2018年09月14日
恐らく・・・かも知れない
最近では公私ともに何かしらの出来事に見舞われ、落ち着けるヒマのない状況。
それでもなぜかYouTubeは寝る前に必ず見ています。
見ていたYouTubeに、
「あれ?」
と思うテロップがありました。
それは、
「恐らく、〇〇〇〇かも知れない。」
という一節。
おかしいと思いませんか?
本来、“恐らく”は、“○○だろう。”
につながり、
“かも知れない。”は、“もしかしたら”を受ける言葉だと思っています。
なので「恐らく」で始まり「かも知れない」で終るのは始まりと終わりが一致していません。
その記事を投稿した上げ主は莫大なアクセスを稼ぐYouTuberのようですから、じっくり書き上げる時間がないのだろうと思われます。
でも、それで良いのか? そう感じてしまいます。
普段から“ことば”を大切にしている人は、テレビを見ながらでも人と話しをしていても常に“ことば”を考え、気にしていると思うのです。
そういう人は忙しいとか関係なく、自分の発した言葉には敏感になっていると思います。
小学校だったか、中学校だったか、
国語の教科書に「あわやホームラン」というタイトルの単元がありました。
内容は筆者が新聞か、スポーツ誌で読んだ記事のタイトルを読んで感じたというもの。
それは「あわや」の使い方が間違っているという教材でした。
「ホームラン」は打者にとって功績です。
でも「あわや」は、危機から脱したときに使う言葉。
ここで“功績”と“危機”がゴッチャになっているというのです。
ただ、ピッチャーにしてみれば、「あわや」というのは正解かも知れません。
しかし
「ホームラン」そのものが良いことか悪いことかといえば、一般には打った打者をたたえる功績です。
それをピッチャーの立場を優先させ、タイトルにしたのが悪いのです。
せめて、「あわや被本塁打」と書けば、何ら問題もなかったのかも知れません。
また、もう20年前にはあったと思う言葉に、
「なるほどですね。」
があります。
「なるほど」
というのは、何となく上から目線というのがわかると思います。
でも、私どもコールセンターのオペレーターや、営業の人間はあくまで、下から目線が前提です。
すると、上から目線である「なるほど」では失礼かもしれない。
だから、決して失礼にはならないようにと気遣うばっかりに、取ってつけたような
「ですね」
をくっつけたのではないかと、おかしく感じています。
「とんでもございません。」
もそうです。
元は「とんでもない」です。
しかし、これも上から目線の言葉に感じます。
それを避けるため、「ない」を丁寧に「ございません」にしたのでしょう。
ところが「とんでもない」という一つの言葉は、
「とんでも」と「ない」という二つに分かれません。
あくまで「とんでもない」がひとつの言葉です。
なので、上から目線にならないよう、「とんでもない」を言うのであれば、
「とんでもないことでございます。」
これが正解です。
先日に記事で私は「忖度(そんたく)」について書いています。
2018/08/03『「忖度」と「リベンジ」』
言葉はどんどん進化していくので、誰にも止めることはできません。
でも、新しく(本来は古い言葉で)登場した言葉を使うのも、古くからの言葉を応用するのも、考えてから口にして欲しいと私は考えています。
例えばテレビからの情報だけで、その中身を考えずにサルまねのように話す。
しかし使い方としては本来からまったく逸脱している。
機械が便利になってくると、人はどうしても機械に頼りがちです。
少し飛躍しがちですが、
恐らく短縮ダイアルや携帯電話のアドレス帳が登場してから機械に頼り、電話番号そのものを憶えなくて済むようになった、そのため憶えなくなった脳の退化だとも思えてなりません。
それでもなぜかYouTubeは寝る前に必ず見ています。
見ていたYouTubeに、
「あれ?」
と思うテロップがありました。
それは、
「恐らく、〇〇〇〇かも知れない。」
という一節。
おかしいと思いませんか?
本来、“恐らく”は、“○○だろう。”
につながり、
“かも知れない。”は、“もしかしたら”を受ける言葉だと思っています。
なので「恐らく」で始まり「かも知れない」で終るのは始まりと終わりが一致していません。
その記事を投稿した上げ主は莫大なアクセスを稼ぐYouTuberのようですから、じっくり書き上げる時間がないのだろうと思われます。
でも、それで良いのか? そう感じてしまいます。
普段から“ことば”を大切にしている人は、テレビを見ながらでも人と話しをしていても常に“ことば”を考え、気にしていると思うのです。
そういう人は忙しいとか関係なく、自分の発した言葉には敏感になっていると思います。
小学校だったか、中学校だったか、
国語の教科書に「あわやホームラン」というタイトルの単元がありました。
内容は筆者が新聞か、スポーツ誌で読んだ記事のタイトルを読んで感じたというもの。
それは「あわや」の使い方が間違っているという教材でした。
「ホームラン」は打者にとって功績です。
でも「あわや」は、危機から脱したときに使う言葉。
ここで“功績”と“危機”がゴッチャになっているというのです。
ただ、ピッチャーにしてみれば、「あわや」というのは正解かも知れません。
しかし
「ホームラン」そのものが良いことか悪いことかといえば、一般には打った打者をたたえる功績です。
それをピッチャーの立場を優先させ、タイトルにしたのが悪いのです。
せめて、「あわや被本塁打」と書けば、何ら問題もなかったのかも知れません。
また、もう20年前にはあったと思う言葉に、
「なるほどですね。」
があります。
「なるほど」
というのは、何となく上から目線というのがわかると思います。
でも、私どもコールセンターのオペレーターや、営業の人間はあくまで、下から目線が前提です。
すると、上から目線である「なるほど」では失礼かもしれない。
だから、決して失礼にはならないようにと気遣うばっかりに、取ってつけたような
「ですね」
をくっつけたのではないかと、おかしく感じています。
「とんでもございません。」
もそうです。
元は「とんでもない」です。
しかし、これも上から目線の言葉に感じます。
それを避けるため、「ない」を丁寧に「ございません」にしたのでしょう。
ところが「とんでもない」という一つの言葉は、
「とんでも」と「ない」という二つに分かれません。
あくまで「とんでもない」がひとつの言葉です。
なので、上から目線にならないよう、「とんでもない」を言うのであれば、
「とんでもないことでございます。」
これが正解です。
先日に記事で私は「忖度(そんたく)」について書いています。
2018/08/03『「忖度」と「リベンジ」』
言葉はどんどん進化していくので、誰にも止めることはできません。
でも、新しく(本来は古い言葉で)登場した言葉を使うのも、古くからの言葉を応用するのも、考えてから口にして欲しいと私は考えています。
例えばテレビからの情報だけで、その中身を考えずにサルまねのように話す。
しかし使い方としては本来からまったく逸脱している。
機械が便利になってくると、人はどうしても機械に頼りがちです。
少し飛躍しがちですが、
恐らく短縮ダイアルや携帯電話のアドレス帳が登場してから機械に頼り、電話番号そのものを憶えなくて済むようになった、そのため憶えなくなった脳の退化だとも思えてなりません。
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