アフィリエイト広告を利用しています

広告

posted by fanblog

房総の古城(5)館山城A


館山城の続きです。

その後、館山城では数々の怪しげな出来事がおこりました。元和元年(1615)9月9日、忠義は突然幕府から国替えを言い渡され伯耆(ほうき)の国に配流となった。事実上戦国大名里見家は廃絶となる。まもなく岩槻の内藤氏・大多喜の本田氏が城の受け取りに来て館山城を破却した

里見家の廃絶後、安房国は天領・旗本領・小藩の領地に細分化さればらばらになります。自分の領地に帰農した者もいたが大半の家来は禄を失って相当に貧窮したらしい。


聞いた話:
@印東は公家風で顔に白粉をぬり紅を付け化粧をしていた。殿様の機嫌を取るのがうまくて気に入られた。殿様を笠に着てやりたい放題だった。上には調子が良いが下にはひどいことをした。(こういう人は今の時代でもいますね。)

A忠義は重臣たちを並べて箒(ほうき)で頭を叩いた。重臣たちは情けなく思った。伯耆(ほうき)に流されたのはその因縁なのか。

B家老山本清七は最後は浪人してかわいそうだった。先祖代々仕えて合戦のときはいつも先頭で働いてきた。別の名をちゅうじょう(中将)と言った。

館山城は戦時中に高射砲部隊が置かれ本丸を崩して二の丸千畳敷に盛られたため9m低くなりました。また総堀(鹿島堀)もほとんど埋められました。

本館(博物館)・分館(天主閣)・茶室・千畳敷・梅園(義康の御殿跡)・八遺臣の墓・孔雀園(新御殿跡)・重臣山本清七、印東采女正の屋敷跡・わずかな総堀(鹿島堀)跡・慈恩院の里見義康の墓所が見られます。天主閣の眺めは素晴らしいです




当時に近い風景。出野尾の山中から見る館山城。一説には城の受け渡しに戦いがあり落ちのびた十三人の武士がここで没したという。十三塚と供養塔が建っている。武士たちはどんな思いで城を見ていたのだろうか。



当時に近い風景。総堀跡から館山城を見る。周囲から独立した形のいい山。城のために出来たような山。



当時に近い風景。南東の広大な沼地から城を見る。現在は隆起して田園になっている。沼地は自然の総堀となっていた。



当時に近い風景。館山港から見る天主閣。天然の良港を持つ素晴らしい城。没落しなければ大いに栄えたであろう。トップは舵取りを間違えれば取り返しがつかなくなる。


古城・三橋美智也



この記事へのコメント

   
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。