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2020年01月12日

長宗我部氏歴代当主

長宗我部氏歴代当主一覧

初代  長宗我部能俊 - 江村氏が分流。
第2代 長宗我部俊宗 - 久礼田氏が分流。
第3代 長宗我部忠俊
第4代 長宗我部重氏
第5代 長宗我部氏幸
第6代 長宗我部満幸 - 大黒氏、野田氏、上村氏、中島氏が分流。
第7代 長宗我部兼光
第8代 長宗我部重俊
第9代 長宗我部重高
第10代 長宗我部重宗
第11代 長宗我部信能
第12代 長宗我部兼能 - 光富(光留)氏、馬場氏が分流。
第13代 長宗我部兼綱
第14代 長宗我部能重
第15代 長宗我部元親 - 南北朝時代の当主であり、戦国時代の元親とは異なる。
第16代 長宗我部文兼
第17代 長宗我部元門
第18代 長宗我部雄親
第19代 長宗我部元秀(兼序) - 戸波氏、比江山氏が分流。
第20代 長宗我部国親
第21代 長宗我部元親
第22代 長宗我部盛親
第23代 長宗我部盛恒

盛恒以後
大坂の陣の後、斬首された盛恒の代で宗家は断絶。以降は長宗我部国親の四男・島親益の系統とされる。現当主の友親は親房(親益)を初代、親典(五郎左衛門)を二代目として、自らは17代目の当主と数えている。

島親典(五郎左衛門)- 親益(親房)の子、あるいは吉良親貞の四男・吉良親英とされるがどちらも年代が合わない(島親典についても参照のこと)。
島與助
島弥左衛門
島久蔵
島惣亟
島弥右衛門
島弥四郎
島歡次
島與助
島與右衛門
島重親(與助重親)- 島義親の父
長宗我部吉親 - 復姓
長宗我部親衛
長宗我部親(林馬)- 「ちかし」と読む。長宗我部家の系図と史料を整理した。
長宗我部友猪
長宗我部友親 - 現・当主。長宗我部喬(高知市長浜)

島親典について
島親典は大坂の陣に出陣して負傷、土佐国へ帰還したのち長宗我部の一族であると出頭し山内氏によって4年間入牢させられ、釈放後は御歩行組(乗馬を許されない藩士、藩内で最低の地位)に入った。しかしこのような身分にも関わらず御銀方やお台所方といった要職を務め、さらに藩主・山内忠義に仕えることになった際は忠義に直接「体健やかならず」と書状を送っている。このように本来はいち下級藩士に過ぎないはずの親典が要職や藩主へ直接書状を書いていることなどから、実際に表向きには公表できない何らかの長宗我部一族であったことが推定される。

【このカテゴリーの最新記事】

長宗我部俊宗

長宗我部 俊宗 ちょうそかべ としむね
生没年未詳
鎌倉時代初期の武士。

略歴
土佐長宗我部氏の第2代当主。
父は長宗我部能俊。
子に忠俊がいる。

長宗我部能俊

長宗我部能俊 ちょうそかべよしとし
生没年不詳
平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。

生涯
長宗我部氏の始祖。
初めは秦能俊と名乗った。
秦氏の後裔。
秦明友の子だと言われているが定かではない。

信濃秦氏の一族として信濃を根拠にしていたが、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭となったため、長宗我部氏を称するようになった。

子に長宗我部俊宗がいる。

2020年01月09日

長宗我部文兼

長宗我部 文兼(ちょうそかべ ふみかね、生没年不詳)
室町時代の武将。 

長宗我部氏の第16代当主。
父は長宗我部元親(南北朝期)。
子に長宗我部元門らがいる。

応仁の乱から逃れてきた一条教房を土佐国司として推戴し、土佐国内の豪族との融和を図った。また、土佐東部における諸寺院や吸江庵の運営の監督も行っており、土佐一条氏を政治的に利用して、権威を拡大していった形跡がある。

2020年01月08日

長宗我部雄親

長宗我部 雄親(ちょうそかべ かつちか)
室町時代の武将。
長宗我部文兼の子。

時代
室町時代
生誕
未詳
死没
文明10年(1478年)
戒名
覚誉常通
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部文兼
兄弟
長男 長宗我部元門
次男 長宗我部雄親


長男 長宗我部兼序
次男 長宗我部序堯
三男 長宗我部親興
四男 長宗我部道孝

長宗我部氏の家督は
父・ 長宗我部文兼の隠居を受けて
兄の 長宗我部元門が継いでいたが、文兼と元門は次第に対立して不仲となり、文兼は元門を追放して家督に復帰、雄親はその後に家督を継いだ。雄親は家督争いで混乱した長宗我部氏の内部をまとめるため、寺社勢力との関係強化や弟を他家に養子として出すことでの家臣団強化を図った。

文明10年(1478年)に雄親は死去し、
跡を子の長宗我部兼序が継いだ。

長宗我部 兼序

長宗我部兼序(ちょうそかべ かねつぐ)
生誕 不明
死没 永正5年(1508年)9月
または永正15年(1518年)以降
土佐の国人領主・長宗我部雄親の子として誕生。
文明10年(1478年)、父・雄親の死をうけて家督を継ぎ、
守護の細川政元に仕えた(兼序の別名・元秀の「元」の字は政元から賜ったものと考えられる)。
本山家によって攻められ居城の岡豊城で自害
孫は長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)

2020年01月07日

長宗我部国親

長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)
戦国時代の土佐国の大名。
長宗我部兼序の嫡男。
長宗我部氏復興に尽力し、
野の虎と評される。

時代
戦国時代
生誕
永正元年(1504年)
死没
永禄3年6月15日(1560年7月8日)
改名
千雄丸(幼名)→国親
別名
受領名:信濃守、宮内少輔
渾名:野の虎
戒名
瑞王覚世
墓所
高知県南国市北谷の瑞応寺
氏族
長宗我部氏
父母
父:長宗我部兼序、母:不明
兄弟
国親、元春、国康、親吉[要出典]、女(吉田孝頼室)、理春尼 (片岡茂光室)

正室:祥鳳

元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島親益、本山夫人(本山茂辰室)、女(池頼和室)、養甫尼(波川清宗室)

生涯
永正元年(1504年)、長宗我部兼序の嫡男として生まれる[1]。幼名は千雄丸。

通説では、永正5年(1508年)、父・兼序が本山氏などに攻められ居城の岡豊城で自害した際に、国親は落ち延びて[2]、一条房家に養育された[3]。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰し、以後は長宗我部家の再興に尽力した[4]。しかし近年の研究によると、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲っている[5]。

土佐守護を兼ねる室町幕府管領・細川高国より偏諱(「国」の字)を受けて国親と名乗る(三弟の長宗我部国康(くにやす)も同様である)。

国親は吉田周孝を登用して内政や軍備の充実に努めた。天文13年(1544年)、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・茂辰と自分の娘を婚姻させた[6]。

天文16年(1547年)[7]、近隣の大津城を攻めて天竺氏を滅ぼした。次いで大津の南にある介良の横山氏を屈服させ、下田の勇猛で名高い[8]下田駿河守を討って下田城を落とした。さらに細川定輔(十市細川氏)を屈服させ、定輔の次男・池頼定も子の池頼和に娘を与えることで懐柔した。こうして長岡郡南部を制圧した。この勢力拡大で近隣の領主も恐れをなして布師田や一宮の領主も国親に降伏し、土佐郡南西部も制圧することになった。また父を滅ぼした仇敵の山田氏を天文18年(1549年)秋に滅ぼした。また、弘治2年(1556年)には三男の親泰を香宗我部氏に養子として従属化し、土佐国人の従属化を進めていくと同時に高知平野の制圧も成し遂げていった。天文年間末期に剃髪入道し、瑞応覚世と号した[9]。

弘治元年(1555年)になって本山茂宗が病死し、娘婿の茂辰が後を継ぐと本山氏を討つべく兵を挙げた[10]。弘治2年(1556年)、国親は本山家臣の秦泉寺氏を服属させ、さらに大高坂氏や国沢氏も討った。

『土佐物語』によると、永禄3年(1560年)、岡豊より長宗我部方の兵糧を積んだ船1艘が種崎に向かったが、その途中で潮江より本山方の船2艘が漕ぎ出して襲撃し、兵糧を奪った[11]。このため国親はその報復のために元家臣だが訳あって本山方についていた建築の達人である福留左馬丞を甘言で誘い、長浜城の城門を簡単に開くように工作させたうえでに夜討ちをかけて5月26日に長浜城を攻略した[12]。茂辰は朝倉城に2000余の軍を集めて長浜城奪還を目指したが、国親軍1000人の奮戦により5月27日に兵力で勝りながら敗れ、浦戸城も国親の支配下に入った[12]。

しかし直後、病を得て6月15日に急死した。享年57[13][12]。家督は嫡男・元親が継いだ。

人物・逸話
安芸の毛利元就が吉川氏、小早川氏に対して行ったのと同様、土佐国衆の香宗我部氏を養子縁組によって従属化させている。また、家督を継いだ元親も同じように吉良氏を養子縁組により従属化している。長宗我部氏の軍制である「一領具足」は国親の発案といわれる。

家臣
吉田孝頼 - 国親の義兄弟にあたる。
吉田重俊

タグ:長宗我部

本山茂辰

本山 茂辰(もとやま しげとき)
戦国時代の武将。
土佐七雄と称された本山氏当主。
本山茂宗の嫡男。

時代
戦国時代
生誕
大永5年(1525年)
死没
永禄7年(1564年)または天正年間末以降
氏族
本山氏
父母
父:本山茂宗

正室:本山夫人 (長宗我部国親の娘)

本山貞茂(のちに本山親茂)、
本山茂慶(内記) 、
本山茂直(又四郎)、
娘2人

生涯
大永5年(1525年)、土佐国本山郷の豪族・本山茂宗の子として誕生。

土佐一条氏と敵対の姿勢を見せ、一条氏と通じていた土佐吉良氏の攻撃を決意。天文9年(1540年)、当主の吉良宣直が仁淀川に狩猟に出かけて留守になっていた隙を狙って攻撃を開始。本山氏側は軍を二手に分け、茂辰は城主が不在であった吉良峰城に向かってこれを落とした。一方、仁淀川に向かった軍勢も宣直を討ち取り、土佐吉良氏を滅亡させた。

弘治元年(1555年)、父・茂宗の死を受けて跡を継ぎ、中央平野部の朝倉城に拠る。茂辰は依然一条兼定と敵対し[1]、2月25日には高岡郡の蓮池城を落とした。ところが、弘治2年(1556年)から舅の長宗我部国親が反旗を翻したため、国親及びその子・元親と抗争を続ける。永禄3年(1560年)5月、長浜の戦いで長宗我部氏に大敗。6月には浦戸城を失って朝倉城に立て籠もった。以後も元親によって朝倉支城を悉く落とされ、永禄4年(1561年)3月にも侵攻を受けて敗北した。

永禄5年(1562年)9月には長宗我部元親の大規模な侵略を受けるが、子の貞茂の活躍で勝利した。しかし本山軍の被害も大きく、以後は長宗我部側の調略により次第に傘下の豪族を切り崩された。このため永禄6年(1563年)1月10日、朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退く。5月に茂辰は挽回のために岡豊に攻め入るも敗北。永禄7年(1564年)4月には本山城を棄てて瓜生野に籠もって抗戦した。

茂辰はこの戦いの最中に病死したとされているが、実はこれについては文献上に茂辰の名前が登場しなくなる[2]というだけで、茂辰の死去日や場所を裏付ける具体的な史料が存在する訳ではなく、行方不明というのが正しい。

また一方で、永禄7年から20年以上経過した天正年間末期に編纂された『長宗我部地検帳』に「本山大夫法師殿」という人物が登場する。茂辰の嫡男・貞茂(後に親茂)が長宗我部氏に降伏しその家臣となって以降に長宗我部氏の文書で「殿」の称号で呼ばれたのは本山氏嫡流の人物のみであり、貞茂(親茂)兄弟は別に記載があるため、「本山大夫法師殿」に該当する可能性があるのはその先代である茂辰しか考えられず、茂辰は永禄7年以降に出家して長宗我部元親の庇護下にあったする説が浮上した。この説を提唱した朝倉慶景は茂辰は降伏して出家を条件に助命されたものの、これに納得しない茂辰の妻(元親の姉)や家臣が貞茂を擁して抵抗を継続したと推測している。

2019年12月30日

土佐・朝倉城

朝倉城(あさくらじょう)
重松城 

高知県高知市朝倉にあった日本の城。
高知県指定史跡。

別名
重松城
城郭構造
山城
築城主
本山茂宗(もとやまむねしげ)
別名 本山梅慶(もとやまばいけい)

築城年
天文元年(1532年)頃?
主な城主
本山梅慶(もとやまばいけい)
本山茂辰(もとやましげとき)
廃城年
永禄6年(1563年)
遺構
曲輪、土塁
指定文化財
県指定史跡
位置
北緯33度32分57.9秒東経133度28分48.2秒

概要
高知市西部、高知大学西側の標高約100メートルの丘陵上に位置し、頂上のおよそ2000平方メートルの平坦地を本曲輪とし、周囲にも出丸を築いていた。

本山城主・本山茂宗は、大永(1521〜1527)年間に土佐中央部に進出した。朝倉城築城は天文元年(1532年)頃とも言われている。その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐国の覇権をめぐって争い続けた。

永禄5年(1562年)には長宗我部元親が3,000人の兵を率いて当城を攻め、本山茂辰はこれを撃退した。しかし翌永禄6年(1563年)に本山城に退去した際に当城は焼かれ、廃城となった。


2019年12月29日

壬生義雄

壬生 義雄(みぶ よしたけ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
下野宇都宮氏、後北条氏の家臣。
壬生氏5代(最後の)当主。

時代
戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
天文21年(1552年)
死没
天正18年7月8日(1590年8月7日)
改名
氏勝(幼名)→義雄
戒名
寒光院殿雄山文英
墓所
栃木県鹿沼市西鹿沼町の雄山寺
主君
下野宇都宮氏 → 佐竹義重 → 後北条氏
氏族
壬生氏
父母
父:壬生綱雄
兄弟
義雄、鶴子(皆川広照室)

正室:自性院殿源室宗本

伊勢亀(一色右兵衛尉室)

略歴
天文21年(1552年)、壬生綱雄の子として誕生。幼名は氏勝。

父・綱雄は後北条氏と手を結び宇都宮氏からの独立を画策していたが、綱雄の叔父・周長は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)、綱雄は暗殺され、周長が壬生氏本拠の鹿沼城主となる。同年、周長は続いて義雄の籠る壬生城を攻めたが、義雄が勝利し周長は殺害される。

一時期は佐竹義重の影響力の拡大に伴ってその傘下に入って後北条氏と戦っているが、天正13年(1585年)12月には結城晴朝の説得を拒否して後北条氏方に離反、勢いづいた北条軍が宇都宮・多気山両城を攻撃した事から、翌年には佐竹氏・宇都宮氏の攻撃を受けている[1]。

天正15年(1587年)10月9日に、南会津の奥州長沼氏へ日光近辺の緊迫した政治状況を書いた書状を送っている。敵対している宇都宮氏が交通の要衝である倉ヶ崎に城を構えたため、軍事的な脅威を感じ、後北条氏に報告し、後北条氏による軍勢の派遣を約束した[2][3]。

義雄も父・綱雄同様、後北条氏と手を結んで宇都宮氏から独立して抗争する。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏に味方して小田原城に立て籠もったが、小田原落城の直後に病死した[4]といわれる。

義雄には娘しかおらず、男子の跡継ぎがなかった為に、壬生家は絶家した。娘の伊勢亀は義雄の死後、壬生家臣・一色右兵衛尉の室となった。
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