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里見家臣・山本清六とは

房総の時間:今回は山本清六の話です。

言い伝えと文献、後は推測で確証はありません。山本清六は山本清七の父と思います。山本は里見がまだ群馬県の館林に居る頃から250年くらい家来として仕えています。元は里見から出ており血縁と信頼で結ばれた鉄のような主従です。このような家臣には加藤・岡本・木曽・中里もいます。

里見義実の頃には久留里に出ており久留里城の支城として山本湯名城を守っています。湯名城のふもとに山本殿の井戸があり今もうまい水がでている。

里見義豊の天文の内訌の時、義豊軍(清六含む)は上総方面で作戦中でした。義堯軍が滝田城に入ったことを知り急きょ南下し稲村へ向かう途中、富山の犬掛で義堯の大軍と対峙し激戦となりました。特に犬掛の勝負田では勝敗をかけた決戦となり多勢に無勢の中義豊軍は敗退しました。しんがりを福原丹後守に任せ義豊主従は落ち延びていきます。

義豊と清六たちは犬掛→青木山→宮本→小原→亀ヶ原→稲村と落ち延び漸く稲村城に入ります。福原丹後守は青木山で追撃する敵勢を押し返し深手を負い仏森の洞窟に入り没した。他の重臣も五大所(五大将?)で没した。

義豊が稲村城に入ると義堯は腰越の狐塚に本陣を構え稲村城を攻撃します。激しい攻防戦が行われ山本清六たちは奪われた城を一旦は取り返しますが兵力を大きく失います。義豊は重臣・鎌田の進言を聞き城を落ちて水神森で没します。義豊の最後を知った家臣たちはほとんどが討ち死にします。

清六たち一部は再起を期し三芳方面から上総を目指します。もうボロボロだったでしょう。途中三芳の真名板で義堯軍に囲まれて激戦となり敗退。深手を負った清六は真名板の東側の山中に逃げて洞窟で没しました。この真名板の高台に十三塚が建てられており山本・中里・安西ら十三人の武将を供養しています。

滝田城から見る犬掛古戦場。

真名板の十三塚。

ブログのみ公開。


山本安太郎のいう言い伝え。「殿様が跡目を争って戦いになり、当家でも旦那様と14歳の長男が戦い行って討ち死にをした。負けた側なので生まれたばかりの男の子も危なくなり奥様と共に大房のタガイさんにかくまってもらい育てられた。その子が七つになると城から呼び出しが来た。殿様がその子を側に置いて教育した。その子はやがて里見の重臣となり常に里見の最前線にたった。」
これが山本清六・清七のことかどうかは確証がありません。

また「清七は軍事と策略に長けて里見家の軍事責任者だった。戦場では陣の前備え。強力なムカデ隊も配下に持っていた。」
安太郎はムカデ隊の旗を家族に見せて言い伝えを話した。

次回からはもっと明るいテーマにします。でも見てくれる方々がいて感謝しています。

ついに山本清七の直系発見か!

乾杯房総の時間:ついに山本清七の直系を発見か。乾杯

「ノスタルジー多田良」の長偏を書いてから12年間、南房総各地を訪ねたが山本清七の痕跡がほとんどなかった。久留里・湯名の周辺ではないかと考え何度も尋ねたが感触は少なかった。

今回館山渚の駅で「写真展・見渡せば里見人」を見たがその中に山本湯那城の城主でその後館山城を追われた・・・という説明の写真が有った。それは清七のことだ。この子孫が市原に在住している。永井藩に保護されていた。大名でもないのに家康から3000石を貰うなど異例の人物、捨てては置かなかったのだろう。まだ新しい小さな永井藩は後に大大名に発展する。

私は簡単に清七と呼んでいるが官位名は久留里の頃は城代山本越前守、館山城の頃は筆頭家老で山本中将と呼ばれた。配下に強力なムカデ軍団(前進のみで後ろに下がらない)を持つていた。里見家の為に長い戦国を戦い抜いた武闘派であった。

12年かけてさっぱり分からずあきらめかけていたがこの写真展のおかげだった。展示写真は鮮明でまた当時を思わせる情景を表している。嶋津先生に心から感謝。
いつか市原の御当主に会いたい。こちらには5軒の同族と数々の言い伝えが残っている。






清七が失脚してから丁度400年目になる。安太郎の笛や鞨鼓舞の経緯も絡んで多くのいい伝えが現実になりそうだ。これで責任を果たせる気がする。今度、清七を企画しよう。

子孫として一言:忠義、おまえはアホか。



ブログ:戦国大名里見9代(2)・5代義堯

ブログ:戦国大名里見9代(4)・8代義康と9代忠義

多田良の鞨鼓舞:安太郎異聞

房総の時間:安太郎異聞を1日のみ公開。明治後期の話です。異聞で内容に責任は持ちません。

AはF村名主Mの屋敷に駆け込み転ぶように懇願した。「御前、Yがヘシ(銛)で背中を突かれて大けがをした。このままではYの命があぶねえ。御前、助けてくだせえ。」

Mは「Aどん顔色がずいぶん悪りいが、大丈夫か。話は聞いてるがそれほどひでえことになっているのか。夜中に大火事があったってのはその関係かい」Aは「西風の強ええ夜中に仲間のTの家の竹藪から火が出て10軒ぐれえが丸焼んなった。不審火だ、おらあ毎晩寝ずにYの周りを見張ってる。火つけられたらおおごとだし、Yになんかあればご先祖に申し訳たたねえ。今おらのGの家もあぶねえんだ。」

MはAを座敷に上げて仲居に茶を運ばせた。「まあ茶を飲みなせえ。じっくり話をきくべえ」
AはYの叔父に当たる。Aは本来D家の跡取りだった。しかし同じ村のG家の一人娘が美人で惚れ込んでしまった。妹に「ぎん、すまねえな、後は頼んだど」と言って家を出てG家に婿に入った。そのため妹やその長男Yにはいつも心を痛めていた。

浜の漁業権を売却する話が持ち上がって村が二つに割れた。反対派はD家、T家、G家などでYが反対派の頭だった。が多勢に無勢だった。それでも浜を守ることにYは体を張っていた。

Mは「俺の所でYさんを預かってもすぐに帰えってしまう。Yさんは真直ぐな男だ。身を捨てて掛ってる。止めるのは無理だな」
「御前、だから余計あぶねえんだ。浜のことなんぞどうでもいい。話なんか通らねえよ、Yを守ってくだせえ。Yをヘシで突いたやつも分かっている。漁もしねえで人の隙を狙ってるやつだ」

Mは「Aどん、でどうする。どうしてえんだ。俺はこっち側の名主でAどんやYさんの味方はできねえよ」
Aは「そんなことじゃあねえ。おらは毎晩YとDの家を見守っている。それでも守り切れねえ。おらも体が持たねえ。警察に守ってもらいてえんだ」

Mはしばらく考えてから「警察が1日中守ってやることはできねえ。一番確かなのは拘置することだよ。だけどなんの落ち度のねえYさんにとってこれは耐えられねえだろ。Aどんも俺も生涯悔やむことになるよ」
「御前、それでもかまわねえ。Yを守ればいい。おらあ後でYに土下座しるよ」

Mは「Yさんに容疑を掛けて警察に預けるんだ。署長は俺の息の掛った者だ、よく話をしておく。決して粗末にはしねえ。知ってる医者に傷の手当てもさせる。」
Aは「容疑かい、Yにとっちゃあそらあ辛れえなあ。だっけんそれしかねえ。後でYが怒ったらおらあ土下座くれえではではすまねえな」

「Aどん、Yさんとこには刀があるだろ」
「へえ、4振りあるよ」
「よし、それで刃傷容疑を作り上げて警察に預けよう。Yさんの家は警察が差し抑えとすれば誰も手がだせねえ。あとはYさんのことはこのMが名を掛けて請け負う。Aどん、このことは奥にも話すこと無用、俺とAどんが墓場まで持っていくんだ」


浜の事がほぼ終わった頃Mは釈放という形でYを連れ帰った。Yは家で床を叩いて涙を流して悔しがった。「浜を売ってどうすんだ」と。Yが留置の間、Aは劣勢のなか頑張っていた。Yに「すまねえ、力になれねった」と言った。後にAは過労がたたって脳梗塞で倒れ体が不自由になった。Yはおおかたのことは察していた。Aの誠意に心から感謝し体を気遣った。

Yは以前のようにM家を訪れた。Mは里見武士を思わせるYの人柄を称えた。Yの哀愁に満ちた笛を好み民謡や鞨鼓の曲を所望した。よく酒を酌み交わした。晩年のYの笛は益々澄んで冴えたという。YはMを兄のように慕っていた。Mは元里見家一門でYの先祖とは主従であった。






多田良の鞨鼓舞:総括

房総の時間:鞨鼓舞と山本安太郎のまとめを書きます。このシリーズは地元の人でないと分かりにくいと思いますのでこれでお終りにします。

房総里見が没落した後、安房国は幕府の直轄領や旗本の領地になった。ほとんどの領主は年貢を取るだけで地元に還元しなかった。置き去られたような村は年貢を納めるだけで教育も文化も余りほどこされなかった。領主とか殿様とか言えば里見の印象だけが残っていて元家来は武士を捨てても細々と旧交をつないでいた。

明治に入ってその領主も無くなり、また新政府によって神社が尊重された。多田良の宮司家、多田良の名主どん、山本安太郎などが「この辺は何も無いから何か始めよう」「いわれのあるものでないと」・・・がきっかけとなった。そして多田良の宮司家と長狭大山不動の姻戚関係、名主どん岡本国太郎の推進運動、山本安太郎と長狭の旧家の関係などが背景となった。

明治中期の富浦町長は岡在住の医師岩原鉄之助であり岡本国太郎が働きかけた。明治後期から大正初期には岡本国太郎が富浦町長となった。(但し鞨鼓舞がここで創始なのか再興なのかは分からない)

費用は宮司さん、名主どん、山本安太郎、出口氏、茅野氏らが出し合った。さらに出口、岡、汐入、岡本から寄付を集めた。そのため祭には岡本2か所(稲荷様、角のみますや)、汐入1か所(場所不明)、岡天満宮で鞨鼓舞を披露した。出口では宮司家、稲荷様、りゅうぐうさまの3か所だったという。
人員は、鞨鼓舞踊り手6−8人、おかめ・ひょっとこ2人(兼務?)、太鼓1人、笛1人の体制だったようだ。飾った荷車に道具を積んで移動した。

昭和40年代には岡本や汐入(豊岡)の老人から山本安太郎の話を聞くことができた。当時のことをとても懐かしく話してくれた。多田良の鞨鼓舞が今でも健在ということは先輩たちも満足でしょう。


房総の時間:多田良の鞨鼓舞:山本安太郎@謎

房総の時間:多田良の鞨鼓舞:山本安太郎@推測


房総の時間:多田良の鞨鼓舞:山本安太郎A謎

房総の時間:多田良の鞨鼓舞:山本安太郎A推測


房総の時間:多田良の鞨鼓舞始まり@

房総の時間:多田良の鞨鼓舞始まりA


高校2年の夏、青年会と鞨鼓舞の役員が家に来て、鞨鼓舞に入るよう要請された。「鞨鼓を始めた家だし惣領(長男)だから入ってくれ」と。そして今に至る。(この写真から45年もたつのか・・・)



これで多田良の鞨鼓舞の話を終わります。年内にまとめてよかったです。どうぞ良いお年をお迎え下さい。










多田良の鞨鼓舞:始まりA

房総の時間:多田良の鞨鼓舞の始動期です。

笛は3−4曲有って踊りの場面で曲が入れ変った。当時は替え歌で覚える程度なので祭が途切れれば分からなくなってしまう。現存の曲は元はどこから来たのか、またはオリジナルなのかわからない。「高音がよく通った」というから高い音の曲があったのだろう。また「弓が出ると曲が変る」と聞いていた。自分が知る限りでは現在の1曲のみである。

オカメ・ヒョットコが出る場面ではそれ用の曲もあったかもしれない。
子供をおだてて注連縄の向こうに連れていく。そしてやったやったと喜ぶ。弓が出るとしきりに邪魔をする。雄獅子の勢いに押されて下がっている時に弓を潜る。結構おもしろい場面があって鞨鼓舞のアクセントになっていた。これは高校時代に見ている。

安太郎は夕方、庭でよく笛を吹いた。民謡を好んだという「遠音がさしてしみるようだった」とか「一とき暑さを忘れた」とか言われた。また「友人の笛を高音でヒビを入れた」とか。エピソードが残っている。

当時の祭は荷車に道具を乗せて各場所で披露した。岡本の稲荷様、角のミマス屋、汐入?でも踊った。後に岡本や豊岡の人達が安太郎の笛を懐かしく語ってくれた。

安太郎の弟子の1人はトオスヤさん、その弟子は安西さん。戦中は祭は無く戦後再開した。40年代はまだテープが無かったので無音で練習した。ごくまれに笛と太鼓が入った。

宵宮の日は待望の笛吹きが来るので午前中に最後の調整練習をした。鞨鼓舞はそれが本練習でもあり幟立てや竹切りはしなかった。
午後屋台の出発の頃、鞨鼓舞は公会堂に上って休憩した。役員が「鞨鼓の方はいいですか」と聞きに来て鞨鼓の親方が「よし」と言って出発になった。この辺は時代に合わせた仕来たりだと思う。



昭和49年とあるが48年かもしれない。払い手:高山氏。持ち手:鈴木氏。雄獅子:酒井氏。

昭和48年7月24日午前中の総練習。笛・太鼓・ササラ・弓の全員で2回くらい通しで行った。







多田良の鞨鼓舞:始まり@

房総の時間:多田良の鞨鼓舞の始まりの様子。

多田良の鞨鼓舞は最初から神事として始められたと考えている。神社に奉納するもので神官なしでは成り立たない。大山不動は当時鞨鼓舞の大元になっていて大武佐不動と親密だった。 

鞨鼓の面は大武佐不動と大山不動の縁故で「奥山・大崩の村」から借りた。「使ってないからいいよ」ということだった。「これではだめだ」と見る影もないほど痛みがひどかった。塗りもボロボロで毛もほとんど無かった。

鞨鼓舞に関わった5軒がお金を出し合いまた岡本国太郎氏など有志から寄付を集めて修理をした。結構な金額だったようだ。面の塗りは黒、朱、金と3色で見違えるように立派に仕上がった。衣装は長狭のものをまねて作った。

踊りの形式は雄獅子が雌獅子をめぐって争うものでなく子供を探すという内容である。北風原の鞨鼓舞に似た部分を感じる。神余の鞨鼓舞とは内容が別物に思える。

雄獅子と雌獅子の踊りにはオカメ・ヒョットコが入った。これは踊りを邪魔するためである。特に雄獅子の弓の踊りはしつこく邪魔をする。子供を救出させないようにする。これも北風原に似ている。昭和40年代まではあった。


ササラも特徴は北風原に似ている。長狭地方に多いのかもしれない。多田良では踊りの始めと終わりに簡単に取り入れている。特に笠とササラが良く似ている。

弓は独特のアレンジと思われる。縦弓、横弓を潜るのは他にはない。当時の踊り手の熱意から実現したのだろう。最初の弓は安太郎が家の尾根裏に有ったものを提供した。本物でなければ使えなかったのだろう。
弓は払い手が弓のモトを持ち、持ち手が弓のウラを持つのが最初の形だった。昭和40年代まではそうなっていた。


鞨鼓の顔:怖いような愛嬌のあるような印象的な顔。目じりが少し上がっているのが東洋の神秘と言われる目。思い切りキンキラキンが特徴。どこよりも大胆で堂々とした表情である。












多田良の鞨鼓:山本安太郎A推測

房総の時間:謎Aの推測です。気になる文献を見つけました。

里見の家臣の知行高と場所の記録です。安太郎の先祖と言われる山本清七の知行が出ていました。「山本清七知行1351石・・・の内482石・・・ぬかり屋村、但し大家さや」と書いてあります。




清七の領地は館山氏の山本村・三芳の下堀村・鴨川のぬかり屋村の3か所です。
この「大家さや」という人物はだれなのか。清七に代わってぬかり屋村を管理する女性なのか。清七は館山城のふもとに住んでいたので奥様と子供も一緒だと思う。

身内の誰かに管理させていたのだろうか。もしかして「さや」は清七の信頼できる女性? 或いは能力のある側室?。もし「さや」の家が豪農として続いていたらその家と安太郎の家は清七を父とする兄弟かそれとも従兄弟だかの極近い関係になる。

安太郎が気軽に長逗留する長狭の「大百姓」とは「さや」の子孫だったのか。
それほど親密な交際のあった親戚や知人は他に聞いていない。
安太郎が鴨川の港に船を置いて長狭街道に出るとまもなく「ぬかりや村」。「港からすぐだ」というのは「ぬかりや村」だったのか。ぬかりや=今の滑谷だろうか。

大正の中頃、安太郎が没してから不幸が続きこの交流は絶えた。その豪農も戦後どうなったかわからない。山本姓なのか名前が伝わっていない。
安太郎の謎は他にもありますが鞨鼓舞に関しては以上です。









多田良の鞨鼓:山本安太郎A謎

房総の時間:今回は山本安太郎の謎Aです。この謎Aを解く背景として謎@が必要でした。

宮司さんの周旋で鞨鼓舞の見通しが立ち、山本安太郎は笛を習います。安太郎は元々笛が好きで民謡を吹いていました。民謡は長狭の友人に習っていました。
休漁期になると時々長狭に来ました。そして「■ ■ ■の大百姓」の家に宿泊します。長逗留で1−2カ月いました。鞨鼓の笛も同様でした。

また安太郎は大山不動が好きで兄弟や家族を連れてお参りに来るとこの農家に数日宿泊しました。必然というか3度のご飯とお風呂も御世話になっています。不思議なのはこれだけ御世話になって謝礼はほとんどしていないのです。

「受取らない」とか「有りがたく世話になる」とか「昔は身内」とかでした。「大百姓」は家も広く使用人もいる豪農のようでした。安太郎は子供の頃も来ているので鞨鼓の笛以前からの親交です。

この謎A、最近糸口を見つけました。次回は謎Aの推測になります。
まったくの検討違いかも。或いは近いかも。個人的な推測で証拠はないし責任も持てません。
定年で遊んでいると色々できて結構忙しいです。ブログ動画写真サイトで体がもちません。




大山不動と田園。


鞨鼓舞の大元:高倉神社。昔はここで鞨鼓舞を奉納した。


大山不動から長狭平野をみる。遠方は太平洋


請雨山から長狭平野をみる。右奥は愛宕山。











多田良の鞨鼓:山本安太郎@推測

房総の時間:安太郎@の謎解きです。

まず名主どんの岡本氏。岡本氏の先祖は里見の家臣だったようです。国太郎氏は安太郎と酒を飲むと先祖の話になり里見のことも品物を見せて話をしたそうです。

ウオッチングや歴史講座で知りましたが富浦町には現在でも岡本姓を名乗る家が多くあり里見旧臣が多く残っている。岡本姓のトップの武士は里見家の家老でした。

次に正木氏。正木氏のこともウオッチングや歴史講座で知りました。正木氏は里見家と血縁関係になる一門で殿様の相談役クラス。正木氏は安房国内に多く配置され船形の正木氏は船形と富浦(当時は岡本浦)の水軍を配下にしていました。

船形の地名は船方(乗子)から来たものです。当時はドンドン橋が船着き場で小原まで入江になっており軍船を多数係留したそうです。

で山本安太郎、安太郎は、「先祖の山本清七の名前を忘れるな」と怨念のように聞かされてきました。里見の家来だったと。清七が一族の頭目だと。山本清七の直系ではないでしょうけど。清七の最後は可哀想だったというのが怨念のように感じます。

最近館山市立博物館で里見の家来分限帳を見ました。(現在も展示)そこに山本清七が載っていたのです。これには衝撃をうけました。一門は別にして家来の一番最初に書いてあります。家老番頭山本清七と。博物館の先生に詳しく読んでもらいました。また同じことが富浦町史にも載っていました。

まとめると。
漁師・山本安太郎が多田良村の名主岡本氏や船形村の名主正木氏と親交があったのはそれぞれが元里見家重臣の末裔という懐かしさだったと思います。岡本氏も正木氏も名主で経済的には不自由無いだろうし明治はまだ武士の意識が強い時期です。

特に正木家は主君筋になり親分子分のような繋がりだろうか。安太郎の母親ぎん(天保11年生1840年・夫は北浜仲島家より入婿)も正木家を訪れたらしく付き合いは長かったかもしれない。



博物館の家来分限帳は載せられないので他の資料を載せます。里見家来には山本姓の武士が何人かいます。また多田良堂山を守備していた山本さんの先祖も載っていました。



多田良の鞨鼓:山本安太郎@謎

房総の時間:多田良の鞨鼓舞の始まりに関係すること。

創始にあたって不思議に思う点がいくつかあり気に掛っていました。いろいろな言い伝えを突き合わせてまた文献を見つけて考えて多分・・・という推測になりました。当然、浅知恵でしょうが他にはどうも根拠が分かりません。

多田良の鞨鼓舞は明治の中頃に始めたものです。創始に当たっては地元の宮司さんと4軒の家が関わっています。宮司さんの家は鴨川の大山不動と関係が深くそれが基になっています。4軒の家はそれぞれが笛、太鼓、踊り手を分担しました。

今回の話は笛の山本安太郎のことです。
安太郎は本業は突ん棒によるカジキ漁でした。当時八丁櫓の漁船を2隻持って漁をしていました。伊豆大島・下田・三崎・七浦・鴨川の海域が漁場でした。漁の腕は良くずいぶん稼いだそうです。築地では房州の金張りと呼ばれていた。三崎に銀張りがいた。(たぶん水揚げ本数)

その安太郎が漁の合間によく遊びに行った家が2軒あります。1軒目は多田良村の名主どん岡本国太郎氏で大正初期の富浦町の町長。ここへよく遊びに行って碁や将棋を打って酒を飲んだそうです。隣の宮司さんも一緒に遊んでいました。岡本氏とはお互いに遠慮なしだったそうです。

2軒目は船形の正木貞蔵氏・清一郎氏です。正木氏は船形村と小原村の名主でした。貞蔵氏は館山港に尽力し・清一郎氏は船形港を開いた実力者です。安太郎はここへ行く時はうれしそうにいそいそと行った。いつもごちそうになってお土産を頂いて帰ってきた。稼ぐ漁師でほどこしを受けるような男ではない安太郎が正木氏には安心しきっていたようだ。正木氏を御前とも呼んでいた。

腕が良くても漁師、当時まだ身分がはっきりしていた時代にそういう人たちと親交があったのが不思議。謎@です。




伊豆大島岡田港・明治後期

伊豆大島波浮港・明治後期

水揚げ帳・大正3年

水揚げ帳・大正3年









   
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