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2019年12月28日

安芸城

土佐国 安芸城(あきじょう)
高知県安芸市土居にある平山城です。
最初の築城としては、鎌倉時代末期の1309年に、安芸親氏が築城したとされ、戦国時代まで安芸氏の本拠地となりました。

戦国時代に名を馳せた安芸国虎(あきくにとら)は、土佐安芸郡の領主・安芸元泰の子として1530年に生まれました。

安芸城最後の城主である安芸国虎は、土佐統一を進めていた長宗我部元親と対立し、激しい抗争を繰り返しました。
 永禄12年(1569)7月、元親は、7200人の兵をひきいて金岡城(安芸郡芸西村)を落城させ、これに対し国虎は5300人の兵を集めて、八流(安芸市)で守りを固めました。 八流は海に面した自然の要害でしたが、長宗我部軍の奇策により動揺した安芸軍は総崩れとなり撤退します。そして、この間に長宗我部軍が安芸軍内の協力者の先導で山越えし、城の背後から攻め込んだため、安芸軍は全軍城に引き揚げ、立て籠もることとなりました。 籠城は24日間に及びましたが、敵に内通する者が出て、城内の井戸に毒を投げ入れたため、ついに国虎は城を明け渡すことを決心します。国虎は一子千寿丸を阿波へ落ちのびさせ、夫人を生家の一条家(中村市)のもとに送り返した後、全将兵の助命を条件に浄貞寺に入り、8月11日自刃しました。 その墓は、殉死した有沢、黒岩両家老の墓に守られるように、今も浄貞寺に残っています。


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細川氏

細川氏(ほそかわし)
Screenshot_20191228-163401~2.png
家紋
細川九曜
読み(ほそかわくよう)

本姓は源氏、
鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流。
名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷
(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)
に土着したことに由来する。

本姓
清和源氏義国流
(河内源氏・足利氏流)
家祖
細川義季
種別
武家
華族(侯爵)
出身地
三河国額田郡細川郷
主な根拠地
丹波国
摂津国
阿波国
讃岐国
土佐国
淡路国
著名な人物
細川頼之
細川勝元
細川政元
細川高国
細川晴元
細川藤孝(幽斎)
細川忠興(三斎)
細川護熙(第79代 内閣総理大臣)
支流、分家
阿波国守護家(武家)
和泉国守護家(武家)
熊本藩主家(武家)
宇土藩主家(武家)
天竺氏?(武家)
など

南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。

Screenshot_20191228-170805~2.png
細川氏発祥地にある細川城址
(愛知県岡崎市細川町)

Screenshot_20191228-172739~2.png
<国宝> 洛中洛外図屏風「細川殿」
米沢市上杉博物館所蔵

南北朝時代、細川氏は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍・足利義満をよく補佐し、以後その嫡流である京兆家は、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥となる。戦国時代のはじめ、その子・細川政元は、将軍・足利義材を退けて幕府の実権を掌握し(明応の政変)、政敵も攻め滅ぼして細川氏の全盛期を築いた。

しかし政元には実子がなく、3人も養子を決めたことによって跡目争いを招き暗殺された。政元を暗殺した養子の一人である細川澄之は他の2人の連合軍に滅ぼされ、以後細川氏は残った養子である細川高国と細川澄元の2派に分かれ、それぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びついて20年余りも争った(両細川の乱)。また後年、澄元の実家阿波守護家の守護代三好氏が畿内に進出し、その勢力は主家を凌ぐようになってゆく。

高国は最終的には澄元の嫡男・細川晴元に破れ、晴元の血筋が京兆家家督となる。

しかし、家督を収めた晴元も家臣の三好長慶が率いる一族(三好氏)や松永久秀らの反乱によって細川氏が代々治める摂津・丹波・土佐などの領国から落ち延びることになり、管領職も含めかつての名門の影を徐々に失いながら京兆家は没落していった。

永禄の変で第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺された後、美濃を掌握した織田信長が15代将軍・足利義昭を擁立し、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の子細川昭元は信長に属しその妹婿となり丹波国において二郡を所領として与えられた(丹波は細川氏相伝の守護国)。しかし勢力の回復には至らず、管領や右京大夫にも任ぜられなかった。

一方、傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力した。しかし義昭と信長の対立以降は、長男の忠興(三斎)とともに信長に従い、山城国の長岡を賜り名字も長岡に改めて明智光秀の組下として活躍、丹後一国を領した。本能寺の変では光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。

秀吉の死後、忠興は徳川家康に属し、細川に復姓し関ヶ原の戦いの功により豊前国小倉藩39万9千石を領する。その子・忠利の代に肥後国熊本藩54万石の領主となり、明治維新に至り、明治時代には侯爵となる。子孫の細川護熙は、熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。

細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。

中世
細川氏の祖は、足利氏の祖・足利義康の庶長子である矢田義清である。平安時代末期、義清は木曾義仲に属し、都から追い落とした平家軍との戦である水島の戦いでその弟義長とともに戦死している。

鎌倉時代に、足利本家の義氏が三河守護となると、義清の孫義季は兄の仁木実国、弟の戸賀崎(戸崎)義宗らとともに三河国へ進出し、細川郷を領して細川次郎と名乗った。しかし足利家同門でも家格が高く本家からの独立性が強かった斯波氏や畠山氏とは異なり、この時代の細川氏はさほど有力な御家人ではなく、その活動の記録はほとんど残されていない。矢田義清が壮年で戦死した際、残された遺児は幼かったと考えられ、有力な縁戚関係もなく足利義兼ら一族の庇護を受けたようだが、その結果、陪臣・家臣という地位にまで下がったのが原因のようである。そのために平安末期〜鎌倉初頭までは知行地もほとんどなく勢力が全くなかったと考えられる。三河に移ってから庶流も分出し、漸く勢力を養う事ができたようである。鎌倉期の庶流の中には一族から離れて同族の他氏に仕えた者もおり、後に細川氏の宿敵的存在になる同族の斯波氏の重臣である鹿草氏(完草氏)は史料から細川氏の庶流であることは判明しているが、どの流に属していたのかは不明になっている[1]。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、細川和氏・頼春兄弟やその従兄弟の顕氏・定禅らが足利尊氏に従う。元弘3年 / 正慶2年(1333年)に、尊氏が倒幕の兵を挙げると、和氏は上杉重能とともに後醍醐天皇に帰順を願う使者の役割を果たし、京都の六波羅探題攻撃にも加わった。 さらに新田義貞に奉じられて鎌倉を陥落させた尊氏の嫡子・千寿王(後の室町2代将軍・足利義詮)を補佐するために下向し、義貞に対抗して鎌倉を足利氏に掌握させる。和氏と顕氏は、尊氏の命により四国に渡り、阿波国、讃岐国を中心に南朝方との争いを勝ち抜き、在地豪族の被官化を押し進めた。この時代に、細川氏は有力な守護大名へと成長する。

和氏の嫡子である細川清氏は、当初将軍義詮の執事職(後の管領)として幕政の実権を握ったが、佐々木道誉の讒言により失脚した(康安の政変)。その後南朝方に属したが、一族の細川頼之に追討されて滅び、また顕氏の子・細川繁氏も急死したため、頼春の嫡子である頼之が細川氏で随一の実力者となる。代々幕府の管領に任ぜられることになる細川氏本家の京兆家は、子がなかった頼之の弟でその養子となり跡を継いだ細川頼元の後裔を指し(頼元の血筋自体は政元までで途絶える)、その他の有力な庶家・分家も、多くは頼之の時代に派生している。

室町時代の細川氏は、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成することで、一族内訌の危険を減らし、これにより有力守護の勢力を削ごうとする将軍の干渉を排し、管領・有力守護の地位を保ち続けたのである。

京兆家
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家紋
松笠菱(細川向かい松)
細川京兆家が使用していた家紋。

細川氏の宗家・嫡流であり、摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領職に任命を受けたため、管領細川家(または細川管領家)ともいう。細川京兆家の「京兆」(けいちょう)とは右京大夫の唐名「京兆尹」のことであり、当主が代々右京大夫の官位に任ぜられたことに由来する。またこの官位から細川右京兆とも呼称される。前述の通り、本来細川氏嫡流で権勢を誇っていた細川清氏の失脚・滅亡後、清氏を討伐し管領として幕府と細川氏隆盛の礎を築いた細川頼之(清氏の従弟)に始まり、清氏の系統に代わって頼之の系統が細川氏の本家・嫡流となった。

歴代当主の通字として、頼之の跡を継いだ弟の細川頼元に因む「元」(もと)、一部の人物は頼之に因む「之」(ゆき)の字を使用している。

頼之は中国管領、四国管領を歴任し、讃岐・阿波・土佐など四国の分国化を進めた。中央では管領となって執政し、幼少の将軍・足利義満を補佐して幕政を統轄した。頼之は義満からの信任は厚かったものの、天授5年 / 康暦元年(1379年)の康暦の政変で一旦失脚する。しかし、領国の四国に渡り阿波を中心とする分国支配を堅持することにより敵対勢力を退け、やがて中央政界に復帰した。

頼之自身は僧籍を理由に、実弟で養子(頼之に実子はいなかった)の細川頼元を京都の周囲を固める丹波・摂津の守護に推し、さらに管領にも推した。京兆家は同じく足利一門の斯波・畠山両氏とともに将軍を補佐する三管領(三管四職)、また室町幕府宿老として重きを成していく。

室町時代中後期、畠山持国との権力闘争に勝利した細川勝元は、3度にわたり計23年間も管領職を歴任し、実力者の山名宗全(持豊)と手を結び畠山氏を弱体化させた。しかし将軍家や畠山家の家督相続問題などで畠山義就を後押しする宗全と畠山政長を後援する勝元は対立、東軍の総帥として足利義視を推戴して、宗全率いる西軍との間で11年に及ぶ応仁の乱を引き起こし、その途中に病没する。

戦国時代前期の畿内は、将軍と京兆家を中心とした争乱が続く。勝元の子・細川政元は、明応の政変で10代将軍・足利義材(後に義尹、義稙と改名)を廃立、11代将軍・足利義澄を擁立し、幕府の実権を掌握した。政敵の畠山政長も討ち、畠山・斯波両氏は没落し、京兆家が以後管領職を独占するようになり、細川政権(京兆専制)を打ち立て、畿内周辺にも侵攻し勢力を拡大して細川京兆家の全盛期を築く。しかし政元は修験道に心頭して女性を寄せ付けなかったため妻帯せず実子がなく(弟もいなかった)、澄之・澄元・高国の3人を養子に迎えたため(高国は後付けで政元存命時の養子は澄之澄元2人だったともされる。また、高国が実家の野州家を相続したために養子縁組が解消されたとする説[2]もある)、家督争いが生じ、政元は澄元を後継にと考えたものの、永正4年(1507年)、不満を持った澄之派の配下に暗殺される。政元の死をもって頼元以来続いた細川京兆家の嫡流の血筋は途絶えることとなった。

澄之は京兆家家督を継ぐが、その後すぐに澄元と高国が結託して澄之を討ち、澄元が家督を継ぎ管領となる。しかし、政元暗殺を好機とみた前将軍・足利義尹(義稙)を擁する西国の大大名大内義興(周防守護)が上洛軍を起こし、澄元と不仲になった高国がこれと結びつき、翌永正5年(1508年)に高国は将軍義澄と澄元を京都から近江国(後には阿波国)へと追い落として義尹(将軍復帰)と義興(管領代に就任)を迎え入れ、家督を継ぎ管領となった。その後も高国派と澄元派に分裂し長期に渡って対立を続けることとなる(両細川の乱)。

約十年在京しその軍事力で支えていた大内義興が細川高国と争っていた明貿易権益を得て周防国に帰国した後も、高国は一時澄元(とその重臣の三好之長)に敗れたとき澄元側についたこともある将軍義稙と不仲になって見限り、新たに足利義晴(病死した義澄の子)を将軍に擁立するなど、管領として幕政を握り京周辺を支配下に置いていた。大永5年(1525年)、高国の隠居後に子の細川稙国が家督を継ぎ管領を継承したが、半年ほどで病死したため、翌年に畠山義堯が管領となり、細川京兆家による管領の独占継承は一旦途切れたが、幕府の実権は京兆家家督を再承した高国が引き続き持った。

大永6年(1526年)、高国が家臣を謀殺したことをきっかけに高国への反乱が起こり、その動きに乗じて今度は病死していた澄元の子の細川六郎(後の晴元、この時13歳)が、軍を実質的に仕切る家宰の三好元長(之長の孫あるいは子)とともに、将軍義晴を擁する高国に対し足利義維(義晴の兄弟)を擁して阿波国から畿内へ侵攻して高国を追い落とし、堺幕府(堺公方)を樹立し、さらに享禄4年(1531年)に高国を滅ぼし(大物崩れ)、その大きな功労者であった台頭する三好元長も討ち、和睦した将軍足利義晴を擁して家督を継ぎ管領に就任、幕政と京都を握る。その後も、晴元は高国の弟の細川晴国や高国の養子の細川氏綱や宗教一揆の法華宗などとたびたび争っていたが、天文18年(1549年)、元長の子で実力者となっていた配下の三好長慶に下克上され近江国へと追われ、細川政権は崩壊した。

主君晴元から対立する氏綱側に寝返った長慶は名目上氏綱を推戴し、氏綱が京兆家家督を継ぐが、氏綱は実権を握れず長慶の傀儡状態となり、三好政権へと取って代わられることとなった。晴元はその後も将軍・足利義輝を擁して長慶との争いを続けるがかなわず、永禄4年(1561年)に長慶と和睦し、その2年後に没した(翌年氏綱も没する)。晴元失脚後の細川京兆家はかつての権勢をすっかり失って衰退し、代わって京・畿内は織田信長が上洛するまで三好氏の勢力下となる。また、これにより政元暗殺以降長年続いた細川京兆家を二分する内訌も終結に向かうこととなった。

なお、戦国期の室町幕府研究の進展の中で明応の政変以降の細川京兆家の当主が代々管領を務めたとする話は軍記物に由来する創作に過ぎず、実際には重要な儀式の際にのみに在任していた(京兆家は軍事力で京都周辺を掌握していたため、却って幕府官職を必要とはしなかった)とする見方が有力説として浮上し、大永元年(1521年)に足利義晴の元服を終えた細川高国が管領を辞職してから室町幕府滅亡まで管領職はずっと空席のままであったとされている(従って、この見方に立つと稙国・晴元・氏綱および畠山義堯が管領に就任した事実は否定される)[3][4]。

家督を継いだ晴元の嫡子細川昭元は、足利義昭に仕えた。後に織田信長に仕え、昭元から信良と名を改め、信長の姉妹を正室として娶り義兄弟として織田家親族となった。昭元(信良より名を戻す)の嫡子元勝(頼範)は、豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の役では豊臣方となった。大坂の陣での豊臣家滅亡後は讃岐国に隠棲し、後に妹の嫁ぎ先の秋田実季を頼って常陸国の宍戸藩に赴き、そこで客分として迎え入れられた。

元勝の嫡子義元の時に秋田氏の家臣に列し、子孫は陸奥国三春藩(宍戸から転封)の家老として仕えた。義元以降は、宣元(義元の子)、忠元(宣元の子)、孚元(三春藩家老・小野寺泰忠の子で忠元の養子)、昌元(三春藩主・秋田延季の七男で孚元の養子)と家督が継承されている。明治期の当主和元は小学校教員や巡査を務めた[5]。

京兆家(細川本宗家)歴代当主
太字は執事・管領となった人物(※便宜上、晴元・氏綱も含む)

細川義季
細川俊氏
細川公頼
細川和氏
細川清氏
細川頼之(細川頼春(和氏の弟)の子)
細川頼元(頼之の弟)
細川満元
細川持元
細川持之(持元の弟)
細川勝元
細川政元
細川澄之(摂関家・九条政基の子)
細川澄元(阿波守護家・細川義春の子)
細川高国(野州家・細川政春の子)
細川稙国(短期間で病死後に父高国が再継承)
細川晴元(澄元の子)
細川氏綱(細川尹賢(高国の従弟)の子)
細川昭元(晴元の子)
細川元勝

典厩家

細川持賢を祖とする細川氏(京兆家)の分家の一つ。通字として主に「賢」(かた)を諱(名前)に使用する。基本的には分国を所領としておらず、初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。後に摂津国西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。政賢は永正の錯乱に際しては、細川澄元に与して細川高国と対立したが、船岡山合戦で戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。尹賢は高国の大物崩れの戦いでの顛末を知り、細川晴元側に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。

細川氏綱は、高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は、晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し、室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の藤賢が典厩家の当主となり、将軍・足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。

信長没後、藤賢は豊臣家に仕え、以降も戦国諸侯に招かれながら細川元賢(もとかた)、重賢(しげかた)、乗賢(のりかた)と続き金沢藩士(加賀前田家家臣)として幕末に至った。

野州家 編集
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。また、細川政春が弟の春俱の家系が断絶した後に備中守護を継承すると、その官途名である安房守から、房州家とも呼ばれるようになった[6]。備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、典厩家第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。

政春の子・高国は、管領・細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる(なお、高国は政元の存命中に1度は政春から野州家の家督を継いでいたが、政元没後の混乱で再び後継候補に浮上したとする説もある[2])。また通政は、戦国時代にその所領の維持を図ったのだが、出雲国の尼子晴久の圧迫を受け伊予国へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩家老として幕末に至った(長府細川家)。

野州家歴代当主
細川満国(細川頼元の子)
細川持春
細川教春
細川政春
細川晴国
細川輝政
細川通薫
細川政之
細川元通
阿波守護家(讃州家) 編集
阿波守護家は14世紀中頃、細川頼之の弟・詮春に始まり、代々の当主が阿波守護を代襲したことに由来する。また、讃岐守を称したことから讃州家ともいう。なお細川成之の頃から讃岐守護も兼任するようになり、阿波讃岐細川家とも称した。同時に阿波細川氏とも呼ばれる。

他の細川庶流家とは異なり、室町幕府の相伴衆を務める家柄で、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。そのため京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と尊称されている。数え方によって変わるが10代で終わる。

詮春から数えて4代目の持常は、6代将軍・足利義教からの信任が厚く、永享12年(1440年)に戦死したとされる一色義貫に代わり三河守護職も兼任した。しかし一色義貫の死が義教の陰謀によるものであったため、持常とそれを継いだ成之が三河国に守護権を確立する際には、一色残党の激しい抵抗に遭い、多大な犠牲を払った。

義教の信任厚い持常は、嘉吉の乱で義教が暗殺された後、赤松満祐征伐のため播磨国に出兵するも、山名持豊(宗全)に一歩遅れる形となり、播磨守護職は山名氏のものとなる。播磨を巡る山名氏と阿波細川家の潜在的対立は、持常の後を継いだ成之の、赤松家の再興運動への助力という形になって現れる。これらのことは、当初は友好的な関係にあった山名氏と細川京兆家との関係悪化を招き、応仁の乱の遠因ともなった。

成之は、応仁の乱では東軍として京兆家を盛り立てたが、細川勝元の没後、政元の時代においては、権力集中を図る京兆家としばしば対立し、摂津守護代の薬師寺元一の反乱に関与するなどした。成之は孫の一人である澄元を、京兆家・細川政元の養子に送りこむことに成功するものの、それは畿内の争乱をさらに激化させることになり、政元暗殺とその後の「永正の錯乱」へと事態は進展するのである。

なお、成之の次子の細川之勝(後の細川義春)は備中守護の細川勝久の養子となっていたが、成之の嫡男の細川政之が早世したため、義春と改名し阿波守護家を継いだ。後に義春の子の細川之持が短期間であるが備中守護にも任じられている。

成之自身は長命であったが、子である政之(1488年没)と義春(1494年没)に先立たれ、さらに永正8年(1511年)の成之の死の翌年には孫の之持が夭折するなど、短命な当主が続く。若年の当主が続く成之以降の阿波細川家においては、家宰の三好氏が台頭することになる。

京兆家の細川政元の養子となった澄元を擁した三好之長は、畿内において細川高国と抗争を続けたが敗れ、澄元もまた京兆家として主導権を取り戻せぬまま夭折する。

一方、之持の子の細川持隆は三好元長の補佐の元で成長すると、澄元の子の細川晴元や元長と協調し足利義維を擁立し、堺公方とするなど京都の幕府と対立を続けた。

堺幕府の解体後は、義維を阿波に迎え、平島公方としている。江口の戦いで晴元が没落し、三好長慶が将軍足利義輝をも追放して畿内の実権を握ると、義維の将軍擁立を主張したが、義輝との全面対立を望まない長慶の弟の三好実休と対立し、天文22年(1553年)、実休により暗殺されることになった。

なお、之持から持隆にかけての阿波守護家の動向には不明な点が多く、之持は天文年間初頭まで健在であったとする若松和三郎の説[7]と持隆は之持の子ではなく澄元の子(晴元の弟)とする馬部隆弘の説[8]が出されている。

持隆の子・細川真之は、実休とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかった。長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟である十河存保(異説によれば、長宗我部元親)の攻勢を受け自刃し、阿波守護家は滅亡した。

和泉上守護家歴代当主
頼之の猶子・基之のあと、細川持久(基之の孫)、勝信(基経)、政久が守護職を継承した。明応4年(1495年)、政久は和泉上守護家と同盟し、その上で畠山尚順と結び細川政元に対抗したがその後は恭順した。しかし畠山尚順に攻め込まれ戦死した。その後、細川政元は畠山尚順を河内で破り、和泉に攻め入って支配を回復したが、そののち和泉下守護家がその地位を保つことはできなかった。

備中守護家 編集
細川頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々備中国の守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。

備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは永享3年(1431年)に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資(伊豆守)との争乱が勃発し(備中大合戦)、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝(細川義春)は、実兄・政之の死に伴い後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなく、事実上守護家は断絶した。

以降は阿波守護家の細川之持(義春の子)が一時的に備中守護を継いだ後、永正の錯乱の際に実の弟である細川澄元を支持した之持に対抗するために細川高国が細川国豊(細川春倶の子)を新しい守護として派遣した[9]。国豊とその子が早世すると、高国の実父である野州家の細川政春が備中守護となるが、永正15年(1518年)以降、備中守護の任命は長く為されなかった。備中は戦国に突入したのである。

淡路守護家 編集
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の弟の細川師氏を祖とする。師氏の子・氏春は、和氏の子・清氏が南朝に降伏すると、それに従って幕府方と戦った。子孫は代々淡路守護。将軍直属軍である奉公衆の一番番頭も務めた。戦国時代初期に細川尚春が三好之長に滅ぼされ断絶した。

淡路守護家歴代当主
細川師氏(細川公頼の子)
細川氏春
細川満春
細川満師
細川持親
細川成春
細川尚春

奥州家 編集
細川氏の庶流の一つ。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏が陸奥守に就任したことが由来とされ、大外様ともいわれた家系のこと。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼らは顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死する。その後は、和氏の子・業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられたため、以後の代々の当主は京兆家に協力的な立場をとった。

細川満経は、京兆家の細川満元の片腕として政界で活躍した。また、業氏は3代将軍・足利義満、業氏の子孫の晴経は13代将軍・足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。

和泉上守護家の藤孝の子・忠興が、戦国時代末期の当主・輝経の養子となり形式的には奥州細川家を継承したので、近世大名の肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔と言うこともできる。もっとも、藤孝が室町幕府の滅亡後織田信長に属して姓を長岡に改めてからは、忠興もまた「長岡与一郎」と称し、本能寺の変の後に藤孝が隠居すると、その所領である丹後12万石を継承しているので、藤孝の嫡流であることにかわりはない。

なお、忠興の養父とされる輝経は後に忠興の重臣である松井康之(妻の弟)に招かれていたが、関ヶ原の戦いで偶々九州に派遣されていた康之が居城の久美浜城に帰国できなくなると、西軍の誘いに乗って久美浜城を乗っ取るが、西軍の敗北後に罪を問われて自害したと伝えられている(『松井家記』)[10]。

細川奥州家歴代当主
細川頼貞(細川俊氏の子)
細川顕氏
細川繁氏
細川業氏(細川和氏の子)
細川満経
細川持経
細川成経
細川尚経
細川尹経
細川晴経
細川輝経
細川忠興(細川藤孝の子。初代小倉藩主)
遠州家 編集
代々の当主が遠江守を称したことから、この名が定着した。また、遠州家とその分家は上野氏とも称しており、「細川」と「上野」の名乗りが併用されていた[11]。土佐守護代家ともいう。土佐守護は細川家の嫡流である京兆家が代々つとめたが、管領でもあり京都住が常であったことから、庶流であるこの細川家が実際に土佐に在国し守護代を代々つとめた。細川頼益(よります)以降の通字は「益」(ます)、満益(みつます)以降は足利将軍家の偏諱を受けている(系図中の太字部分、細川国益(くにます)は細川高国の1字を受けている)。頼益は細川成之の母の兄でもあり、香美郡田村(現・南国市田村)に守護代館(=田村城)をおいた[12]。 その曾孫、勝益は応仁の乱に際して東軍大将を務める細川勝元の支援のために上京[13]、その跡を継いでいた政益(まさます)・国益も永正4年(1507年)に細川政元(勝元の子)が暗殺される(永正の錯乱)と上京し[13]、やがて土佐は守護代不在の地となった[13]。また、勝益の弟である細川元治は「上野玄蕃頭」と称したために、元治の子孫は玄蕃頭家と称されたが、永正の錯乱の際に元治が高国の擁立を最初に主張したことから実際に高国が京兆家を継ぐとその功労者としてその地位を高めた[14]。その孫である細川国慶は高国の没後はその後継者である細川晴国・細川氏綱陣営の重鎮として細川晴元と戦い、一時京都を占領・支配している[15]。

土佐守護代家歴代当主
細川宗義 - 頼種 - 頼元 - 頼益 - 満益(弟に氏有) - 持益 - 勝益 - 政益 - 国益(*一説に国益は政益の弟で子は益氏とも)

遠州家分家(義幸流)・上野氏
細川宗義 - 頼種 - 義幸(頼元の兄) - 氏世 - 氏益 - 元興(弟に賢氏) - 氏盛

遠州家分家(玄蕃頭家)・上野氏
細川宗義 - 頼種 - (中略) - 持益 - 元治(勝益の弟) - 元全(政益の弟・元治の養子) - 国慶

近世
肥後細川家
(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)
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家紋 細川九曜(ほそかわくよう)
肥後細川家が使用していた家紋。

吉良城

吉良城(きらじょう)
吉良峰城 
Screenshot_20191228-151741~2.png

土佐国(現高知県高知市春野町弘岡上)
にあった中世の日本の城。
別名・吉良峰城。高知市指定史跡。

別名
吉良峰城
城郭構造
平山城
築城主
土佐吉良氏
築城年
不明
主な城主
土佐吉良氏、本山氏、長宗我部氏
廃城年
不明
遺構
曲輪・土塁・空堀・屋敷跡
指定文化財
市の史跡
再建造物
なし
位置
北緯33度30分44.6秒東経133度27分31.0秒

概要
吉良城は、前方には吾南平野が一望でき、後方には250メートルの吉良ヵ峰がそびえるの要害の城である。土佐南学発祥の地。土佐吉良氏の代々の居城として知られるが、築城年は不明である。築城主は吉良氏と云われる。

歴史
吉良氏は平治の乱の後、土佐に配流された源希義の子孫といわれ、その子、吉良八郎が築いた平山城だと伝えられる。吉良宣常の頃が全盛で、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かった。

吉良宣直が5千貫領し、戦国時代に土佐七雄の1人に数えられた。

天文9年(1540年)本山城を拠点に持つ本山氏は吉良城から僅か10キロメートル北に朝倉城を築いた。それにおそれた宣直は土佐一条家を頼り、一条氏は森山砦を築いて、本山氏に対抗。2月、本山茂辰は宣直が仁淀川で鮎漁に興じる隙を見て奇襲。吉良城は落城し、仁淀川の如来堂[要曖昧さ回避]で宣直は落命し、名門吉良氏は滅亡した。

吾南を手にした本山氏は吉良姓を名乗り(吉良式部少輔茂辰)、森山、秋山を含めて土佐中央部を支配する。しかし、東方で勢力を拡大した長宗我部氏の勢力に押される。両氏の対立は長浜の戦いの戸ノ本の戦いから始まり、永禄6年(1563年)、本山氏は朝倉城、吉良城から撤退する。長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせた。しかし、親貞の子吉良親実は後継問題で元親の怒りを買い、切腹する。この城は後に元親の子、盛親に与えられたが程なくして、廃城になった。

城跡と山麓の土居跡とされる場所は、旧春野町教育委員会により1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)にかけて発掘調査され(整理作業を含めて5ヵ年計画)、土居跡は明確ではなかったが、曲輪から掘立柱建物跡や柵列状のピットなどの当時の遺構を検出した。

2019年12月27日

飛騨の匠

飛鳥・奈良時代
大化の改新によって税制が確立しましたが、飛騨は山国なので納める織物などは免除され、そのかわり1年に250日から300日間、都へ行って宮殿や寺院などを造る大工仕事が課せられました。家50戸ごとに10人ずつ割り当てられ、飛騨からは毎年100人前後の匠が出役したようです。優れた技術を持つ飛騨の匠の手により立派な建物ができ上がっていきました。しかし、中には仕事が苦しく逃げ出す人もいたようです。

飛騨の匠
「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に」
この「万葉集」の歌は、飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に、作者が自らの一途な恋心を重ねたものです。万葉集がつくられた奈良時代、すでに飛騨の匠がよい腕を持った大工としての代名詞であったことが伺えます。

奈良時代になると伝染病が流行し、各地で飢饉が起こって、人々は不安な毎日を送っていました。そこで、聖武天皇は仏教の力を借りて人々の不安を鎮め、国を守るため、各地に国分寺を建てるよう命じました。

高山の国分寺には奈良時代創建当時の塔の礎石が今も残っています。ただ残念なことに、当時の建物は残っていません。現在の本堂は500年以上前に建てられたものです。

また、境内にそびえたつ大きなイチョウの木は国分寺建立のときに植えられたものと伝わっており、国の天然記念物に指定されています。

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飛騨国分寺の三重塔と大イチョウ

奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
 江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。

吉城郡河合村にはこんな伝説があります
帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。

奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。

 飛騨は、高山盆地、古川盆地、上宝盆地の他は、平地が少ない山の国です。林業に従事する山村と稲作や雑穀作の農村に大別されます。

飛騨の歴史
  奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
 江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。


■■吉城郡河合村にはこんな伝説があります■■
 帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。

奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。


   かにかくに  物は念(おも)はじ   斐太人(ひだびと)の
              打つ墨縄(すみなわ)の  ただ一道に    (万葉集)




1585年 豊臣秀吉の命を受け金森長近(かなもりながちか)は飛騨を平定し、長近は豊富な森林資源と地下資源の開発のほか、道路整備にも努力をはらい、高山を中心に街道を整えました。また今日の高山市の城下町づくりを行い、「小京都」と呼ばれる風雅なものとしました。6代にわたり107年間 高山城で飛騨を治めました。茶道「宗和流」の始祖金森重近や、落語の生みの親といわれる安楽庵策伝などを輩出しました。1692年飛騨は江戸幕府の直轄地となり、金森氏は出羽の国に転封されました。
 金森家の支配下に置かれた時代から、天領(江戸幕府直轄地)であった177年の間に言語・気質・生活文化に特色ある飛騨人が育ちました。高山や古川の町衆の中から富裕な商人が出現しています。茶道をたしなみ、宗和流の会席料理や本膳料理という洗練された食文化が根づきました。

2019年12月26日

物部氏

物部氏(もののべうじ)
日本の氏族のひとつ。
姓は連、後に朝臣。 

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氏神とする石上神宮
(奈良県天理市)

氏姓
物部連
のち物部朝臣
始祖
饒速日命
氏祖
物部十千根
種別
神別(天神)
著名な人物
物部麁鹿火
物部尾輿
物部守屋
後裔
石上朝臣
中原朝臣[1]
弓削氏
新家連
新家宿禰
高岳首
石見国造金子氏(社家・華族(男爵))
田部氏[2](社家)
厚東氏(武家)
曾禰氏(武家)
越智氏[3][4](武家)
勝氏[5](武家)
浅井氏[6][7][8](武家) など


特徴と歴史
大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる天孫族系の神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。既に雄略朝の頃には大連を輩出し、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していたといされる。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる[9]。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。

物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。

蘇我氏との対立
宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った[10]。

稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

こうした物部氏(守屋宗家)の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降守屋宗家の物部氏は没落する。しかし、後に石上氏が朝廷内で復権を果たし、また全国の物部氏系の国造は何事もなく続いた。

天武朝
684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。


石上氏
氏姓
石上朝臣
始祖
饒速日命
出自
物部朝臣
氏祖
石上麻呂
種別
神別(天神)
本貫
河内国哮峰
著名な人物
石上麻呂
石上宅嗣
後裔
石上神宮祠官家(社家)
上野長野氏(武家) など

686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[11]。

石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。

石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[13]。

藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。
藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。

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家紋
下り藤
藤原氏代表的な家紋
各、藤原氏によって異なる。

本姓
藤原朝臣
家祖
藤原房前
種別
神別(天神)
出身地
大和国
主な根拠地
大和国
山城国 ほか
著名な人物
藤原冬嗣
藤原良房
藤原基経
藤原時平
藤原敦忠
藤原道綱母
藤原伊尹
藤原義孝
藤原佐理
藤原行成
藤原公任
藤原実方
藤原道雅
藤原定頼
藤原家隆
藤原道長
藤原頼通
藤原基俊
藤原定方
藤原朝忠
藤原忠通
藤原定長
藤原敦頼
藤原清輔
藤原長方
伊勢
紫式部
殷富門院大輔 など
支流、分家
五摂関家(公家)
松殿流(公家)
閑院流(公家)
日野流(公家)
四条家(公家)
中御門流(公家)
勧修寺流(公家)
御子左流(公家)
魚名流(公家)
世尊寺流(公家)
花山院流(公家)
法性寺流(公家)
小野宮流(公家)
小一条流(公家)
水無瀬流(公家)
道綱流(公家)など

概要
藤原北家は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期〜平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの武家氏族が藤原北家の末裔と称した。

藤原鎌足 - 藤原氏祖
藤原不比等 - 鎌足の次男
藤原房前 − 不比等の次男 藤原北家の祖
藤原真楯 - 房前の三男
藤原内麻呂 - 真楯の長男
藤原冬嗣 - 内麻呂の次男
藤原良房 - 冬嗣の次男
藤原基経 - 良房の養子(長良の三男)
藤原忠平 - 基経の四男
藤原師輔 - 忠平の次男
藤原兼家 - 師輔の三男
藤原道長 - 兼家の四男
藤原頼通 - 道長の長男
藤原師実 - 頼通の三男 花山院流祖
藤原師通 - 師実の長男
藤原忠実 - 師通の長男
藤原忠通 - 忠実の長男
近衛基実 - 忠通の長男 近衛家の祖
九条兼実 - 忠通の三男 一条家の祖
主な傍流 編集
藤原永手 - 房前の次男
藤原真夏 - 内麻呂の長男 日野流祖
藤原長良 - 冬嗣の長男
藤原純友 - 長良の曾孫
藤原良門 - 冬嗣の六男
藤原利基 - 良門の長男 4代後に紫式部
藤原高藤 - 良門の次男 勧修寺流祖
藤原時平 - 基経の長男
藤原実頼 - 忠平の長男
藤原頼忠 - 実頼の次男
藤原公任 - 頼忠の長男
藤原佐理 - 実頼の孫
藤原実資 - 実頼の孫
藤原伊尹 - 師輔の長男
藤原公季 - 師輔の十二男 閑院流祖
藤原兼通 - 師輔の次男
藤原道隆 - 兼家の長男
藤原道綱 - 兼家の次男
藤原道兼 - 兼家の三男
藤原宗円 - 道兼のひ孫
藤原教通 - 道長の四男
藤原頼長 - 忠実の次男
藤原清河 - 房前の四男
藤原魚名 - 房前の五男
藤原藤成 - 魚名の子
藤原豊沢 - 藤成の子
藤原村雄 - 豊沢の子
藤原秀郷 - 村雄の子
ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など)。

少弐氏

少弐氏(しょうにし、旧字体: 少貳氏)
日本の氏族の一つ。
筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。
藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。

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家紋
寄懸り目結

本姓
藤原北家秀郷流または道長流武藤氏支流
家祖
武藤資頼
種別
武家
出身地
筑前国
主な根拠地
筑前国
肥前国
著名な人物
少弐資元
少弐資能
少弐貞経
少弐冬尚
鍋島経房
支流、分家
鍋島氏(武家 → 華族)
筑紫氏(武家)
馬場氏(武家)
朝日氏(武家)
横岳氏(武家)
九州千葉氏(武家)
平井氏(武家)

出自
少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになる。

同時に、資頼は藤原道長の後裔と称し、代々が武蔵国に知行を持ち、武藤氏を称したという[1]。さらに、鎮西豪族の興亡を記した戦記物によると、「左中将尾張守藤原長頼は、相伝の知行地である武州戸塚郷に下り、武藤中将と称した。その子頼氏は、八幡太郎義家に従って奥州に出陣し、寄懸の紋の旗を賜った」とある。これによれば、頼氏の子孫とする資頼は道長の後裔ということになる[2]。

平安時代末期から鎌倉時代 編集
武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。

資頼の子少弐資能の代より、少弐を姓として定常的に用いるようになる。鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は大宰府の責任者として子の少弐経資や少弐景資らとともに日本軍の先頭に立ち、元の大軍と戦うこととなる。弘安の役の際には経資の子の少弐資時が壱岐で戦死、資能自身も戦闘の際に蒙った傷で死去するなど、一族として大きな犠牲を払うこととなった。こうした功もあり、戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部九州における最大の守護にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。

鎌倉時代後期 編集
少弐資能の死後、経資と景資の兄弟間で家督をめぐり争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、弟・景資は泰盛の子・安達盛宗と共に、頼綱側についた兄・経資と戦い、敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。

鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。

南北朝時代 編集
南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。

室町時代 編集
九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。

戦国時代 編集
戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。

この時代も肥前北部の綾部には肥前守護で九州探題であった渋川氏が健在であったので肥前南部に移る。

当時の肥前南部は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。

滅亡 編集
資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。この際、冬尚の子冬敬が出奔していることが近年の研究で明らかになっている。

少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。

しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。なお、元寇で戦死した少弐資時を祭神とする長崎県壱岐市の壱岐神社において、2011年(平成23年)に少弐家の子孫が参列して祭祀が執り行われた。

2019年12月25日

藤原南家

藤原南家(ふじわら なんけ)
奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家の名族を多く輩出した。
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家紋
さがりふじ
下り藤
代表的な藤原氏の家紋である
各、藤原氏によって異なる。

本姓
藤原朝臣
家祖
藤原武智麻呂
種別
神別(天神)
出身地
大和国
主な根拠地
大和国
山城国 ほか
著名な人物
藤原武智麻呂
藤原仲麻呂
藤原貞嗣
藤原敏行
藤原為憲
右近
藤原保昌
藤原季範
藤原通憲(信西)
藤原範季
支流、分家
藪(高倉)家(公家)
中園家(公家)
高丘家(公家)
工藤氏(武家)
伊東氏(武家)
伊藤氏(武家)
二階堂氏(武家)
相良氏(武家)
吉川氏(武家)
天野氏(武家)
中川氏(武家)
川井氏(武家)
分部氏(武家)
狩野氏(武家)
小出氏(武家)
千秋家(社家)など

概要
飛鳥時代から奈良時代にかけて律令国家の確立を主導した政治家藤原不比等の4人の男子(藤原四兄弟)は、神亀6年(729年)長屋王の変により政敵長屋王を排斥し、妹光明子を聖武天皇の皇后に立てて政権を掌握した。四兄弟の長兄である武智麻呂は、廟堂の首班を務めて右大臣まで昇ったが、天平9年(737年)天然痘の流行のために他の兄弟とともに病没してしまう。

その後廟堂の実権は皇親の橘諸兄に移ったが、その下で武智麻呂の長男藤原豊成は順調に昇進し、天平感宝元年(749年)右大臣に任ぜられる。一方、同年孝謙天皇が即位して皇太后となった光明子の下に紫微中台が設置され、甥の仲麻呂(武智麻呂の次男)が長官(紫微令)に就く。仲麻呂は、紫微中台を太政官とは別個の国政機関としてその権限を強化していき、諸兄の子橘奈良麻呂が中心となってこれを排除しようと企てた乱も未然に防いで多くの皇族・他氏族のほか兄豊成を含めた政敵を一掃する。淳仁朝では、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議に任じ、自身は人臣初の太政大臣(唐風に改めて「大師」と称する)まで昇りつめたが、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱により失脚した。

その後奈良時代末期から平安時代初期には、武智麻呂・房前の弟宇合に始まる藤原式家が台頭し、南家の勢力は低落する。桓武朝において、豊成の子継縄と武智麻呂三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となったものの、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権二番手、三番手の座にあった大納言藤原雄友(是公の子)・中納言藤原乙叡(継縄の子)が伊予親王の変に連座して失脚し、豊成・乙麻呂の系統も衰退した。嵯峨朝に入ると、武智麻呂四男巨勢麻呂の子孫である貞嗣・三守が中納言まで昇るものの、淳和朝に入るとしばらく南家出身の議政官が不在の時期が続くなど、大臣を出した北家(内麻呂・園人・冬嗣)や式家(緒嗣)に比べ勢力を伸ばすことができなかった。仁明朝では三守が右大臣に昇り南家から約50年ぶりの大臣となるが、わずか在任2年で没すると、以後急速に台頭した藤原北家や源氏の勢力に押され、30年以上も南家からは公卿を出せなかった。

平安中期以後は、巨勢麻呂の子孫が中下級貴族として続き、学者を多く輩出した。平安時代末期に平清盛と結んで勢威を得た院近臣藤原通憲(信西)はその代表である。また後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫から、堂上家である高倉家(室町時代末に無嗣絶家、江戸時代に再興して藪家(藤原北家閑院流四辻支流)に改号)が出た。

なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は、地方に下って各地の武家となり、工藤氏・伊東氏・伊藤氏・二階堂氏・相良氏・吉川氏・天野氏などを出した。

一族
藤原豊成 - 武智麻呂の長男。
藤原仲麻呂(恵美押勝) - 武智麻呂の次男。
藤原乙麻呂 - 武智麻呂の三男。
藤原巨勢麻呂 - 武智麻呂の四男。
藤原継縄 - 豊成の子。
中将姫 - 豊成の娘という伝説上の人物。
藤原真従 - 仲麻呂の子。
藤原真先 - 仲麻呂の子。
藤原訓儒麻呂 - 仲麻呂の子。
藤原朝狩 - 仲麻呂の子。
藤原刷雄 - 仲麻呂の子。
藤原薩雄 - 仲麻呂の子。
藤原辛加知 - 仲麻呂の子。
徳一 - 仲麻呂の子。
藤原是公 - 乙麻呂の子。右大臣。
藤原雄友 - 是公の子。
藤原吉子 - 是公の娘。桓武天皇夫人、伊予親王母。
藤原黒麻呂 - 巨勢麻呂の子。藻原荘を開墾。
藤原伊勢人 - 巨勢麻呂の子。東寺、鞍馬寺の創建に関わる。
藤原貞嗣 - 巨勢麻呂の子。『日本後紀』の撰修に参加。
藤原三守 - 巨勢麻呂の孫。右大臣。
藤原美都子 - 巨勢麻呂の孫。藤原冬嗣室、良房母。
藤原貞子 - 三守の娘。仁明天皇女御。
藤原保則 - 継縄の曾孫。元慶の乱を鎮撫。
藤原清貫 - 保則の子。
藤原敏行 - 歌人。武智麻呂の来孫(孫の孫)。
藤原元真 - 歌人。
藤原盛子 - 藤原師輔室。伊尹、兼通、兼家、安子らの母。
藤原為憲 - 武人。平将門追討に功あり。工藤氏、伊東氏、二階堂氏などの祖。
右近 - 歌人。
藤原棟世 - 清少納言の夫。
上東門院小馬命婦 - 歌人。棟世と清少納言の娘。
覚運 - 天台宗檀那流の祖。
藤原菅根 - 醍醐天皇近臣。昌泰の変にて菅原道真の排斥に加担。
藤原元方 - 菅根の子。大納言。怨霊伝説あり。
藤原致忠 - 元方の子。薫物の名手。
藤原陳忠 - 元方の子。『今昔物語集』の逸話で著名。
藤原保昌 - 致忠の子。藤原道長四天王の一人。武人として著名。
藤原保輔 - 致忠の子。大盗賊「袴垂」として著名。
藤原登任 - 源頼義の前任の陸奥守。
藤原重経 - 紀伊守。法名・素意。歌人。
藤原高仁 - 貞嗣の子。相模介。宮内卿。
藤原保蔭 - 高仁の子。相模介。
藤原道明 - 保蔭の子。播磨介。相模介。大納言。『延喜式』の編集に参画。
藤原尹文 - 道明の子。播磨介。
藤原永頼 - 尹文の子。
藤原能通 - 永頼の子。左兵衛佐。
藤原実範 - 能通の子。漢学者・漢詩人。
藤原季綱 - 実範の子。漢学者・漢詩人。
藤原実兼 - 季綱の子。『江談抄』筆記者とされる。
藤原通憲(信西) - 実兼の子。法名・信西。平安時代末期権力を握る。
紀伊局 - 本名・藤原朝子。後白河天皇の乳母。通憲の妻。紀伊二位。
藤原俊憲 - 通憲の子。
藤原成範 - 通憲の子。通称・桜町中納言。
澄憲 - 通憲の子。安居院流唱導の祖。
覚憲 - 通憲の子。興福寺別当。
明遍 - 通憲の子。蓮花三昧院の開祖。
勝賢 - 通憲の子。醍醐寺座主、東大寺別当。
貞慶 - 通憲の孫。解脱上人。法相宗の高僧。
小督 - 成範の娘。高倉天皇の寵妃。
藤原季範 - 実範の孫。熱田神宮大宮司。藤姓大宮司職の初代。
藤原範忠 - 季範の子。熱田大宮司二代目。
由良御前 - 季範の娘。源義朝室、頼朝母。
藤原尹明 - 平治の乱の際に二条天皇を脱出させる。
藤原範季 - 後白河法皇院近臣。高倉家祖。
藤原兼子 - 範季の姪。通称・卿二位。後鳥羽天皇乳母。
藤原重子 - 範季の娘。院号・修明門院。後鳥羽天皇寵妃、順徳天皇生母。

藤原南家系譜

相良氏

相良氏(さがらうじ、さがらし)
肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。
江戸時代は肥後人吉藩主家として
明治維新まで存続した。
家紋
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長剣梅鉢

本姓
藤原南家為憲流[1]
家祖
維兼[1]または相良周頼
種別
武家
華族(子爵)
出身地
遠江国榛原郡相良荘[1](相良館)[注釈 1]
主な根拠地
肥後国球磨郡多良木荘
肥後国球磨郡人吉荘
肥後国山鹿郡泉新荘[注釈 2]

豊前国上毛郡成恒荘[注釈 3]
支流、分家
多良木氏(上相良氏)(武家)
上村氏(武家)
稲留氏(武家)
犬童氏(武家)
深水氏(武家)
佐牟田氏(武家)
丸目氏(武家)
丸野氏(武家)
永留氏(武家)
内田氏(武家)
など

出自
家紋
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相良氏使用紋(相良瓜)

藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流で、『求麻外史』では工藤維兼(くどう これかね)を相良氏の祖としている[4]が、『寛政重脩諸家譜』ではその孫にあたる工藤周頼(くどう かねより)が遠江相良荘に住んだことから相良を苗字としたのを始まりとしている[5]。ただし周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)、光頼を養子として家督を継がせた[6][1]。このために日向伊東氏とも近縁である[7]。

太田亮は『姓氏家系大辞典』の中で、相良氏系図で藤原為憲の子・時理の弟におく時文から周頼までの人名が他の藤原南家の諸系図には見られないこと、世代数が多く時代が合わないこと、異説が多いことを挙げて、相良氏系図の初期部分に混乱が見られることを指摘している[7][注釈 4]。そして、相良光頼が伊東氏からの養子であることに注目し、相良氏系図の混乱は光頼の実家と養家との両家系を接続したため生じたものではないかと考察している[7]。また『新撰事蹟通考』引用の系図から相良氏は鎮西伊佐氏(鎮西平氏)と関係があり、橘氏らと共に遠江国に移ってきた推測もできること、遠藤氏・井伊氏らと関係が深い氏族であることを示唆している[7]。

歴史
鎌倉時代
相良頼景は、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は肥後国多良木荘に追放された。しかし頼景はその後、頼朝に許され、多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男・長頼も二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。なお、頼景を相良氏の初代とする向きもあるようであるが、相良氏の史料『南藤蔓綿録』などでは長頼を初代とし、『人吉市史』もそれを採用しているためそれに準拠する。

頼景は死に際して多良木荘を惣領の長頼に与えたが、結局のところ分割相続によって長頼の子孫で各地の所領は分けられた。なかでも多良木荘(上球磨)の相良氏は上相良氏、人吉荘(下球磨)の相良氏は下相良氏と呼ばれ、相良荘に残った相良氏は遠江相良氏と呼ばれる。

南北朝時代
南九州の国人衆と一揆を結んで九州探題の今川了俊に与同し、肥後・日向方面に勢力を伸ばしていた島津氏に対抗している[8]。

室町時代
室町時代の文安5年(1448年)、下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼし球磨を統一、さらに肥後国守護菊池氏により八代と葦北の占有・保持を許され、球磨・八代・葦北三郡の統一に成功した。ただし、八代の家臣は小豪族による国一揆を形成していたため[9]、当主自らが数か月毎に人吉と八代とを移動して、それぞれに政務を執り行う必要があった[注釈 5]。

戦国時代
戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の跡を継いだ相良晴広の時代には分国法「相良氏法度20か条」や「晴広式目21か条」を制定し、また周防国守護大内氏の許可を得て、明との勘合貿易にも取り組み最盛期を迎えた。しかし晴広の子の相良義陽の時代に入ると、南の薩摩国から島津義久の侵攻を受けて天正9年(1581年)に降伏する。しかも、同年に義陽が甲斐宗運と戦って敗死したため(響野原の戦い)、相良氏は一時滅亡の危機に立たされた。

ところが、義陽の次男・相良頼房が家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けたため、義久も存続を認めた。九州征伐後、豊臣秀吉より人吉2万石の領主として存続を許された。

江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返ったため、戦後に徳川家康より所領を安堵され相良氏は人吉藩として存続した。相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで800年以上領地替えされることもなく続いた大名の一つでもある。

相良一族
相良長頼
相良頼親
相良頼俊 - 長頼の三男。兄の頼親より家督を譲り受ける。
相良長氏
相良頼広
相良定頼
相良前頼
相良実長
相良前続
相良堯頼
相良長続 - 永留氏8代・実重の子。堯頼を逐った多良木兄弟を討滅する。
相良為続
相良長毎
相良長祗
相良長定 - 長続の孫。正統なる嫡流を主張し、長祗を逐い政権を奪取する。
相良義滋 - 長祗の兄。長定を逐う。
相良晴広 - 上村頼興の子で、義滋の養嗣子。
相良義陽 - 晴広の子。
相良忠房 - 義陽の長男。
相良頼房 - 初代人吉藩主。義陽の次男。
相良頼寛
相良頼喬
相良頼福
相良長興
相良長在
相良頼峯
相良頼央
相良晃長
相良頼完
相良福将
相良長寛
相良頼徳
相良頼之
相良長福
相良頼基
相良頼紹
相良頼綱
相良頼知

庶家
多良木氏(上相良氏)
多良木頼氏(相良長頼の次男、初代)
多良木頼宗(2代)
多良木経頼(3代、九州南朝方の主要な武士の1人)
多良木頼仲(4代)
多良木頼忠(5代)
多良木頼久(6代)
多良木頼観(7代)
多良木頼仙(頼観の弟)
永留氏
相良頼明(相良長頼の三男相良頼親の長子、初代)
永留頼常(頼明の子)
永留頼積
永留長滋
永留頼均
永留頼道
永留頼連
永留実重(長子は本家相続相良長続)
上村氏
相良頼村(相良長頼の四男、初代)
上村頼武(2代)
上村頼綱(3代)
上村隆頼(4代)
上村長房(5代)
上村頼織(6代)
上村頼国(7代)
上村頼威(8代)
上村運重(9代)
上村高頼(10代)
上村直頼(11代)
上村長国(直頼の弟)
上村頼廉(12代)
上村頼興(13代、長子は本家相続相良晴広)
上村長種(頼興の弟)
上村頼孝(14代)
上村頼堅(頼孝の弟)
稲留氏
稲留長蔵
犬童氏
犬童頼安
犬童頼兄(相良清兵衛)
深水氏
深水頼金
深水長智
深水頼蔵
佐牟田氏
佐牟田長堅
丸目氏
丸目頼書(相良定頼の三男)
丸目頼美
(同姓であるが、丸目長恵は血縁も系譜上も無関係。)
丸野氏
丸野頼成
内田氏
内田(山井)宗頼
内田頼重
内田鎮次
内田鎮家
内田統続

小苗字
苗字 編集
相良宗家には35、上相良家には8の小苗字を有する家が存在した[10]。以下に列記する。

相良家 編集
愛甲
有瀬
板井
稲留
今村
犬童
内田
亀山
川馳
桑原
佐原
佐牟田
澄川
薗田
外越
高橋
竹下
鶴田
豊永
中島
西
西橋
馬場園
林田

深水
松本
丸目
簑毛
村山
樅木
山井
山北
山本
吉牟田
上相良家 編集
井口
岩崎
乙益
久保田
黒肥地
新堀
鍋倉
肥地岡

十河景滋

十河 景滋(そごう かげしげ)
十河存春(そごうまさはる)別名
永正7年(1510年)- 永禄2年(1559年)
戦国時代の武将。
讃岐国の国人で管領細川氏に仕える三好氏と共に仕える。讃岐十河城主。
十河易正の子。
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