2012年12月23日
「表現とは、それぞれの道を進んでいくモノだ」(^ー^)
私にとって、作家になるという事は、1960年代以前の人間になることである。
これが、「前時代優越主義」のコンセプトだ。
齢60を超えた老人が、「昔は、家に本とラジオとレコードしかなかったから」と思い出話を語るような時代。
レコードはCDになり、映画はDVDで観れるようになったが、様式面でのテクノロジカルな時代性は無視して、
21世紀を生きながらにして、1960年代以前の世界に生きるというのが、私の人生のコンセプトであり、終着駅となるだろう。
インターネットはかなりやっている。
しかし、ゲームなどのサブカルチャー性を実生活上から一切排除し、携帯電話やスマホも持たず、
常日頃から、クラシック映画や古典籍に触れ、ラジオや音楽に耳を傾ける。
それが、19歳以前から、私のイメージの中でひたすら追求してきた自己理念で、この生活のイメージは、誰にも譲れるものではない。
香取勇進君は、私をわざわざ仲間の元へ連れて来て、「こいつから逃げろ! 逃げろ!」と言う一方で、
フェイスブックでは、ゲームや漫画などの一切のサブカルチャー性を排除して、フィルム・アート系の映画や現代文学や現代音楽で、自らの生活を囲い込む、という私の発想を、まんまと盗んでいる。
香取くんの映画の欄に、フェリーニの『8・1/2』が未だにあるのは何故か?
彼は、クラシック映画の専門家になるつもりなのか?
私の場合は、現代以降の映画(特に3D映画)には関心がないという視点で、仕事を進めているので、
白黒映画やテクニカラー映画、あるいは、ゴダールが亡くなる直前に撮った今の映画が含まれていても、何ら違和感がないのだが、
彼も、私のコンセプトと全く同じで、「1960年代以前の世界を生きる」という事をテーマに、これから映画を撮っていくつもりなのだろうか?
私の価値観や評価が、彼が考えていることに憑依していて、それぞれが表現したいことの違いが認識されていないというのは、大問題なのではないか?
インディペンデント系の映画を撮るという意味なら、ゴダールは確かに、「今」の監督である。
しかし、フェリーニも、ゴダールも、最初の仕事を始めたのは、1960年代である。
奇妙なことに、日本では既に、北野武の他に、国外で高い評価を得ている新進気鋭の若手監督たちが何人もいるのに、彼のコンセプトにはそれがない。
フランスやイタリアの監督を選ぶ時も、彼は、どちらかというと、1960年代から映画を撮る仕事を始めた人を中心にして、フェイスブックを運営している。
彼が、1960〜80年代に異様な愛着を感じて、その時代に対する特別なこだわりがあるとすれば、別だ。
現に、私は、1960年代以前の世界や文化に強い関心があるからこそ、クラシック映画(特に白黒映画)のDVDばかり蒐集している。
しかし、フランスでもイタリアでも、既に、ゴダールやトリュフォーの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を否定する動きは十年以上前に起こっているのであり、これは、アメリカ映画だって同じだ。
映画に関しては、私はクラシックの専門家だが、香取くんの場合は、これからも映画を撮らなければいけないわけで、
すると、成功を収めれば、当然ながら、3D映画も撮らなければならなくなる。
現に、小林正樹のリメイク作は成功を収めているし、スコセッシ監督も3D映画を完成させている。
ゴダールの場合は、もうじき亡くなってしまうので、3D映画を撮ることはないだろう。
すると、香取くんの場合は、私の「60年代熱」が彼に憑依したままで、映画を巡る「新しい動き」に全く気付かないまま、という事にもなりかねない。
私は絶対認めないが、批評の世界でも、東浩紀、等々、サブカルチャーやアイドル、文化・芸能人を論ずる人が増えて来ていると感じる。
但、私の場合はあくまで、クラシック映画や純文学の専門家になりたいだけなので、こうした分野を論じるつもりもない。興味もない。
スポーツ理論や政治について語っている方がマシだ。
表現とは、それぞれの違いを認識してこそ、真に威力を発揮するものだと思う。
自分が他人に影響したり、他人が自分に影響を及ぼしたりしていることに気付かないで、全てが自分の独創だと思い込んでしまうと、とんでもない間違いを犯してしまう。
私は、香取くんたちが集まっている「彼等の世界」には興味がなく、それに対しては、一向に目を向けなかったのであり、私には私で、現代文学の古典や白黒映画を起点にして、遥か彼方へと広がっていく大きな世界があること、その「違い」を認識して欲しかった。
追記。
自らの生活からゲームや漫画などのサブカルチャー性を一切排除する、という私のコンセプトにだって一応は意味があるわけで、
「家には、ラジオとレコードと本しかなかった時代」という1950年代以前の生活を理想型(イデア)として追い求めるからこそ、それを断ち切るのである。
現在の3D映画、CGアニメーションを製作している立場の人間からすれば、そうした職務に就いている人たちが、日本の漫画やゲームに傾倒し、そこから着想のヒントを得ることは、当たり前なのであり、私は敢えて、この「今」を否定する形で、「前時代優越主義」という自らのコンセプトを進めている。
私の出発点は、「1960年代以前の人間になる」ということなのだ。
その違いを認識して欲しい。
これが、「前時代優越主義」のコンセプトだ。
齢60を超えた老人が、「昔は、家に本とラジオとレコードしかなかったから」と思い出話を語るような時代。
レコードはCDになり、映画はDVDで観れるようになったが、様式面でのテクノロジカルな時代性は無視して、
21世紀を生きながらにして、1960年代以前の世界に生きるというのが、私の人生のコンセプトであり、終着駅となるだろう。
インターネットはかなりやっている。
しかし、ゲームなどのサブカルチャー性を実生活上から一切排除し、携帯電話やスマホも持たず、
常日頃から、クラシック映画や古典籍に触れ、ラジオや音楽に耳を傾ける。
それが、19歳以前から、私のイメージの中でひたすら追求してきた自己理念で、この生活のイメージは、誰にも譲れるものではない。
香取勇進君は、私をわざわざ仲間の元へ連れて来て、「こいつから逃げろ! 逃げろ!」と言う一方で、
フェイスブックでは、ゲームや漫画などの一切のサブカルチャー性を排除して、フィルム・アート系の映画や現代文学や現代音楽で、自らの生活を囲い込む、という私の発想を、まんまと盗んでいる。
香取くんの映画の欄に、フェリーニの『8・1/2』が未だにあるのは何故か?
彼は、クラシック映画の専門家になるつもりなのか?
私の場合は、現代以降の映画(特に3D映画)には関心がないという視点で、仕事を進めているので、
白黒映画やテクニカラー映画、あるいは、ゴダールが亡くなる直前に撮った今の映画が含まれていても、何ら違和感がないのだが、
彼も、私のコンセプトと全く同じで、「1960年代以前の世界を生きる」という事をテーマに、これから映画を撮っていくつもりなのだろうか?
私の価値観や評価が、彼が考えていることに憑依していて、それぞれが表現したいことの違いが認識されていないというのは、大問題なのではないか?
インディペンデント系の映画を撮るという意味なら、ゴダールは確かに、「今」の監督である。
しかし、フェリーニも、ゴダールも、最初の仕事を始めたのは、1960年代である。
奇妙なことに、日本では既に、北野武の他に、国外で高い評価を得ている新進気鋭の若手監督たちが何人もいるのに、彼のコンセプトにはそれがない。
フランスやイタリアの監督を選ぶ時も、彼は、どちらかというと、1960年代から映画を撮る仕事を始めた人を中心にして、フェイスブックを運営している。
彼が、1960〜80年代に異様な愛着を感じて、その時代に対する特別なこだわりがあるとすれば、別だ。
現に、私は、1960年代以前の世界や文化に強い関心があるからこそ、クラシック映画(特に白黒映画)のDVDばかり蒐集している。
しかし、フランスでもイタリアでも、既に、ゴダールやトリュフォーの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を否定する動きは十年以上前に起こっているのであり、これは、アメリカ映画だって同じだ。
映画に関しては、私はクラシックの専門家だが、香取くんの場合は、これからも映画を撮らなければいけないわけで、
すると、成功を収めれば、当然ながら、3D映画も撮らなければならなくなる。
現に、小林正樹のリメイク作は成功を収めているし、スコセッシ監督も3D映画を完成させている。
ゴダールの場合は、もうじき亡くなってしまうので、3D映画を撮ることはないだろう。
すると、香取くんの場合は、私の「60年代熱」が彼に憑依したままで、映画を巡る「新しい動き」に全く気付かないまま、という事にもなりかねない。
私は絶対認めないが、批評の世界でも、東浩紀、等々、サブカルチャーやアイドル、文化・芸能人を論ずる人が増えて来ていると感じる。
但、私の場合はあくまで、クラシック映画や純文学の専門家になりたいだけなので、こうした分野を論じるつもりもない。興味もない。
スポーツ理論や政治について語っている方がマシだ。
表現とは、それぞれの違いを認識してこそ、真に威力を発揮するものだと思う。
自分が他人に影響したり、他人が自分に影響を及ぼしたりしていることに気付かないで、全てが自分の独創だと思い込んでしまうと、とんでもない間違いを犯してしまう。
私は、香取くんたちが集まっている「彼等の世界」には興味がなく、それに対しては、一向に目を向けなかったのであり、私には私で、現代文学の古典や白黒映画を起点にして、遥か彼方へと広がっていく大きな世界があること、その「違い」を認識して欲しかった。
追記。
自らの生活からゲームや漫画などのサブカルチャー性を一切排除する、という私のコンセプトにだって一応は意味があるわけで、
「家には、ラジオとレコードと本しかなかった時代」という1950年代以前の生活を理想型(イデア)として追い求めるからこそ、それを断ち切るのである。
現在の3D映画、CGアニメーションを製作している立場の人間からすれば、そうした職務に就いている人たちが、日本の漫画やゲームに傾倒し、そこから着想のヒントを得ることは、当たり前なのであり、私は敢えて、この「今」を否定する形で、「前時代優越主義」という自らのコンセプトを進めている。
私の出発点は、「1960年代以前の人間になる」ということなのだ。
その違いを認識して欲しい。