2021年09月03日
【バスケ心理分析】ディフェンスをサボる理由は、強い承認欲求と自己否定ではないか。
バスケを続けていると、たまに
「オフェンスだけやって、ディフェンスをサボる選手」
に出会うことがあります。
僕はディフェンスをサボる選手が大嫌いです。
他の4人で守って、つないだボールをその選手に渡したら、
「私はシュートしかしません」とばかりに打ちまくる
なのにディフェンスに戻らない、追いかけない
そんなことをされたら、その選手の欲望のために
自分たちがないがしろにされているように感じます。
しかし、僕はある日、
ディフェンスをサボる選手に憤るだけでは
生産性がないことに気づきました。
そこで、彼らが
「なぜディフェンスをサボるのか?」を考えることにしました。
そして、
だけで片づけていいんだろうか?
もっと根深い心理が隠されているのではないか?と疑問に思いました。
バスケの華に見えるオフェンス、
地味でハードなディフェンス。
そういう競技の特性を合わせて考えると、
ディフェンスをサボる選手の心の底には、
満たされない承認欲求と深い自己否定があるんじゃないでしょうか?
ー目次ー
たとえば子どものころ、
目に見える結果を出した。
親やまわりの大人が満足する成果を出した。
そのときだけ褒められたら、どう思うでしょうか。
逆に、
結果を出せなかった。
親やまわりの大人の期待に届かなかった。
そのときは𠮟られ、関心を向けてもらえなかったら。
過程を評価してもらえなかったら、どう思うでしょうか。
そうやって「条件付きの愛情」ばかり注がれたら、
その子の心には、こんな思いが育っていかないでしょうか。
「目に見える結果を出せない私はダメな子だ」
「期待に応えられない私は愛してもらえない」
「私を認めてほしい」
「私に関心を向けてほしい」
「結果を出せない私には価値がない」
「目に見える結果でないと見てもらえない」
そんな思いが膨らんだ結果、
目に見えない成果や、そこに至るまでの道のりは、
「無価値なもの」になってしまったんじゃないでしょうか。
バスケットでいちばん華があり、
成果がわかりやすいのはオフェンスです。
これらはバスケットになじみのない人にもわかりやすい成果です。
それに対してディフェンスは、
たとえ成果を出していても見つけてもらえる可能性が低いです。
どれもすばらしいディフェンスです。
しかし、残念ながらそこにボールはありません。
バスケに限らず、ボールのないところで起きるプレーは
なかなか注目してもらえません。
サッカーでは、ゴールが決まったら
得点した選手を中心に歓喜の輪ができあがります。
しかし、ボランチやセンターバックの選手がピンチを予測して、
「危険なスペースへパスを出させなかった」としても、
歓喜の輪はできません。
「ピンチを防いだ」ならわかりやすいですが、
「ピンチの芽を摘んで何も起こさなかった」ことは、
誰にも気づかれない可能性すらあります。
繰り返しますが、僕はディフェンスをサボる選手が大嫌いです。
が、ディフェンスの現実は「成果を出していても気づかれにくい」です。
承認欲求に飢え、強い自己否定を抱えた彼らが、
その現実に立ち向かえるでしょうか。
「目に見える結果を出せない私はダメな子だ」
「期待に応えられない私は愛してもらえない」
その悲しみに抗いながら、
成果を見つけられにくいディフェンスに力を注げるでしょうか。
『シュートを決めたらほめてもらえる。
すごいパスを通したら評価してもらえる。
だけど、いくら「ナイスディフェンス」をしても、
誰にも評価してもらえない。目に見える結果を出せない。
仲間からも、お父さん、お母さんからも…。
まわりの評価のためにやってるわけじゃない。
だけど、やっぱり結果を出して認めてもらいたい。』
そんな悲しみが、
「どうせ評価してもらえない」というあきらめが、
ディフェンスに戻る足を止めてはいないでしょうか。
『必死で戻っても、攻めにくくさせても、成果は目に見えない。
結果を出して評価されない「ダメな私」のまま…。
だったらオフェンスだけやればいいや。』
そんな、
ディフェンスに対するあきらめの気持ちを抱いてしまわないでしょうか。
そこには「サボる」「疲れる」「エゴ」では片づけられない、
心理的な闇があるんじゃないでしょうか。
僕はディフェンスが好きです。
ディフェンスをサボる選手の擁護はしたくありません。
それでも、ディフェンスをサボる選手の心理を
考察する機会をもらえたことに感謝しています。
「ディフェンスが好きと思えるのは幸せなこと」
だと気づけたからです。
ディフェンスはオフェンスよりも
地味で、ハードで、成果が見えにくいです。
なのにディフェンスを楽しめるのは、
バスケットという競技の、より多くのプレーを好きになれたということです。
こんなに夢中になれる競技を、長く続けられることが幸せです。
そして、ディフェンスをサボる選手に
憤っていただけの自分の狭量さを恥じました。
もし、承認欲求や自己否定による
ディフェンスへのあきらめがあるのなら、
僕にはその背景が見えていませんでした。
「ディフェンスをサボる選手は嫌い」という感情と、
その選手の長所を見つける意識は分けて考えることができます。
僕は今まで以上に、
味方のナイスディフェンスを見つけて励まし、
見えない成果や過程に目を向けたいと思います。
そして、もっともっとディフェンスを楽しみたいと思います。
<関連記事>
【遅咲き】何かを始めるのに年齢は関係ない、楽しいかどうかで決めればいい。
【バスケ心理分析】セルフィッシュな選手の自己顕示欲を満たしても、感謝はされない。
「オフェンスだけやって、ディフェンスをサボる選手」
に出会うことがあります。
- ボールを持つと強引にでもシュートするが
ディフェンスではすぐに追いかけるのをあきらめる - オフェンスでは走るのに
ディフェンスになると歩いて戻る
僕はディフェンスをサボる選手が大嫌いです。
他の4人で守って、つないだボールをその選手に渡したら、
「私はシュートしかしません」とばかりに打ちまくる
なのにディフェンスに戻らない、追いかけない
そんなことをされたら、その選手の欲望のために
自分たちがないがしろにされているように感じます。
しかし、僕はある日、
ディフェンスをサボる選手に憤るだけでは
生産性がないことに気づきました。
そこで、彼らが
「なぜディフェンスをサボるのか?」を考えることにしました。
そして、
- 疲れるから
- オフェンスで目立ちたいから
- 自分の得点や活躍にしか興味がないから
だけで片づけていいんだろうか?
もっと根深い心理が隠されているのではないか?と疑問に思いました。
バスケの華に見えるオフェンス、
地味でハードなディフェンス。
そういう競技の特性を合わせて考えると、
ディフェンスをサボる選手の心の底には、
満たされない承認欲求と深い自己否定があるんじゃないでしょうか?
ー目次ー
- 目に見える結果を出したときだけほめられた
- ディフェンスは”目に見える結果”を出しづらい
- ほめられないディフェンスへのあきらめ
- ディフェンスが好きと思えるのは幸せなこと
1.目に見える結果を出したときだけほめられた
たとえば子どものころ、
- 学校で上位の成績を取った
- 受験で難関の学校に合格した
- 試合で多く得点を取った
目に見える結果を出した。
親やまわりの大人が満足する成果を出した。
そのときだけ褒められたら、どう思うでしょうか。
逆に、
- 学校の成績で順位が下がった
- 志望校に合格できなかった
- 試合で得点を取れずに負けた
結果を出せなかった。
親やまわりの大人の期待に届かなかった。
そのときは𠮟られ、関心を向けてもらえなかったら。
過程を評価してもらえなかったら、どう思うでしょうか。
そうやって「条件付きの愛情」ばかり注がれたら、
その子の心には、こんな思いが育っていかないでしょうか。
「目に見える結果を出せない私はダメな子だ」
「期待に応えられない私は愛してもらえない」
「私を認めてほしい」
「私に関心を向けてほしい」
「結果を出せない私には価値がない」
「目に見える結果でないと見てもらえない」
そんな思いが膨らんだ結果、
目に見えない成果や、そこに至るまでの道のりは、
「無価値なもの」になってしまったんじゃないでしょうか。
2.ディフェンスは”目に見える結果”を出しづらい
バスケットでいちばん華があり、
成果がわかりやすいのはオフェンスです。
- シュートを決めた
- アシストパスを通した
- ドリブルで相手を抜いた
これらはバスケットになじみのない人にもわかりやすい成果です。
それに対してディフェンスは、
たとえ成果を出していても見つけてもらえる可能性が低いです。
- 相手が出したいパスコースを邪魔した
- 相手が使いたいスペースを先読みしてつぶした
- 味方がリバウンドを取れるように相手を抑えた
どれもすばらしいディフェンスです。
しかし、残念ながらそこにボールはありません。
バスケに限らず、ボールのないところで起きるプレーは
なかなか注目してもらえません。
私たちは「目につきやすい」業績をあげた軍の高官や、
政治家や、救急外科医や、セラピストの役割を過大評価し、
社会や個人が大きな問題に巻き込まれるのを
未然に防いだ人たちの役割を過小評価している。
だが真のヒーローや賢人は、
実は腕のいいホームドクターや、優れた教師や、
合理的な立法者や、百戦錬磨の外交官といった、
「問題を事前に防いでいる人たち」のほうなのだ。
『Think clearly』34”解決よりも、予防をしよう” より
サッカーでは、ゴールが決まったら
得点した選手を中心に歓喜の輪ができあがります。
しかし、ボランチやセンターバックの選手がピンチを予測して、
「危険なスペースへパスを出させなかった」としても、
歓喜の輪はできません。
「ピンチを防いだ」ならわかりやすいですが、
「ピンチの芽を摘んで何も起こさなかった」ことは、
誰にも気づかれない可能性すらあります。
3.ほめられないディフェンスへのあきらめ
繰り返しますが、僕はディフェンスをサボる選手が大嫌いです。
が、ディフェンスの現実は「成果を出していても気づかれにくい」です。
承認欲求に飢え、強い自己否定を抱えた彼らが、
その現実に立ち向かえるでしょうか。
「目に見える結果を出せない私はダメな子だ」
「期待に応えられない私は愛してもらえない」
その悲しみに抗いながら、
成果を見つけられにくいディフェンスに力を注げるでしょうか。
『シュートを決めたらほめてもらえる。
すごいパスを通したら評価してもらえる。
だけど、いくら「ナイスディフェンス」をしても、
誰にも評価してもらえない。目に見える結果を出せない。
仲間からも、お父さん、お母さんからも…。
まわりの評価のためにやってるわけじゃない。
だけど、やっぱり結果を出して認めてもらいたい。』
そんな悲しみが、
「どうせ評価してもらえない」というあきらめが、
ディフェンスに戻る足を止めてはいないでしょうか。
『必死で戻っても、攻めにくくさせても、成果は目に見えない。
結果を出して評価されない「ダメな私」のまま…。
だったらオフェンスだけやればいいや。』
そんな、
ディフェンスに対するあきらめの気持ちを抱いてしまわないでしょうか。
そこには「サボる」「疲れる」「エゴ」では片づけられない、
心理的な闇があるんじゃないでしょうか。
4.ディフェンスが好きと思えるのは幸せなこと
僕はディフェンスが好きです。
ディフェンスをサボる選手の擁護はしたくありません。
それでも、ディフェンスをサボる選手の心理を
考察する機会をもらえたことに感謝しています。
「ディフェンスが好きと思えるのは幸せなこと」
だと気づけたからです。
ディフェンスはオフェンスよりも
地味で、ハードで、成果が見えにくいです。
なのにディフェンスを楽しめるのは、
バスケットという競技の、より多くのプレーを好きになれたということです。
こんなに夢中になれる競技を、長く続けられることが幸せです。
そして、ディフェンスをサボる選手に
憤っていただけの自分の狭量さを恥じました。
もし、承認欲求や自己否定による
ディフェンスへのあきらめがあるのなら、
僕にはその背景が見えていませんでした。
「ディフェンスをサボる選手は嫌い」という感情と、
その選手の長所を見つける意識は分けて考えることができます。
僕は今まで以上に、
味方のナイスディフェンスを見つけて励まし、
見えない成果や過程に目を向けたいと思います。
そして、もっともっとディフェンスを楽しみたいと思います。
<関連記事>
【遅咲き】何かを始めるのに年齢は関係ない、楽しいかどうかで決めればいい。
【バスケ心理分析】セルフィッシュな選手の自己顕示欲を満たしても、感謝はされない。
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