2013年06月06日
キリスト教の性倫理と、タイプ2の性倫理!\(^0^)/
長らくお待たせしました(笑) そろそろ更新しましょう!
本音を言えば、私の場合、書くネタがなくなるということは一切なくて、書いても書いても、その次の記事は幾らでも出て来るのですが、
敢えて、更新せずにいるのは、「アフィリブログ」という禁断症状を伴う快楽に対して、どうにかして節制を払おうとの自律の精神があるからです。
さて、前回、書くつもりでいた「タイプ2の性倫理」と「キリスト教の性倫理」との類似性について。
私のブログやツイッターをご覧になっている方は、既に気付いていらっしゃるでしょうが、
私は、快楽主義者、享楽主義者であり、独身主義者であり、別居主義者です!
仏教の思想では、性の歓びに対し、否定もしなければ肯定もしません。
私の個人的な考えでは、快楽とは追求するべきもので、他人がそれを邪魔しようとするなら、喧嘩をしてでも、それを味わう権限を手に入れるしかない。
これは、性の愉楽に限定せず、音楽にしろ本にしろ映画にしろ、スポーツや仕事に関しても、人間は本人が追究したいことを自分が満足するまで求めれば良いというのが、私のスタンスです。
私は、「我欲」を肯定します!
以前から頻りに実名を晒して、槍玉に挙げているタイプ2の元友人・香取勇進君ですが、
十代だった彼と私のやり取りには、以前にこんなやり取りがありました。
お互いに19歳の時、高田馬場のファミレスで、創価学会の仏法について、私が話した時です。
その当時の私は、金髪坊主で、腕の筋肉はほとんどない癖に、髑髏のロゴが入った黒いトレーナーの上には、銀十字架のネックレスをしていました。
良いですか? 銀十字架のネックレスです!
私が仏法について話をすると、香取君は、私に対し、
「何で、お前は、十字架のネックレスをしているんだ!?」
と、指摘しました。
銀十字架のネックレスをしている以上は、お前はキリスト教徒なのではないか? と、香取君はそう指摘したわけです。
当時の私(19歳)の意図では、キリストを処刑した十字架には、「モンテ・クリスト」の意義があり、銀十字架のネックレスを首にかける行為には、「キリストを十字架に架けた頃のローマ帝国を賛美する」、つまり、「全体主義への賞賛」、「悪魔崇拝」、「ヒトラー万歳!」=「真の仏教の隆盛」という考えが念頭にあったのですが、
実際に、それくらい複雑な思考が私の頭の中にあったとしても、当時の私の幼稚な弁舌で、そのような思想を表明できる筈もなく、アルコール類を口に含んで、へべれけになっていた私は、香取君のその問いに対して、抗弁する余地はなかったわけです。
私がここで強く否定したいのは、キリスト教の「原罪」です!
私自身が創価学会の庭で育ったという背景もあるのですが、
私は、キリスト教やユダヤ教で説くところの「原罪」は元々、存在しないという判断をしています。
例えば、若者の間でも、ほとんどのキリスト教徒は、性の快楽や私有財産制に対し嫌悪感を懐き、イスラム文明圏で頻発している中東紛争の実態にしても、アレは、旧約聖書で説くところのアベルとカインの兄弟殺しが現代に至るまで継続しているとの見解を示すようですが、私はそうは思わないのですね。
かなり以前の記事で強調したように、本来、人間というのは政治的にも、経済的にも、利己的な生き物です。
世の中の損得を度外視しても、自分の側が潤うなら、地球上の政治的対立や経済的対立において、宗教やイデオロギーを鼓舞して民衆感情を利用するというのは、当たり前の事なんです。
例え、自分たちが損をすることで、世の中が得をするとしても、自分たちが損をする以上は、その対外交渉に対して黙ってはいられない。必ず、自分たちの立場に利益が回って来るように、様々な外交を展開する筈です。わざわざ、旧約聖書のアベルとカインの兄弟殺しを引っ張って来なくても、元々、人間たちは、自分たちの利害で行動している一面があるのですね。
キリストは、そうした人間の利己心をいかにして克服するかという課題に直面して、ユダヤ教の改革運動を始めたのでしょうが、
利己主義の私の感覚からすると、キリストのその精神的出発点はまだ良いとしても、それに対し「原罪」のイデオロギーをわざわざ用いるくらいなら、悪魔やヒトラーを礼賛していた方がまだマシなのでは? と、思う節は幾らでもあったのです。
無論、コレは、我慢すること自体が大嫌いだ! という事なのですが、
タイプ2の彼とのやり取りを思い出して、今でも印象深く覚えているのは、
彼は、私と会話していて、良くキリスト教の話をしていたのですね。
勿論、香取君本人は、「(自分は)無宗教だよ」と明言していたのですが、
タイプ2の根幹である「愛」を語るにしても、彼はすぐに、イエス・キリストの「無条件の愛」を会話の中に持ち込むことが多かったですし、
先の、中東紛争に関しても、彼はすぐに、旧約聖書の「アベルとカインの兄弟殺し」を持ち出した。
19歳の時、世の中は、北野武監督の『座頭市』ブームで沸いていたのですが、彼は、日本の時代劇には関心が薄く、当時の日本では余り話題にされなかったメル・ギブソン監督の『パッション』の話を頻りにしていた。
普通なら、コレで、彼はキリスト教徒なのではないか? と気が付く筈なのですが、私は、彼本人が「無宗教」を標榜しているので、この点に関しては、黙っていました。
現実的な話なんですが、日本の国では、宗教は個人の自由ですから、仮に、自分の育った家庭がキリスト教や仏教などの特定の宗教を奉じていたとしても、子息が、その宗教に入れ込まない限り、同年代の仲間内では、「無宗教」を標榜しているという事は、良くある事なんです。
私も創価学会の日蓮御書に入れ込まなければ、例え、実家が創価学会の家だったとしても、自分で、「私は創価学会員です!」と名乗ることはなかったでしょうし、表面的にも「無宗教」を標榜した筈です。
例えば、数年前からプロとして活躍されている飯塚朝美という私と同年代の極めて有能な女流作家がいるのですが、
島田雅彦奨励賞を受賞した彼女の過去の作品を読めば、彼女自身がキリスト教の家庭で宗教教育を受けたことは容易に分かるのですが、
新人賞受賞の辞を読むと、飯塚さんご自身は、「私は、無宗教です!」と、ハッキリ明言されているわけです。
コレは、本人が育った家庭環境や教育風土の中に、宗教の影響が濃厚に認められることを度外視して、「宗教は個人の自由だから」という理由で、「私は、無宗教です!」と言っているようにも見受けられるわけですね。
現に、今の若者には、そうした傾向の「自称・無宗教」がかなり多いように見受けられます。
私の元友人だったタイプ2の香取勇進君も、このような傾向が顕著に表れていた訳で、
彼が、1960〜70年代の白人ロックの信奉者(私は、洋楽の白人ロックは大嫌いです!)であることも、そうした彼の家庭教育環境とは無縁ではなかった筈です。
ところが、彼にはこれだけの証拠があるにも関わらず、彼は一度も、私に、「僕はキリスト教徒だ」と明言したことはなかったのです。
私自身、自分が創価学会員であることを良い事に、「キリスト教は、邪教だ!」等々と、19歳の頃は息巻いていたのですが、彼はきっと、そんな私を見て、彼自身の事は黙っていることにしていたのでしょう。
「創価学会は、世界に広まっているのだ!」と、私が言えば、
彼は彼で、「キリスト教は、もっと前から、世界に人口が多い!」と反論していましたし、
それに対し、私の考えでは、
実際には、キリスト教といえど、ローマ・カトリックとプロテスタントは、同じキリスト教でも、全く違う宗派の筈で、
西のキリスト教と、東のキリスト教(ギリシャ正教・東方正教会)という分け方をしても、この二つは全く別々の宗教であると判断していました。
もっと細かい言い方をすれば、英国国教会とローマ・カトリックも、全く違う宗教(宗派どころではない!)になっていますね。
世界のキリスト教が厳密には全く異なる宗派・セクトに別れて、互いに分立・対抗しているのに対して、
創価学会は、日蓮系の分派一派でしかないのに、世界に一千万人の同志がいる!
この事実の凄さと云ったら、他にはない筈です!
異なる宗派だから、その宗教は同じだというわけにいかないのですね。
厳密には、ローマ・カトリックも、アメリカのプロテスタントも、ロシアのギリシャ正教も、全く違う宗教の筈です。宗派が異なっている以上は、それは、「違う宗教」だと思った方が良い。
それは、同じ日蓮系でも、立正佼成会と顕正会、日顕宗、及び創価学会が全く異なる信仰を標榜しているのと同じ論理です。
創価学会は、仏教の一派である日蓮系の一派であるにも関わらず、世界に一千万の同志をつくった!
強調すべきことは、まさにコレです!