化財(国指定)
石堂寺 2棟
本堂(附 厨子、棟札、庫裏) - 1513年(永正10年)頃建立。寄棟造妻入り、銅板葺き。大正5年(1916年)05月24日指定。
多宝塔(附 棟札、古材36点) - 寺に伝わる文書には天文14年(1545年)建立とあり、塔の相輪(仏塔の屋上にある棒状の部分)には天文17年(1548年)の銘がある(文化庁では後者を建立年としている)。平成4年(1992年)08月10日指定。
石堂寺薬師堂(附 棟札)
本堂東側の一段高い場所に建つ。1575年(天正3年)建立。寄棟造茅葺き。石堂寺の北方の南房総市(旧丸山町)石堂原から1971年移築したもの。昭和43年(1968年)04月25日指定。
木造十一面観音立像 - 平安時代の作品。大正5年(1916年)08月17日指定。
交通アクセス
館山日東バス石堂寺前バス停下車。
所在地 千葉県南房総市石堂302番地
位置 北緯35度03分05.8秒 東経139度57分29.1秒
山号 長安山
院号 東光院
宗派 天台宗
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 伝・726年(神亀3年)
開山 伝・行基
正式名 長安山東光院石堂寺
別称 石堂観音
札所等 安房国札三十四観音霊場20番
東国花の寺百ヶ寺千葉14番
文化財 多宝塔(重要文化財)ほか
概要
伝承では726年(神亀3年)行基の開創という。また708年(和銅元年)奈良の僧・恵命と東照が創建し、851年〜854年(仁寿年間)円仁(慈覚大師)が再興したともいうが、これらはどこまで史実を伝えるものかは定かでない。
当初は「石塔寺」と称し、近江国(滋賀県)の阿育王山石塔寺と上野国(群馬県)の白雲山石塔寺(妙義大権現境内)とともに日本三塔寺に数えられたという。1487年(文永19年)の火災で全焼するが、当地を支配していた丸氏の援助で、1522年(大永2年)までに再興された(火災は1486年(文永18年)ともいう)。室町時代末期、当寺で養育された足利頼氏の幼名石堂丸にちなみ、「石塔寺」を「石堂寺」に改めたという。
文化財
重要文化財(国指定)
石堂寺 2棟
本堂(附 厨子、棟札、庫裏) - 1513年(永正10年)頃建立。寄棟造妻入り、銅板葺き。大正5年(1916年)05月24日指定。
多宝塔(附 棟札、古材36点) - 寺に伝わる文書には天文14年(1545年)建立とあり、塔の相輪(仏塔の屋上にある棒状の部分)には天文17年(1548年)の銘がある(文化庁では後者を建立年としている)。平成4年(1992年)08月10日指定。
石堂寺薬師堂(附 棟札)
本堂東側の一段高い場所に建つ。1575年(天正3年)建立。寄棟造茅葺き。石堂寺の北方の南房総市(旧丸山町)石堂原から1971年移築したもの。昭和43年(1968年)04月25日指定。
木造十一面観音立像 - 平安時代の作品。大正5年(1916年)08月17日指定。
交通アクセス
館山日東バス石堂寺前バス停下車。
所在地 千葉県南房総市石堂302番地
位置 北緯35度03分05.8秒 東経139度57分29.1秒
山号 長安山
院号 東光院
宗派 天台宗
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 伝・726年(神亀3年)
開山 伝・行基
正式名 長安山東光院石堂寺
別称 石堂観音
札所等 安房国札三十四観音霊場20番
東国花の寺百ヶ寺千葉14番
文化財 多宝塔(重要文化財)ほか
2023年04月23日
出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)は、島根県出雲市にある日御碕の突端に立つ灯台
出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)は、島根県出雲市にある日御碕の突端に立つ灯台である。国の重要文化財に指定されている。
日御碕燈台, 島根県出雲市
概要
石造灯台としては日本一の灯塔の高さである。周辺は、大山隠岐国立公園の一部となっている景勝地。出雲日御碕サカグリ照射灯(航路標識番号 0822)が併設されている。
世界灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で、歴史的文化財的価値が高いため、Aランクの保存灯台となっている。また、全国に5箇所[1]しかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台でもある。
煉瓦と石造りの構造
歴史
1900年(明治33年)に着工される。
1903年(明治36年)4月1日に初点灯したが、建設当初から日本一の灯塔の高さを誇る大型の石造洋式灯台である。日本人の設計・施工によるもので、同県八束郡森山産の凝灰質砂岩を用い、柱状節理石英角斑岩の基盤の上に建ち、100余年の風雪に耐えてきた。
1918年(大正7年)2月4日、1,500W白熱電灯が使用される。
1993年(平成5年)から翌年にかけて、耐震補強にあわせた保全が行われた。
1998年(平成10年)、世界灯台100選に選ばれる。
2022年(令和4年)2月9日、国の重要文化財に指定。
一般公開
一般公開(中学生以上300円、小人無料)されている参観灯台で、上まで登ることができる。日本海を一望の下にすることが出来る。
内部階段
頂上部
航路標識番号
[国際標識番号] 0821 [M7334]
位置 北緯35度26分02秒 東経132度37分45秒
所在地 島根県出雲市
大社町日御碕秋台原山1478
塗色・構造 白色 塔形 石造
レンズ 第1等フレネル式
灯質 群閃紅白互光
毎20秒に白2閃、紅1閃
実効光度 480,000 cd
光達距離 21海里(約39km)
明弧 24度 - 245度
塔高 43.65 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 63.30 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1903年(明治36年)4月1日
管轄 海上保安庁
第八管区海上保安本部(境海上保安部)
日御碕燈台, 島根県出雲市
概要
石造灯台としては日本一の灯塔の高さである。周辺は、大山隠岐国立公園の一部となっている景勝地。出雲日御碕サカグリ照射灯(航路標識番号 0822)が併設されている。
世界灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で、歴史的文化財的価値が高いため、Aランクの保存灯台となっている。また、全国に5箇所[1]しかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台でもある。
煉瓦と石造りの構造
歴史
1900年(明治33年)に着工される。
1903年(明治36年)4月1日に初点灯したが、建設当初から日本一の灯塔の高さを誇る大型の石造洋式灯台である。日本人の設計・施工によるもので、同県八束郡森山産の凝灰質砂岩を用い、柱状節理石英角斑岩の基盤の上に建ち、100余年の風雪に耐えてきた。
1918年(大正7年)2月4日、1,500W白熱電灯が使用される。
1993年(平成5年)から翌年にかけて、耐震補強にあわせた保全が行われた。
1998年(平成10年)、世界灯台100選に選ばれる。
2022年(令和4年)2月9日、国の重要文化財に指定。
一般公開
一般公開(中学生以上300円、小人無料)されている参観灯台で、上まで登ることができる。日本海を一望の下にすることが出来る。
内部階段
頂上部
航路標識番号
[国際標識番号] 0821 [M7334]
位置 北緯35度26分02秒 東経132度37分45秒
所在地 島根県出雲市
大社町日御碕秋台原山1478
塗色・構造 白色 塔形 石造
レンズ 第1等フレネル式
灯質 群閃紅白互光
毎20秒に白2閃、紅1閃
実効光度 480,000 cd
光達距離 21海里(約39km)
明弧 24度 - 245度
塔高 43.65 m (地上 - 塔頂)
灯火標高 63.30 m (平均海面 - 灯火)
初点灯 1903年(明治36年)4月1日
管轄 海上保安庁
第八管区海上保安本部(境海上保安部)
2023年04月22日
海神神社(わたつみじんじゃ、通称、かいじんじんじゃ)は、長崎県対馬市峰町木坂にある神社
海神神社(わたつみじんじゃ、通称、かいじんじんじゃ)は、長崎県対馬市峰町木坂にある神社。式内社(名神大社)論社、対馬国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
式内名神大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である(いずれも複数の論社がある)。
祭神
主祭神
豊玉姫命
配祀神
彦火火出見命
宗像神
道主貴神
鵜茅草葺不合命
江戸時代までは八幡神を祀っていた。
歴史
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。
中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。
明治3年(1870年)、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社に改称した。翌明治4年5月、国幣中社に列格する際に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、同年6月に現在の海神神社に改称した。
境内
弥勒堂 - 廃絶。神宮寺であったと思われる。
社殿は1921年に建造されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅造如来立像 - 統一新羅時代の作。
仏像盗難問題
2012年10月6日から8日の間に盗難に遭った(対馬仏像盗難事件)。当神社の「銅造如来立像」と観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」の窃盗犯は韓国人グループで、韓国に持ち込んで売り捌こうとしたところを警察に拘束された。釜山港での通関過程で文化財鑑定委員が「100年未満の模造骨董品」と誤って鑑定し、韓国国内への搬入を許していた。
日本政府が返還を求めていたのに対し、観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」の所有を主張している韓国の浮石寺や仏教界が「(両仏像とも)倭寇に略奪された」などと訴え、大田地裁が当面返還を差し止める仮処分を出したため長らく返還には至らなかったが、2015年7月15日に銅造如来立像について韓国検察が、海神神社を「正当な権利者」と認定して仏像の返還を決定。同18日に約3年ぶりに非公開(安全な移送を優先したため)で返還された。なお、返還された仏像は指先が欠損していたが、これは盗難時に受けた何らかの衝撃が原因とみられている。
菅義偉官房長官は会見で、返還を「当然のこと」とし、「もう1体(観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」)も返還を強く求めていきたい」と語った。
現地情報
所在地
長崎県対馬市峰町木坂247
位置 北緯34度27分51.3秒 東経129度17分00.0秒
主祭神 豊玉姫命
社格等 式内社(名神大)論社
対馬国一宮
旧国幣中社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 旧暦8月1日
主な神事 浜殿放生祭
式内名神大社の「和多都美神社」、同「和多都美御子神社」、式内国幣小社の「胡禄神社」、同「胡禄御子神社」の論社である(いずれも複数の論社がある)。
祭神
主祭神
豊玉姫命
配祀神
彦火火出見命
宗像神
道主貴神
鵜茅草葺不合命
江戸時代までは八幡神を祀っていた。
歴史
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。
中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。
明治3年(1870年)、『延喜式神名帳』に見える和多都美神社に改称した。翌明治4年5月、国幣中社に列格する際に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、同年6月に現在の海神神社に改称した。
境内
弥勒堂 - 廃絶。神宮寺であったと思われる。
社殿は1921年に建造されている。
文化財
重要文化財(国指定)
銅造如来立像 - 統一新羅時代の作。
仏像盗難問題
2012年10月6日から8日の間に盗難に遭った(対馬仏像盗難事件)。当神社の「銅造如来立像」と観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」の窃盗犯は韓国人グループで、韓国に持ち込んで売り捌こうとしたところを警察に拘束された。釜山港での通関過程で文化財鑑定委員が「100年未満の模造骨董品」と誤って鑑定し、韓国国内への搬入を許していた。
日本政府が返還を求めていたのに対し、観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」の所有を主張している韓国の浮石寺や仏教界が「(両仏像とも)倭寇に略奪された」などと訴え、大田地裁が当面返還を差し止める仮処分を出したため長らく返還には至らなかったが、2015年7月15日に銅造如来立像について韓国検察が、海神神社を「正当な権利者」と認定して仏像の返還を決定。同18日に約3年ぶりに非公開(安全な移送を優先したため)で返還された。なお、返還された仏像は指先が欠損していたが、これは盗難時に受けた何らかの衝撃が原因とみられている。
菅義偉官房長官は会見で、返還を「当然のこと」とし、「もう1体(観音寺の「金銅観世音菩薩坐像」)も返還を強く求めていきたい」と語った。
現地情報
所在地
長崎県対馬市峰町木坂247
位置 北緯34度27分51.3秒 東経129度17分00.0秒
主祭神 豊玉姫命
社格等 式内社(名神大)論社
対馬国一宮
旧国幣中社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 旧暦8月1日
主な神事 浜殿放生祭
2023年04月21日
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
拝殿(国宝)
社名
別名として、
石上振神宮
石上坐布都御魂神社
石上布都御魂神社
石上布都大神社
石上神社
石上社
布留社
岩上大明神
布留大明神
などがある。幕末 - 明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた。
なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
大鳥居
祭神
主祭神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。
配神
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命(いにしきのみこと)
白河天皇
市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。
歴史
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。
垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦23年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(868年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し容易には開かないと記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となり、当社の神宮寺である内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院)と共に栄えた。しかし、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発し、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に押され、多くの神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えなかった。
江戸時代には「西の日光」と呼ばれた内山永久寺が明治時代になって廃寺とされるも、当社は1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治7年)の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年(明治11年)の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年(大正2年)には本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
翌、1914年(大正3年)には旧内山永久寺の地に残されていた住吉神社の拝殿を移築し、摂社・出雲建雄神社の拝殿としている。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
楼門(重要文化財)
境内
本殿 - 1913年(大正2年)建立。
拝殿(国宝) - 入母屋造、檜皮葺。白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄進したとの伝承があるが、実際の建立年代は鎌倉時代初期とみられる。仏堂風の外観をもち、貫(柱を貫通する水平材)を多用するなど、大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。
廻廊
楼門(重要文化財) - 鎌倉時代後期、文保2年(1318年)の造営。正面に掲げられている額「萬古猶新」は山縣有朋の筆。
長生殿
神庫
鏡池
神饌所
社務所
参集殿
儀式殿
鶏 - 七十二候にちなんで東天紅鶏・烏骨鶏など約30羽が境内に放し飼いされている。
現地情報
所在地
奈良県天理市布留町384
交通アクセス
天理駅(近鉄・JR)から
徒歩:約30分
バス:奈良交通バス 苣原(ちしゃわら)経由 国道針行きまたは針インター行きで「石上神宮前」バス停下車 (下車後徒歩5分) - 1日3〜4往復の運行。
所在地 奈良県天理市布留町384
位置 北緯34度35分52秒 東経135度51分7秒
主祭神 布都御魂大神
神体 布都御魂剣
社格等 式内社(名神大)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社
創建 伝・崇神天皇7年
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第19番(奈良第6番)
例祭 10月15日
拝殿(国宝)
社名
別名として、
石上振神宮
石上坐布都御魂神社
石上布都御魂神社
石上布都大神社
石上神社
石上社
布留社
岩上大明神
布留大明神
などがある。幕末 - 明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた。
なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
大鳥居
祭神
主祭神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。
配神
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命(いにしきのみこと)
白河天皇
市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。
歴史
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。
垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦23年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(868年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し容易には開かないと記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となり、当社の神宮寺である内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院)と共に栄えた。しかし、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発し、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に押され、多くの神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えなかった。
江戸時代には「西の日光」と呼ばれた内山永久寺が明治時代になって廃寺とされるも、当社は1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治7年)の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年(明治11年)の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年(大正2年)には本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
翌、1914年(大正3年)には旧内山永久寺の地に残されていた住吉神社の拝殿を移築し、摂社・出雲建雄神社の拝殿としている。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
楼門(重要文化財)
境内
本殿 - 1913年(大正2年)建立。
拝殿(国宝) - 入母屋造、檜皮葺。白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄進したとの伝承があるが、実際の建立年代は鎌倉時代初期とみられる。仏堂風の外観をもち、貫(柱を貫通する水平材)を多用するなど、大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる。
廻廊
楼門(重要文化財) - 鎌倉時代後期、文保2年(1318年)の造営。正面に掲げられている額「萬古猶新」は山縣有朋の筆。
長生殿
神庫
鏡池
神饌所
社務所
参集殿
儀式殿
鶏 - 七十二候にちなんで東天紅鶏・烏骨鶏など約30羽が境内に放し飼いされている。
現地情報
所在地
奈良県天理市布留町384
交通アクセス
天理駅(近鉄・JR)から
徒歩:約30分
バス:奈良交通バス 苣原(ちしゃわら)経由 国道針行きまたは針インター行きで「石上神宮前」バス停下車 (下車後徒歩5分) - 1日3〜4往復の運行。
所在地 奈良県天理市布留町384
位置 北緯34度35分52秒 東経135度51分7秒
主祭神 布都御魂大神
神体 布都御魂剣
社格等 式内社(名神大)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社
創建 伝・崇神天皇7年
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道第19番(奈良第6番)
例祭 10月15日
2023年04月20日
天城トンネル(あまぎトンネル)は、天城峠の下で、静岡県伊豆市と、同県賀茂郡河津町を結ぶトンネル
天城トンネル(あまぎトンネル)は、天城峠の下で、静岡県伊豆市と、同県賀茂郡河津町を結ぶトンネル。天城山隧道(あまぎさんずいどう)、新天城トンネル(しんあまぎトンネル)の2つがあります。
天城山隧道(旧天城トンネル)
天城山隧道
Old Amagi tunnel Izu city side entrance,Izu city,Japan.jpg
伊豆市側坑口(2019年12月)
概要
位置 静岡県
座標 北緯34度49分51秒 東経138度56分5.2秒
現況 供用中、重要文化財
所属路線名 国道414号
起点 静岡県賀茂郡河津町梨本
終点 静岡県伊豆市湯ヶ島字桐山
運用
建設開始 1900年(明治33年)
開通 1905年(明治38年)
所有 静岡県
通行対象 自動車等
通行料金 無料
技術情報
全長 445.5m
高さ 4.2m(有効高:3.5m)
幅 4.1m(車道:3.5m)
天城山隧道(あまぎさんずいどう)は、天城峠の下で、静岡県伊豆市と、同県賀茂郡河津町を結ぶ国道414号のトンネル。川端康成の小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』で有名なこのトンネルは、1905年(明治38年)に完成した。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造された日本初の石造道路トンネルであり、日本に現存する最長の石造道路トンネルでもある。総工費10万3,016円[1]。
1916年(大正5年)には、バス運行が開始されて人・物の交流が盛んになった。
天城山隧道は1998年(平成10年)9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録された。2001年(平成13年)6月15日には「天城山隧道」の名称で道路トンネルとしては初めて国の重要文化財(建造物)に指定された。なお、当該指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消されている。この時期に観光スポットとしての整備として従来舗装されていたアプローチ部分の舗装が剥がされた。また、日本の道100選にも選ばれている。1970年(昭和45年)天城山隧道の西側に開通した新天城トンネルの完成によって、現在は森の中に静かなたたずまいを見せている。現本線の新天城トンネルと区別するため、「旧天城トンネル」とも呼ばれる。
新天城トンネル
新天城トンネル
概要
位置 静岡県
現況 供用中
所属路線名 国道414号
運用
所有 静岡県
通行対象 自動車等
通行料金 無料
技術情報
全長 800.0m
新天城トンネル(しんあまぎトンネル)は、天城山隧道の西側に並行して造られた国道414号のトンネル。1970年に竣工、延長800 m。当初は天城トンネル有料道路として有料であったが、2000年3月18日より無料開放となった。
天城山隧道(旧天城トンネル)
天城山隧道
Old Amagi tunnel Izu city side entrance,Izu city,Japan.jpg
伊豆市側坑口(2019年12月)
概要
位置 静岡県
座標 北緯34度49分51秒 東経138度56分5.2秒
現況 供用中、重要文化財
所属路線名 国道414号
起点 静岡県賀茂郡河津町梨本
終点 静岡県伊豆市湯ヶ島字桐山
運用
建設開始 1900年(明治33年)
開通 1905年(明治38年)
所有 静岡県
通行対象 自動車等
通行料金 無料
技術情報
全長 445.5m
高さ 4.2m(有効高:3.5m)
幅 4.1m(車道:3.5m)
天城山隧道(あまぎさんずいどう)は、天城峠の下で、静岡県伊豆市と、同県賀茂郡河津町を結ぶ国道414号のトンネル。川端康成の小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』で有名なこのトンネルは、1905年(明治38年)に完成した。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造された日本初の石造道路トンネルであり、日本に現存する最長の石造道路トンネルでもある。総工費10万3,016円[1]。
1916年(大正5年)には、バス運行が開始されて人・物の交流が盛んになった。
天城山隧道は1998年(平成10年)9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録された。2001年(平成13年)6月15日には「天城山隧道」の名称で道路トンネルとしては初めて国の重要文化財(建造物)に指定された。なお、当該指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消されている。この時期に観光スポットとしての整備として従来舗装されていたアプローチ部分の舗装が剥がされた。また、日本の道100選にも選ばれている。1970年(昭和45年)天城山隧道の西側に開通した新天城トンネルの完成によって、現在は森の中に静かなたたずまいを見せている。現本線の新天城トンネルと区別するため、「旧天城トンネル」とも呼ばれる。
新天城トンネル
新天城トンネル
概要
位置 静岡県
現況 供用中
所属路線名 国道414号
運用
所有 静岡県
通行対象 自動車等
通行料金 無料
技術情報
全長 800.0m
新天城トンネル(しんあまぎトンネル)は、天城山隧道の西側に並行して造られた国道414号のトンネル。1970年に竣工、延長800 m。当初は天城トンネル有料道路として有料であったが、2000年3月18日より無料開放となった。
2023年04月19日
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観− 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
札所本尊真言(如意輪観音):おん ばだら はんどめい うん
ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
三井寺(園城寺)金堂は日本の国宝
歴史
当寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。
文化財
三井寺の秘仏
黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。
・「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」(1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催)および「智証大師一千百年御遠忌大法会」(1990年10月から11月に寺内で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
・「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」(2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
・「天台寺門宗宗祖智証大師生誕1200年慶讃大法会」(2014年10月から11月に寺内で開催) - 大師堂で智証大師像2躯と木造黄不動像、観音堂で如意輪観音像を開扉。
・「ご即位記念 秘仏御開帳」(2020年3月から6月まで寺内で開催)- 徳仁の第126代天皇即位を記念して、観音堂で如意輪観音像を開扉。
なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。
国宝
・金堂 附:厨子 1基
・新羅善神堂 附:須弥壇及び厨子 1具
・勧学院客殿
・光浄院客殿
・絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
・木造智証大師坐像(中尊大師) - 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったといわれ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に園城寺に移されたものといわれている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に園城寺で新たに造像されたとの見方もある。「三井寺の秘仏」の節で紹介した行事等で公開されたほか、1986年(昭和61年)に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
・木造智証大師坐像(御骨大師) - 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左の厨子内に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
・木造新羅明神坐像 - 新羅善神堂に安置。非公開。円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされる。長いあごひげを蓄え、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など極めて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。「三井寺の秘仏」の節で紹介した展覧会で公開されたほか、1986年(昭和61年)に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
・五部心観2巻 - 両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表した白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表した絵画のこと)。2巻のうち1巻は完本で唐時代に制作され、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻の残欠本は11世紀平安時代に日本で写されたものである。ただ、最近では残欠本の方を請来本とする意見もある。
・智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託(文書典籍の明細は別記)。
智証大師像(中尊大師)。平安時代の作。
木造新羅明神坐像(国宝、園城寺所蔵)
交通
京阪石山坂本線 三井寺駅より徒歩10分または大津市役所前駅より徒歩12分
西日本旅客鉄道(JR西日本)琵琶湖線(東海道本線)大津駅より京阪バス三井寺バス停下車0分
湖西線(JR西日本)大津京駅より京阪バス三井寺バス停下車0分
所在地 滋賀県大津市園城寺町246
位置 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒
山号 長等山(ながらさん)
宗派 天台寺門宗
寺格 総本山
本尊 弥勒菩薩
創建年 7世紀
開基 大友与多王
中興年 貞観元年(859年)
中興 智証大師円珍
正式名 長等山 園城寺
別称 三井寺
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観− 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
札所本尊真言(如意輪観音):おん ばだら はんどめい うん
ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
三井寺(園城寺)金堂は日本の国宝
歴史
当寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。
文化財
三井寺の秘仏
黄不動像(絹本著色不動明王像、国宝)をはじめ、三井寺の仏像には平素公開されない秘仏が多い。唐院大師堂の木造智証大師像2躯(中尊大師・御骨大師、ともに国宝)、唐院大師堂の木造黄不動立像(重要文化財)、新羅善神堂の木造新羅明神坐像(国宝)、観音堂の木造如意輪観音坐像(重要文化財)、護法善神堂の木造護法善神立像(重要文化財)などはいずれも秘仏である。これら秘仏は下記の行事等の機会に公開されたことがある。
・「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」(1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催)および「智証大師一千百年御遠忌大法会」(1990年10月から11月に寺内で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
・「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」(2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催) - 上記秘仏のすべてが公開。
・「天台寺門宗宗祖智証大師生誕1200年慶讃大法会」(2014年10月から11月に寺内で開催) - 大師堂で智証大師像2躯と木造黄不動像、観音堂で如意輪観音像を開扉。
・「ご即位記念 秘仏御開帳」(2020年3月から6月まで寺内で開催)- 徳仁の第126代天皇即位を記念して、観音堂で如意輪観音像を開扉。
なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく、写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明である。
国宝
・金堂 附:厨子 1基
・新羅善神堂 附:須弥壇及び厨子 1具
・勧学院客殿
・光浄院客殿
・絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
・木造智証大師坐像(中尊大師) - 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像はもと比叡山内の山王院(千手院)にあったといわれ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に園城寺に移されたものといわれている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に園城寺で新たに造像されたとの見方もある。「三井寺の秘仏」の節で紹介した行事等で公開されたほか、1986年(昭和61年)に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
・木造智証大師坐像(御骨大師) - 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左の厨子内に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
・木造新羅明神坐像 - 新羅善神堂に安置。非公開。円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされる。長いあごひげを蓄え、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など極めて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。「三井寺の秘仏」の節で紹介した展覧会で公開されたほか、1986年(昭和61年)に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
・五部心観2巻 - 両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表した白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない、均質な墨の線だけで表した絵画のこと)。2巻のうち1巻は完本で唐時代に制作され、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻の残欠本は11世紀平安時代に日本で写されたものである。ただ、最近では残欠本の方を請来本とする意見もある。
・智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託(文書典籍の明細は別記)。
智証大師像(中尊大師)。平安時代の作。
木造新羅明神坐像(国宝、園城寺所蔵)
交通
京阪石山坂本線 三井寺駅より徒歩10分または大津市役所前駅より徒歩12分
西日本旅客鉄道(JR西日本)琵琶湖線(東海道本線)大津駅より京阪バス三井寺バス停下車0分
湖西線(JR西日本)大津京駅より京阪バス三井寺バス停下車0分
所在地 滋賀県大津市園城寺町246
位置 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒
山号 長等山(ながらさん)
宗派 天台寺門宗
寺格 総本山
本尊 弥勒菩薩
創建年 7世紀
開基 大友与多王
中興年 貞観元年(859年)
中興 智証大師円珍
正式名 長等山 園城寺
別称 三井寺
2023年04月18日
大興善寺(だいこうぜんじ)は、佐賀県三養基郡基山町大字園部に所在する天台宗の寺院
大興善寺(だいこうぜんじ)は、佐賀県三養基郡基山町大字園部に所在する天台宗の寺院である。別格本山。山号は小松山。
歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基により創建された。平安時代に円仁(慈覚大師)により中興されたとの伝承がある。享禄年間の兵火(1530年ころ)によって堂塔は焼失したが、天文11年(1542年)に当地を領した筑紫惟門が本堂を再建、江戸時代に入り基山が対馬藩領となると領主の宗氏により堂宇の整備がなされ、寺領を寄進した。
本尊
本尊は行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩。秘仏となっており、12年に1度の午(うま)年にのみ開扉される。直近では2014年の春に開扉された。九州三十三観音霊場第4番札所及び九州四十九院薬師霊場第49番札所である。
その他の仏像
重要文化財
木造広目天立像・多聞天立像 2躯
本堂内に、元太宰府天満宮の本地仏であった十一面観音座像、不動明王立像、毘沙門天立像が安置されている。これは明治初期の廃仏毀釈の際に大宰府から招来されたと伝えられている。
庭園
つつじ園内にある「一目一万本」のツツジ
大正年間より本堂の裏山を造成しヒラドツツジを中心に5万本が植栽されており「つつじ寺」の別称がある。春の開花時期には観光客で賑わう。またモミジも多く植えられており、紅葉の季節には夕方ライトアップされる。
アクセス
バス
JR九州・甘木鉄道基山駅よりきやまコミュニティバス園部線「小松」下車(所要時間約15分)。
ツツジ開花時期や紅葉の時期には基山駅より西鉄バスの臨時バスが運行される。
鳥栖筑紫野道路園部ICより車で4分。
所在地 佐賀県三養基郡基山町大字園部
山号 小松山
宗派 天台宗
本尊 木造十一面観音
創建年 養老元年(717年)
開基 行基
文化財 広目天立像(重文)、多聞天立像(重文)
歴史
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基により創建された。平安時代に円仁(慈覚大師)により中興されたとの伝承がある。享禄年間の兵火(1530年ころ)によって堂塔は焼失したが、天文11年(1542年)に当地を領した筑紫惟門が本堂を再建、江戸時代に入り基山が対馬藩領となると領主の宗氏により堂宇の整備がなされ、寺領を寄進した。
本尊
本尊は行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩。秘仏となっており、12年に1度の午(うま)年にのみ開扉される。直近では2014年の春に開扉された。九州三十三観音霊場第4番札所及び九州四十九院薬師霊場第49番札所である。
その他の仏像
重要文化財
木造広目天立像・多聞天立像 2躯
本堂内に、元太宰府天満宮の本地仏であった十一面観音座像、不動明王立像、毘沙門天立像が安置されている。これは明治初期の廃仏毀釈の際に大宰府から招来されたと伝えられている。
庭園
つつじ園内にある「一目一万本」のツツジ
大正年間より本堂の裏山を造成しヒラドツツジを中心に5万本が植栽されており「つつじ寺」の別称がある。春の開花時期には観光客で賑わう。またモミジも多く植えられており、紅葉の季節には夕方ライトアップされる。
アクセス
バス
JR九州・甘木鉄道基山駅よりきやまコミュニティバス園部線「小松」下車(所要時間約15分)。
ツツジ開花時期や紅葉の時期には基山駅より西鉄バスの臨時バスが運行される。
鳥栖筑紫野道路園部ICより車で4分。
所在地 佐賀県三養基郡基山町大字園部
山号 小松山
宗派 天台宗
本尊 木造十一面観音
創建年 養老元年(717年)
開基 行基
文化財 広目天立像(重文)、多聞天立像(重文)
2023年04月17日
小野家住宅(おのけじゅうたく)は、埼玉県所沢市にある古民家
2023年04月16日
安楽寺(あんらくじ)は高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院
安楽寺(あんらくじ)は高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。本尊は阿弥陀如来。
歴史
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。天正18年(1590年)の金剛福寺文書に「久万安楽寺」とあり、当時は久万に寺があったことがわかる。その後一時廃絶するが、江戸時代になって寛文年間(1661年-1673年)に弘法寺(現・高知市三谷の三谷寺)の栄俊大徳により再興され、このとき院号を金性院と改めた。明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に常宝により、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された。
再興したあとしばらくは、いずれも廃寺になった四国八十八箇所第30番札所の別当寺である神宮寺(再興されず)とその塔頭 善楽寺のかわりに第30番札所になり、善楽寺が再興されたあとは1993年まで双方がどちらも札所になっていた。1994年1月1日からは善楽寺を第30番札所、当寺を第30番札所奥の院と定め、第30番札所が2箇所存在する問題が解消された。また、かつては善楽寺の山号と同じ「百々山安楽寺」と称していた時期もあった。 その為、各所に見られる「ミニ四国八十八ヶ所」などでは、「百々山安楽寺」の表記の場合が多く見られる。
境内
仁王門
本堂:本尊前立を拝顔できる。堂内には「國寶奉安殿」の掲額がある。
大師堂:大師像を拝顔できる。
護摩堂
多宝塔
本坊
駐車場:境内に数台。無料。
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 当寺の本尊。ヒノキの寄木造、玉眼、漆箔、像高68.5cm、13世紀頃作、1911年(明治44年)4月17日指定
元は土佐一宮高鴨大明神の別当である神宮寺の本尊であり、土佐一宮の本地仏であったが、明治初年に神宮寺が廃寺の折、土佐国分寺に預けられていた阿弥陀如来である。
境内の旧跡
鱸礁遺跡
旧瑞応寺福泉院の墓域に板垣退助の先祖、乾正行夫妻ら乾家の墓がある。
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 - 高知駅 (1.1km)
道路
一般道:県道384号 洞ヶ島 (0.1km)
高速道路:高知自動車道 高知IC (4.4km)
所在地 高知県高知市洞ヶ島町5-3
位置 北緯33度34分0.38秒 東経133度31分59.12秒
山号 妙色山(百々山)
宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 (伝)延喜年間(901年-923年)
開基 菅原高視
正式名 妙色山(百々山) 金性院 安楽寺
札所等 四国八十八箇所第30番札所奥の院
文化財 木造阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)
歴史
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。天正18年(1590年)の金剛福寺文書に「久万安楽寺」とあり、当時は久万に寺があったことがわかる。その後一時廃絶するが、江戸時代になって寛文年間(1661年-1673年)に弘法寺(現・高知市三谷の三谷寺)の栄俊大徳により再興され、このとき院号を金性院と改めた。明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に常宝により、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された。
再興したあとしばらくは、いずれも廃寺になった四国八十八箇所第30番札所の別当寺である神宮寺(再興されず)とその塔頭 善楽寺のかわりに第30番札所になり、善楽寺が再興されたあとは1993年まで双方がどちらも札所になっていた。1994年1月1日からは善楽寺を第30番札所、当寺を第30番札所奥の院と定め、第30番札所が2箇所存在する問題が解消された。また、かつては善楽寺の山号と同じ「百々山安楽寺」と称していた時期もあった。 その為、各所に見られる「ミニ四国八十八ヶ所」などでは、「百々山安楽寺」の表記の場合が多く見られる。
境内
仁王門
本堂:本尊前立を拝顔できる。堂内には「國寶奉安殿」の掲額がある。
大師堂:大師像を拝顔できる。
護摩堂
多宝塔
本坊
駐車場:境内に数台。無料。
文化財
重要文化財
木造阿弥陀如来坐像 - 当寺の本尊。ヒノキの寄木造、玉眼、漆箔、像高68.5cm、13世紀頃作、1911年(明治44年)4月17日指定
元は土佐一宮高鴨大明神の別当である神宮寺の本尊であり、土佐一宮の本地仏であったが、明治初年に神宮寺が廃寺の折、土佐国分寺に預けられていた阿弥陀如来である。
境内の旧跡
鱸礁遺跡
旧瑞応寺福泉院の墓域に板垣退助の先祖、乾正行夫妻ら乾家の墓がある。
交通アクセス
鉄道
四国旅客鉄道(JR四国) 土讃線 - 高知駅 (1.1km)
道路
一般道:県道384号 洞ヶ島 (0.1km)
高速道路:高知自動車道 高知IC (4.4km)
所在地 高知県高知市洞ヶ島町5-3
位置 北緯33度34分0.38秒 東経133度31分59.12秒
山号 妙色山(百々山)
宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来
創建年 (伝)延喜年間(901年-923年)
開基 菅原高視
正式名 妙色山(百々山) 金性院 安楽寺
札所等 四国八十八箇所第30番札所奥の院
文化財 木造阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)