2014年11月06日
その人の「縁」が、個人の欲望を創る!\(^0^)/
先の記事の続きを書きます(^^)
昔、スラヴォイ・ジジェクが書いたラカンの解説書で、「私の欲望とは、他者の欲望である」という名言を読んだ事があります。
その本とは、コレです。
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書画骨董の真偽を推し測る時にも、小説や映画の価値を評論家が論じる際にも、その評価には客観的な基準というモノがありますが、その基準を逸脱して、個々に審判を下している論客も多い訳です。
評価とは、価値を評する事ですが、当然、その価値を論じる際には、その対象を評価する人がいて、それを評価する人とその対象との関係性(=縁)が物事の価値を決めていくのです。
つまり、どんなに優れた小説や映画であろうと、どんなに高名な先生が遺した書画骨董であろうと、その対象に関して全く興味がない人には、幾ら論じても、その価値など分かる筈がなく、その人たちには全く関係がないわけです。
対象の価値を理解した人でなければ、その対象を欲しいと思う筈もないわけで、その対象の価値を理解しているか否かは、個々人とその対象との関係性(=縁)によって支配されているわけです。
つまり、個人の欲望を創り出しているのは、それまでの人生で本人が何らかの形で関わった対象であり、本人がそれまで経験してきた「関係性(=縁)」なわけです。
この本の表紙を見て下さい。
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村上春樹の『海辺のカフカ』のハードカバー版ですが、当時は著作権の問題で、春樹の小説の映像化作品や舞台化作品はほとんどなかったのですね。今はありますけれど。
そういう時に、この本の装丁をした人は、春樹の本の表紙に少年のシルエットを用いたのですよ。
是って、どういう事か分かりますか?
実はこのシルエットって、元々のネタはゲームソフトからの着想ではないですかね?
若い人で小説に関心がある人なら、誰でも一度はプレイした事があるだろうチュンソフトのサウンドノベル(小説形式のゲームジャンル)に出て来るのって、確かこういうシルエットでしたよね?
画面上で登場人物のシルエットを用いて、小説を読ませていくのがそのゲームジャンルの特徴なのですが、春樹の作品が映画化も舞台化もされていなかった当時では、小説に対して、そのゲームジャンルに通底するようなイメージを持っていた読者がわりかし多かったと思うんですね、多分。
実際に、1990年代にミステリーと銘打てば、どんな小説でも売れた時代があった(女流作家の桐野夏生さんが一番苦労した時代です)のですが、ノベル形式のゲームの大衆的成功がなければ、出版市場にもそうした動きは生まれなかったと思います。
現実に、90年代に少年期を過ごした私の一般的な読書も、福田和也の『作家の値うち』(2000年出版)を読む高校一年生までは、ミステリーや歴史小説を読む傾向があったのです。
つまり、ミステリー全盛期の90年代に「縁」があった十代前半の私は、そういう本を読む事に一種の欲望を感じていたし、他の読者もそうだったと思うのですよ。
ところが、高校一年次になって、福田和也、石原慎太郎、開高健、村上春樹、町田康、辻仁成を知るようになると、それが縁になって、これまでの欲望(読書傾向)が全て変わってしまったわけです。
読書傾向はまま変わっても、本が読みたいという欲望それ自体は全く変わっておらず、小説や評論や伝記を読んでも、思想を読む時でさえ、登場人物をシルエットで表現する、あのゲームのイメージは相変わらず20代前半まで残っていたような気がします。
20代半ばから、半端なく古映画を観るようになったので、そのイメージは段々と消えていきましたが、ジャズが好きなのも、ギャングスタラップを聴いているのも、白黒映画ばかり鑑賞しているのも、基本的に私は幻想に逃避する事が好きですし、幻想への逃避こそ、私が最も強烈に感じる欲望なわけです。
異性に対する好みも、思春期以前と思春期以降では、全く変わって来る筈です。
今の私は、上の写真くらい太っている女性が好きなのですが、これは思春期を経験して以降の女性の好みですね。
貧乳が好きだという男たちも今の世の中には多いみたいですが、私には彼等の気持ちは分かりませんね。
食べ物の好みも、私は元々、生魚の刺身が好きですし、それが嫌いな人の気持ちなど、私には理解できません。
人間の欲望は何を縁にして変わるか分かりません。
「私の欲望とは、他者の欲望である」というジャック・ラカンの言葉通り、人間の欲望は、その人を取り巻く「縁(=関係性)」が形作っていくのです(^^)
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