光恩寺(こうおんじ)は、群馬県千代田町赤岩にある高野山真言宗の寺院。
歴史
寺伝によれば、雄略天皇が穴穂宮のために、全国に勅して建立させた九ヶ寺の一つとされている[1]。推古天皇11年(603年)には秦河勝が勅使として当寺に遣わされ、仏舎利三粒が納められたと伝わる。また同33年(625年)には高麗王より日本に遣わされた仏僧、恵灌が東国に仏法布教を行った際、この地域の豪族の請願を受けここを訪れ、三論を説き赤岩光恩寺を開いたとされている。
弘仁5年(814年)には弘法大師が諸国遊化を行った際当地に留まり、密教布教の道場として当寺を再興開山したと伝えられる。その際大師は自作の木彫地蔵を当寺に安置し、それにより「地蔵院」の院号を称するようになった。真言密教の寺院として、2019年現在の住職で84代を数える。
その後、兵火に罹り当寺は伽藍を失うも、元亨元年(1321年)後醍醐天皇は源有国を勅使として派遣し、宇都宮公綱を奉行として、失われた伽藍を再建すると共に、7百貫の朱印と「赤岩山光恩寺」の称号を下賜した[1][4]。
寺の最盛期は弘仁から元亨の間と云われ、16坊の僧院、3,000余もの末寺を擁し、地域の豪族の氏寺として栄えた。しかし永享12年(1440年)の結城合戦で堂宇は再び兵火に罹り、悉く灰燼となってしまった。
慶安元年(1648年)徳川家光は当寺に寺領として高16石8斗余を与え、山林諸役等を免除している[1]。
宝永年間(1704年)の記録では末寺数76ヶ寺。文政13年(1830年)、雷火に打たれ本堂、庫裏、疱瘡神堂、仁王門まで焼失。天保14年(1843年)に本堂を上棟した。文久2年(1862年)に再建完了するが、慶応2年(1866年)再び火災により伽藍を失った。
2019年現在の本堂は1883年(明治16年)に造営され、時を同じくして客殿、荻野吟子生家の長屋門が移築された。明治維新で寺院が統廃合された結果、末寺数26となった。1978年(昭和53年)に阿弥陀堂が再建され、平成時代には弘法大師堂建立、本堂竜王天井画完成、長屋門保存修理、釈迦如来涅槃堂建立が行われた。
文化財
重要文化財(国指定)
銅五種鈴
鎌倉時代作と推定される密教宝具の鈴で、鋳銅製で高さは約20cm。宝珠鈴、宝塔鈴、五鈷鈴、三鈷鈴、独鈷鈴の5種が五口一具として製作されたもので、皆具で伝来している貴重な例である。装飾性も高く、華麗な蓮華唐草文を中心に連珠文・独鈷杵文・三鈷杵文が鈴身に表されており、五口すべて鈴身内部に「赤」の一字が朱書きされている。2007年(平成19年)6月8日指定。
年中行事
1月元旦
修正会
1月3日〜4日
六算除・厄除大護摩執行
1月28日
初不動
2月3日
星祭り節分会
3月28日
春季不動尊大祭・火渡り
5月1日
阿弥陀三尊会
5月5日
お花祭り・水子供養
5月初巳
赤岩弁天祭
8月15日
孟蘭盆施餓鬼会
8月18日
川せがき
10月28日
秋季不動尊大祭
11月中旬
人形供養
12月31日
除夜の鐘
赤岩山光恩寺『不動尊大祭』
交通アクセス
自動車利用
東北自動車道(館林インターより30分)
関越自動車道(東松山インターより40分)
電車利用
東部伊勢崎線(館林駅下車/タクシー20分)
JR高崎線(吹上駅下車/タクシー25分)
所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字赤岩1041
位置 北緯36度12分29.5秒 東経139度26分22.6秒
山号 赤岩山
院号 地蔵院
宗旨 高野山真言宗
札所等
関東91薬師霊場第40番札所
関東108地蔵尊第21番札所
北関東36不動尊霊場第11番札所
文化財
国の重要文化財(銅五種鈴)
県指定重要文化財(阿弥陀三尊像、地蔵菩薩画像板碑)
町指定重要文化財(梵鐘)
国の登録有形文化財(荻野吟子生家長屋門、光恩寺庫裏)
2023年04月15日
2023年04月14日
雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は、熊本県熊本市西区松尾町平山にある曹洞宗の寺院
雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は、熊本県熊本市西区松尾町平山にある曹洞宗の寺院。山号は宝華山または岩殿山。
通称は岩戸観音。これは、境内奥の院の洞窟・霊巌洞(れいがんどう)に安置された本尊・石体四面の馬頭観音像にちなむ。
歴史
日本の南北朝時代、寧波より渡来した元の禅僧・東陵永璵(とうりょうえいよ、(とうりんえいよ、「よ」は王篇に「與」)により建立されたと伝えられる。
本尊の観音像自体は、寺の建立以前から洞内に安置されていたと言い、世阿弥の謡曲「檜垣」により、平安朝の歌人・檜垣がこの観音を日参したという故事でも知られる。
また、剣聖・宮本武蔵が晩年、霊巌洞に参籠し、二天一流の極意書「五輪書」を著したことは特に著名である。
境内及び周辺
寺は金峰山の西麓に所在する。
境内は1975年(昭和50年)、熊本県指定史跡名勝に指定され、裏山には江戸中期につくられた十六羅漢、五百羅漢の石像が並ぶ。
隣接する宝物館には、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に使用したとする木剣や武蔵の自画像などが収蔵されている。
奇岩や紅葉の名所として肥後耶馬渓と呼ばれる寺の周辺は、岩戸の里公園として整備されており、園内の黒岩展望台は有明海を挟み雲仙普賢岳を臨む。
文化財
重要文化財(国指定)
木造東陵永璵禅師倚像 - 南北朝時代(熊本市立博物館に寄託)
行事
3月18日 - 春季大祭
9月28日 - 不動尊大祭
10月18日 - 秋季大祭
御詠歌
ふたらくの都にかよふ道芝の 露おきそむる此ほらの中
わしのやまその春秋は程ふれと みのりのはなはなおにおいけり
所在地
熊本県熊本市西区松尾町平山589
交通
熊本桜町バスターミナルより産交バス(芳野経由河内温泉行き)において「岩戸観音入口」バス停下車後、徒歩18分(1.4q)。
九州自動車道熊本インターチェンジより21q。
通称は岩戸観音。これは、境内奥の院の洞窟・霊巌洞(れいがんどう)に安置された本尊・石体四面の馬頭観音像にちなむ。
歴史
日本の南北朝時代、寧波より渡来した元の禅僧・東陵永璵(とうりょうえいよ、(とうりんえいよ、「よ」は王篇に「與」)により建立されたと伝えられる。
本尊の観音像自体は、寺の建立以前から洞内に安置されていたと言い、世阿弥の謡曲「檜垣」により、平安朝の歌人・檜垣がこの観音を日参したという故事でも知られる。
また、剣聖・宮本武蔵が晩年、霊巌洞に参籠し、二天一流の極意書「五輪書」を著したことは特に著名である。
境内及び周辺
寺は金峰山の西麓に所在する。
境内は1975年(昭和50年)、熊本県指定史跡名勝に指定され、裏山には江戸中期につくられた十六羅漢、五百羅漢の石像が並ぶ。
隣接する宝物館には、宮本武蔵が巌流島で佐々木小次郎との決闘に使用したとする木剣や武蔵の自画像などが収蔵されている。
奇岩や紅葉の名所として肥後耶馬渓と呼ばれる寺の周辺は、岩戸の里公園として整備されており、園内の黒岩展望台は有明海を挟み雲仙普賢岳を臨む。
文化財
重要文化財(国指定)
木造東陵永璵禅師倚像 - 南北朝時代(熊本市立博物館に寄託)
行事
3月18日 - 春季大祭
9月28日 - 不動尊大祭
10月18日 - 秋季大祭
御詠歌
ふたらくの都にかよふ道芝の 露おきそむる此ほらの中
わしのやまその春秋は程ふれと みのりのはなはなおにおいけり
所在地
熊本県熊本市西区松尾町平山589
交通
熊本桜町バスターミナルより産交バス(芳野経由河内温泉行き)において「岩戸観音入口」バス停下車後、徒歩18分(1.4q)。
九州自動車道熊本インターチェンジより21q。
2023年04月13日
安祥寺(あんしょうじ)は、京都市山科区にある高野山真言宗の寺院
安祥寺(あんしょうじ)は、京都市山科区にある高野山真言宗の寺院。山号は吉祥山。本尊は十一面観音。朝廷縁の定額寺の一つ。
寺内は非公開だが、2019年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として、本尊十一面観音像が初めて一般公開される(2019年4月26日から5月10日まで)。
沿革
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により、恵運(入唐僧)によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。
安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。
しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。
江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年(1906年)には多宝塔を焼失、以後再建されていない。
現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。
境内
観音堂 - 文化十四年建立で本尊は十一面観音菩薩立像(奈良時代の僧、越智山泰澄の造像)で四天王像(平安時代のもの)、不動明王像(鎌倉時代のもの)、安祥寺復興を命じた徳川家康坐像(江戸時代のもの)が安置される。
地蔵堂 - 明和九年に建立、本尊は地蔵菩薩像(鎌倉時代後期のもの)。
大師堂 - 安永二年に建立、本尊は弘法大師像(江戸中期の仏師、清水隆慶の造像)でその両隣に恵運僧都像(平安時代のもの)、宗意律師像(平安時代のもの)、興雅僧正像(江戸時代のもの)、宥快法印像(江戸時代のもの)が安置される。
鐘楼堂 - 梵鐘は嘉元四年の鋳造、摂州渡邊安曇寺の銘が刻まれている。秀吉の朝鮮出兵にあたり五畿内から陣鐘として出された鐘の1つだが安曇寺のものが何かの間違いで安祥寺に返納されたと伝わる。
青龍大権現 - 安祥寺の鎮守社
十二社神社 - 上野地区の鎮守、素戔嗚尊を祀る
弁天社 - 弁財天を祀る
文化財
国宝
木造五智如来坐像 5躯 - 京都国立博物館に寄託。大日如来を中心とする金剛界の五仏で、安祥寺創建時の制作と推定される。明治39年(1906年)に焼けた多宝塔に安置されていたが、当時から京都国立博物館に寄託されていて難を逃れる(2019年度国宝指定)。
重要文化財
木造十一面観音立像 - 本堂安置
安祥寺流
弘法大師が伝えた真言密教は平安時代に12の流派に分かれ、安祥寺流というのがこの寺の11代目である宗意律師によって樹立され、22代目の宥快法印によって高野山の方にこの安祥寺流が伝えられたために密接な関係が結ばれる。
交通
京阪線山科駅から徒歩10分。ただし、非公開寺院で境内に立ち入ることはできない。琵琶湖疏水に面しており、近辺は春は桜の名所である。
所在地 京都府京都市山科区御陵平林町22
位置 北緯34度59分44.44秒 東経135度48分56.84秒
山号 吉祥山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 嘉祥元年(848年)
開山 恵運
開基 藤原順子
中興 宗意
別称 高野堂
文化財 木造五智如来坐像(国宝)ほか
寺内は非公開だが、2019年に春の「京都非公開文化財特別公開」の一環として、本尊十一面観音像が初めて一般公開される(2019年4月26日から5月10日まで)。
沿革
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子(ふじわらののぶこ)の発願により、恵運(入唐僧)によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。
安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。
恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。
しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。
江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年(1906年)には多宝塔を焼失、以後再建されていない。
現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。
境内
観音堂 - 文化十四年建立で本尊は十一面観音菩薩立像(奈良時代の僧、越智山泰澄の造像)で四天王像(平安時代のもの)、不動明王像(鎌倉時代のもの)、安祥寺復興を命じた徳川家康坐像(江戸時代のもの)が安置される。
地蔵堂 - 明和九年に建立、本尊は地蔵菩薩像(鎌倉時代後期のもの)。
大師堂 - 安永二年に建立、本尊は弘法大師像(江戸中期の仏師、清水隆慶の造像)でその両隣に恵運僧都像(平安時代のもの)、宗意律師像(平安時代のもの)、興雅僧正像(江戸時代のもの)、宥快法印像(江戸時代のもの)が安置される。
鐘楼堂 - 梵鐘は嘉元四年の鋳造、摂州渡邊安曇寺の銘が刻まれている。秀吉の朝鮮出兵にあたり五畿内から陣鐘として出された鐘の1つだが安曇寺のものが何かの間違いで安祥寺に返納されたと伝わる。
青龍大権現 - 安祥寺の鎮守社
十二社神社 - 上野地区の鎮守、素戔嗚尊を祀る
弁天社 - 弁財天を祀る
文化財
国宝
木造五智如来坐像 5躯 - 京都国立博物館に寄託。大日如来を中心とする金剛界の五仏で、安祥寺創建時の制作と推定される。明治39年(1906年)に焼けた多宝塔に安置されていたが、当時から京都国立博物館に寄託されていて難を逃れる(2019年度国宝指定)。
重要文化財
木造十一面観音立像 - 本堂安置
安祥寺流
弘法大師が伝えた真言密教は平安時代に12の流派に分かれ、安祥寺流というのがこの寺の11代目である宗意律師によって樹立され、22代目の宥快法印によって高野山の方にこの安祥寺流が伝えられたために密接な関係が結ばれる。
交通
京阪線山科駅から徒歩10分。ただし、非公開寺院で境内に立ち入ることはできない。琵琶湖疏水に面しており、近辺は春は桜の名所である。
所在地 京都府京都市山科区御陵平林町22
位置 北緯34度59分44.44秒 東経135度48分56.84秒
山号 吉祥山
宗旨 古義真言宗
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音菩薩
創建年 嘉祥元年(848年)
開山 恵運
開基 藤原順子
中興 宗意
別称 高野堂
文化財 木造五智如来坐像(国宝)ほか
2023年04月12日
乙寶寺(おっぽうじ)は、新潟県胎内市乙(きのと)にある真言宗智山派の寺院
乙寶寺(おっぽうじ)は、新潟県胎内市乙(きのと)にある真言宗智山派の寺院。猿供養寺、乙寺(きのとでら)とも呼ばれる。境内には国の重要文化財である三重塔や、大日堂(本堂)、本坊、方丈殿、六角堂、弁天堂、観音堂、地蔵堂が建つ。新潟県屈指の古寺で、釈迦の左眼を納めたと伝える舎利塔など、寺にまつわる伝説や逸話が多く残されている。宝物殿には多くの文化財を収蔵・展示している。
歴史
寺伝によれば、天平8年(736年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩、婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したと伝えられる。婆羅門僧正が釈迦の左目を現在の六角堂のあたりに納めたとされる。寺の縁起によると右目は中国の甲寺に納めたことから、左目を納めた当寺の名前を乙寺(きのとでら)とし、後に「寶」の文字が付け加えられ「乙寶寺」になった。
また「今昔物語」や「古今著聞集」にみえる「写経猿」の説話にちなんで猿供養寺とも呼ばれる。
室町時代後期には、上杉氏が寺領300石を寄進し保護の手を加え、近世初期には、村上城(村上市)主村上義明の帰依が厚かった。重要文化財の三重塔は村上氏の寄進によるもので、観音堂前には村上家の墓があり寺と村上氏の関係が窺える。当時は塔頭寺院が数多くあり、明治時代以降はそれぞれの寺院が独立し、平成になってからでも残っている元塔頭寺院には地福院、宝常院、和光院がある。
かつての住職には、真言宗智山派第47代化主(管長)瑜伽教如僧正がおり、現代の真言宗智山派の声明の礎をつくった。
文化財
重要文化財(国指定)
三重塔 - 元和5年(1619年)建立
新潟県指定文化財
弁天堂
乙宝寺縁起絵巻
玉幡
金銅製華鬘(けまん)
ほかに旧国宝の木造大日如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造薬師如来坐像があったが、昭和12年(1937年)に火災で焼失した。
弘法大師伝説
平安時代には、空海(弘法大師)が巡錫中に立ち寄った場所といわれており、空海が乙宝寺境内の地面を仏具の「独鈷杵」(とっこしょ)で突くと水が湧き出したという伝説がある。名前は独鈷で突いた水「独鈷水(どっこすい)」が次第に訛って「どっこん水」と呼ばれるようになり、その水は約1200年たった現代でも境内に豊富に湧き出ている。この水は飯豊連峰の伏流水で、胎内市乙周辺で広く水道水の代わりとして利用している。
交通アクセス
JR東日本羽越本線
平木田駅より車で約10分(最寄り駅)
中条駅より胎内市デマンド交通「のれんす号」利用
坂町駅より荒川道路経由で車で約10分
日本海東北自動車道-荒川胎内ICより約1分
所在地 新潟県胎内市乙1112
位置 北緯38度7分11.83秒 東経139度24分10.93秒
山号 如意山
宗派 真言宗智山派
本尊 金剛界大日如来
創建年 伝・天平8年(736年)
開山 行基、婆羅門僧正
正式名 如意山 乙寶寺
別称 乙寺、猿供養寺
札所等 越後三十三観音霊場第26番札所
文化財 三重塔(重要文化財)
弁天堂、乙宝寺縁起絵巻、玉幡、金銅製華鬘(県文化財)
歴史
寺伝によれば、天平8年(736年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩、婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したと伝えられる。婆羅門僧正が釈迦の左目を現在の六角堂のあたりに納めたとされる。寺の縁起によると右目は中国の甲寺に納めたことから、左目を納めた当寺の名前を乙寺(きのとでら)とし、後に「寶」の文字が付け加えられ「乙寶寺」になった。
また「今昔物語」や「古今著聞集」にみえる「写経猿」の説話にちなんで猿供養寺とも呼ばれる。
室町時代後期には、上杉氏が寺領300石を寄進し保護の手を加え、近世初期には、村上城(村上市)主村上義明の帰依が厚かった。重要文化財の三重塔は村上氏の寄進によるもので、観音堂前には村上家の墓があり寺と村上氏の関係が窺える。当時は塔頭寺院が数多くあり、明治時代以降はそれぞれの寺院が独立し、平成になってからでも残っている元塔頭寺院には地福院、宝常院、和光院がある。
かつての住職には、真言宗智山派第47代化主(管長)瑜伽教如僧正がおり、現代の真言宗智山派の声明の礎をつくった。
文化財
重要文化財(国指定)
三重塔 - 元和5年(1619年)建立
新潟県指定文化財
弁天堂
乙宝寺縁起絵巻
玉幡
金銅製華鬘(けまん)
ほかに旧国宝の木造大日如来坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造薬師如来坐像があったが、昭和12年(1937年)に火災で焼失した。
弘法大師伝説
平安時代には、空海(弘法大師)が巡錫中に立ち寄った場所といわれており、空海が乙宝寺境内の地面を仏具の「独鈷杵」(とっこしょ)で突くと水が湧き出したという伝説がある。名前は独鈷で突いた水「独鈷水(どっこすい)」が次第に訛って「どっこん水」と呼ばれるようになり、その水は約1200年たった現代でも境内に豊富に湧き出ている。この水は飯豊連峰の伏流水で、胎内市乙周辺で広く水道水の代わりとして利用している。
交通アクセス
JR東日本羽越本線
平木田駅より車で約10分(最寄り駅)
中条駅より胎内市デマンド交通「のれんす号」利用
坂町駅より荒川道路経由で車で約10分
日本海東北自動車道-荒川胎内ICより約1分
所在地 新潟県胎内市乙1112
位置 北緯38度7分11.83秒 東経139度24分10.93秒
山号 如意山
宗派 真言宗智山派
本尊 金剛界大日如来
創建年 伝・天平8年(736年)
開山 行基、婆羅門僧正
正式名 如意山 乙寶寺
別称 乙寺、猿供養寺
札所等 越後三十三観音霊場第26番札所
文化財 三重塔(重要文化財)
弁天堂、乙宝寺縁起絵巻、玉幡、金銅製華鬘(県文化財)
2023年04月11日
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の仏教寺院
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の仏教寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)。
永平寺の勅使門(唐門)
歴史
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺(天台宗総本山)に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)・仏性(ぶっしょう、仏としての性質)を持っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)に建仁寺へ入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには宋で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ死去した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(現在は京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
仏殿
文化財
国宝
普勧坐禅儀(附 普勧坐禅儀撰述記)
重要文化財
高祖嗣書 1幅 紙本墨書 南宋時代
明全戒牒 1巻 金銀絵料紙墨書 鎌倉時代
正法眼蔵仏性第三 1冊 紙本墨書 孤雲懐弉筆 鎌倉時代
後円融院宸翰 1幅 南北朝時代
梵鐘 鎌倉時代 嘉暦2年(1327年)
永平寺(建造物)19棟
仏殿
法堂
山門
中雀門
僧堂
大庫院
大光明蔵
監院寮
廻廊 5棟(山門東方、山門西方、中雀門東方、中雀門西方、仏殿東方)
承陽殿本殿及び拝殿
承陽門
経蔵
松平家廟所門
舎利殿及び祠堂殿
勅使門
一文字廊と仏殿
仏殿
交通
公共交通機関
えちぜん鉄道勝山永平寺線 永平寺口駅から京福バス「永平寺」行乗車、終点下車。
福井駅から京福リムジンバス「永平寺門前」行乗車、終点下車。
山中温泉から直通バス「永平寺おでかけ号」(全便予約制)。
道路
最寄りの高速道路は中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)。最寄りのインターチェンジは、福井北JCT・IC方面からは永平寺参道IC、大野IC方面からは永平寺IC。諏訪間交差点から国道364号にて約5km。
中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)は福井北JCTで北陸自動車道に直結。
福井市北東部方面から国道416号等を経由して向かう場合、福井北ICが北陸道方面のみの出入口となるため、中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)を利用する際は隣の松岡ICを利用することになる。
福井市南東部方面から向かう場合は、国道158号(バイパスを通らないルート)、国道364号(かつて福井県道路公社が管理していた永平寺有料道路)を通るルートもある。このルート上には北陸自動車道福井ICがある。
江戸時代は福井城下から途中の上中地区の追分まで勝山街道を通って、追分からは越坂峠を越えて永平寺に向かう道が一般的な参道であった。この道沿いには今も多くの道標や石仏が数多く残されている。また福井県道165号京善原目線や中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)は古来の参道の追分から永平寺町京善までの区間にほぼ沿っている。
町営駐車場
有料の町営駐車場が3箇所ある。第1駐車場と第2駐車場は門前からあまり離れていないが、第3駐車場は国道364号から永平寺川を橋で渡った先にあり、未舗装である。
中雀門東方回廊
所在地 福井県吉田郡永平寺町志比5-15
位置 北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒
山号 吉祥山
宗派 曹洞宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来
創建年 寛元2年(1244年)
開山 道元
開基 波多野義重
文化財 普勧坐禅儀(国宝)
梵鐘、道元禅師嗣書、山門、中雀門ほか(重要文化財)
永平寺の勅使門(唐門)
歴史
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺(天台宗総本山)に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)・仏性(ぶっしょう、仏としての性質)を持っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)に建仁寺へ入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには宋で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ死去した。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(現在は京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
仏殿
文化財
国宝
普勧坐禅儀(附 普勧坐禅儀撰述記)
重要文化財
高祖嗣書 1幅 紙本墨書 南宋時代
明全戒牒 1巻 金銀絵料紙墨書 鎌倉時代
正法眼蔵仏性第三 1冊 紙本墨書 孤雲懐弉筆 鎌倉時代
後円融院宸翰 1幅 南北朝時代
梵鐘 鎌倉時代 嘉暦2年(1327年)
永平寺(建造物)19棟
仏殿
法堂
山門
中雀門
僧堂
大庫院
大光明蔵
監院寮
廻廊 5棟(山門東方、山門西方、中雀門東方、中雀門西方、仏殿東方)
承陽殿本殿及び拝殿
承陽門
経蔵
松平家廟所門
舎利殿及び祠堂殿
勅使門
一文字廊と仏殿
仏殿
交通
公共交通機関
えちぜん鉄道勝山永平寺線 永平寺口駅から京福バス「永平寺」行乗車、終点下車。
福井駅から京福リムジンバス「永平寺門前」行乗車、終点下車。
山中温泉から直通バス「永平寺おでかけ号」(全便予約制)。
道路
最寄りの高速道路は中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)。最寄りのインターチェンジは、福井北JCT・IC方面からは永平寺参道IC、大野IC方面からは永平寺IC。諏訪間交差点から国道364号にて約5km。
中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)は福井北JCTで北陸自動車道に直結。
福井市北東部方面から国道416号等を経由して向かう場合、福井北ICが北陸道方面のみの出入口となるため、中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)を利用する際は隣の松岡ICを利用することになる。
福井市南東部方面から向かう場合は、国道158号(バイパスを通らないルート)、国道364号(かつて福井県道路公社が管理していた永平寺有料道路)を通るルートもある。このルート上には北陸自動車道福井ICがある。
江戸時代は福井城下から途中の上中地区の追分まで勝山街道を通って、追分からは越坂峠を越えて永平寺に向かう道が一般的な参道であった。この道沿いには今も多くの道標や石仏が数多く残されている。また福井県道165号京善原目線や中部縦貫自動車道(永平寺大野道路)は古来の参道の追分から永平寺町京善までの区間にほぼ沿っている。
町営駐車場
有料の町営駐車場が3箇所ある。第1駐車場と第2駐車場は門前からあまり離れていないが、第3駐車場は国道364号から永平寺川を橋で渡った先にあり、未舗装である。
中雀門東方回廊
所在地 福井県吉田郡永平寺町志比5-15
位置 北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒
山号 吉祥山
宗派 曹洞宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来
創建年 寛元2年(1244年)
開山 道元
開基 波多野義重
文化財 普勧坐禅儀(国宝)
梵鐘、道元禅師嗣書、山門、中雀門ほか(重要文化財)
2023年04月10日
護国之寺(ごこくしじ)は、岐阜県岐阜市にある高野山真言宗の寺院
護国之寺(ごこくしじ)は、岐阜県岐阜市にある高野山真言宗の寺院である。
楼門(岐阜市指定有形文化財)
概要
山号は雄総山(ゆうそうさん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。
美濃三十三観音霊場第十七番札所。美濃四国札所八十八番。美濃七福神(布袋尊)。国宝の金銅獅子唐草文鉢をはじめ、数多くの岐阜県、岐阜市指定重要文化財がある。
本堂
御朱印
岐阜市のまちづくり団体ひとひとの会によって企画され、2019年(令和元年)11月現在岐阜県内の13箇所[1]において行われている「金の御朱印」企画に参加しており、毎月最終金曜日(プレミアムフライデー)限定で通常の御朱印とは異なる金をあしらった御朱印が発行されている。
文化財
国宝
金銅獅子唐草文鉢
奈良時代作の仏鉢。径27.5cm、高さ14.5cm。銅製打ち出しで、表面には鍍金(金メッキ)が施され、外面には4頭の獅子と宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が線刻されている。東大寺奈良の大仏落慶法要の際使用された御供物を入れる鉢といわれている。1915年(大正4年)3月26日に旧国宝(現行法における重要文化財)に指定され、1955年(昭和30年)2月2日に文化財保護法に基づく国宝に指定された。
岐阜県指定重要文化財
護国之寺宝篋印塔
紙本著色鷹図六曲屏風(岐阜市歴史博物館寄託)
塑造仏頭及び残欠
桜門
桜門の金剛力士像
所在地
岐阜県岐阜市長良雄総194-1
交通アクセス
岐阜バス
「おぶさ」バス停が最寄りである。下車後徒歩で約1分。
JR岐阜駅バスターミナル:12番のりば「おぶさ」行きに乗車。
名鉄岐阜のりば:4番のりば「おぶさ」行きに乗車。
楼門(岐阜市指定有形文化財)
概要
山号は雄総山(ゆうそうさん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。
美濃三十三観音霊場第十七番札所。美濃四国札所八十八番。美濃七福神(布袋尊)。国宝の金銅獅子唐草文鉢をはじめ、数多くの岐阜県、岐阜市指定重要文化財がある。
本堂
御朱印
岐阜市のまちづくり団体ひとひとの会によって企画され、2019年(令和元年)11月現在岐阜県内の13箇所[1]において行われている「金の御朱印」企画に参加しており、毎月最終金曜日(プレミアムフライデー)限定で通常の御朱印とは異なる金をあしらった御朱印が発行されている。
文化財
国宝
金銅獅子唐草文鉢
奈良時代作の仏鉢。径27.5cm、高さ14.5cm。銅製打ち出しで、表面には鍍金(金メッキ)が施され、外面には4頭の獅子と宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が線刻されている。東大寺奈良の大仏落慶法要の際使用された御供物を入れる鉢といわれている。1915年(大正4年)3月26日に旧国宝(現行法における重要文化財)に指定され、1955年(昭和30年)2月2日に文化財保護法に基づく国宝に指定された。
岐阜県指定重要文化財
護国之寺宝篋印塔
紙本著色鷹図六曲屏風(岐阜市歴史博物館寄託)
塑造仏頭及び残欠
桜門
桜門の金剛力士像
所在地
岐阜県岐阜市長良雄総194-1
交通アクセス
岐阜バス
「おぶさ」バス停が最寄りである。下車後徒歩で約1分。
JR岐阜駅バスターミナル:12番のりば「おぶさ」行きに乗車。
名鉄岐阜のりば:4番のりば「おぶさ」行きに乗車。
2023年04月09日
清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院
清浄光寺(しょうじょうこうじ)は、神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院。藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。藤沢道場ともいう。
歴史
開山・中近世
俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。当時は現在より400m(メートル)ほど北の、光徳と呼ばれる場所にあった。以後、この寺を藤沢道場と呼びここに独住するようになった遊行上人を藤沢上人と称するようになる。伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている(古遊行寺)。その後、伝承によると領地六万貫を足利尊氏より寄進されたとされている。藤沢四郎太郎によるという説もある。次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。
延文元年(1356年)八代渡船が梵鐘を鋳造した。梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされていてこの時までは清浄光院と名乗っていたことが分かる。その後に清浄光寺と改称。応永年間に2度焼失し、より広い堂宇が再興された。
永享7年(1435年)足利持氏、仏殿120坪を寄進。
焼失による休止期
永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。清浄光寺は三浦道寸と通じていたために、後北条氏と敵対関係に陥った。そのため後北条氏の玉縄城主に旧領の返還を求めたが、復興が許されなかった。
永正10年(1513年)1月29日本尊の阿弥陀仏は駿河国府中の長善寺に移されたが、永正17年(1520年)に二十四代遊行上人他阿不外によって甲斐国の一蓮寺(現在は甲府市太田町に所在するが、旧地は甲府市丸の内の一条小山に所在)に置かれた。
その後、二十五代遊行上人他阿仏天が一連寺から敦賀井川の新善光寺に本尊を移す。
元亀2年(1571年)には甲斐国の武田信玄から藤沢200貫、俣野の内100貫の土地が寄進されたが、後北条氏攻略が失敗したため実現しなかった。
再興
三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠とする。
普光は甲府一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興させた。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のことであった。
寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出、幕府から時宗274寺の総本山と認められる。
寛文5年(1665年)敦賀井川の新善光寺から清浄光寺へ本尊が戻る。
清浄光寺は、浅草日輪寺、甲府一蓮寺、山形光明寺、京都法国寺、大浜称名寺の5寺の住職任命権を持ったが、貞享4年(1687年)頃から各諸派の独立を求める動きに、それらが本山と名乗ることを許し、上位の総本山という位置づけとなった。
徳川綱吉の生類憐れみの令では、江戸市中の金魚の保護所となった。
元文2年(1737年)10月15日浅草の日輪寺塔頭宝珠院より現在の本尊:阿弥陀如来坐像を移す。
文化財
国宝
所在する国宝は、以下のとおり。
絹本著色一遍上人絵伝 12巻 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
鎌倉時代の絵巻物。絹本著色で全12巻。別称に「一遍聖絵」。正安元年(1299年)作。の代表作。一遍上人絵伝は時宗の開祖である一遍(一遍智真)が訪れた各地の風景が描写されているもので、清浄光寺は一遍弟の聖戒により編纂され、円伊による筆で一遍没後十年にあたる正安元年に完成している。
一遍の遊行した各地の風景・風俗が実景に基づいて記されており、歴史・風俗資料としても貴重なものである。もと時宗十二派の一つと数えられていた「六条派」の歓喜光寺(京都市山科区)に伝来したもので、歓喜光寺との共同所有を経て、現在は清浄光寺が単独所有(京都国立博物館及び奈良国立博物館に寄託)。
重要文化財(国指定)
所在する重要文化財は、以下のとおり。
絹本著色後醍醐天皇御像(後醍醐天皇の肖像画、文観房弘真開眼)
1900年(明治33年)4月7日指定。
絹本著色一向上人像
1959年(昭和34年)6月27日指定。
時衆過去帳 2帖
1954年(昭和29年)3月20日指定。
六時居讃・安食問答 2帖
同上
後醍醐天皇像
登録有形文化財(国登録)
本堂
惣門
手水舎
鐘楼
回向堂
百間廊下
御番方
小書院
宇賀神社
石垣及び築地塀
交通
鉄道
藤沢駅(東海道線 (JR東日本)・小田急江ノ島線・江ノ島電鉄)
道路
国道467号
所在地 神奈川県藤沢市西富一丁目8番1号
位置 北緯35度20分54.65秒 東経139度29分19.12秒
山号 藤沢山
院号 無量光院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
寺格 総本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 正中2年(1325年、呑海による開山年)
開山 他阿呑海
開基 俣野五郎景平
中興年 慶長12年(1607年)
中興 天順
正式名 藤沢山 無量光院 清浄光寺
別称 遊行寺、藤沢道場
札所等 東国花の寺百ヶ寺神奈川15番札所
歴史
開山・中近世
俣野(現在の藤沢市西俣野、横浜市戸塚区俣野町、東俣野町)の領主だった俣野氏の一族である俣野五郎景平が開基。景平の弟である遊行上人第四代呑海は、三代智得の死後にその跡を継いで時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)に入山しようとするが、呑海が遊行を続けている間に北条高時の命令により当麻にいた真光が止住するようになっていたため、正中2年(1325年)に俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言われる。当時は現在より400m(メートル)ほど北の、光徳と呼ばれる場所にあった。以後、この寺を藤沢道場と呼びここに独住するようになった遊行上人を藤沢上人と称するようになる。伝承では、現在の西俣野の北部の道場ヶ原にも呑海上人の関係する寺があったと言伝えられている(古遊行寺)。その後、伝承によると領地六万貫を足利尊氏より寄進されたとされている。藤沢四郎太郎によるという説もある。次第に当麻道場をしのぐ影響力を持つようになり、藤沢は門前町として発展するようになった。
延文元年(1356年)八代渡船が梵鐘を鋳造した。梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされていてこの時までは清浄光院と名乗っていたことが分かる。その後に清浄光寺と改称。応永年間に2度焼失し、より広い堂宇が再興された。
永享7年(1435年)足利持氏、仏殿120坪を寄進。
焼失による休止期
永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。清浄光寺は三浦道寸と通じていたために、後北条氏と敵対関係に陥った。そのため後北条氏の玉縄城主に旧領の返還を求めたが、復興が許されなかった。
永正10年(1513年)1月29日本尊の阿弥陀仏は駿河国府中の長善寺に移されたが、永正17年(1520年)に二十四代遊行上人他阿不外によって甲斐国の一蓮寺(現在は甲府市太田町に所在するが、旧地は甲府市丸の内の一条小山に所在)に置かれた。
その後、二十五代遊行上人他阿仏天が一連寺から敦賀井川の新善光寺に本尊を移す。
元亀2年(1571年)には甲斐国の武田信玄から藤沢200貫、俣野の内100貫の土地が寄進されたが、後北条氏攻略が失敗したため実現しなかった。
再興
三十二世遊行上人他阿普光は、天正19年(1591年)に常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場(後の神応寺)を建立し、時宗の本拠とする。
普光は甲府一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興させた。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のことであった。
寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出、幕府から時宗274寺の総本山と認められる。
寛文5年(1665年)敦賀井川の新善光寺から清浄光寺へ本尊が戻る。
清浄光寺は、浅草日輪寺、甲府一蓮寺、山形光明寺、京都法国寺、大浜称名寺の5寺の住職任命権を持ったが、貞享4年(1687年)頃から各諸派の独立を求める動きに、それらが本山と名乗ることを許し、上位の総本山という位置づけとなった。
徳川綱吉の生類憐れみの令では、江戸市中の金魚の保護所となった。
元文2年(1737年)10月15日浅草の日輪寺塔頭宝珠院より現在の本尊:阿弥陀如来坐像を移す。
文化財
国宝
所在する国宝は、以下のとおり。
絹本著色一遍上人絵伝 12巻 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
鎌倉時代の絵巻物。絹本著色で全12巻。別称に「一遍聖絵」。正安元年(1299年)作。の代表作。一遍上人絵伝は時宗の開祖である一遍(一遍智真)が訪れた各地の風景が描写されているもので、清浄光寺は一遍弟の聖戒により編纂され、円伊による筆で一遍没後十年にあたる正安元年に完成している。
一遍の遊行した各地の風景・風俗が実景に基づいて記されており、歴史・風俗資料としても貴重なものである。もと時宗十二派の一つと数えられていた「六条派」の歓喜光寺(京都市山科区)に伝来したもので、歓喜光寺との共同所有を経て、現在は清浄光寺が単独所有(京都国立博物館及び奈良国立博物館に寄託)。
重要文化財(国指定)
所在する重要文化財は、以下のとおり。
絹本著色後醍醐天皇御像(後醍醐天皇の肖像画、文観房弘真開眼)
1900年(明治33年)4月7日指定。
絹本著色一向上人像
1959年(昭和34年)6月27日指定。
時衆過去帳 2帖
1954年(昭和29年)3月20日指定。
六時居讃・安食問答 2帖
同上
後醍醐天皇像
登録有形文化財(国登録)
本堂
惣門
手水舎
鐘楼
回向堂
百間廊下
御番方
小書院
宇賀神社
石垣及び築地塀
交通
鉄道
藤沢駅(東海道線 (JR東日本)・小田急江ノ島線・江ノ島電鉄)
道路
国道467号
所在地 神奈川県藤沢市西富一丁目8番1号
位置 北緯35度20分54.65秒 東経139度29分19.12秒
山号 藤沢山
院号 無量光院
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
寺格 総本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 正中2年(1325年、呑海による開山年)
開山 他阿呑海
開基 俣野五郎景平
中興年 慶長12年(1607年)
中興 天順
正式名 藤沢山 無量光院 清浄光寺
別称 遊行寺、藤沢道場
札所等 東国花の寺百ヶ寺神奈川15番札所
2023年04月08日
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(式内大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。かつては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていた。
祭神
現在の祭神は次の通り。
主祭神
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと) - 天津日高彦火火出見尊の后神。
相殿神
帯中比子尊(なかたらしひこのみこと、第14代仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后) - 仲哀天皇皇后。
品陀和気尊(ほむだわけのみこと、第15代応神天皇・八幡大神)
中比売命(なかつひめのみこと、仲姫命) - 応神天皇皇后。
相殿神4柱は八幡神を合祀した関係による。
歴史
創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年(708年)に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。
欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した『神社啓蒙』では登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされている。
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
祭事
初午祭の様子(2012年撮影)
鹿児島神宮で行われる年間祭事は次の通り。
七種祭(1月7日)
初午祭(旧暦1月18日:近年は近日の日曜日)
藤祭(旧暦3月10日)
御田植祭(旧暦5月5日)
例祭(旧暦8月15日)
七夕祭
御浜下り祭(10月第3日曜日)
文化財
重要文化財(国指定)
鹿児島神宮 3棟(附 棟札1枚)(建造物) - 宝暦5年(1755年)、島津重年の寄進により工事に着手。翌年、島津重豪の代に竣工した。2022年(令和4年)2月9日指定。
本殿及び拝殿
勅使殿
摂社四所神社本殿
紺糸威鎧 兜、大袖付(工芸品)
島津家家老の樺山幸久の奉納。1953年(昭和28年)3月31日指定。
色々威胴丸 兜、大袖付(工芸品)
永禄元年(1558年)の島津貴久の奉納。鹿児島県歴史資料センター黎明館保管。1953年(昭和28年)3月31日指定。
色々威胴丸 兜、大袖付(工芸品)
永禄元年(1558年)の島津貴久の奉納。東京国立博物館保管。1953年(昭和28年)3月31日指定。
刀 無銘(伝則重)(工芸品)
戦後の進駐軍の接収で所在不明となったが、2022年(令和4年)に特徴の一致する刀がオーストラリアで見つかった[18]。1918年(大正7年)4月8日指定。
刀 銘相州住秋広 明徳三(工芸品)
明徳3年(1392年)の作。27代島津斉興の奉納。戦後の進駐軍の接収で所在不明となったが、オークションへの出品で発見されて2003年(平成15年)に神社が買い戻した。現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館保管。1927年(昭和2年)4月25日指定。
現地情報
所在地
鹿児島県霧島市隼人町内2496
交通アクセス
鉄道:九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線・肥薩線 隼人駅(徒歩約20分)
祭神
現在の祭神は次の通り。
主祭神
天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと、山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと) - 天津日高彦火火出見尊の后神。
相殿神
帯中比子尊(なかたらしひこのみこと、第14代仲哀天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后) - 仲哀天皇皇后。
品陀和気尊(ほむだわけのみこと、第15代応神天皇・八幡大神)
中比売命(なかつひめのみこと、仲姫命) - 応神天皇皇后。
相殿神4柱は八幡神を合祀した関係による。
歴史
創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年(708年)に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。
欽明天皇5年(544年)に八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した『神社啓蒙』では登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされている。
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
祭事
初午祭の様子(2012年撮影)
鹿児島神宮で行われる年間祭事は次の通り。
七種祭(1月7日)
初午祭(旧暦1月18日:近年は近日の日曜日)
藤祭(旧暦3月10日)
御田植祭(旧暦5月5日)
例祭(旧暦8月15日)
七夕祭
御浜下り祭(10月第3日曜日)
文化財
重要文化財(国指定)
鹿児島神宮 3棟(附 棟札1枚)(建造物) - 宝暦5年(1755年)、島津重年の寄進により工事に着手。翌年、島津重豪の代に竣工した。2022年(令和4年)2月9日指定。
本殿及び拝殿
勅使殿
摂社四所神社本殿
紺糸威鎧 兜、大袖付(工芸品)
島津家家老の樺山幸久の奉納。1953年(昭和28年)3月31日指定。
色々威胴丸 兜、大袖付(工芸品)
永禄元年(1558年)の島津貴久の奉納。鹿児島県歴史資料センター黎明館保管。1953年(昭和28年)3月31日指定。
色々威胴丸 兜、大袖付(工芸品)
永禄元年(1558年)の島津貴久の奉納。東京国立博物館保管。1953年(昭和28年)3月31日指定。
刀 無銘(伝則重)(工芸品)
戦後の進駐軍の接収で所在不明となったが、2022年(令和4年)に特徴の一致する刀がオーストラリアで見つかった[18]。1918年(大正7年)4月8日指定。
刀 銘相州住秋広 明徳三(工芸品)
明徳3年(1392年)の作。27代島津斉興の奉納。戦後の進駐軍の接収で所在不明となったが、オークションへの出品で発見されて2003年(平成15年)に神社が買い戻した。現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館保管。1927年(昭和2年)4月25日指定。
現地情報
所在地
鹿児島県霧島市隼人町内2496
交通アクセス
鉄道:九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線・肥薩線 隼人駅(徒歩約20分)
2023年04月07日
太山寺(たいさんじ)は、兵庫県神戸市西区にある天台宗の寺院
太山寺(たいさんじ)は、兵庫県神戸市西区にある天台宗の寺院。山号は三身山(さんしんざん)。本尊は薬師如来。開基(創立者)は藤原宇合と伝える。本堂には新西国三十三箇所第25番札所本尊の十一面観音も祀られている。
境内風景、手水舎、阿弥陀堂(奥)
歴史
「播州太山寺縁起」によれば、元正天皇の勅願寺として霊亀2年(716年)に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。
開山(初代住職)は勧請開山として藤原鎌足の長男・定恵(「定慧」「貞恵」とも書く)としている。創建時の建物は弘安8年(1285年)の火災で焼失しており、現存する建物はそれ以降に再建されたものである。
開山とされる定恵は、藤原鎌足の長男で(次男は藤原不比等)、若くして出家し、遣唐使とともに唐に渡った。生涯について謎の多い人物で、没年についても『日本書紀』『藤氏家伝』は天智天皇4年(665年)、『元亨釈書』は和銅7年(714年)とするなど定かでない。太山寺の境内および周辺からは定恵の時代までさかのぼる遺跡、出土品等は確認されておらず、実際の創建は平安時代に降るとみられている。
南北朝時代の建武元年(1334年)には大塔宮護良親王の令旨を受けて南朝方勢力として行動している。支院41ヶ坊、末寺8ヶ寺・末社6ヶ社に僧兵を有していた往時の繁栄をしのばせる大規模な本堂は国宝で、重要文化財は仁王門、阿弥陀如来坐像をはじめ19件を数える。また安土桃山時代の枯山水名園、安養院庭園は国の名勝に指定されている。なお現在塔頭は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の5ヶ坊のみとなっている。
太山寺境内の内外は原生林が残る深森になっている。周辺の55.9haは「太山寺風致地区」として保護され、ひょうごの森百選にも選ばれており、春は桜、秋は紅葉の名所として知られている。
仁王門
境内
本堂(国宝)
鎌倉時代、正安2年(1300年)頃の建立。入母屋造、銅板葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)6間(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下同じ)。実寸は柱真々間正面20.82m・側面17.76mである。弘安8年(1285年)の火災後、13世紀末頃の建立とみられる。本尊の薬師如来のほかに、新西国三十三箇所第25番札所本尊の十一面観音も祀る。人の空間である外陣と仏の空間である内陣を結界(本建物では格子戸)で分ける、中世密教仏堂の典型である。内部は板敷で、手前の梁間3間分を外陣とする。後方は桁行5間、梁間2間分を内陣、その左右と背面の1間通りを脇陣及び後陣とする。内陣の後寄りに桁行3間の須弥壇を設け、その中央の間に厨子を置き、内部に本尊薬師如来像を安置する。厨子には弘安元年(1278年)の墨書がある。組物は出三斗、中備を間斗束(けんとづか)とする。柱間装置は正面7間をすべて蔀戸(しとみど)とし、側面は前から1間目を幣軸(扉回りに取り付ける枠状の部材)付きの板戸、2間目を蔀戸、3間目を格子戸引違い、5間目を板戸とする。背面は中央間のみ板戸とし、他を土壁とする。以上のように、建物前方の外陣部を開放的な扱いとするのに対し、内陣部は開口の少ない閉鎖的な構えである。柱には隅延び[2]があり、これによって軒反りを形成している。建築様式は蔀を多用するなど和様を基調としているが、頭貫の木鼻などに禅宗様の要素がみられる。本建物で特異な点は、組物の肘木に和様のものと禅宗様のものが混在している点で、建物の東半分の肘木は木口を直線的に構成した和様、西半分の肘木は曲線で構成した禅宗様になっている。
本堂
本堂内部(外陣の入側柱列)
文化財
国宝
本堂
重要文化財
仁王門
所在地
〒651-2108 兵庫県神戸市西区伊川谷町前開224
交通アクセス
神戸市営地下鉄西神・山手線 学園都市駅 徒歩25分
神姫バス14系統 (明石駅-伊川谷駅-太山寺-名谷駅) 下車すぐ
JR神戸線 明石駅から…「太山寺」行きまたは「名谷駅」行きで35分
神戸市営地下鉄西神・山手線 伊川谷駅から…「太山寺」行きまたは「名谷駅」行きで7分
神戸市営地下鉄西神・山手線 名谷駅から…「明石駅」」行きで18分
拝観料・拝観時間
拝観料:300円(元日は無料)
拝観時間:8:30 - 17:00(12月 - 2月は16:30)
境内風景、手水舎、阿弥陀堂(奥)
歴史
「播州太山寺縁起」によれば、元正天皇の勅願寺として霊亀2年(716年)に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。
開山(初代住職)は勧請開山として藤原鎌足の長男・定恵(「定慧」「貞恵」とも書く)としている。創建時の建物は弘安8年(1285年)の火災で焼失しており、現存する建物はそれ以降に再建されたものである。
開山とされる定恵は、藤原鎌足の長男で(次男は藤原不比等)、若くして出家し、遣唐使とともに唐に渡った。生涯について謎の多い人物で、没年についても『日本書紀』『藤氏家伝』は天智天皇4年(665年)、『元亨釈書』は和銅7年(714年)とするなど定かでない。太山寺の境内および周辺からは定恵の時代までさかのぼる遺跡、出土品等は確認されておらず、実際の創建は平安時代に降るとみられている。
南北朝時代の建武元年(1334年)には大塔宮護良親王の令旨を受けて南朝方勢力として行動している。支院41ヶ坊、末寺8ヶ寺・末社6ヶ社に僧兵を有していた往時の繁栄をしのばせる大規模な本堂は国宝で、重要文化財は仁王門、阿弥陀如来坐像をはじめ19件を数える。また安土桃山時代の枯山水名園、安養院庭園は国の名勝に指定されている。なお現在塔頭は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の5ヶ坊のみとなっている。
太山寺境内の内外は原生林が残る深森になっている。周辺の55.9haは「太山寺風致地区」として保護され、ひょうごの森百選にも選ばれており、春は桜、秋は紅葉の名所として知られている。
仁王門
境内
本堂(国宝)
鎌倉時代、正安2年(1300年)頃の建立。入母屋造、銅板葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)6間(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下同じ)。実寸は柱真々間正面20.82m・側面17.76mである。弘安8年(1285年)の火災後、13世紀末頃の建立とみられる。本尊の薬師如来のほかに、新西国三十三箇所第25番札所本尊の十一面観音も祀る。人の空間である外陣と仏の空間である内陣を結界(本建物では格子戸)で分ける、中世密教仏堂の典型である。内部は板敷で、手前の梁間3間分を外陣とする。後方は桁行5間、梁間2間分を内陣、その左右と背面の1間通りを脇陣及び後陣とする。内陣の後寄りに桁行3間の須弥壇を設け、その中央の間に厨子を置き、内部に本尊薬師如来像を安置する。厨子には弘安元年(1278年)の墨書がある。組物は出三斗、中備を間斗束(けんとづか)とする。柱間装置は正面7間をすべて蔀戸(しとみど)とし、側面は前から1間目を幣軸(扉回りに取り付ける枠状の部材)付きの板戸、2間目を蔀戸、3間目を格子戸引違い、5間目を板戸とする。背面は中央間のみ板戸とし、他を土壁とする。以上のように、建物前方の外陣部を開放的な扱いとするのに対し、内陣部は開口の少ない閉鎖的な構えである。柱には隅延び[2]があり、これによって軒反りを形成している。建築様式は蔀を多用するなど和様を基調としているが、頭貫の木鼻などに禅宗様の要素がみられる。本建物で特異な点は、組物の肘木に和様のものと禅宗様のものが混在している点で、建物の東半分の肘木は木口を直線的に構成した和様、西半分の肘木は曲線で構成した禅宗様になっている。
本堂
本堂内部(外陣の入側柱列)
文化財
国宝
本堂
重要文化財
仁王門
所在地
〒651-2108 兵庫県神戸市西区伊川谷町前開224
交通アクセス
神戸市営地下鉄西神・山手線 学園都市駅 徒歩25分
神姫バス14系統 (明石駅-伊川谷駅-太山寺-名谷駅) 下車すぐ
JR神戸線 明石駅から…「太山寺」行きまたは「名谷駅」行きで35分
神戸市営地下鉄西神・山手線 伊川谷駅から…「太山寺」行きまたは「名谷駅」行きで7分
神戸市営地下鉄西神・山手線 名谷駅から…「明石駅」」行きで18分
拝観料・拝観時間
拝観料:300円(元日は無料)
拝観時間:8:30 - 17:00(12月 - 2月は16:30)
2023年04月06日
浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院
浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。
歴史
推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。この寺が文書等にあらわれるのは鎌倉時代中ごろからのことで、鎌倉時代の初めには堂塔を守る人さえないという惨状だったが、徳治元年(1306年)に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証によって中興された。その後、正中2年(1325年)に焼失したが、尾道の有徳人道蓮・道性夫妻によって復興された。現存する国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂はこの時再興された建物である。
南北朝時代に入ると、各勢力が浄土寺を味方につけようと外護に努めた。元弘の乱の際後醍醐天皇は、住職に綸旨を下して祈祷を命じるとともに、因島の地頭職を寄進した。足利尊氏は建武3年(1336年)2月、九州に落ち延びる際、浄土寺本堂で戦勢挽回を祈願し、幾つかの地頭職を寄進。更に九州での戦いに勝利再起した同5月5日に再び浄土寺本堂に参籠して、1万巻の観音経を読経し、足利直義や道謙法師と共に観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願している。尊氏はその後、備後国の利生塔を浄土寺境内(元尾道市立筒湯小学校校庭)に建立し、寺では今も足利氏の家紋「二つ引門」を寺紋として使い続けている。今川了俊も九州へ下る際、数か月浄土寺に滞在し、軍備を整えたという。
室町時代も下ると、足利氏と関係の深かった浄土寺の寺運も衰えていった。近世に入ると落ち着きを取り戻し、泉涌寺派に属しながら尾道在住の豪商から外護を受けるようになり、庶民の信仰を中心とする寺院へ変貌していく。当地の豪商らによって、元禄3年(1690年)、方丈(重要文化財)、正徳年間には護摩堂・経堂、享保4年(1719年)、食堂(現在の庫裏及び客殿、重要文化財)が建立された。
境内
山門を入ると正面に本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらの中世仏教建築群に対し、境内西側には方丈、庫裏及び客殿など、僧の生活空間である近世建築群があり、庭園や茶室(露滴庵)もある。近世以前の寺院景観を良好に残す境内地は、本堂とともに国宝に指定されている。
文化財
国宝
本堂(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚) - 嘉暦2年(1327年)の建立。入母屋造本瓦葺き。和様を基調として大仏様、禅宗様の細部を取り入れた、中世折衷様仏堂建築の代表作。なお、平成6年(1994年)7月、境内地全域が「建造物と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」(文化財保護法第2条参照)として本堂とともに国宝に指定されている。
多宝塔 - 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。
所在地
広島県尾道市東久保町20-28
歴史
推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。この寺が文書等にあらわれるのは鎌倉時代中ごろからのことで、鎌倉時代の初めには堂塔を守る人さえないという惨状だったが、徳治元年(1306年)に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証によって中興された。その後、正中2年(1325年)に焼失したが、尾道の有徳人道蓮・道性夫妻によって復興された。現存する国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂はこの時再興された建物である。
南北朝時代に入ると、各勢力が浄土寺を味方につけようと外護に努めた。元弘の乱の際後醍醐天皇は、住職に綸旨を下して祈祷を命じるとともに、因島の地頭職を寄進した。足利尊氏は建武3年(1336年)2月、九州に落ち延びる際、浄土寺本堂で戦勢挽回を祈願し、幾つかの地頭職を寄進。更に九州での戦いに勝利再起した同5月5日に再び浄土寺本堂に参籠して、1万巻の観音経を読経し、足利直義や道謙法師と共に観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願している。尊氏はその後、備後国の利生塔を浄土寺境内(元尾道市立筒湯小学校校庭)に建立し、寺では今も足利氏の家紋「二つ引門」を寺紋として使い続けている。今川了俊も九州へ下る際、数か月浄土寺に滞在し、軍備を整えたという。
室町時代も下ると、足利氏と関係の深かった浄土寺の寺運も衰えていった。近世に入ると落ち着きを取り戻し、泉涌寺派に属しながら尾道在住の豪商から外護を受けるようになり、庶民の信仰を中心とする寺院へ変貌していく。当地の豪商らによって、元禄3年(1690年)、方丈(重要文化財)、正徳年間には護摩堂・経堂、享保4年(1719年)、食堂(現在の庫裏及び客殿、重要文化財)が建立された。
境内
山門を入ると正面に本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらの中世仏教建築群に対し、境内西側には方丈、庫裏及び客殿など、僧の生活空間である近世建築群があり、庭園や茶室(露滴庵)もある。近世以前の寺院景観を良好に残す境内地は、本堂とともに国宝に指定されている。
文化財
国宝
本堂(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚) - 嘉暦2年(1327年)の建立。入母屋造本瓦葺き。和様を基調として大仏様、禅宗様の細部を取り入れた、中世折衷様仏堂建築の代表作。なお、平成6年(1994年)7月、境内地全域が「建造物と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」(文化財保護法第2条参照)として本堂とともに国宝に指定されている。
多宝塔 - 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。
所在地
広島県尾道市東久保町20-28