質というのは、例えばサイエンスやネイチャーなどの権威のあるジャーナルに掲載されるということ。
これが価値判断の基準となる。
つまり、研究が世の中のためになるかどうかは関係がないのだ。
だから、研究者なんてどれだけ実際の世の中のために役立つか誰も分からない。
そもそも研究者は論文だけ書いていればよくて、自分の研究が世の中のためになるなどということについては全くの無関心なのだ。
様式美、また、参考文献を読んでいますよとアピールしないと信用されないなどなど・・・本当、参考文献を調べるのが大変。
そんな研究者たちに、一体どれほどの存在価値があるのだろうか?
Yahoo!より、
大学の常識は世間の非常識?論文の数と質が評価を決める組織
5/28(土) 7:21配信
LIMO
https://news.yahoo.co.jp/articles/005fa76dcc368bcb516f9542f15c52f26ac97637
記事より、
大学の常識は世間の常識と大きく異なっています。優劣の問題ではなく、とにかく違うのです(経済評論家、元大学教授 塚崎公義)。
大学教授が研究している内容を講義しているわけではないので、学生からの授業料は教育に、税金は研究に使われていると考えられます。そうだとして、研究結果が税金の使い道として相応しいと言えるのでしょうか。
研究は、真理を探究するものですが、それが「役にたつか否か」はあまり重要視されていないようです。そもそも「役に立つ」というのが日本経済の発展に資する、という事でもないようです。そうした事を考えると、税金の投入先を決めるに際し、大学の予算は他の予算項目と大きな違いがあるようです。
教育はどうでしょうか。経済学等を学ぶために大学に来ている学生よりも大学卒の資格を得るために来ている学生が圧倒的でしょうし、保護者もそうでしょう。では、教授は何のために教育をしているのでしょうか。
大学教授の価値観は、一言で言えば「論文の数と質が人間の価値を決める」というものでしょう。
ちなみに論文の質は、どの雑誌に掲載されたかで決まります。「査読」という審査に合格した論文だけを掲載する雑誌に載ることが良いことで、審査が厳しければ厳しいほど掲載された論文が優れていると評価されるわけです。
したがって、景気予測等に注力している筆者は、大学教授の間では「論文をほとんど書いた事がない、価値の低い人間」なのです。景気予測は経験と勘がものをいう仕事ですから。
まあ、「塚崎先生は、論文は少ないけれども、教育と学内行政をしっかりやってくれているから」と慰めてくれる同僚は少なからずいましたが(笑)。
論文は、内容が優れているだけではダメで、決められた作法に基づいて書かれる必要があります。論文の作法は茶道のようなもので、茶会に招かれたときに、美味しいと思いながらお茶を飲むだけではダメであるのと同様に、論文執筆の作法が厳しく定められているのです。
筆者が最初に論文を書いたのは、銀行在籍中でしたので、銀行員の書くような文章を書きました。
それを査読付きの論文集に投稿したところ、「内容的には興味深いが、そもそも論文としての基本的な文体を学び、最低限○○と○○等の先行論文を読んでから、再度投稿されたい」との返事がありました。
一例を示せば、注と参考文献が極めて重要です。このテーマに関する先人の研究論文は一通り読んだという事を示した上で、どの部分をどの論文から引用したかを事細かに示す必要があるのです。「こんなに頑張っているのです」とアピールする事が大事なのかも知れませんね(笑)。
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