2019年12月27日
飛騨の匠
飛鳥・奈良時代
大化の改新によって税制が確立しましたが、飛騨は山国なので納める織物などは免除され、そのかわり1年に250日から300日間、都へ行って宮殿や寺院などを造る大工仕事が課せられました。家50戸ごとに10人ずつ割り当てられ、飛騨からは毎年100人前後の匠が出役したようです。優れた技術を持つ飛騨の匠の手により立派な建物ができ上がっていきました。しかし、中には仕事が苦しく逃げ出す人もいたようです。
飛騨の匠
「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に」
この「万葉集」の歌は、飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に、作者が自らの一途な恋心を重ねたものです。万葉集がつくられた奈良時代、すでに飛騨の匠がよい腕を持った大工としての代名詞であったことが伺えます。
奈良時代になると伝染病が流行し、各地で飢饉が起こって、人々は不安な毎日を送っていました。そこで、聖武天皇は仏教の力を借りて人々の不安を鎮め、国を守るため、各地に国分寺を建てるよう命じました。
高山の国分寺には奈良時代創建当時の塔の礎石が今も残っています。ただ残念なことに、当時の建物は残っていません。現在の本堂は500年以上前に建てられたものです。
また、境内にそびえたつ大きなイチョウの木は国分寺建立のときに植えられたものと伝わっており、国の天然記念物に指定されています。
飛騨国分寺の三重塔と大イチョウ
奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。
吉城郡河合村にはこんな伝説があります
帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。
奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。
飛騨は、高山盆地、古川盆地、上宝盆地の他は、平地が少ない山の国です。林業に従事する山村と稲作や雑穀作の農村に大別されます。
飛騨の歴史
奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。
■■吉城郡河合村にはこんな伝説があります■■
帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。
奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。
かにかくに 物は念(おも)はじ 斐太人(ひだびと)の
打つ墨縄(すみなわ)の ただ一道に (万葉集)
1585年 豊臣秀吉の命を受け金森長近(かなもりながちか)は飛騨を平定し、長近は豊富な森林資源と地下資源の開発のほか、道路整備にも努力をはらい、高山を中心に街道を整えました。また今日の高山市の城下町づくりを行い、「小京都」と呼ばれる風雅なものとしました。6代にわたり107年間 高山城で飛騨を治めました。茶道「宗和流」の始祖金森重近や、落語の生みの親といわれる安楽庵策伝などを輩出しました。1692年飛騨は江戸幕府の直轄地となり、金森氏は出羽の国に転封されました。
金森家の支配下に置かれた時代から、天領(江戸幕府直轄地)であった177年の間に言語・気質・生活文化に特色ある飛騨人が育ちました。高山や古川の町衆の中から富裕な商人が出現しています。茶道をたしなみ、宗和流の会席料理や本膳料理という洗練された食文化が根づきました。
大化の改新によって税制が確立しましたが、飛騨は山国なので納める織物などは免除され、そのかわり1年に250日から300日間、都へ行って宮殿や寺院などを造る大工仕事が課せられました。家50戸ごとに10人ずつ割り当てられ、飛騨からは毎年100人前後の匠が出役したようです。優れた技術を持つ飛騨の匠の手により立派な建物ができ上がっていきました。しかし、中には仕事が苦しく逃げ出す人もいたようです。
飛騨の匠
「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に」
この「万葉集」の歌は、飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に、作者が自らの一途な恋心を重ねたものです。万葉集がつくられた奈良時代、すでに飛騨の匠がよい腕を持った大工としての代名詞であったことが伺えます。
奈良時代になると伝染病が流行し、各地で飢饉が起こって、人々は不安な毎日を送っていました。そこで、聖武天皇は仏教の力を借りて人々の不安を鎮め、国を守るため、各地に国分寺を建てるよう命じました。
高山の国分寺には奈良時代創建当時の塔の礎石が今も残っています。ただ残念なことに、当時の建物は残っていません。現在の本堂は500年以上前に建てられたものです。
また、境内にそびえたつ大きなイチョウの木は国分寺建立のときに植えられたものと伝わっており、国の天然記念物に指定されています。
飛騨国分寺の三重塔と大イチョウ
奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。
吉城郡河合村にはこんな伝説があります
帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。
奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。
飛騨は、高山盆地、古川盆地、上宝盆地の他は、平地が少ない山の国です。林業に従事する山村と稲作や雑穀作の農村に大別されます。
飛騨の歴史
奈良時代 大化の改新(646年)により政治の仕組みが変わり、農民は米や織物や特産物を納めたり、一定の期間労働につかねばならなくなりました(租・庸・調の制度といいます)。当時の飛騨は貧しく、米や織物を納めることを免除する代わりに、1里(50戸)毎に匠丁(しょうてい:今の大工)10人を差し出さなければなりませんでした。飛騨は山国ですから、豊かな森林があり優れた木こりや大工さんがたくさんいました。奈良の都へ出掛けて1年間、宮殿や大寺院を建てる仕事に従事しました。匠は5人一組になりそのうち一人が炊事係、他の4人が、伐材、運材、木挽きなどの仕事をする木工作業員でした。当時の飛騨は、10里(500戸)程度と推測されるので、都に徴用された飛騨の匠は年間約100人でした。飛騨から出ていった飛騨の農民は、とてもよく働き、優れた木工技術を持っていたので、都の人はこの人たちを総じて「飛騨の匠」と呼びました。都に住みついて出世した人もいましたが、病に倒れたり、労役も1年に最多で350日、過酷に耐えかねて逃げ出したりする人もいました。「飛騨の匠」の木工技術は「飛騨工作」として、建物が数多く残っているように、すぐれた技術を生んで伝統としてひき継がれていきました。匠が都ヘ送られた平安時代末期までの期間はおよそ500年、延べにして4万人の飛騨人が働きました。「飛騨の匠」が役目を終わって帰ると、都で体験した新しい文化を故郷の国づくりのために生かしました。のちに、「飛騨の匠」といえば名工の美称になりました。
江戸時代の高山大工たちが「匠様」としてあがめたのは、鎌倉時代末に実存した藤原宗安(むねやす)でした。彼は、飛騨の大工としては、初めて受領名と飛騨権守(ごんのかみ)の地位を受けました。当時の職人としては最高の位です。
■■吉城郡河合村にはこんな伝説があります■■
帰化人 鞍部多須奈(くらべのたずな)が推古天皇の命により飛騨に入り良材を探した。小鳥川のほとりで娘しのぶと知りあい、生まれたのが止利だという。鼻はカラス天狗のようにまがってとんがり、赤毛でぎょろ目、まるで鳥のような子どもだったので、こんな名前が付いたという。また、一説には、娘しのぶはみにくい女で小鳥川で満月の夜、手に水をすくい飲み干したところ、妊娠し生まれたのが止利だという伝説があります。河合村で生まれたという鞍作止利(くらづくりのとり)は都に上り、建築や彫刻の技術を習得して、その後 止利仏師の名を残したといわれています。法隆寺の金堂には、止利仏師作の釈迦三尊像(623年)などが国宝として残されています。この彫刻師止利こそ飛騨の匠の元祖といわれ、月ケ瀬には『飛騨匠の碑』が立てられています。
奈良県に河合村、月ヶ瀬、斐太町など、こちらと同じ地名が見られます。地元では先祖は飛騨人とも伝えられていますが、伝承のみで確たる資料は明らかではありません。
かにかくに 物は念(おも)はじ 斐太人(ひだびと)の
打つ墨縄(すみなわ)の ただ一道に (万葉集)
1585年 豊臣秀吉の命を受け金森長近(かなもりながちか)は飛騨を平定し、長近は豊富な森林資源と地下資源の開発のほか、道路整備にも努力をはらい、高山を中心に街道を整えました。また今日の高山市の城下町づくりを行い、「小京都」と呼ばれる風雅なものとしました。6代にわたり107年間 高山城で飛騨を治めました。茶道「宗和流」の始祖金森重近や、落語の生みの親といわれる安楽庵策伝などを輩出しました。1692年飛騨は江戸幕府の直轄地となり、金森氏は出羽の国に転封されました。
金森家の支配下に置かれた時代から、天領(江戸幕府直轄地)であった177年の間に言語・気質・生活文化に特色ある飛騨人が育ちました。高山や古川の町衆の中から富裕な商人が出現しています。茶道をたしなみ、宗和流の会席料理や本膳料理という洗練された食文化が根づきました。
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