2013年10月10日
里見家臣・山本清六とは
房総の時間:今回は山本清六の話です。
言い伝えと文献、後は推測で確証はありません。山本清六は山本清七の父と思います。山本は里見がまだ群馬県の館林に居る頃から250年くらい家来として仕えています。元は里見から出ており血縁と信頼で結ばれた鉄のような主従です。このような家臣には加藤・岡本・木曽・中里もいます。
里見義実の頃には久留里に出ており久留里城の支城として山本湯名城を守っています。湯名城のふもとに山本殿の井戸があり今もうまい水がでている。
里見義豊の天文の内訌の時、義豊軍(清六含む)は上総方面で作戦中でした。義堯軍が滝田城に入ったことを知り急きょ南下し稲村へ向かう途中、富山の犬掛で義堯の大軍と対峙し激戦となりました。特に犬掛の勝負田では勝敗をかけた決戦となり多勢に無勢の中義豊軍は敗退しました。しんがりを福原丹後守に任せ義豊主従は落ち延びていきます。
義豊と清六たちは犬掛→青木山→宮本→小原→亀ヶ原→稲村と落ち延び漸く稲村城に入ります。福原丹後守は青木山で追撃する敵勢を押し返し深手を負い仏森の洞窟に入り没した。他の重臣も五大所(五大将?)で没した。
義豊が稲村城に入ると義堯は腰越の狐塚に本陣を構え稲村城を攻撃します。激しい攻防戦が行われ山本清六たちは奪われた城を一旦は取り返しますが兵力を大きく失います。義豊は重臣・鎌田の進言を聞き城を落ちて水神森で没します。義豊の最後を知った家臣たちはほとんどが討ち死にします。
清六たち一部は再起を期し三芳方面から上総を目指します。もうボロボロだったでしょう。途中三芳の真名板で義堯軍に囲まれて激戦となり敗退。深手を負った清六は真名板の東側の山中に逃げて洞窟で没しました。この真名板の高台に十三塚が建てられており山本・中里・安西ら十三人の武将を供養しています。
滝田城から見る犬掛古戦場。
真名板の十三塚。
ブログのみ公開。
山本安太郎のいう言い伝え。「殿様が跡目を争って戦いになり、当家でも旦那様と14歳の長男が戦い行って討ち死にをした。負けた側なので生まれたばかりの男の子も危なくなり奥様と共に大房のタガイさんにかくまってもらい育てられた。その子が七つになると城から呼び出しが来た。殿様がその子を側に置いて教育した。その子はやがて里見の重臣となり常に里見の最前線にたった。」
これが山本清六・清七のことかどうかは確証がありません。
また「清七は軍事と策略に長けて里見家の軍事責任者だった。戦場では陣の前備え。強力なムカデ隊も配下に持っていた。」
安太郎はムカデ隊の旗を家族に見せて言い伝えを話した。
次回からはもっと明るいテーマにします。でも見てくれる方々がいて感謝しています。
言い伝えと文献、後は推測で確証はありません。山本清六は山本清七の父と思います。山本は里見がまだ群馬県の館林に居る頃から250年くらい家来として仕えています。元は里見から出ており血縁と信頼で結ばれた鉄のような主従です。このような家臣には加藤・岡本・木曽・中里もいます。
里見義実の頃には久留里に出ており久留里城の支城として山本湯名城を守っています。湯名城のふもとに山本殿の井戸があり今もうまい水がでている。
里見義豊の天文の内訌の時、義豊軍(清六含む)は上総方面で作戦中でした。義堯軍が滝田城に入ったことを知り急きょ南下し稲村へ向かう途中、富山の犬掛で義堯の大軍と対峙し激戦となりました。特に犬掛の勝負田では勝敗をかけた決戦となり多勢に無勢の中義豊軍は敗退しました。しんがりを福原丹後守に任せ義豊主従は落ち延びていきます。
義豊と清六たちは犬掛→青木山→宮本→小原→亀ヶ原→稲村と落ち延び漸く稲村城に入ります。福原丹後守は青木山で追撃する敵勢を押し返し深手を負い仏森の洞窟に入り没した。他の重臣も五大所(五大将?)で没した。
義豊が稲村城に入ると義堯は腰越の狐塚に本陣を構え稲村城を攻撃します。激しい攻防戦が行われ山本清六たちは奪われた城を一旦は取り返しますが兵力を大きく失います。義豊は重臣・鎌田の進言を聞き城を落ちて水神森で没します。義豊の最後を知った家臣たちはほとんどが討ち死にします。
清六たち一部は再起を期し三芳方面から上総を目指します。もうボロボロだったでしょう。途中三芳の真名板で義堯軍に囲まれて激戦となり敗退。深手を負った清六は真名板の東側の山中に逃げて洞窟で没しました。この真名板の高台に十三塚が建てられており山本・中里・安西ら十三人の武将を供養しています。
滝田城から見る犬掛古戦場。
真名板の十三塚。
ブログのみ公開。
山本安太郎のいう言い伝え。「殿様が跡目を争って戦いになり、当家でも旦那様と14歳の長男が戦い行って討ち死にをした。負けた側なので生まれたばかりの男の子も危なくなり奥様と共に大房のタガイさんにかくまってもらい育てられた。その子が七つになると城から呼び出しが来た。殿様がその子を側に置いて教育した。その子はやがて里見の重臣となり常に里見の最前線にたった。」
これが山本清六・清七のことかどうかは確証がありません。
また「清七は軍事と策略に長けて里見家の軍事責任者だった。戦場では陣の前備え。強力なムカデ隊も配下に持っていた。」
安太郎はムカデ隊の旗を家族に見せて言い伝えを話した。
次回からはもっと明るいテーマにします。でも見てくれる方々がいて感謝しています。
投稿者:クロポチ|18:05
|多田良ん鞨鼓と安太郎と山本清七