2020年05月04日
正しい信仰とは「根本」が大事
現在、幻の総支隊長さんのブログのコメント欄が盛り上がっています。
http://blog.livedoor.jp/maboroshi7729/archives/40497366.html#comments
顕正会員・法華講員、更には末端の顕正会員も含めてなかなか楽しい事になっています。
「天母山戒壇説」についてがメインですが、こんなものはとっくに破折され尽くした事です、ちょっと検索かければいっぱい出てきますからね。
しかし幻さんも仰ってますが、天母山云々がどうであれ、顕正会はそもそもの根本が間違っているのです。
顕正会は結局、根本的な問題を突きつけられるのが痛いので、教学部連中は特に枝葉の事や戒壇義で喚くしかありません。
本尊を勝手に作り、塔婆を否定し、在家で葬儀をやり、勤行を勝手に変える。
これらについて顕正会から「ほう」という反論がありましたでしょうか?一つも無いではないですか。
当然なんですよ。血脈が繋がっていないんですから。
化儀抄二十七条(要集一巻六四)
・第九世 日有上人 信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず(中略)出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり。
第59世 日亨上人『有師化儀抄註解』
信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、
信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、
其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、
若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、
信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、
其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、
仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、
若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)
これは極一部ですが、これだけでも血脈に違う事が間違っているのか、よく分かります。
日如上人猊下も平成23年の夏期講習会に於いて
「まさに今日の、下種三宝を破壊した池田創価学会、あるいは血脈を否定した自称正信会、または顕正会、これらの者たちは、まさしく『信なくして此の経を行』ずる者になるわけですから、この御文の御指南のように、いくら拝んでも功徳はないのです。根本のところが間違っているわけですから、そのような者は『手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし』であると、大聖人様は厳しくおっしゃているのです」と仰せになっています。
顕正会は今、日如上人猊下の事を「優柔不断」「前科ある」などと「伏して拝す」からだんだんと誹謗にシフトしていっていますが、猊下は既に9年前の時点で「根本から間違っている」と斬られているのです。
結局、門外漢の顕正会がいくら頑張っても、根本が間違っている故に功徳が無いのです。功徳だと思いこんでるのは「魔の通力」であり、魔の通力に誑かされ、本質を見失い、「功徳とは六根清浄の果報なり」との大聖人様の仰せの如く六根清浄からかけ離れていっていないでしょうか?
どうか今一度顕正会員の方には視野を広め、もっと調べてほしいと思っています。今はちょっとググるだけでいくらでも情報が入ってくる時代なのですから。
こういうブログを見ているという事は既にそういう見識を持っての事だとは思いますが・・
http://blog.livedoor.jp/maboroshi7729/archives/40497366.html#comments
顕正会員・法華講員、更には末端の顕正会員も含めてなかなか楽しい事になっています。
「天母山戒壇説」についてがメインですが、こんなものはとっくに破折され尽くした事です、ちょっと検索かければいっぱい出てきますからね。
しかし幻さんも仰ってますが、天母山云々がどうであれ、顕正会はそもそもの根本が間違っているのです。
顕正会は結局、根本的な問題を突きつけられるのが痛いので、教学部連中は特に枝葉の事や戒壇義で喚くしかありません。
本尊を勝手に作り、塔婆を否定し、在家で葬儀をやり、勤行を勝手に変える。
これらについて顕正会から「ほう」という反論がありましたでしょうか?一つも無いではないですか。
当然なんですよ。血脈が繋がっていないんですから。
化儀抄二十七条(要集一巻六四)
・第九世 日有上人 信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず(中略)出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり。
第59世 日亨上人『有師化儀抄註解』
信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、
信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、
其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、
若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、
信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、
其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、
仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、
若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)
これは極一部ですが、これだけでも血脈に違う事が間違っているのか、よく分かります。
日如上人猊下も平成23年の夏期講習会に於いて
「まさに今日の、下種三宝を破壊した池田創価学会、あるいは血脈を否定した自称正信会、または顕正会、これらの者たちは、まさしく『信なくして此の経を行』ずる者になるわけですから、この御文の御指南のように、いくら拝んでも功徳はないのです。根本のところが間違っているわけですから、そのような者は『手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし』であると、大聖人様は厳しくおっしゃているのです」と仰せになっています。
顕正会は今、日如上人猊下の事を「優柔不断」「前科ある」などと「伏して拝す」からだんだんと誹謗にシフトしていっていますが、猊下は既に9年前の時点で「根本から間違っている」と斬られているのです。
結局、門外漢の顕正会がいくら頑張っても、根本が間違っている故に功徳が無いのです。功徳だと思いこんでるのは「魔の通力」であり、魔の通力に誑かされ、本質を見失い、「功徳とは六根清浄の果報なり」との大聖人様の仰せの如く六根清浄からかけ離れていっていないでしょうか?
どうか今一度顕正会員の方には視野を広め、もっと調べてほしいと思っています。今はちょっとググるだけでいくらでも情報が入ってくる時代なのですから。
こういうブログを見ているという事は既にそういう見識を持っての事だとは思いますが・・
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