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インドを知って日本を知る!1

インド国旗

 「欧米は日本が侵略戦争を行ったと歴史に留めて、自らのアジア侵略の正当性を誇示する目的だったに違いない。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負い、卑屈・退廃に流れるのを私は平然と見過ごせない。」
(ラダ・ビノード・パール極東国際軍事裁判判事)

 1945年(昭和20)8月18日、台湾の台北空港で「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」という言葉を残して、日本と共に戦ったインドの英雄がこの世を去りました。日本の敗戦から3日後のことでした。

 その人の名はスバス・チャンドラ・ボース、インドの独立運動の指導者「ネタージ(指導者)」と呼ばれ、現在でもインドで尊敬を集めている有名な人物です。

 しかし、その彼の墓が、日本の蓮光寺というお寺にあることは、日本でもあまり知られていません。

 また、カルカッタにある彼の邸宅を改装したボース記念館では、彼の残した演説や、彼が指揮したインド国民軍の愛唱歌の入ったテープが販売されていますが、愛唱歌のなかには、なんとヒンズー語で歌われた日本の歌「愛国行進曲」が収められています。

 さらに、ボースがインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944.3.20自由インド放送より)このボースの演説内容に驚かれる方も多いことでしょう。無理もありません。私たちの多くは、先の大戦をアメリカ・イギリスなどの自由主義・民主主義陣営と、自由を抑圧するドイツ・日本のファシズム陣営の戦いであったと教えられてきたからです。しかし、ボースはここではっきりと、アメリカとイギリスを「帝国主義者」と呼び、その「侵略の軍隊」をアジアから追い出さなければ、アジアの自由はないのだと言っています。

 このようなアジアの声を、またインドと日本の深い友好の関係を知らない日本人が多いのではないでしょうか?

 そこで、ここではインドの人々と日本人が協力して、自由と独立を勝ち取った歴史を紹介したいと思います。

 インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。

 このような中、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。

 そして、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。

 ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士達でした。

 ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスの為に戦うのを止めさせなければなりません。

 そういった経緯から、日本政府は、インドの独立を全面的に支援する為、藤原岩市少佐を中心とした、10名足らずの「F機関」という組織を作りました。

 「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命懸けで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。

 最初は半信半疑だったインド兵達も、F機関員たちが敗残兵である自分達を差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士である筈のイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。

 さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分達を、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。

 降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけていきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどん膨れ上がり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。

 ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立する事は、少なくとも、後150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。

 ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めた事を知り、インド独立闘争の為の協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行く事を決意します。

 そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943年(昭和18年)7月5日の事でした。

 この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くに及び、大演説を行いました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。我々の任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式を行う日までは終わらないのである。…我々はこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声を揃えて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。

 この翌月、8月1日には日本によって、ビルマ(現ミャンマー)が独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくは当ブログのビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていた、ビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たした事に感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、全く果たされませんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。

 ところがこの時、既に日本軍は勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。

 しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、直ちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。

 悪化する一方の戦局を打開する為、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19年)3月の事でした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、愚かな無用の戦いであったと言います。

 しかし、本当にそうなのでしょうか?

 2に続く、、

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