2013年05月08日
拳銃のコレクション(?) 野球マニア(?)
最近、酒ばかり飲むようになったので、前後の脈絡が異なる記事を発信してしまうかも知れませんが、今回も例によって、自分の書きたいことを書き、言いたい事を言います。
大型連休の最終日、テレビの特報番組やワイドショーでは、長嶋茂雄と松井元大リーガー選手の国民栄誉賞受賞セレモニーの報道で埋め尽くされていましたね。
その時のホットな話題に対し、いつも興奮して反応する私の元友人(香取勇進のこと)がいたら、野球にもサッカーにも無関心な私の前で、わざとあけすけに、
「昨日ほど、凄い夜はなかったよなぁ!」と、言いそうです。
昨日のニュースでは、マスコミの前では出不精の村上春樹がファンを集めて、講演会を開催したとか、これもそれ相当にホットな話題でした。
さて、
しかし、どれだけ世の人々が一つの話題に関心を集めたとしても、そのテーマに対しては依然として無関心なままでいる、「局外者」というのはいるもので、
先の伝説的な日本野球選手の国民栄誉賞受賞セレモニーにしても、
野球には無関心なままでいる私にとっては、やはり、自分の生活の外で起きた出来事としか思えないですし、
熱狂したり喜んだりしているのも、やはり、少年時代から近所の草野球などでバットを握って、野球に親しんだ経験のある人たちばかりなのではないか? という気がしないでもないわけです。
私は、保坂和志や村上春樹の小説を通して、逆に、彼等の世代にとっての「野球」というのが何だったのか、良く考えることがあったという程度で、
それは、野球それ自体に関心があるのではなくて、「作家」や「文学」というフィルターを通じて、「野球」を傍観している感覚に近いと思います。
例えば、保坂和志の最高傑作『カンバセーション・ピース』(現在もなお絶版のまま・復刊求む)には、野球マニアのコレクター的心境なるものが克明に綴られていて、それが描かれているだけでも、近代日本文学史に銘記されるべき非常に印象深い心象風景なのですが、
イチローが何とかの試合でヒットを打った球を集めているとか、松井が4番の背番号を着た時に打った球やバットが高値だとか、
野球マニアのコレクターの方って、傍から見たら、何が何だか訳が分からないコレクションをされている方が多いですよね。
これは、鹿島茂が集めている膨大な古書・洋古書のコレクションだって同じですし、切手マニアや鉄道マニア・模型マニアが蒐集しているコレクションだって似たようなものだと思います。
先月か先々月も、渋谷の東横線が閉鎖されて新しくなるとかどうとかで、「撮り鉄」と呼ばれる鉄道写真マニアが一挙に渋谷で集まり、大変な騒ぎだったらしいですが、
これだって、元々、詳しくもないし、関心もない人にとっては、「何を騒いでいるの?」ということになりますよね。
私はつい最近、拳銃のコレクション(!)を大切に保管するマニアが次々と犯罪を重ねるフィルム・ノワールの白黒映画を観ました。
勿論、アメリカ映画なのですが、最近では「銃の規制」が叫ばれているアメリカでも、幼い頃から拳銃を見て育っていると、それに対して異様な愛着と関心が湧いてしまうので、
拳銃のコレクションに走る「拳銃マニア」なるものの存在も決して珍しくないことになります。
当然、アメリカでは、拳銃を買い物で手に入れます。
50セントやザ・ゲーム(MCの名前)のようなギャングスタたちも、仲間内で自慢し合えるような銃のコレクションを持っているに違いありません。アメリカでは、これだって「買い物」ですからね。
文豪バルザックは、現在の日本円に換算すると最低でも300万円はするアラビア織り高級絨毯を幾枚も買い揃えていたという事ですし、愛人にも贈っていたそうです。バルザックやデュマの浪費癖は、フランス文学史においては最も面白い話題ですね。
石原慎太郎の小説にも、自家所有のヨットを破損させたくないがために、一位でリードしていたヨットレースをゴールせずに棄権するという作品があります。
これは、自分の家に高級ヨットを十台以上、所有している石原さんご自身の「コレクターの心理」といえるものでしょう。
石原さんは十代の時、自分の父親に80万円はするヨットを買って貰ったそうですが、彼のヨットのコレクションは、その時の一台で終わる筈もなく、
その後も、日本製のヨットに留まらず、海外まで足を運んで、諸外国でも高値のヨットを競り落としています。これは、慎太郎御自身が、自らの著作でも繰り返し、書いている事です。
海とヨットといえば、ネットオタクの間では「リア充」の代名詞でしょうが、サーフボードだって、一枚だけで九万〜十万円するわけですし、ヨットは、もっと高値です。
オタクが持っている家庭用ゲーム機よりも、サーファーのコレクションの方がずっとお金が掛かります。
家にヨットを何十台も所有している人とか、自宅のガレージに高級車を何台も持っている人というのは、確かにアスリートなのでしょうが、実際には、通常の意味合いとは異なる「オタク」でしょう。
その証拠に、慎太郎は現に、自らが所有するヨットが少しでも破損する可能性がある場合、どんなに自分にとって有利なレースでも、その場で棄権します。
これは、「コレクターの心理」、「マニアの心理」に通底するものと全く同じです。
コレクションというのは、ある一事に強い関心を集中させた人間が、独占欲を満たす為にひた走る行為ですから、その対象が何であれ、ハマった人にとってはそれ以外の世界は見えない。
女性は靴や洋服、鞄、化粧品のコレクションを集めてしまう人が多いようですが、これだって、一歩退けば、マニアの心理とほとんど変わらないでしょう。
女性の本質は「色気よりも食い気」というのが、最近の私の感想なので、どこか美味しいお店に食べに行ったり、女子会でフルコースを注文したりするという彼女たちの行為にも、
どこかでマニアの心理と変わらないモノが根底に潜んでいるのではないかという気がしてなりません。
話が変わりますが、このブログをご覧になっている方の中には、私のツイッターを閲覧している方もいるのではないでしょうか?
語学について、少し書きます。
幕末に、佐久間象山という天才がいて、彼は全く外国語の素養がなかったのに、洋書を読むことは出来たそうです。
象山曰く、本人が読んだことも聞いたこともない言語でも、一生懸命、その洋書に目を晒していれば自ずとその言語の法則性が分かって来るのであり、それと同時に、その著者の意図することも理解できるようになると、彼は弟子たちに指示していたそうです。
語学を知らない人たちにとっては驚天動地の指導法ですが、
実際に、戦後になっても、日本では、東大の政治学者・丸山真男が象山とほとんど同じことを生徒に指導しています。
蓮実重彦や浅田彰といった日本で空前の語学の天才(?)たちも、きっと、象山や丸山真男のこのノウハウと実践に学ぶことが大きかったのではないか?
現地に在住していれば、どんな人間でも、その地域の言語には通達できるというのは、日本に住んでいても良く耳にする話ですが、
実際に、「使っていれば巧くなる」というのは真理だそうです。
要は、どんな仕事も「慣れ」。スポーツや運動も「慣れ」。パソコンや機材の操作も「慣れ」。
語学だって、「慣れ」です。異性の扱い方だって、所詮は「慣れ」。
世の中は、「慣れ」の巧い人が、一番、上達が早いのです。
機会があったら、また書きます。
大型連休の最終日、テレビの特報番組やワイドショーでは、長嶋茂雄と松井元大リーガー選手の国民栄誉賞受賞セレモニーの報道で埋め尽くされていましたね。
その時のホットな話題に対し、いつも興奮して反応する私の元友人(香取勇進のこと)がいたら、野球にもサッカーにも無関心な私の前で、わざとあけすけに、
「昨日ほど、凄い夜はなかったよなぁ!」と、言いそうです。
昨日のニュースでは、マスコミの前では出不精の村上春樹がファンを集めて、講演会を開催したとか、これもそれ相当にホットな話題でした。
さて、
しかし、どれだけ世の人々が一つの話題に関心を集めたとしても、そのテーマに対しては依然として無関心なままでいる、「局外者」というのはいるもので、
先の伝説的な日本野球選手の国民栄誉賞受賞セレモニーにしても、
野球には無関心なままでいる私にとっては、やはり、自分の生活の外で起きた出来事としか思えないですし、
熱狂したり喜んだりしているのも、やはり、少年時代から近所の草野球などでバットを握って、野球に親しんだ経験のある人たちばかりなのではないか? という気がしないでもないわけです。
私は、保坂和志や村上春樹の小説を通して、逆に、彼等の世代にとっての「野球」というのが何だったのか、良く考えることがあったという程度で、
それは、野球それ自体に関心があるのではなくて、「作家」や「文学」というフィルターを通じて、「野球」を傍観している感覚に近いと思います。
例えば、保坂和志の最高傑作『カンバセーション・ピース』(現在もなお絶版のまま・復刊求む)には、野球マニアのコレクター的心境なるものが克明に綴られていて、それが描かれているだけでも、近代日本文学史に銘記されるべき非常に印象深い心象風景なのですが、
イチローが何とかの試合でヒットを打った球を集めているとか、松井が4番の背番号を着た時に打った球やバットが高値だとか、
野球マニアのコレクターの方って、傍から見たら、何が何だか訳が分からないコレクションをされている方が多いですよね。
これは、鹿島茂が集めている膨大な古書・洋古書のコレクションだって同じですし、切手マニアや鉄道マニア・模型マニアが蒐集しているコレクションだって似たようなものだと思います。
先月か先々月も、渋谷の東横線が閉鎖されて新しくなるとかどうとかで、「撮り鉄」と呼ばれる鉄道写真マニアが一挙に渋谷で集まり、大変な騒ぎだったらしいですが、
これだって、元々、詳しくもないし、関心もない人にとっては、「何を騒いでいるの?」ということになりますよね。
私はつい最近、拳銃のコレクション(!)を大切に保管するマニアが次々と犯罪を重ねるフィルム・ノワールの白黒映画を観ました。
勿論、アメリカ映画なのですが、最近では「銃の規制」が叫ばれているアメリカでも、幼い頃から拳銃を見て育っていると、それに対して異様な愛着と関心が湧いてしまうので、
拳銃のコレクションに走る「拳銃マニア」なるものの存在も決して珍しくないことになります。
当然、アメリカでは、拳銃を買い物で手に入れます。
50セントやザ・ゲーム(MCの名前)のようなギャングスタたちも、仲間内で自慢し合えるような銃のコレクションを持っているに違いありません。アメリカでは、これだって「買い物」ですからね。
文豪バルザックは、現在の日本円に換算すると最低でも300万円はするアラビア織り高級絨毯を幾枚も買い揃えていたという事ですし、愛人にも贈っていたそうです。バルザックやデュマの浪費癖は、フランス文学史においては最も面白い話題ですね。
石原慎太郎の小説にも、自家所有のヨットを破損させたくないがために、一位でリードしていたヨットレースをゴールせずに棄権するという作品があります。
これは、自分の家に高級ヨットを十台以上、所有している石原さんご自身の「コレクターの心理」といえるものでしょう。
石原さんは十代の時、自分の父親に80万円はするヨットを買って貰ったそうですが、彼のヨットのコレクションは、その時の一台で終わる筈もなく、
その後も、日本製のヨットに留まらず、海外まで足を運んで、諸外国でも高値のヨットを競り落としています。これは、慎太郎御自身が、自らの著作でも繰り返し、書いている事です。
海とヨットといえば、ネットオタクの間では「リア充」の代名詞でしょうが、サーフボードだって、一枚だけで九万〜十万円するわけですし、ヨットは、もっと高値です。
オタクが持っている家庭用ゲーム機よりも、サーファーのコレクションの方がずっとお金が掛かります。
家にヨットを何十台も所有している人とか、自宅のガレージに高級車を何台も持っている人というのは、確かにアスリートなのでしょうが、実際には、通常の意味合いとは異なる「オタク」でしょう。
その証拠に、慎太郎は現に、自らが所有するヨットが少しでも破損する可能性がある場合、どんなに自分にとって有利なレースでも、その場で棄権します。
これは、「コレクターの心理」、「マニアの心理」に通底するものと全く同じです。
コレクションというのは、ある一事に強い関心を集中させた人間が、独占欲を満たす為にひた走る行為ですから、その対象が何であれ、ハマった人にとってはそれ以外の世界は見えない。
女性は靴や洋服、鞄、化粧品のコレクションを集めてしまう人が多いようですが、これだって、一歩退けば、マニアの心理とほとんど変わらないでしょう。
女性の本質は「色気よりも食い気」というのが、最近の私の感想なので、どこか美味しいお店に食べに行ったり、女子会でフルコースを注文したりするという彼女たちの行為にも、
どこかでマニアの心理と変わらないモノが根底に潜んでいるのではないかという気がしてなりません。
話が変わりますが、このブログをご覧になっている方の中には、私のツイッターを閲覧している方もいるのではないでしょうか?
語学について、少し書きます。
幕末に、佐久間象山という天才がいて、彼は全く外国語の素養がなかったのに、洋書を読むことは出来たそうです。
象山曰く、本人が読んだことも聞いたこともない言語でも、一生懸命、その洋書に目を晒していれば自ずとその言語の法則性が分かって来るのであり、それと同時に、その著者の意図することも理解できるようになると、彼は弟子たちに指示していたそうです。
語学を知らない人たちにとっては驚天動地の指導法ですが、
実際に、戦後になっても、日本では、東大の政治学者・丸山真男が象山とほとんど同じことを生徒に指導しています。
蓮実重彦や浅田彰といった日本で空前の語学の天才(?)たちも、きっと、象山や丸山真男のこのノウハウと実践に学ぶことが大きかったのではないか?
現地に在住していれば、どんな人間でも、その地域の言語には通達できるというのは、日本に住んでいても良く耳にする話ですが、
実際に、「使っていれば巧くなる」というのは真理だそうです。
要は、どんな仕事も「慣れ」。スポーツや運動も「慣れ」。パソコンや機材の操作も「慣れ」。
語学だって、「慣れ」です。異性の扱い方だって、所詮は「慣れ」。
世の中は、「慣れ」の巧い人が、一番、上達が早いのです。
機会があったら、また書きます。