2018年03月13日
血脈
「夫(それ)生死一大事血脈とは所謂(いわゆる)妙法蓮華経是(これ)なり。其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫(おんのんごう)より已来寸時(このかたすんじ)も離れざる血脈なり」(御書513)
「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴(とうと)し貴し。此の文に委悉(いしつ)なり、能く能く心得させ給へ。只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(御書514)
どちらも『生死一大事血脈抄』の中に出てくる御金言となります。
この血脈というのが日蓮正宗こそが正法と言える根幹となるのです。
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興」
(御書1675)
と顕正会員であれば必ず聞いた事のある一期弘法付囑書ですが、この日興上人こそ、唯一血脈を受け継いだ方となるのです、そして日目上人・日道上人・・と続いていきます。そして現在の68世日如上人に至るまで血脈は繋がっているのです。
「いいやそれは違う!細井管長から阿部管長へは血脈は途切れてしまった!」と思う顕正会員もいるかもしれません、しかし過去に浅井会長は
「かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、
『本門戒壇の大御本尊』を付嘱の法体として代を重ねること67代、(※日顕上人)
清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。
これが正系門家・富士大石寺の伝統である」
(『冨士』 表紙 昭和61年11月号 )
「ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義について触れておく。
(中略)
非常事態が万一あったとしても、
血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。
御本仏の下種仏法は金剛不壊である。
法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である。
(中略)
どうして途中で中断するような方法をお用いあそばすであろうか。
甚深の御仏智に深く信を取らなければならぬ。
いかなる事態があろうとも、本宗の血脈はまた不断である。
ちなみに現在、正信会に席を置いているか否かは知らぬが、
久保川法章の戒壇の大御本尊と血脈についての所論のごときは、
いまだ初学の慢心者が、学会憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない。」
『学会・宗門抗争の根本原因』
「阿部管長憎しのあまり、そして池田大作を偉く見せるために、
ついに下種仏法の命脈たる金口の相承までも学会は完全否定してしまったのであります。
(中略)
これを仏法破壊といわずして、何を仏法破壊とというのか。
これを大謗法といわずして、何がいったい大謗法でありましょうか。」
(『顕正新聞』平成4年6月5日号)
▼ 今池田大作は、大石寺を怨嫉する要法寺の謗法貫主と同じ論法で、この「唯授一人の血脈相承」を否定しているんだ。
まさに仏法の命脈を断たんとする魔の所行といわねばならない。
▼ 阿部日顕管長の権威を徹底して失くしたいんだね。
だから学会は、日蓮正宗の血脈そのものを否定するだけでなく、その上に阿部管長については、「日達上人から相承を承けていない」「贋(にせ)法主」「詐称法主」などと、最近ではしきりに匂わせている。
「日蓮正宗には本来血脈相承などない」と云っておきながら、「日顕は日達上人から相承を受けてない」というのも矛盾した話だがね(大笑)
▼ 血脈は絶対に断絶しない。
たとえ御相承の儀式があろうと、なかろうと、絶対に断絶はしないのです。
▼ 断絶してたまるかい。
長い歴史の間にはいろいろなこともある。
しかしどのような事態が起きようとも、断絶しないようになっているんだよ。
大聖人様の御仏智によって。
▼「戒壇の大御本尊は一日として付嘱の人の空白ということがない。
またこの付嘱に付随して『金口の血脈』もなくなることはない。
(中略)
何代、代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝えるように出来ているんだ。
これが御本仏の御仏智なのです。
だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。
断絶などはあり得ないのです。」
(『顕正新聞』平成5年1月5日号)
と、血脈は断絶していないと言っていますね。かと思えば
「細井管長は昭和54年7月22日、入院していたフジヤマ病院で、
臨終思うようにならず急死を遂げた。
貫首の立場にある人が、誰もそばにいないとき、一人で急死してしまった。
よって御相承をすることができなかったのであります。
まさしく御遺命に背いたゆえに、細井管長は御相承を『授ける』ことができず、
阿部管長また御遺命違背の科によって『受ける』ことができなかった。
『授』なく『受』なしであります。(中略)
もし大聖人の御心に叶う正しい貫首上人が御出現になれば、
そのとき、たちまちに正系門家の血脈は蘇る。
そういうことになっているのです。」
(顕正新聞 平成11年4月25日号)
と言ってみたり、最近でも断絶はしていないと言ったり、じゃあ日顕上人は血脈を受けてるのか受けてないのか、どっちなのでしょうか?
この血脈というのは大事な事なのです、日蓮正宗では「縦の筋目」というのを大事とします。
御法主上人を上とし、各末寺の御住職・我々在家とこの筋目を守らねければなりません。
御僧侶とひとくくりにしましたが、御僧侶の中でも具体的にランクがあります。一番下は出家得度したばかりの御小僧さんとなりますが、この御小僧さんよりも我々在家というのはランクは下なのです。これは日興遺誡置文に於いて、「一、若輩爲りと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。」との仰せがあるからに過ぎません。
とすれば、在家の身分が御僧侶を飛び越えようとしていた日蓮正宗時代の創価学会や妙信講はまさにこの御文に対する違背としか思えないのです。
よって、在家の自分たち法華講員は指導教師である御住職様の御指導のままに信仰していく事こそ肝要となるのです。
さてその中で、御本尊下付がありますが、日蓮正宗では御本尊下付は必ず御住職様の許可を得て下付されます。この御住職様の許可を得る事が筋目となるのです。
では例えば、信徒同士で御本尊様を貸し借りしたり、貰ったりして拝んでいたとしました、もちろん開眼を受けた本物の御本尊様です。その御本尊様に功徳はあるのかといえば、答えは「いいえ」となります。
例え本物の尊い常住の御本尊様であろうが、所属の御住職様の許可の無い御本尊様は筋目から外れており、功徳は無いのです。 もしこれに功徳があるとすれば、身延を始めとした他宗の本尊でも良いという事になります。
いくら顕正会がなんて言おうと、顕正会には血脈が通っていない以上顕正会の御本尊には功徳が無いのです。
それが本部・東京・神奈川の常住御本尊だとしてもです。
(余談ですがこの御本尊も本物かどうか怪しいのです、綺麗すぎます、あくまでも個人的な意見ですが)
「いいや、御遺命を破壊した宗門の御本尊こそ血脈が通っていない!」と思うかもしれません。
じゃあ逆に、浅井会長は誰から血脈を受けているのですか?御遺命を守っているから正しいなんて他宗でも言ってますよ。御遺命を守っているという判断は誰がしたのですか?
第65世日淳上人は
「仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。」と仰せです。
もし顕正会が正しいと言うならば、浅井会長は相承を受けている事になります。
顕正会員の方、浅井会長は相承を受けているという事でよろしいのでしょうか?
もし「それは違うけど・・」と言うならば日淳上人の御言葉が聞けないという事です。
重い罪業をこれ以上積まないように、早く正法に帰伏するべきではないでしょうか?
「殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴(とうと)し貴し。此の文に委悉(いしつ)なり、能く能く心得させ給へ。只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(御書514)
どちらも『生死一大事血脈抄』の中に出てくる御金言となります。
この血脈というのが日蓮正宗こそが正法と言える根幹となるのです。
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興」
(御書1675)
と顕正会員であれば必ず聞いた事のある一期弘法付囑書ですが、この日興上人こそ、唯一血脈を受け継いだ方となるのです、そして日目上人・日道上人・・と続いていきます。そして現在の68世日如上人に至るまで血脈は繋がっているのです。
「いいやそれは違う!細井管長から阿部管長へは血脈は途切れてしまった!」と思う顕正会員もいるかもしれません、しかし過去に浅井会長は
「かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、
『本門戒壇の大御本尊』を付嘱の法体として代を重ねること67代、(※日顕上人)
清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。
これが正系門家・富士大石寺の伝統である」
(『冨士』 表紙 昭和61年11月号 )
「ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義について触れておく。
(中略)
非常事態が万一あったとしても、
血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。
御本仏の下種仏法は金剛不壊である。
法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である。
(中略)
どうして途中で中断するような方法をお用いあそばすであろうか。
甚深の御仏智に深く信を取らなければならぬ。
いかなる事態があろうとも、本宗の血脈はまた不断である。
ちなみに現在、正信会に席を置いているか否かは知らぬが、
久保川法章の戒壇の大御本尊と血脈についての所論のごときは、
いまだ初学の慢心者が、学会憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない。」
『学会・宗門抗争の根本原因』
「阿部管長憎しのあまり、そして池田大作を偉く見せるために、
ついに下種仏法の命脈たる金口の相承までも学会は完全否定してしまったのであります。
(中略)
これを仏法破壊といわずして、何を仏法破壊とというのか。
これを大謗法といわずして、何がいったい大謗法でありましょうか。」
(『顕正新聞』平成4年6月5日号)
▼ 今池田大作は、大石寺を怨嫉する要法寺の謗法貫主と同じ論法で、この「唯授一人の血脈相承」を否定しているんだ。
まさに仏法の命脈を断たんとする魔の所行といわねばならない。
▼ 阿部日顕管長の権威を徹底して失くしたいんだね。
だから学会は、日蓮正宗の血脈そのものを否定するだけでなく、その上に阿部管長については、「日達上人から相承を承けていない」「贋(にせ)法主」「詐称法主」などと、最近ではしきりに匂わせている。
「日蓮正宗には本来血脈相承などない」と云っておきながら、「日顕は日達上人から相承を受けてない」というのも矛盾した話だがね(大笑)
▼ 血脈は絶対に断絶しない。
たとえ御相承の儀式があろうと、なかろうと、絶対に断絶はしないのです。
▼ 断絶してたまるかい。
長い歴史の間にはいろいろなこともある。
しかしどのような事態が起きようとも、断絶しないようになっているんだよ。
大聖人様の御仏智によって。
▼「戒壇の大御本尊は一日として付嘱の人の空白ということがない。
またこの付嘱に付随して『金口の血脈』もなくなることはない。
(中略)
何代、代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝えるように出来ているんだ。
これが御本仏の御仏智なのです。
だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。
断絶などはあり得ないのです。」
(『顕正新聞』平成5年1月5日号)
と、血脈は断絶していないと言っていますね。かと思えば
「細井管長は昭和54年7月22日、入院していたフジヤマ病院で、
臨終思うようにならず急死を遂げた。
貫首の立場にある人が、誰もそばにいないとき、一人で急死してしまった。
よって御相承をすることができなかったのであります。
まさしく御遺命に背いたゆえに、細井管長は御相承を『授ける』ことができず、
阿部管長また御遺命違背の科によって『受ける』ことができなかった。
『授』なく『受』なしであります。(中略)
もし大聖人の御心に叶う正しい貫首上人が御出現になれば、
そのとき、たちまちに正系門家の血脈は蘇る。
そういうことになっているのです。」
(顕正新聞 平成11年4月25日号)
と言ってみたり、最近でも断絶はしていないと言ったり、じゃあ日顕上人は血脈を受けてるのか受けてないのか、どっちなのでしょうか?
この血脈というのは大事な事なのです、日蓮正宗では「縦の筋目」というのを大事とします。
御法主上人を上とし、各末寺の御住職・我々在家とこの筋目を守らねければなりません。
御僧侶とひとくくりにしましたが、御僧侶の中でも具体的にランクがあります。一番下は出家得度したばかりの御小僧さんとなりますが、この御小僧さんよりも我々在家というのはランクは下なのです。これは日興遺誡置文に於いて、「一、若輩爲りと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。」との仰せがあるからに過ぎません。
とすれば、在家の身分が御僧侶を飛び越えようとしていた日蓮正宗時代の創価学会や妙信講はまさにこの御文に対する違背としか思えないのです。
よって、在家の自分たち法華講員は指導教師である御住職様の御指導のままに信仰していく事こそ肝要となるのです。
さてその中で、御本尊下付がありますが、日蓮正宗では御本尊下付は必ず御住職様の許可を得て下付されます。この御住職様の許可を得る事が筋目となるのです。
では例えば、信徒同士で御本尊様を貸し借りしたり、貰ったりして拝んでいたとしました、もちろん開眼を受けた本物の御本尊様です。その御本尊様に功徳はあるのかといえば、答えは「いいえ」となります。
例え本物の尊い常住の御本尊様であろうが、所属の御住職様の許可の無い御本尊様は筋目から外れており、功徳は無いのです。 もしこれに功徳があるとすれば、身延を始めとした他宗の本尊でも良いという事になります。
いくら顕正会がなんて言おうと、顕正会には血脈が通っていない以上顕正会の御本尊には功徳が無いのです。
それが本部・東京・神奈川の常住御本尊だとしてもです。
(余談ですがこの御本尊も本物かどうか怪しいのです、綺麗すぎます、あくまでも個人的な意見ですが)
「いいや、御遺命を破壊した宗門の御本尊こそ血脈が通っていない!」と思うかもしれません。
じゃあ逆に、浅井会長は誰から血脈を受けているのですか?御遺命を守っているから正しいなんて他宗でも言ってますよ。御遺命を守っているという判断は誰がしたのですか?
第65世日淳上人は
「仏法において正法が混乱しないように相承の道を立てて明かにされているのであります。それでこの相承の跡を尋ねていけば正しい仏法か、間違った仏法かを知ることができるのであります。」と仰せです。
もし顕正会が正しいと言うならば、浅井会長は相承を受けている事になります。
顕正会員の方、浅井会長は相承を受けているという事でよろしいのでしょうか?
もし「それは違うけど・・」と言うならば日淳上人の御言葉が聞けないという事です。
重い罪業をこれ以上積まないように、早く正法に帰伏するべきではないでしょうか?
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またいつでも御質問お待ちしております
御開扉の件は紫ベアーさんの言われる通りだと思います。大石寺の境内には塔中がいくつもあり、そこの御本尊様は信徒ではなくとも手を合わせる事ができます。
また各末寺の御本尊様もそうです。
何も知らない人であれば、「大石寺の御本尊様」と言われれば戒壇の大御本尊様か塔中の御本尊様か区別は付かないでしょう。
返信有り難う御座います。
安心しました。顕正会員が折伏したある方は宗門の信徒になっていないのに戒壇の大御本尊様にお会いしたと
言っていたそうで大変驚き、後日違う方を折伏した際、法華講員の方だったので、その事を諫めたら黙ってしまったと
言っていたので、宗門の実態はこうなんだよと聞かされました。
御開扉では無かったのでしょうねきっと。
顕正会員は宗門の事をかなり誤解して敵視しています。
会長や先輩達にそう刷り込まれてしまっているからか、宗門にも行けず悶々としている人がきっと多いのだろうなと推測しております。
元顕の方々のブログ等をこれからも拝見させて頂き熟考していきます。
また質問をさせて下さいませ。
ツイッター見て頂いてありがとうございます。
あのモリカケ問題の一連の浅井会長の指導は疑問を持った顕正会員は多かったようで、去年から今年にかけて脱会し日蓮正宗に帰伏する方が多く出ております。
ご質問の件ですが、戒壇の大御本尊様は正宗信徒でないと内拝を受ける事はできません。
御開扉は「内拝」であり、広宣流布が来るまでは信徒のみしか拝する事ができないのです。
信徒であれば御授戒を受けた段階で謗法払いをしますし、御授戒こそが他宗の謗法を捨てるという「戒」になります。よって他宗信仰を捨てていない信徒は基本的にまずいないでしょう。
もっとも元顕正会であれば他宗のお守り等は持っていませんのでスムーズではありますが・・
奉安堂に入るにはきちんと信徒のみに発行される内拝券のチェックがありますので大石寺に行ったからといって戒壇の大御本尊様を拝する事はできませんし、信徒であってもあらかじめ所属寺院で申請をしていないと御開扉は受けられない事になっています。
ツイッターでの発言もいつも拝見させて貰ってます。
一昨年辺りから浅井会長に対して疑問を持つようになり、去年のモリカケ問題での浅井会長の発言に
見識の浅さを感じ完全に顕正会とは距離を置いてます。
質問なのですが、宗門は信徒で無い人も戒壇の大御本尊様にお会いする事が出来る。他宗の信仰を
捨ててない人もお会いする事が出来ると聞いたのですが真実でしょうか?