アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2020年03月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
月別アーカイブ
プロフィール
Good life it's Good thinkingさんの画像
Good life it's Good thinking
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年03月15日

暗黒の大学時代2


コラムランキング
89C95707-768A-4E45-A39C-B670B709F24B.jpeg
前回は、寮での厳しい生活について書きましたが、今回はメインの野球について書いてみたいと思います。
野球の方は、最初のテストようなものの結果と高校時代の戦績も含めて大きな期待と評価をいただいて非常に良いスタートがきれました。ただ自分の中では、過去3年間テレビで見ていた人達の中にいるのが不思議な日々が続きました。紅白戦で対戦する時も妙な不安がいつもつきまとっていました。高校時代の戦績を評価されたといってもクラブ内で見るとほぼ最下位でした。硬式の地方大会なら決勝、準決勝は当たり前でそれ以外は皆全国大会の経験者でした。ちなみに同じポジションのピッチャーの戦績は、軟式の国体決勝進出、甲子園出場2人、プロのスカウトが見に来た1人、中学時代の大阪大会優勝、高校時代の大阪大会優勝、と私地方大会ベスト16です。
いくら運動能力があったとしても野球のピッチャーは経験がものをいうポジションなので不安を抱かないはずがありません。
何とかついていこうと頑張りました。そのおかげもあって、1年後には負けてはいけない試合にも登板機会を与えてもらえるようになりました。そこで私は勘違いをしてしまいます。今置かれている立場は周りの助けがあっての場所だったはずなのに自分の実力だと思いこんでかなり天狗になっていました。
750C9E15-FE2C-4FEE-906F-0213E752CC20.jpeg
そこからが大変でした。やはり大舞台での経験がない私は皆のプレートさばきやサインプレーの巧みさに圧倒されていきます。
投げる球が速いだけの単純なピッチングしかできない私はどの試合で投げても打ち込まれるかフォアボールかデッドボールの嵐を続けるピッチャーになっていました。
もう少し謙虚な気持ちで周りのピッチャーから色々と吸収できていればこんなことにはならなかったと思います。でも私は精神的に少し成長を遂げていきます。試合には出番を与えてもらえない立場でも試合の運び方や流れを引き寄せられるピッチングの方法などを学んでいきました。これが大学時代の唯一の救いで指導者になってからすごく役に立ちました。大学野球をやった成果とも言えるものでした。鳴かず飛ばずの大学野球でしたが、最後には引退試合を組んでもらい、大学2年生以来のリーグ戦登板もさせてもらいました。ただブランクがあり過ぎて納得のいくピッチングはできませんでしたけれど、次に向かうきっかけにはなりました。
Another works

あの時の同級生の励ましには今も感謝しています。私が過ごした暗黒の大学野球時代はこんな形で幕を下ろします。その後に野球部の部長さんから大学に残って野球を続けて見ないか?と無名の社会人野球のチームを勧めていただきましたが、指導者の道へと進むことになります。ちなみに同級生の半数も指導者の道へと進むことになり、今度は負けないぞという意気込みで大学を卒業します。
最初の方で書くのを忘れていましたが、一時期コンタクトを無くして買うお金がなく片目でプレイしている時もありました。なんか考えてみると苦難だらけの大学時代でした。


暗黒の大学時代

image.png
9D50636E-A293-42A1-9F0A-F97DC5B8CFC2.jpeg



あんなに楽しかった高校時代とは裏腹に暗黒の大学時代を迎えます。ただ暗黒だったのは、日常の生活や物資面がメインで精神面では鍛えられたことが多く、社会人になって役に立つことが多かったような気がします。
まず、体育系の大学だったので推薦入学の生徒が多く、一般入試での入学者が全体の3分の1しかいなかったことにびっくりしたのとよく自分が合格したなということにびっくりしていました。私は野球を続けるために大学に入学したつもりだったのですが、またまた私の親のおかげで大変なスタートをすることになってしまいます。そんなことともつゆ知らず、春休みはバイトに励んで30万近くを稼ぎ、野球道具を高校時代の物よりワンランク上のものを買い揃えました。我ながらよく頑張った方でわざわざ店舗に出る前の製造しているところまで交渉しに行って、練習用ユニフォーム2着、グラブ2つ、スパイク3足、バット2本で10数万円になりました。30年前の価格なので今の額にするとよくわかりませんが最上級の物で揃えたと考えると30万近くするのではないかと思います。
次に自分の描いていたビジョンでは、野球に集中するために往復で3時間半の通学時間がもったいないと感じ、下宿をして大学に通う計画を立てました。親にも相談し、バイトをしながら下宿代を出すということで話が決まりかけていました。でもその頃にどこの世界にもいる"小さな親切、大きなお世話"をしてくださる方からうちの両親に大学の寮の話を持ってきたのです。かかる費用も安く、大学構内にあったので私も便利かな?と思っていました。それがこの先とんでもない厳しい生活を強いられることになっていきます。私の知識がもう少しあれば良かったのですが。高校が進学校でそんなことに縁がなかったということもありました。



3月の後半になって、野球部への入部と寮への入寮時期になりました。体育系の大学は、スタートが早いみたいで、4月から練習にも参加する形になっていました。野球部の方は、以前のブログにも書きましたが、甲子園に出ていたテレビの中の選手たちと挨拶を交わし、入部の際の運動能力を見るテストのようなものも無事済んで順調なスタートを切ることができました。自分で言うのもおかしいのですが、甲子園に出ていた選手(先輩も含めて)と比べても運動能力は負けている気がしませんでした。野球に関しては、さあやるぞ!的な気持ちでいっぱいでした。
問題は、寮の方でした。ここからはしばらく体育系の寮(同じ大学内に文化系の学部の寮もありましたが同じような感じでしたが。)はとにかく規律が厳しく耐えられずに途中で夜逃げ同然で姿を消す同級生もいました。体育系の学部はクラブと密接な関係があるので、退寮イコール退学のような雰囲気がありました。ルールとしてはないのですが、やはり大学内に存在することにかなりの勇気が必要だったことは間違いありません。
ではどんな規律があったのでしょう。覚えている?(忘れられない)ものをあげていってみたいと思います。まず1.2回生の服装は、学ランに決められていました。これは市内のどこで遭遇してもわかるようにするためだったと思います。何か高校生の制服の意味に似ていますね。高校が生徒に制服を着させるのは、良い事であっても悪いことであってもすぐにどこの高校の生徒かわかるようにするためだそうですから。そこで私が1回生の時に大変だったのが挨拶です。1回生は入ったばかりなので先輩の顔がわかりません。でも先輩には必ず挨拶をしないといけないというルールがあり、そこを誰か一人でも失敗すると門限後に集合といって反省会みたいなことがあります。正座をして平均1時間半もの間先輩からの説教を受けるのです。私が覚えている限り、365日毎日あったような気がします。挨拶の仕方も決められていて、100m先にも届きそうな大きな声を出し、頭を下げ身体は直角に曲げて挨拶をしなければならなかったと思います。そして自分達がきっちりやったつもりでも先輩ができてなかったと判断すれば集合がかかるので、日々ピリピリしていました。普通ならすぐに辞めてようと考えるのですが、自分達には大きな夢があり入学してきたので、みんな簡単には負けません。1回生の頃は、早く月日が立ってくれる事を願っていました。同級生の中にはドラエモンの道具を例えに出して、どこでもドアさえあれば助かるのに。と言い出すものもいました。



寮のルールはこんなものでは、終わりません。日々1回生には仕事があり、朝7時から約一時間半の寮内の掃除。終わったら先輩の食事を用意する食堂当番。クラブの練習から帰ってきたら、7時から10時まで外部からの電話を取り継ぐ電話当番。それと同じ時間にある先輩の背中を流したりする風呂当番等々。これに加えて、1つの部屋は先輩との2人部屋だったので部屋の掃除に先輩と自分のものの洗濯、5階建で各階に1台しか洗濯機がなかったので洗濯機の取り合い。10時の門限前の整列確認。部屋の先輩が寝るまで後輩は、寝てはいけないなど。細かいルールをあげるとキリがないほど多くのルールの中で生きていました。もちろん野球に集中できるわけがありません。まだまだありました。これも寮生ならではの日々の苦痛の1つ。先輩達が酒を飲み出すとそれに付き合い、酒がなくなると夜中に買い出しに出かけなければいけないということでした。その時代には、1000札が使える自動販売機はなく、小銭を用意する必要がありました。何故か?先輩達から渡されるお金は、1万円、5千円、1千円と決まっていたからです。私達は色々と考えて行動しました、買ってくるのが遅くてもダメだし、もちろん言い訳なんてしようものなら大変なことになってしまいます。そこでまず最初にやることは何時であろうが酒屋を起こして酒を売ってもらうことです。この方法は最初はうまくいったのですが、酒屋も度々になると出てきてくれません。15分頑張ってダメな時は近所の人が警察を呼ぶので、諦めて次の方法に移ります。次は駅前に止まっているタクシーの運転手に両替をお願いすることです。これも日によって止まっている台数の多い少ないがあり絶対的な方法ではありませんでしたが、かなり助けてもらいました。そして次です。夜遅くまで店を開いているスナック等に行ってお酒を売ってもらったり、両替をお願いしていました。すごく良くしてもらったママのいるお店では、事情を話しておくとわざわざお酒の仕入れを多くしてくれて待っていてくれる店もありました。売ってもらいに行くのが、毎日ではないのにすごく良くしてもらいました。そんなお店には、自分達が上級生になった時に行かせてもらい、その当時の話を笑い話として聞いてもらいました。最後の選択肢が朝まで帰らないでした。途中で諦めて帰るとまた買いに行かされて集合のネタになるからです。でも朝まで帰らないと最後まで努力したことを認めてもらえ他の1回生に迷惑をかけることもなかったからです。



そんな異常な寮生活を送っているとやはり精神的におかしくなりノイローゼ状態になる同級生も多くいました。特に日本ではトップクラスでアジアや世界の大会に参加するクラブのメンバーが次々と脱落していきました。高校時代はインターハイの上位校でプレイしていた選手たちです。自分達は関西トップレベルのクラブだったので、その違いは大きかったのだと思います。結局入寮時に12名いた同級生は5名にまで減少し、残された寮生の1人1人の負担が大きかったのを覚えています。でもその頃になると時間が経って自分達が上級生になるのが早いか精神的にダメになってしまうのが早いかの持久戦でした。そして残った5人のメンバーでよく話していたのが、なんでも楽しんでやろうぜということでした。
今起こっていることが人生においては些細なことで将来笑い話にできるようにこんな中でも面白いことを探そうということでした。
怖い先輩の言ったことを〜先輩語録として自分達だけで笑って真似をしてみたり、お互いにヘマをして怒られたマヌケぶりを笑ってみたりしていました。そうやっていると不思議と悲観的にはならず、無事に5人は卒業まで寮で過ごすことができました。また自分達が上級生になっていく中で、後輩の競技に影響が出るようなことはできるだけやらないというルールに少しずつ変えてもいきました。
牛を連れてこい!と言われたこともあったし、酔っ払った先輩に名前を呼ばれたから行ったのにお前だれや!と言われたこともありました。全てが無茶苦茶な寮生活でした。
こんな感じのスタートだったので、野球の方にはなかなか集中できず、鳴かず飛ばずの野球生活を送ることになります。また次回書けるときに大学野球の思い出を書きますが、選手としての結果は出ませんでしたが、無駄な大学野球生活ではなかったと思っています。




×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。