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ヨリちゃん
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2018年11月28日

今更聞けない 北方領土の返還問題


「北方領土」とは? 今さら聞けない歴史的経緯を徹底解説

 より転載させて頂きます。







 【日露首脳会談】


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 安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領は12月15〜16日、日露首脳会談に臨む。そこで注目されるのが、両国間で懸案となっている「北方領土問題」の行方だ。安倍首相は5月、日露首脳会談の際に「今までの停滞を打破するべく、突破口を開く手応えを得ることが出来た」と発言。9月にウラジオストクでプーチン氏と会談した際も「新しいアプローチに基づく交渉を具体的に進めて行く道筋が見えて来た。その手応えを感じた」と発言するなど、交渉の進展を強調して来た。
 しかしここへ来て、交渉の行方は不透明さを増している。安倍首相とプーチン大統領は11月19日、APECの開催地ペルー・リマで会談。プーチン氏の訪日前最後の首脳会談と云う事で、北方領土問題と平和条約の締結について詰めの議論が交わされたとみられる。だが会談後に安倍首相の口から出たのは、これまでのムードを覆すものだった。

「70年間出来なかった訳で、そう簡単な話では無い」
「大きな一歩を進めることはそう簡単では無い」


 安倍首相が語ったのは、北方領土問題への厳しい見通しだった。これまでの交渉進展ムードからは一転、明らかにトーンダウンしていた。プーチン氏も11月20日の記者会見で「(北方四島は)国際的な文書によりロシアの主権があると承認された領土だ」と明言。厳しい姿勢を崩さず、日露間の歴史認識のズレが改めて如実に為った。
 加えてロシアは、北海道の道東全域を射程内に収める最新鋭のミサイルを北方領土に配備。プーチン氏の訪日を前に、北方領土を自国領土として防衛力を強化する姿勢を鮮明にしているかの様にも見える。結局「北方領土問題」はどう為るのか。日露首脳会談の前に、その歴史的経緯を振り返ってみる。







 ◇そもそも「北方領土」ってどんな所?

    
             北方領土の周辺図 11-28-3


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「北方領土」とは第二次世界大戦に絡み、ソ連(現在のロシア)が占領した歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)・国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)の4つの島(北方四島)を指す。
面積はおよそ5000kuで、千葉県や愛知県と同程度の面積だ。日ロ両国が自国の領土と主張し、現在ロシアが実効支配している。北方領土を巡る日本とロシアの領有権の対立、これが「北方領土問題」だ。
   
       北方領土・国後島 11-28-4 

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 北方領土の東側は太平洋で西側はオホーツク海に面している。南からの暖かい日本海流(黒潮)と北からの冷たい千島海流(親潮)の影響で、周辺海域は水産資源も豊富だ。又択捉島は、本土四島(北海道・本州・四国・九州)を除くと日本最大の島。火山島で温泉が多いことでも知られる。







 ◇日本とロシア、国境策定の経緯


 戦前、日本とロシアは数度にわたって国境を決める条約を締結している。その主なものを地図と合わせて、簡単に振り返ってみよう。


(1)1855年 日魯通好条約(日露和親条約)
    
        日魯通好条約(日露和親条約)に基づく国境線 11-28-5


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 およそ160年前の1855年2月、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)の間で初めて国境を確定した日魯通好条約(日露和親条約)が結ばれた。両国の国境線は、択捉島と得撫島(ウルップ島)間に定められた。樺太島(サハリン)には国境を設けず、これまで通り両国民の「混住の地」にすると定められた。日本政府は、この条約を根拠に「北方領土はこの時に日本領となった」とする立場を取って居る。


(2)1875年 樺太千島交換条約

         樺太千島交換条約に基づく国境線 11-28-6

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 明治維新後の1875年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結。日本は樺太島の領有権を放棄する代わり、千島列島をロシアから譲り受けた。この条約では、占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々の名を「千島列島」として列挙している。
 この条約を根拠に、日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」としている。

 
 (3)1905年 ポーツマス条約 

   
 ポーツマス条約に基づく国境線 11-28-7

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 1904年、日露両国は朝鮮半島と中国東北部の支配圏を巡って日露戦争が勃発。これに勝利した日本は1905年、ポーツマス条約で南樺太を獲得した。






 
  ◇「北方領土問題」の発生、切っ掛けは第二次世界大戦だった  

 1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書調印式に臨む日本側全権団 11-28-8

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 第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保った。だが、広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。背景には南樺太(南サハリン)・千島列島のソ連領有を決定したヤルタ秘密協定の存在がある。
 8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し連合国に降伏。しかしソ連軍はその後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土」を占領。ロシア側は「第二次世界大戦で北方領土は合法的に自国領に為ったと」主張し、現在に至る。


 サンフランシスコ講和条約に基づく国境線 11-28-9

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 1951年、日本は連合国と「サンフランシスコ講和条約」を締結。この条約で日本は、戦前に領有して居た台湾や朝鮮半島を初め南樺太・千島列島を放棄することが確定した。

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 サンフランシスコ講和条約に調印する日本全権の吉田茂首相 11-28-10 

 ここで問題と為るのが「千島列島」が何を指し、最終的に何処に帰属するかと云う点だ。調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するに留まった。
 一方で、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した。
 結局の処「千島列島」が何を指すのか日本側でもブレてしまった。サンフランシスコ条約でも帰属は明記され無かった。又、東西冷戦の最中であったことから、西側諸国と対立していたソ連や中国はサンフランシスコ講和条約に参加せず、条約は「片面講和」になってしまった。







 ◇日本とソ連(ロシア)はどんな交渉をして来たのか?

 ここからは、戦後に日本とロシアが北方領土を巡ってどのような交渉をして来たのかを振り返ってみよう。


 (1)1956年 日ソ共同宣言 

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 日ソ共同宣言と通商航海議定書の調印式に臨む鳩山一郎首相(左)とソ連のブルガーニン首相 11-28-11

 サンフランシスコ講和条約が「片面講和」と為った事で、日本はソ連と個別の平和条約を結ぶ為交渉を続けた。戦後日本が国際社会に復帰する為に、国連安保理の常任理事国で拒否権を持つソ連との国交回復には重要な意味があった。又、敗戦でシベリアに抑留された日本人の帰還交渉も必要だった。
 一方のソ連側も、当時の最高指導者だったフルシチョフ第1書記が「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱。資本主義陣営との関係修復を目指していた。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名。戦争状態の終結と国交回復が為された。当初は「平和宣言」の締結を目指していたが交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」と云う形をとった。交渉が折り合わ無かった理由は北方領土だった。
 ソ連側は歯舞群島と色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は「四島返還」での継続協議を要求。その為両国間の溝は埋まらず、一先ず「共同宣言」と云う形に落ち着き「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。但し、これ等の諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記された。

 日本側が四島返還を主張した背景には、アメリカの圧力があったとも言われている。当時、アメリカ(アイゼンハワー政権)のダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」と云う圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)を掛けていたと伝えられる。
 更にアメリカは日本の外務省に「覚書」を通達。その内容は
 「択捉、国後両島は北海道の一部である歯舞群島及び色丹と共に、常に固有の日本領土の一部を為して来たものであり、日本国の主権下にあるものとして認められ無ければ為らないとの結論に達した」
 
と云うものだった。当時は東西冷戦の真っ只中、日ソ接近を警戒しての圧力だったと言われている。


(2)1960年〜70年代 日ソ交渉の停滞

 これ以降、日ソ間では平和条約の締結には至らず、引き続き北方領土問題が交渉の焦点と為った。1960年、日米安保条約が改定延長されると、1961年にフルシチョフ第1書記は日ソ共同宣言の内容を後退させ、日本を牽制。「領土問題は解決済み」との声明を出した。
 これに対し日本側は同年10月「南千島に関する外務省見解」を発表。歯舞、色丹のみならず南千島(国後、択捉)も日本固有の領土として、飽く迄四島返還を求める姿勢を強めた。

 
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 来日したミコヤン・ソ連第1副首相(右)と会談する池田勇人首相、1964年5月15日 11-28-12

 同年11月、池田勇人首相はソ連首相への書簡で「択捉、国後両島については日本政府は何らの権利をも放棄したものでは無い」とし、日本政府の統一見解として「国後、択捉島及び色丹島、歯舞群島の一括返還が無い限り条約の締結は出来ない」と云う立場を強調した。

 日本では1970年代に為ると、アメリカからの沖縄返還(1972年)の流れを受けて「南の次は北」と云う声が出ていた。ソ連側も、中国との関係悪化や日・米・中の接近を警戒し、日ソ間に歩み寄りの空気が生まれつつあった。
 しかし、1979年からのソ連のアフガニスタン侵攻による東西冷戦の悪化、アメリカのレーガン大統領と中曽根康弘首相の接近(「ロン・ヤス関係」)により、日ソ間協議は停滞した。

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 レーガン大統領(右)に紅葉の説明をする中曽根康弘首相(東京・日の出町の「日の出山荘」)、1983年11月11日 11-28-13


(3)1980年代後半〜90年代 ゴルバチョフ書記長の登場、ソ連崩壊とロシア連邦の誕生


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 共同声明に署名するソ連のゴルバチョフ大統領(左)と海部俊樹首相、1991年4月18日 11-28-14

 1980年代後半になると、ソ連では政治改革「ペレストロイカ」を提唱したゴルバチョフ書記長が登場。日ソ間でも領土問題交渉の再開機運が高まった。ゴルバチョフ書記長は「解決済み」としていたソ連側の見解を転換。北方領土問題を「両国間の困難な問題」とし、領土問題の存在を事実上認めた。
 これに呼応するように日本側も、領土問題の解決が無い限り経済協力をしないと云う「政経不可分」の立場を軟化させた。1991年4月にはソ連の元首として初めてゴルバチョフ書記長が来日。海部俊樹首相との6回にわたる首脳会談を行った。この時に調印された共同声明には
 「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ(中略)詳細かつ徹底的な話し合いを行った」
 と、日ソ両国の交渉で初めて北方四島が領土問題の対象であることが明記された。

 日本では1970年代になると、アメリカからの沖縄返還(1972年)の流れを受けて「南の次は北」という声が出ていた。ソ連側も、中国との関係悪化や日・米・中の接近を警戒し、日ソ間に歩み寄りの空気が生まれつつあった。
 しかし、1979年からのソ連のアフガニスタン侵攻による東西冷戦の悪化、アメリカのレーガン大統領と中曽根康弘首相の接近(「ロン・ヤス関係」)により、日ソ間協議は停滞した。


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 「東京宣言」などに署名し、握手するロシアのエリツィン大統領(左)と細川護熙首相 11-28-15

 1991年にソ連が崩壊すると、後継国家のロシア連邦ではエリツィン大統領が就任。民主主義や市場経済の導入を目指す新生ロシアにとって、民主主義国で経済大国の日本は、重要なパートナーだと考えられた。
 1993年、エリツィン大統領が来日し、細川護煕首相と共に「東京宣言」に署名。この宣言では北方四島の問題を「法と正義の原則に基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し」と明記された。これにより、1956年の日ソ共同宣言で合意した「平和条約の交渉継続」そのものが「北方四島の帰属の問題を解決すること」だと明確に定められた。


(4)1990年代後半 橋本首相とエリツィン大統領、「クラスノヤルスク合意」と「川奈提案」


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 会談前に握手する橋本龍太郎首相(右)とエリツィン・ロシア大統領(アメリカ・デンバー)、1997年 11-28-16

 日ソ共同宣言40周年を迎えた1996年、日ロ間の交渉進展の機運が更に高まった。この年、ロシアではエリツィン氏が大統領で再選。日本では橋本龍太郎政権が誕生した。橋本首相は、領土問題以外でのロシアとの関係改善と協力を通じ、最終的に領土問題を解決に導く「重層的アプローチ」をとった。この「急がば回れ」の政策は北方四島周辺における日本船の安全操業協定などの成果に繋がった。
 1997年、橋本首相は「ユーラシア外交」の名の下、「信頼」「相互利益」「長期的な視点」の対ロシア3原則を発表。更に「勝者も敗者も無い解決を目指す」と発言した。又、エリツィン大統領と個人的な信頼関係の構築にも努めた。
 同年の6月、アメリカのデンバーで開かれたサミット(主要国首脳会議)で、橋本首相はエリツィン大統領との首脳会談を実現。サミット後の記者会見で橋本首相は「多くの点で従来の雰囲気を超えるものであり(中略)日露関係の一つの壁を超えることができました」と、関係性の高さをアピールした。


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 首脳会談を前に笑顔で握手を交わす橋本龍太郎首相(右)とエリツィン大統領(ロシア・クラスノヤルスク郊外) 11-28-17

 デンバーサミットから5カ月後の1997年11月、橋本首相とエリツィン大統領はロシアのクラスノヤルスクで非公式に会談。エリツィン大統領の提案で、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことに合意した。この「クラスノヤルスク合意」で日本側では四島返還への期待が高まった。
 翌98年4月、橋本首相は静岡県での川奈会談で、エリツィン大統領に新たな策を提案した。いわゆる「川奈提案」だ。その内容は
「択捉島とウルップ島との間に、両国の最終的な国境線を引く」
「当分の間、四島の現状を全く変え無いで今のまま継続することに同意する」
「ロシアの施政を合法的なものと認める」

 と云うものだと伝えられる。

 歯舞と色丹の返還を即時返還を求め無いと云う、四島返還を求める日本側にとって最大限の妥協案だった。ただ、エリツィン大統領は「将に新しい興味深い提案だ」と興味を示したものの「検討の時間が必要だ」と即答しなかったと伝えられる。
 その後ロシア側は川奈提案を、99年間掛けてイギリスから香港を返還させた中国になぞらえて「香港方式」と批判。ロシア側は、日本の川奈提案を譲歩とは見なさなかった。
 1998年11月、橋本首相は参院選敗北の責任を取り辞任。エリツィン大統領も経済危機や自身の体調悪化で99年に辞任。こうしてソ連崩壊を契機に起こった領土問題解決の機運も、ここへきて頓挫した。


(5)2000年代 プーチン大統領の登場


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 イルクーツク声明に署名後、文書を交換する森喜朗首相(左)とプーチン・ロシア大統領 11-28-18

 2001年3月、森喜朗首相はエリツィン氏の後継者となったプーチン大統領とロシアのイルクーツクで会談し、北方領土問題を中心に話し合った。
 この時に発表されたイルクーツク声明では、1956年の日ソ共同宣言を「平和条約交渉締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とし、その上で「東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交渉を促進する」とした。

 この会談で日本側は、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが約束されている「歯舞、色丹の返還交渉」と、東京宣言で帰属問題が争点となっている「国後、択捉の返還交渉」を並行して進める「同時並行協議方式」を提案した。
 これは先ず、歯舞・色丹の二島返還を先行させ「国後と択捉の帰属は交渉の結果による」とするものだ。だが「国後、択捉を諦めることに繋がるのではないか」と云う反対論が日本国内では強まり、森政権から小泉政権に変わる中で頓挫した。


  ◇2013年 安倍首相が日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問


 2010年にロシアのメドベージェフ大統領が国後島を公式訪問したことで、日露の関係は一気に冷え込んでいたが、2012年にプーチン氏が大統領の座に返り咲き日本でも安倍首相が復帰。これをきっかけに、両国は関係改善に向けて動き出した。
 2013年4月、安倍首相は、日本の首相としては10年ぶりにロシアを公式訪問。両首脳はモスクワで「日露パートナーシップの発展に関する共同声明」を発表。この中では「戦後67年を経て両国間で平和条約が締結されていない状態は異常である」とし、北方領土問題については「これまでに採択された全ての諸文書および諸合意に基づいて交渉を進め、双方に受け入れ可能な形で最終的に解決することにより、平和条約を締結すると云う決意を表明した」と、平和条約と領土問題の交渉再開への機運が高まった。


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 2013年4月、日露首脳会談(モスクワ) 11-28-19


 しかし冒頭でも記した通り、2016年11月のリマでの首脳会談を経て、北方領土問題と平和条約の行方は、又も不透明なものとなっている。
 11月3日には岸田文雄外相がロシアを訪問し、ラヴロフ外相と会談したが、ラヴロフ氏は「北方領土問題の解決よりも前に平和条約を締結すべきだ」との考えを示した。ロシア側としては、第二次世界大戦の結果に関する歴史認識が根幹にあるだけに慎重な姿勢を崩さ無い。又、2018年に大統領選が控えており、再選を目指すとみられるプーチン氏としても、高い支持率を得る為に譲歩姿勢は見せづらいという背景もある。
 12月の日露首脳会談で安倍首相とプーチン大統領が、戦後70年にわたって両国の間に刺さった「とげ」を抜き去る為の道筋をつけられるか、その行方に注目が集まる。







  プレス向け声明(日露共同記者会見、2016年12月16日)

 日露首脳会談後、外務省は以下のプレス向け声明を発表した

 1 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、2016年12月15日−16日に長門市及び東京で行われた交渉において、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる共同経済活動に関する協議を開始することが、平和条約の締結に向けた重要な一歩になり得ると云う事に関して、相互理解に達した。
係る協力は、両国間の関係の全般的な発展、信頼と協力の雰囲気の醸成、関係を質的に新たな水準に引き上げることに資するものである。
 2 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、関係省庁に、漁業、海面養殖、観光、医療、環境その他の分野を含み得る、上記1に言及された共同経済活動の条件、形態及び分野の調整の諸問題について協議を開始するよう指示する。
 3 日露双方は、その協議において、経済的に意義のあるプロジェクトの形成に努める。調整された経済活動の分野に応じ、そのための国際約束の締結を含むその実施のための然るべき法的基盤の諸問題が検討される。
 4 日露双方は、この声明及びこの声明に基づき達成される共同経済活動の調整に関するいかなる合意も、また共同経済活動の実施も、平和条約問題に関する日本国及びロシア連邦の立場を害するものではないことに立脚する。
 5 両首脳は、上記の諸島における共同経済活動に関する交渉を進めることに合意し、また、平和条約問題を解決する自らの真摯な決意を表明した。
ロシア連邦大統領の日本国公式訪問の枠内で2016年12月15日−16日に行われた交渉において、両首脳は、両国の人的交流の為の良好な条件の創設に賛意を表した。
 特に、1986年7月2日付けの日ソ間の合意に基づいて実施されている、先祖の墓を訪問する為の日本人の元住民の往来に関するテーマが触れられた。双方は、人道上の理由に立脚し、上記合意の実施の制度は、何よりも往来への日本人参加者が高齢であることを考慮した改善を必要としていることで合意した。
 この関連で、両首脳は、両国外務省に対して、追加的な一時的通過点の設置及び現行の手続の更なる簡素化を含む、あり得べき案を迅速に検討するよう指示した。双方は、これに関するあらゆる問題について対話を継続することで合意した。

 以上








 素敵な「自転車と家庭水族館」http://fanblogs.jp/yorionet5000/ 管理人

 この時期に非常にタイムリーな記事でしたので、拡散いたしたく取り上げさせて頂きました。有難うございました。「北方領土問題」とは、何ともモドカシイ経緯が続き結果の出ない話ですね。互いに自国の領土を譲り譲られるのは、話し合いでは決着せず最終的には「暴力」つまり「戦争」で決着を着けて来たのが過去の歴史です。詰まり「領土問題の解決は戦争で行うのが通常」が世界の常識だった訳で、互いに「ウイン・ウイン」の関係で領土が移動するのは困難なのです。
 平和的な領土の移譲・・・この実験に成功するのは実に世界的に画期的なものと評しても好いでしょうね。逆に「北方領土を買う」としたらどうでしょうか?金銭的な面での価値観と、国のメンツとしての価値観のぶつかり合いが起きるでしょうね。
 何とも互いに落し処が見えないのが現実です。ロシアは実効支配し既に北海道を標的にするミサイル基地も配置されているそうですし、国防上の問題も含みますから一筋縄では行きませんね。そして、日本は過疎地が増えて周辺の島々では人口減少が顕著ですから、果たして北方の島々が返還されてもどの様に活用するのか、単に墓参や観光地としての目的では返還の意義が薄れます。将来、この島々をどの様に発展させ国民の真の利益と結びつけるのかが問われます。
 


 



 



 


2018年11月13日

日中戦争が私達に教えて呉れているものは何か?

 
  
 日中戦争が私達に教えて呉れているものは何か?

 =今後の日本と中国との付き合い方への参考に=






 
  「著作」 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』

 著者 小林英夫氏 2015.08.11

 上記著作を基に、日中戦争の分析を行います・・・


 国際法上の都合から宣戦布告無しに始めたこの戦争を、当時の日本人は〔北支事変・支那事変〕と矮小化して呼んだ。戦後も〔日支事変・日華事変〕等と呼称される期間が長く続いた。それらは、8年間におよそ100万人もの兵員を中国に動員して20万人近い死者を出した近代日本最長の戦争を定義するには、不釣り合いに軽い言葉だったと言えるだろう・・・日本人が昭和の戦争を振り返る時、その関心の度合いは1941年から始まる太平洋戦争に比べれば遥かに低い。
 ではこの日中戦争とはどの様な戦争だったのでしょうか。通説では1937年7月7日を開戦日とされているこの戦争ですが、日本政府が中国に対し「支那軍の暴戻を膺懲(ちょうよう)する」と声明を発表した8月15日こそが開戦日と考えるべきではないでしょうか。

 そして日中戦争を通じた戦略を分析して二つの類型を抽出できます。その二つとは、
 短期的な決戦を目指す殲滅戦略による戦争と長期的な持久戦を目指す消耗戦略による戦争の二類型に分類される。
 そして日中戦争とは、日本の殲滅戦略と中国の消耗戦略との激突であった。

 




 中国のこの戦略はどの様な発想から生まれて来たのでしょうか?

 蒋介石は、かなり早い段階から、強力な軍事力と産業力を有する日本と戦う為には、中国は道徳的優位性で勝負する以外に方法が無いと考えていたのです。この「道徳的優位性」とは精神性のことではありません。むしろ敗色濃く為った日本でこそ精神性が叫ばれました「大和魂」と呼ばれて。
 では蒋介石の云う「道徳的優位性」とは何だったのでしょうか。それは「政治力や外交力、更には国家の文化的な魅力をも含むソフトパワー」と云うものなのでした。
 この日中戦争とは、日本が行使した軍事力や産業力などの、いわばハードパワーと中国のソフトパワーの争いだったのです。ハードパワー故に短期決戦型の殲滅戦を狙った日本、ソフトパワー故に長期戦型の消耗戦でそれに応戦したのが中国でした。そしてその結果は歴史が証明しています。

 「戦争とは国と国との取り引きの一つの手段に過ぎ無い。だから負け戦を五分か七分で食い止めるのも戦さ上手なのだが、日本の軍人は戦争と個人同士の果たし合いを混同して、どちらかの息の根が止まるまで戦おうとした」

 これは、ソ連軍の侵攻を前に崩壊寸前と為った満洲国にあって、当時、国務総理のポストにあった張景恵の言葉だそうです。この戦争の中に現れた戦略性の差、それは戦争観の差であり日本軍の特性でもありました。この差を蒋介石は的確に捉えていました。

  日本軍側の長所とは、
 小賢(こさか)しい事をしない
 研究心を絶やさ無い
 命令を徹底的に実施する
 連絡を密にした共同作業が得意である
 忍耐強い
 短所は、
 国際情勢に疎い
 持久戦で経済破綻を生ずる
 何故中国と戦わねばならないのか理解出来ていない
 

 ⊡
対して中国軍側と云うと、長所は、
 国土が広く人口が巨大である
 国際情勢に強い
 持久戦で戦う条件を持っている
 短所は、
 研究不足
 攻撃精神の欠如
 共同作戦の稚拙
 軍民の繋がりの欠如

 と実に的確に指摘しています。『孫子』にある様に「敵を知り己を知れば百戦危うからず。敵を知らずして己を知れば一勝一負す。敵を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危うし」をそのまま地で行ったのが日中戦争だったように思えます。この蒋介石の日本分析について次のように評すことが出来る。

 




 【日本軍の長所は、兵士や下士官クラスに於いて発揮され易いものであり、彼等は好く訓練されて優秀だった。が、士官以上の将校レベルに為ると逆に視野の狭さや国際情勢の疎さと言った短所が目立って稚拙な作戦を立案し勝ちである。こうした日本軍の性質は、局面が単純な短期決戦向きと言えるだろう】

 張景恵が指摘した通り、日本軍の戦争観は「果たし合い」そうで無ければ「関ヶ原」とでも言ったものでしよう。最も徳川家康は関ヶ原戦争を殲滅戦では無く水面下の外交戦や謀略を駆使してたから、或る種の消耗戦略による戦争とも考えていたように思えます。
 考えて見れば日本は、総力戦であった第一次世界大戦には欧州の死闘を体験した訳では無く、日本に取って日中戦争の直前の大戦は日露戦争でした。この日露戦争は、誤解を恐れずに言えば「総力戦体制」をもたらす前にアメリカの仲介によって講和されました。総力戦体制とは消耗戦略による戦争を支えるものです。日露戦争は総力戦体制の要素を持っていたにも関わらず、そのことに気づいた政治家や軍人は少なかったのではないでしょうか。

 日本が日露戦争から学んだものは、旅順攻略と日本海海戦と云う殲滅戦の記憶だけだったのです。奉天大会戦で国力の限界に達した事に気づいた時、そこに総力戦=消耗戦と云う大きな壁があったことに気がついた政治家・軍人の記憶が一般化されることは無かったのです。
 皮肉なことに満洲事変を起こした石原完爾はこの消耗戦略による戦争と云うことに気がついて居た様に思えます。だからこそ満洲事変の首謀者であったにも関わらず日中戦争の拡大には反対していたのではないでしょうか。

 




 この日本軍の殲滅戦を好む性質は何処へ行ったのでしょうか?・戦後の日本人にも実は現れているのです。

 外交などを駆使した長期的・大局的な国家戦略は英米など超大国に委ね、自らはその僕(しもべ)として短期的・局所的な勝利の追求を国策とする明治以来のこの様な日本の体質は、形を変えて戦後も立派に引き継がれている。
 ハードパワーの両翼のうちの軍事と云う翼はもぎ取られたものの、もう片方の産業と云う一翼を異様に突出させて、超大国アメリカの僕としてこれに依存しつつ、自国の経済発展を追求したのである。それは手段こと変わってはいるものの、殲滅戦略戦争の再現に他ならなかった。
 この構想を戦後の比較的早い時期から積極的に描き、推進した人物が岸信介であった。けれど現在、この日本の経済的殲滅侵略戦争は既に行き詰まりを見せて来ました。悠久の歴史に培われた独自の外交力、文化力を磨き続けて世界に冠たるソフトパワー大国と為っただけで無く、現在は軍事や産業などのハードパワーも急速に強化している中国の台頭です。近代アジア史上で初めて、ソフトとハードの両パワーを備えた超大国が出現したのです。

 この超大国である中国、更に現在の国際情勢の中で今後我々はどう生きるべきかを考える前提としても、70年前の日本が日中戦争を通じて経験した殲滅戦略戦争の破綻と消耗戦略戦争と化したこの戦争の本質を見て行く事の意義は大きいのです。
 更に付け加えれば、いかに日本国内や日本軍内の言論が封殺されて来たかも考えるべきでしよう。言論統制や間違った情報、時の権力に都合の好い恣意的な情報のみが公開されることが反って現実的な対応力を鈍らせ、又日本国内でしか通用しない可笑しな常識を生む一因にも為って居るのです。

 今日本が抱えている様々な問題は、一点集中は得意だが国際的に孤立し易いハードパワー体質から来る事が多い。これを改めソフトパワーを強化する為には、やはり情報の公開と発進が不可欠です。情報の規制は短期的な効率を高めはするが、その状態が続くほど国の外には不信を内には退廃を生み出して、結局はその国の力を減退させるのです。
 「特定機密保護法」と「安保法制」に突き進む安倍政権はこの同じ轍を踏んでいるようにしか思えません。一たびは捨てた軍事の翼を取り戻して・・・


 




 殲滅戦と消耗戦との考え方はこんなことを感じさせました。アメリカは太平洋戦争後は、その教訓を生かさずに殲滅戦をしているのではないかと。朝鮮戦争・ベトナム戦争・中東での全ての戦争や又対テロ戦争もです。これは旧ソ連のアフガン侵略も同様です。
 殲滅戦に疲弊したアメリカとその同盟国の肩代わりしようとして云うのが今の「特定機密保護法」と「安保法制」のように感じてなりません。極めてアクチュアルな問題提起をしているように思えました。

 以上


 





 素敵な「自転車と家庭水族館」http://fanblogs.jp/yorionet5000/ 管理人

 色々な内容を含んだ文章でした。日中戦争で私達の記憶に残るのは、満州事変から満州国建設に始まる日本の中国侵略の始まりです。そして、上海事変から始まった本格的な中国侵略の姿であり、その中に南京攻略・占領があります。日本軍は「中国を懲らしめる」と称し次々と中国本土の拠点を攻略します。が、広大な中国の国土の中の点を占領したに過ぎず「目的のハッキリしない」この戦いは「ズルズル」と続いて行きます。
 そして日本は、この泥沼の日中戦争を抱えながら太平洋戦争へと突き進んで行くのです。誰が考えても余りにも無謀な戦いだったか・・・その結末は・・・これも歴史が教えて呉れます。

 果たしてこの様な戦いの決定は誰がどの様に下したのか?・・・これが今でも色々取り上げられますが、「戦い・戦争」とはこの様に訳の分からない空気の中で醸成され、やがて国民の歓喜の声で沢山の将兵が次々と戦地へと送り出されました。
 これは全て政府や軍部の宣伝で国民が洗脳された・・・と解釈するのは余りにも短絡的です。国内の不景気や不安に将来への恐怖等、色々なものが相混ざってこの様な「好戦的」な国民感情が芽生え育っていたのです。「ヤッター!」多くの国民が真珠湾攻撃の成功に躍り上がって喝采を送ったのです。何れにしても、当時の多くの国民に「戦争」への期待が存在したのは間違いない事実でした。詰まり、国民も望んだ戦争への序曲だったのです。その始まりが日中戦争であり将来の太平洋戦争を避けて通れない大きな原因を作って居たのです。

 近隣諸国や東南アジア諸国へ大変な迷惑を掛けたこの戦争の後始末が、果たして完全に解決されたのでしょうか?そして、日本は、嫌、人間は果たして「戦争の結果」を完全に解決できる程の力を持っているものでしょうか・・・
 これは、永遠に解決出来ない人類の連続する負の歴史であり、戦争の内容や結果に関わらず「戦争=不幸」以外の何物でも無い・・・これも全て歴史が証明しています。戦争は、自身と他者を傷つけ憎しみを生み出し、その果てにあらゆる不幸の目が芽生え育てるだけなのです。今言える正確なことはこれだけなのです・・・これを理解できる人は沢山いますが、それを実行するのは限りなく少数の人に限られるのが現実です。

 文章の中に次のようなものがあり、少し取り上げてみましょう・・・

 【日本軍の長所は、兵士や下士官クラスに於いて発揮され易いものであり、彼等は好く訓練されて優秀だった。が、士官以上の将校レベルに為ると逆に視野の狭さや国際情勢の疎さと言った短所が目立って稚拙な作戦を立案し勝ちである。こうした日本軍の性質は、局面が単純な短期決戦向きと言えるだろう

 これを言い換えると「一般の兵士は優秀だったが、士官以上の幹部クラスは短所が多かった」と為ろうかと思います。一般の世の中で20歳まで生活してから徴兵検査を受けて兵隊と為る者と、幼年学校や士官学校から将校として軍隊に入る者の違いなのでしょう。
 一般の兵士は、義務教育を修了し次の学校や職場へと入ります。そして、更に上級の学校へ進んだり実社会での数少ない経験を積んでから軍隊に入るのですが、軍学校と軍隊の中の生活しか経験のない者が指揮者・指導者としてと軍隊の中枢に就くのです。詰まり、限られた狭い経験と見分と知識で指揮者と為るわけですから、一般の社会知識に疎く限定された見識で育った訳でもあります。だから、下士官や兵士達は柔らかな頭脳で物事に対処できる素地があったのでしよう。

 確かに、軍学校は各地域の最優秀の青年達からこぞって選抜された、当時の最優秀な頭脳を持った青年達ですから、頭脳明晰・品行方正・身体強権の強者(つわもの)の集まりです。彼等が軍隊の指導者になることは尤もなことであり、何処の国でもその様な制度で軍隊の幹部を養成します。そして、中でも優秀な者が軍隊内の00大学へと進み将官への道を辿り部隊の軍隊の幹部へと進みます。
 軍隊の生活しか知識が無いとは言え、軍隊は或る意味人間の生活の縮図でもあり雑多な出来事が起こり、幹部はその対策に奔走し次第に色々な経験を積んで行き、占領地の軍政や政治にも関与しますから、行政官としても活躍する人材も育つのです。その中には優秀なスタッフを揃え、立派に行政を担った人材も散見されますので、全ての高級幹部がダメだった訳でもありません。

 強いて言えば・・・日本は、勝った負けたの子供の喧嘩には強いが、熟慮した大人の喧嘩には疎く価値も認め避けて通り、結果的には最後の喧嘩には負けたのでしょう。短慮に結果を求めず、長期的な戦略で辛抱強く戦略を練り、最終的な勝利を目指すのには適さない国民(軍隊)だったのです。



 



 



 




 
 

2018年11月09日

安倍首相の政策は国民を納得させられるか?


 素敵な「自転車と家庭水族館」管理人 

 先ずは、田原総一郎氏のブログを参照したい・・・


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 田原総一朗です。

 自民党総裁選と内閣改造を受け、10/24日に臨時国会が召集された。

 この国会は、実に様々な問題をはらんでいる。例えば地方創生担当相の片山さつきさんだ。彼女は国税庁への「口利き疑惑」が週刊誌で取り沙汰された。他にも何人もの閣僚が、企業献金をめぐる疑惑などをかけられている。だが、最も重要なのは外国人労働者の問題ではないか。
 政府は、出入国管理法を改正し外国人労働者の受け入れ体制を整えようとしている。一定の知識・経験を条件とする「特定技能1号」と、熟練した技能が必要な「2号」を新たな在留資格として新設しようとしているのだ。1号は在留期限を通算5年、一方2号は条件を満たせば在留期限は決めず家族の帯同も認めている。
 しかし、既に日本では「外国人研修生・技能実習生」等として約26万人もの外国人達が暮らしている。雇用形態は勿論非正規だ。果たして、基準を満たせば彼等も「1号」に入れるのか。「1号」と「2号」の審査の基準も未だ明確になっていない。そもそも「1号」と「2号」の条件の違いは何を基に決めたのか。

 政府が、外国人労働者の受け入れをこれ程急ぐのは何故か。云うまでも無く背景にあるのは国全体での人手不足だ。日本の外国人労働者の受け入れ体制は遅れている。一方、日本以外の国では体制が整っている国も多い。
 外国で働くことを希望する人達の中で、人気第1位は台湾だと云う。日本は続く2位だが、韓国も体制を整えつつありウカウカしてはいられない。アッと云う間に追い抜かれ、日本には来てくれ無く為ってしまうかも知れない。だからこそ、今の内にきちんと体制を作ろうと政府は考えているのだろう。これは理解できる。
 だが、問題なのは、余りにも急ごしらえで極めて曖昧であることだ。しかも安倍晋三首相は、この政策を打ち出しながらも、外国人労働者を「移民では無い」と言う。何故、安倍首相は矛盾を承知で、そう言わねばならないのか。

 自民党の中には「移民反対」の議員が少なからずいる。「産経新聞」などのメディアにも反対派が存在する。
 「日本人の職が奪われる」
 「日本人の純粋性が失われる」

 等が、その理由だろう。詰まり安倍首相の「身内」にも反対意見は少なくないのだ。野党も当然反対している。安倍政権による基準が曖昧だと云う理由だけでは無い。「日本人の職が奪われる」と云うのも理由のひとつだ。労働組合、その元締めの連合(日本労働組合総連合会)が反対しているからだ。「移民では無い」と安倍首相が苦し紛れに言わざるを得ないのは、こういった状況の所為なのだ。

 今回の国会での重要な議題は、まだまだある。消費税引き上げの問題も大きい。現行の消費税8%を2019年10月に引き上げ10%にすると云う件だ。
 日本の借金は先進国のなかでも断然多い。1200兆円にものぼる。その財政を健全にしようと消費税アップを決めた筈だ。処が、消費税引き上げの代わりに様々な経済対策を打ち出している。例えば軽減税率だ。だが、これはまだ好い。キャッシュレスで支払えばポイントを還元するなどはその効果が好く分からない。

 小泉純一郎首相の時代に「痛みを伴う構造改革」と宣言したことがあった。だが評判が非常に悪かった。その反省を踏まえたのかも知れない。安倍首相は、その反対の「痛みを伴わない改革」を謳っているかのようだ。
 一方の野党だが、当然、消費税の引き上げには反対だ。だが、そもそも「消費税10%」を決めたのは、野田佳彦さんが首相だった民主党政権の時代なのだ。これもまた大矛盾である。

「外国人労働者受け入れ」にしても「消費税の引き上げ」にしても、何の為にその政策を実行しなければならないのか好く分からない。安倍政権は、本当の処をしっかり説明して来なかった。だから、問題がややこしくなり、判り難い事態になってしまうのだ。
 今回の臨時国会では、与野党の大論戦を期待したい。重要な政策について、国民が納得する議論を展開してほしい。そして、安倍首相には、日本と云う国の置かれた状況の、本当の処を、きちんと語って欲しいと思っている。  以上


 


 


 素敵な「自転車と家庭水族館」管理人     http://fanblogs.jp/yorionet5000/

 田原氏のご意見をお伝えいたしましたが、如何でしょうか?

 冒頭で取り上げられた「片山さつき氏」は、田原氏のテレビ番組「あさ生」でも比較的常連に近い論客であり、自民党の中の数少ない理論派であり現実保守路線を行く政治家として貴重な存在だったと思っていました。しかし、頭の良さと派手な活動で自民党内からも「やっかみ」に近いものが在る様で、彼女を援護する声が聞こえないのは誠に可哀想な気がします。
 自民党としては、この様なテレビ番組に出る議員は「余程の度胸のある論客」で無ければ出せ無いでしょうが、彼女は常に堂々と出席し論戦に立ち向かって居ました。その姿は、好悪は別にして政治家としては評価出来るものだと感じていましたので、私としては誠に残念な事態に為ったと思っています。
 官庁の中の官庁である旧大蔵省の主計局でのやり手の女性主任主計官として、各省庁からの予算を査定する高級官僚のトップを走って来た彼女ですから、周りには幾多の敵も作ったのでしょうが、次から次と新たな疑惑を取り上げられて終始弁明に追われています。


   11-15-4.jpg そのまんま東氏

 そのままんま東氏はTV番組の中で「比較的小さな疑惑の連続だが、併せて一本です!速やかに謝罪して大臣を辞職した方が政治家として生き残る道はある・・・」と彼女を擁護していました。彼にしたら「片山氏は経済・財政の専門家なのだから、地方担当大臣には何等の知識も意欲も無く不適当だ」との思いが強く、日頃から不適格だと主張していました。
 特に今回の内閣人事は「在庫一掃内閣」と揶揄され、安倍氏三選に尽力した各派閥からの推薦人を、各派閥で夫々「身体検査」をしたものと考え、そのまま受け入れた様です。他の新人大臣も「大臣適齢期」を過ぎた、言わば「在庫に為った」人達で、大臣の職責と経歴が適切かは難しい処でしょう。
 しかし今回取り上げた週刊誌は、何年も前から彼女の取材を続け何時かは・・・とこの機会(大臣に就任)を狙っていたのでしょう。真にタイミングの良いものでした。彼女は「事実誤認だ、週刊誌を提訴する!」と息巻いていますが「訴訟中なので細かな説明は出来ない・・・」とする言い逃れに使うのは、議員・大臣・公人としては見苦しいものです。
 「説明できない・言い難い」何かがあるのなら、裁判の如何に関わらず公人として世に説明出来ないのなら、責めて最低限は大臣を辞職してから「好い訳」をして欲しいものです。彼女にはそれ以外に「政治資金報告書の訂正問題」や「埼玉や名古屋の屋外看板問題」など次々と野党に追及されていて、話題に事欠かないようです。サテ片山氏は、それでなくとも日頃の言動や姿勢で反感を買い易い人なので、暫くはメディアの格好の餌食にされるでしょうが、引き際を間違えると厄介な結果に為るかも知れません。素直に、そのまんま東氏のアドバイスを受け入れて早急な謝罪と責任の取り方をするよう忠告します。このまんま終わりにするには勿体ない存在ですからね。

 

 田原氏の指摘の様に「外国人労働問題」「来年の消費税の増税対策」に加え最近は「北方領土の早期帰属問題」が加わり、安倍氏の任期中に全て解決させようと、大変時間的な制約を受けています。稚拙で中途半端な解決を急がず、腹を決めて最後の任期を全うする様に願っています。