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2018年09月25日
不思議な体験 超常現象?
私は今までに何度も説明のつかない音や、聞こえるはずのない音を聞いたりしたものですが、最近また説明のつかない音を聞くという体験を何度かしました。
そのうちの2つは、今仮住まいにしている知り合いのお庭にあるゲストハウスで起こったのですが、一部屋といえども結構広く、ベッドと応接セットとディスクを置いてもまだ余裕のある広さです。
ディスクの置いてある目の前は大きな張り出しの窓になっていて、そこから緑々した庭園が目の前に広がり、なかなか快適なお部屋です。 |
応接セットの置いてある壁の所には、ゲストハウスを貸してくださっている大家さんの息子さんが、生前に描いた絵が2つかかっているのですが、この絵もなかなか趣向が凝っており、30代の若さで交通事故で逝かれてしまった息子さんのグラフィックの才能を窺わせます。
この部屋に移って1週間位した頃でしょうか、最初はある日の午後でした。
突然「わーっつ」という群衆の歓声とも言えるような音が、応接セットのある壁のあたりから聞こえてきたのです。
時間にしてわずか3−4秒だったと思うのですが、ただ応接セットの隣には大きなテレビが置いてあり、そこから聞こえたのかもとも言えるほど、境界線がつきませんでした。
因みこのゲストハウスの家具はすべて備え付けで、テレビも応接セットもディスクも、もともとこの部屋にあったものです。
テレビは電源が切ってあるし、というか、接続を全然してなかったので、まずテレビの音が何らかの形で聞こえると言う事はあり得ないし、もしかしたらその下に置いてあるラジオ(これだけは自前)が鳴ったのかとも思ったのですが、こちらもスイッチは切れていました。
数日して今度は夜中に、また歓声とも何かの雑音ともつかない音がしたのでした。
今度も音源の場所が同じで、やはり3 ー4秒してからすっと消えるのでした。
「もしかしたらラジオが何らかの形でなったのかしら?」と思い、コンセントを抜いておきました。
それからまた数日して、息子が泊まりがけで訪問に来た日の夜中に、今度は息子も一緒にもその音を聞いたのでした。
息子は「サッカーの観戦みたい」と感想を漏らし、やっぱり群衆の歓声のような音だと思ったようでした。
一度大家さんにそのことを話したら、「幽霊は出ないわよ」と言われてしまいました。
でも不思議なことにそれ以来二度とその音を聞かなくなりました。
後で考えてみるととても不思議な体験なのですが、背筋が凍るとか、ぞっとするとかそういう事はなく、あの音は一体何だったのだろう?といまだに不思議でなりません。
もう一つ、ありえないことを最近体験しました。
私が瞑想をしている時でした。
ふと大家さんが、電話をして私の名前を言っているような声を聞いたのです。
ちょうど夕方の5時ごろでした。
母屋は私の部屋から庭を挟んで25メートル以上離れており、ドイツのしっかりした家の作りからして、部屋で電話をしている人の声が、ドアを閉めている私の部屋まで聞こえるはずもなく、瞑想しながら、後で大家さんに確認してみようなどと雑念が浮かんでしまったのでした。
その夜大家さんに、午後5時ごろ誰かと電話をしたかと聞いたら、なんでわかったの?と聞かれました。
自分でも不思議なのですが、声を聞いただけではなく、それが電話をしていると情景が浮かんだことです。
こういう何気ない不思議なことが度々あります。
超常現象?
これが何かしらものになれば良いのですけどね〜。
以前リコネクションを受けた時にも、説明のつかない音を聞いたことがあります。
またいつかそれについて触れてみたいと思いますが、今日は長くなるのでこの辺で。
2017年06月08日
ドイツの奇跡のヒーラー ブルーノ・グルーニング
第二次大戦後、ドイツで一斉を風靡した奇跡のヒーラー ブルーノ・グルーニングという人がいます。 彼は何十万人の人をその病から救ったといいます。 |
難病の人、精神的な疾患の人、怪我をした人、医者からサジを投げられた人、人生に希望を見出せない人々が毎日何百人と彼のところへ押し寄せました。
そして、彼の発する言葉を皆固唾を呑んで聞き入り、演説が終わると、車椅子に座っていた人が立ち上がり、自ら押すことができるほどになり、松葉杖をついていた人が、もう必要ないと捨てていくほどの現象が起こりました。
病を抱えていた人々の目に希望の光が宿り、実際に奇跡の治癒が何万と起こったのでした。
そのブルーノ・グルーニングっていったいどんな人?という疑問を、ここでドイツ語の資料を基にして紹介します。
ブルーノ・グルーニングは 1906年5月30日にポーランドのグダニスク(Danzig)に生まれました。
動物好きな彼は、幼い頃からすでに、自然治癒を施したり、時には予言などの霊的な能力を発揮していたようです。
戦後難民として西ドイツに亡命し、大工の見習いを得て様々な労働者としての仕事に就きました。
1959年2月のシュピーゲルによると、最初の奥さんと、二人の息子がいましたが、子供たちはそれぞれ戦争の犠牲になり亡くなっています。
1948年大工の仕事をしていたグルーニングは、施主の姪っ子が病気と知り、400キロの旅程を要するドゥイスブルグまでの治療に赴きます。
そして何夜も姪っ子の寝床に伴ったグルーニングを、良く思わなかった先妻に離婚を突きつけられてしまいます。
1949年ブルーノ・グルーニングを、一夜にして有名にする事件が起きました。
ヘルフォルトにてフュールスマン氏は筋ジストロフィーを患っている息子のために 、グルーニングを招請します。
車椅子の生活を強いられていた息子は、グルーニングの指図によって、その場でヨロヨロと立ち上がって歩くことができたのでした。
この奇跡に感謝してもしきれないフュールスマン氏は、持っている財産を全て差し上げるほどの勢いで、家や車等をグルーニングに提供します。
その日からフュールスマン家の前のウィルヘルム広場には、1日何百人もの病を抱えた人々が押し寄せるように。
奇跡的に病が治った人達は医者からも、「説明のつかない治癒」として完治の診察結果を得ることになります。
これをよく思わない輩が世の中には常に居るもので、グルーニングを「自然療法士」の規範に違反していると訴えます。社会勢力の刃は彼の活動を阻止しようとやっきになりました。
彼の「信者」たちは、デモや反対活動でグルーニングの「治療」を続けてもらうべくあらゆる手段で抗いますが、とうとう当局の決断により、治癒活動を禁止されてしまいます。
判決が出て一年後の1959年1月25日フランスにて手術中に帰らぬ人となりました。
私がグルーニングを写真や映像で見たとき、「なぜこの人の首はこんなに太いのだろう?」という疑問が常にありましたが、これで納得できました。 |
首の癌だったんですね。
予断ですが、エリック・パール氏の「リコネクション」という本に、パール氏も始めてエネルギー治療を施したときは、クライアントの疾患が自分に跳ね返ってきたとありました。
「不治の病はない」という彼の教えは、ここで矛盾を感じるのですが、グルーニングは、きっとあらゆる人々の毒素を自らに集めていたのではないかと思います。
ビデオの映像では、年が進むにつれ、どんどん首が太くなっていってるのが分かります。
実際「治癒禁止」の判決が出た年には、馬のような首になっていました。
私もエネルギー治療をするときは、エネルギーを注いだ後に、クライアントとの間のエネルギーを切ります。
そうすることで、自分とクライアントの境を作るのですが、きっとこんな理由からも来てるのかも知れません。
グルーニングは治療をやめてから直ぐに具合が悪くなり、フランスに赴きます。
なんでフランスなのかと疑問に思ったのですが、2人目の奥さんがフランス人だったからというのも関係あるかもしれません。
あと私が疑問に思ったのは、「どうやって生活が成り立っていたのか?」ということ。
人々は皆感謝の気持ちから、家の前の庭に食べ物等を置いていったらしいですが、それにしても生活にお金は付き物。
この疑問に答えたのはやはりシュピーゲルの記事でした。
それによると:
「彼の2人のマネージャーや取り巻き達は、毎日送られて来る小切手や切手が同封されている郵便物を開けるのに暇がない。」
また何かの器具を売ってそれが「治癒に効く」という「商売」をやっていたとも。
しかしグルーニング自身はお金を無償したことは一度もないそう。
ここでいつも世の中の常である「真のヒーロー」と「金銭的に利用するその取り巻き」がいるものだなぁと思うのです。
今日グルーニングの交友会での参加で、未だに病が治る人々がいるとのこと。
奇跡のヒーラーは死んでも猶人々の治癒に当たっているのですね。
ブルーノ・グルーニングに関してはこちらを参照してください。
動画はこちら
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