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2016年04月02日

第67回 ファウスト






文●ツルシカズヒコ



 奥村博史『めぐりあい 運命序曲』によれば、奥村と声楽家の原田潤が出会ったのは前年十一月、文芸協会公演のバーナード・ショーの喜劇『二十世紀』を有楽座で観劇しているときだった。

 幕間にふとしたことから言葉を交わしたふたりは、急速に親しくなり、前年十一月末に千葉県安房郡富浦に旅に出て、そこの漁村にしばらく滞在した。

 年が明けて梅の花の散るころ、原田に電報が届いた。

 近代劇協会公演の『ファウスト』への出演の誘いだった。

 芝居に興味があった奥村はアルバイトの必要に迫られていたこともあり、原田の勧めで試験を受け、一座に加えてもらったのだった。

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 紅吉は戸惑うどころか、過去のことを容易に忘れ、奥村との再度の出会いを単純に喜び、こんなことまで言い出した。

「私と奥村さんは初めたいへん仲がよかったんですよ。らいてうさえいなければ、仲のよいお友達だったんです。ああなったのだって、平塚さんが奥村さんを誘惑したのですよ。明日見えたら、私がよろしく言いましたって、そう言って下さいな。あのことはなんとも思ってはおりませんってね。なにとぞお願いします」

 野枝はよくもこんなこじつけができるもんだと呆れ、同時に自分の気持ちの矛盾に一切無頓着なのが紅吉の性格をよく現しているので、おかしくなってしまった。

「何かあるの?」

 ニヤニヤ笑っている野枝に紅吉が言った。

「なんでもないのよ」

「そう、だって笑ってるじゃありませんか」

「いいえ、ちょっと思い出したことがあったから」

 野枝は紅吉のように純粋な感情だけで生きている人は珍しいと思った。

 努めてもあそこまで無責任にはなれるものではないし、紅吉の唯一の強みかもしれない。

 どんなことをしても、紅吉だから許された。

 紅吉はよく嘘を言った。

 しかし、他人には巧みな嘘を言っているように見えるが、紅吉の中では真実性を持っているのだろう。

 そして、紅吉は自他ともに過去に対しての責任というものをまったく持ち得ない人であった。

 他人にはこのうえもない矛盾や撞着と思われることでも、紅吉にとってはそのときそのときの感情の流れを素直に表現しているだけのことなのだ。





 紅吉は顔を輝かせながららいてうのもとに飛んで行き、手柄顔に奥村のことを伝えたという。


「早く会ってあげたらどうですか」などと紅吉の、まるで矛盾した言葉は相変わらずのことですから、怒る気にもなりません。

 紅吉のもたらしてくれたこの「燕」の消息は、やはりわたくしの胸いっぱいに、大きな波紋となって広がるのでした。


(『元始(下)』)


『ファウスト』は一九一三(大正二)年三月二十七日から三月三十日まで帝国劇場で上演され、帝劇始まって以来の大入りの盛況だった。

 近代劇協会から招待されていたらいてうは、三月二十七日の初日に帝国劇場にひとりで出かけた。

 奥村は「アウエルバッハの窖(あなぐら)の学生・酒場」の学生に扮して、鼠の歌を歌っていた。


 舞台の上で、無心に自分の演技にうちこむ彼の姿を、座席からひとり眺めることで、わたくしは満足しました。

 ふたたび彼を見ることができたことに十分心足りて、ひとまず自分の来たことを告げるために、幕間に、真紅の小さなバラの花束を楽屋へ届けて、彼とは会わずに帰りました。


(『元始(下)』)





 奥村は彼の楽屋の化粧鏡に置いてあるバラの花束に名刺が添えられていないので、誰から贈られたものかわからなかったが、伊庭孝かららいてうが観に来ていると教えら、からかわれたので、事情を察した。

 上山草人夫妻は、奥村とらいてうのロマンスを奥村に会う前から知っていた。

 紅吉が吹聴していたからである。

 衣川孔雀は奥村を「燕さん」と呼んで、奥村をまごつかせた。

 そして、奥村は飄々とこんな回想もしている。


 西嶋は珍しがって二度も浩の楽屋を訪ねた。

 詩人の山村暮鳥を連れても来た。

 山村はすぐその後に詩を書いたはがきを彼によこしたが、彼は自分にデディケエトされたその詩から暗い感じを受けたのを喜ばず、そのまま屑篭に投げ込んでしまった。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』)


「西嶋」とは新妻莞のことである。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 22:09| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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