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2020年05月09日

保阪正康の「不可視の視点」  明治維新150年でふり返る近代日本(46)  「忠君愛国」推進したのは「維新の要人」だった




  保阪正康の「不可視の視点」 

  明治維新150年で振り返る近代日本(46) 

 「忠君愛国」推進したのは「維新の要人」だった


           〜J-CASTニュース 5/9(土) 11:00配信〜


     050907.jpg

 第2期の国定教科書には「キグチコヘイ ハ ラッパ ヲ クチ ニ アテタ ママ シニマシタ。」の1節が登場する 写真右ページ 写真は国立公文書館ウェブサイトから

 1910(明治43)年の国定教科書の改定は、徹底したナショナリズムの高揚に意が注がれて居た。とは云え忠君愛国が説かれたにせよ、偏狭な民族意識礼賛と云う様な内容では無かった。例えば、日露戦争時の「水師営の会見」は乃木希典とロシアのステッセルとの会見を指すが、こう云う時の表現は相手の立場を思い遣る優しさも一方で強調するのである。
 『教科書の歴史』(唐澤富太郎編)に依る為らば、尋常小学唱歌の5年生で歌わせる「水師営の会見」にはその精神が込められて居る。この唱歌の4番には「昨日の敵は今日の友」で始まり「我はたたへつ かの防衛 彼はたたへつ 我が武勇」と言った一節迄も含まれて居る。

           050908.jpg

                 文 保阪正康氏

 「西洋紙」と「日本紙」の会話が教えたバランス感

 愛国心や祖国愛を説くのにも、相手の気持ちを思い遣る精神や心配り思い遣りが強調されたのは「国を想う」と云う感情は偏(かたよ)ってはいけ無いからだ。相手を認める余裕を持つ様に強調されて居た。詰り謙虚なのである。唐澤が紹介して居るのだが「西洋紙」と「日本紙」が会話を交わすシーンを教科書に取り上げて居ると云う。西洋紙は日本紙に自慢げに話し掛ける。
 「世の中が開けて行くに連れ、君達の仲間より自分達の仲間の方が、用いられる事が多く為った」と言うのである。そして「先ず毎日の新聞は西洋紙であるし、書物もた居て居西洋紙で拵える様に為った」(引用に当たっては片仮名を平仮名に直した 以下同じ) すると日本紙は反論する。 「この座敷を見私てもこの沢山の障子は皆僕等の仲間で貼って在るではないか。此処に在る扇子や団扇も矢張りそうだ」

 西洋紙は「僕らは裏表が使える」と反論する。日本紙も「自分達は紙縒(こよ)りにも為れば、物を縛る事も出来る」と応じる。この遣り取りを子供達に教えると言うのは、西洋紙で近代の西洋文化を教え、日本紙で伝統を教えて居るのである。
 この様な明治の精神を児童生徒に教える事で、ナショナリズムのバランスを保とうとするのは、一方で忠君愛国を説きながらも、それが歪んではいけ無いとの配慮も在ったと言う事に為る。

 日露戦争を戦った政治・軍事の指導者達は、この国の実力が世界の枠組の中でどの程度なのかを理解して居たのである。偏狭なナショナリズムを排除しようとの意思は充分に感じられるのである。最も次の時代の指導者達は、この事を西欧へのコンプレックスと云う視点でのみ受け止めたのが不幸でも在った。

 第2期で日清戦争の木口小平が登場した理由
 
 同時に第2期(明治43年からの国定教科書)の中心軸に為った忠君愛国は、天皇に対する絶対的服従と云う教えであった。
 1904(明治37)年の第1期の国定教科書は、実は日露戦争半ばから国粋主義者に依って非難攻撃の対象に為って居た。 「忠孝の大義こそ日本の国体の精華であるから、これを日本国民の永遠の特色として子々孫々に迄伝える様に修身教科書を改正すべし」(前出の唐澤書)との声が広まった。この方向での改正で在ったのだが、これを主張した中心人物が、貴族院議員で帝国学士院の重鎮である穂積八束であった。

           050909.jpg 穂積八束

 一般的な評価に為るのだが、穂積は強力な家族国家観を持って居て、それを国家の軸に据えようとして居たのだ。この穂積の他に、東久世通?(伯爵・枢密院副議長)田中不二麿(元文部大輔・枢密院副議長)野村靖(子爵・元内務大臣)の3人は、文部省の第1次国定教科書では忠君の意味が曖昧と批判する意見書を提出して居る。
 こう云う有力者の意見が 第2期の教科書の骨格に為ったとも言えるであろう。付け加えて置けば、東久世・田中・野村は何れも1871(明治4)年の岩倉使節団の一行に加わり、欧米の事情をタップリと見聞して来た。彼等をして日本はそれから40年近くの時間を経て、欧米に国力が及んだとの判断をして居たのかも知れない。

 歴史の年譜から可視化出来る彼等の動きは、その心中に於いて天皇中心の国家造りを実行する事で、国家の繁栄に持って行こうとの心理や自信があったのではないかと私には思える。その部分は不可視の領域で有ったとも言えるのだが、敢えて言えばこう云う要人が恐れたのは、社会主義運動が活発に為って来て、公然と天皇制への批判を持つ社会主義者や無政府主義者が官憲と衝突する事態(明治41年の赤旗事件)に為ったからである。
 維新を潜り抜けて来た要人達は、自分達の創設した明治国家が反体制派に依ってヒックリ返されるのが何よりも恐怖だったのである。この恐怖心を不可視のものとして捉える事で歴史の裾野はより広まって行く事に為るだろう。

 第2期の国定教科書は、1年生から「忠義」や「忠君愛国」の例として、日清戦争時の木口小平が取り上げられて居る。第1期では全く取り上げられて居なかったのにである。それは以下の様に書かれて居た。

 「キグチコヘイ ハ ラッパ ヲ クチ ニ アテタ ママ シニマシタ。」

 そして日露戦争では、旅順港を閉塞した海軍の軍人達の行動が、忠義だとして讃えられて居る。例えば次の様にだ。旅順港の港口に船を沈めてロシアの艦隊が出られ無い様にしたのだが「ソノトキ ワガ グンジンハ イノチ ヲ ヲシマズ イサマシク ハタライテ チュウギ ヲ ツクシマシタ」と云うのである。
 「忠義」は軍国主義に直結して行ったのは、明治43年からであった。これが暴走して行くのである。

 (第47回に続く)

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 保阪正康(ほさか・まさやす)1939(昭和14)年北海道生まれ ノンフィクション作家 同志社大学文学部卒 『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)『昭和陸軍の研究(上下)』『昭和史の大河を往く』シリーズ 『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数 2004年に菊池寛賞受賞

                    以上















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