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2018年06月02日

「ジンギス・カンは源義経だった」説の謎



 「源義経=ジンギスカン」説の誕生



       mo8-24-28.png
       
 明治11年(1878)北海道の平取を旅したイサベラ・バードは、この地に義経神社があり源義経が祀られていることを知ります。ここでは、アイヌに舟の作り方や農耕・弓術を教えたのが義経だとされているのです。  イサベラ・バードがジグザグ道を上って行くと、漆を塗っていない白木の簡素な神社が崖のギリギリに建って居ました。神社の奥の方に広い棚が着いており、その棚には小さな厨子が置いてありました。中には、真鍮で象眼の鎧をつけた義経の像が入って居ます。そして、壁には平底の帆船を描いた日本画が掛けてありました。

      mo8-24-29.jpg

 《副酋長が神社の扉を開けると、皆が恭しく頭を下げた。(中略)彼らは神の注意を惹く為に、三度綱をひいて鈴を鳴らした。そして三度お辞儀をして酒を六回神に捧げた。この様な儀式をし無ければ神の元に近寄ることはできないのである》(『日本奥地紀行』)

   mo8-24-30.jpg

 東北から北海道に掛けて、様々な義経伝説が残っています。大抵は義経は素晴らしいと云う伝説なんですが、中には非道な話もあります。
 幕末から明治に掛けて蝦夷地を探検し「北海道」の名称を考えついたのが松浦武四郎。松浦は、日本人から収奪されているアイヌのインタビューを重ね『近世蝦夷人物誌』を書き上げました。その中に、沙流川流域の平賀(現・日高町)に住むハフラ酋長の証言が残されて居ます。

     義経4.jpg
      沙流川(奥はアイヌの聖地を潰した二風谷ダム)

「その昔、源義経公がこの地に来て、平取村の酋長の娘と懇意に為った。義経公はこの家に伝わる兵法の秘伝書を盗もうとしたが、酋長は娘が義経公の子供を出産した後でさえ宝の場所を教え無かった。義経公は酋長を騙す為盲目の振りをしていた。
 或る時、我が子を囲炉裏に落としたまま助けられずに居ると、酋長は本当に目が見え無いのだろうと思い、秘伝書を渡した。義経公は、雲を起こし雨を降らす等の秘術を身に着け小舟で逃げた。そして、遂に満州と云う国へ逃げたそうだ」

 我が子を火の中に落とすなど、やや義経の人間性を疑うような話です。しかし『義経記』にも「鬼一法眼」の娘を利用して兵書を盗んだと云う伝説が書かれており、火の中に我が子を落とすエピソードは幸若舞の『入鹿』(大化の改新をテーマにした舞)にもあります。
 こうした日本的な伝説が、アイヌの始祖である「オキクルミ」の伝説と融合したと、金田一京助らは述べています。
 
 サテ、秘術を得た義経は、満州に行ってどう為ったのか。実はそこからチンギス・ハーンとして、モンゴル帝国の初代皇帝に為ったと云うのです。一体、どうして義経はジンギスカンに為ったのか。その過程を追っかけます!

     義経2.jpg
       中尊寺に残された義経の木像

 先ず、義経の最期はどの様に記録されて居るのか。歴史の教科書では、源平合戦で武功を建てた義経は、兄の頼朝に嫌われ鎌倉から逃亡。奥州平泉の藤原秀衡に保護されますが、1189年息子の泰衡に攻撃され自害したと為っています。
 しかし、首実検の為鎌倉に送られた義経の首は、5000kmを43日掛けて到着したと歴史書『吾妻鏡』に書かれて居ます。到着したのは、現在の真夏に当たる旧暦6月13日。恐らく、首は腐敗し義経かどうか判断出来なかった筈です。ここで、「首は他人のもので、わざと腐らせたに違いない」と云う説が生まれました。実際には義経は北方に逃がれ、蝦夷から樺太経由でシベリアに入り中国大陸まで渡ったとされたのです。

 前述の通り、東北から北海道には義経や弁慶に纏わる伝説が100以上も残って居ます。例えば宗谷岬には、「義経試し切りの岩」伝説があります。義経が、アイヌに樺太行きの船を頼みますが、誰にも相手にされ無かったので、怒って近くの岩を切ったと云う話です。


 江戸時代、林羅山や新井白石が「義経の北方逃避行」説を支持し、徳川光圀は検証の為、蝦夷に探検隊を派遣しました。幕末には、新井白石の説を翻訳で読んだシーボルトが著書『日本』で義経が大陸に渡って成吉思汗に為ったと主張します。
 明治11年、北海道を調査旅行したシーボルトの次男が『蝦夷見聞記』に詳細を記録して居ます。

  韃靼の海岸に漂着し、1703年に帰国した日本人が、北京の朝廷で義経の肖像を見たと云うが、それはチンギス・ハンの肖像画だった
  中国の史書には、1189年 テムジンが「汗(ハン/カン)」に承認され、チンギス・ハンとして白い旗を掲げたとある。白い旗は源氏の象徴だ し「カン」は日本語の「守(かみ)」から来たものだ
  テムジンと義経は同い年である
  モンゴル帝国の風習は和風のものが多く、又、日本風の長い弓矢が初めて使われ始めた

 こうして、徐々に「義経はチンギス・ハーン」と云う説が広まって行きます。

 明治12年(1879年)末松謙澄が「義経=ジンギスカン説」を唱える論文をイギリスで発表。末松は逓信大臣や文部大臣を歴任した明治政府の高官であり伊藤博文の女婿に当たります。初めて「源氏物語」を英訳する等有名な文化人でもあり、明治18年に論文が『義経再興記』として出版されるとこの説が日本でブームを起こします。
 「義経=チンギス・ハーン説」を定説に変えたのが、大正13年(1924)に大ベストセラーと為った小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』です。

      義経3.jpg
        『成吉思汗ハ源義経也』

 陸軍通訳だった小谷部は、旧満州や蒙古・シベリア方面まで徹底調査して回ります。或る日、小谷部はモンゴルでラマ教の高僧に出会い「『源義経汗』を発音してみよ」と頼みます。すると、高僧は日本風の「ゲン・ギ・ケイ・カン」では無く「チン・キ・セー・ハン」と発音したのです。将に「チンギス・ハーン」と聞こえます。

 「源義経汗」を発音すると「チンギス・ハーン」に聞こえる

 それだけではありません。小谷部が蒙古のラマ寺から手に入れた『成吉思汗伝』等に、チンギス・ハーンは「丁亥の年(1227年)7月」に66歳で死んだとありますが、これは日本の「安貞元年丁亥の年」と同じ干支なのです。実は、日本とモンゴルの干支は一緒で、これこそ義経がモンゴルに日本の干支を導入した証拠だというのです。

 過つて「日本道」「東京府」と呼ばれたシベリアのウスリースクは、当時、雙城子と云う名前でした。この場所には「義経公園」があり、そこには亀の形をした義経の碑もありました。地元の人はこれを「日本の武将の碑」と思って居ました。小谷部は、探検家として最も奇異に感じたことを、『成吉思汗ハ源義経也』にこう記しています。

 《東部西比利亜(シベリア)及び満洲等を旅行して、彼(かの)地に日本式の古き神社の在(あ)ること、及び笹竜胆(ささりんどう=源氏の家紋) の紋章を用い居ると、かつ満洲人に姓を源と名乗る者の多きを賭聞する》

 この本には、他に

  ジンギスカンと為った「テムジン」は「ニロン」族の出身だが、これは「日本」族の「天神」の訛りである
  チンギス・ハーンは別名「クロー」と称したが、これは「九郎判官」である
  モンゴル帝国の「元」は「源」から来ている
  モンゴル文字に平仮名からヒントを得たとしか考えられ無い文字が存在する
  相撲、乗馬、緑茶、服など共通の文化が数多い

 等など、多くの傍証が記されています。『成吉思汗ハ源義経也』は、大ベストセラーと為りました。それは「判官びいき」と云う庶民の心情の上で、日露戦争後の大陸への拡大政策と重なって行きます。そして、大陸への侵攻は正しいのだと云う「大東亜共栄圏」建設の夢に繋がって行くのです。


 <おまけ>

「義経=ジンギスカン説」に対し、正統派の歴史家達は猛然と反論します。当時「国史講習会」が刊行していた『中央史壇』と云う雑誌は、大正14年2月「成吉思汗は源義経にあらず」と云う臨時増刊を出版します。ここには、金田一京助を初め当代一の歴史家たちがこぞって小谷部に対する反論を寄せて居ます。金田一京助は「義経=ジンギスカン説」は多くの英雄不死身伝説と同じようなものだと断罪しています。

 因みに、英雄不死身伝説には、以下の様なものがあります。

 ● 平清盛の妻に抱かれて入水した「安徳天皇」が九州に逃げた
 ● 源頼朝・義経の叔父にあたる「源為朝」が琉球へ逃げた
 ● 北条氏打倒に失敗した「朝比奈義秀」が高麗へ逃げた
 ● 大坂夏の陣で敗れて淀君と自刃した「豊臣秀頼」が九州に逃げた
 ● 江戸幕府に対する反乱を起こした「大塩平八郎」が島原・天草に逃げた
 ● 西南戦争で敗れた「西郷隆盛」がロシアに逃げた……

 <おまけ2>

 シーボルトの本に出て来る「1703年に帰国した日本人が北京でチンギス・ハーンの肖像画を見た」と云う話は『蝦夷志』に出て来るエピソードです。原文では「チンギス・ハーン」では無く、清朝を作った「ヌルハチ」と為っています。実は、幕末から明治時代に掛けては「義経はモンゴル帝国を作った」では無く、「義経は清朝を作った」と云う話が信じられて居たのです。

 以上


 事の真異は「杜(もり)の小父さん」(私)には判りません。しかし「義経=ジンギス・ハン説」が満州侵略から大東亜圏構想へと繋がったとは思いも掛け無い話でした。戦争遂行の為には何でも利用しようとした強(したた)かさを感じます。
 単なる空想やロマンであれば夢も擽(くすぐ)りもありますが、満州侵略を肯定し中国戦線へと向かって行き曳いては多くの同胞を犠牲にした太平洋戦争へと導いたと為れば実に悲しい事です。確かにモンゴル帝国の侵略のスピードは常識では考えられ無いものですから、当時の好戦家達に取ってはジンギス・ハーンに肖(あやか)りたいのは判りますが・・・

 

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