2019年10月19日
世界1周の旅:ヨーロッパ後編H【ブルガリア】プロヴディフのハウス・ミュージアム巡りで、民族復興期に想いを馳せる
A voyage round the world : Europa Edition 2nd part H Think about the restoration age of race by touring House Museums in Plovdiv【6.2011】
「恐るべし、ブルガリア国鉄」
ブカレストからソフィアに向かう列車はガラガラだったので、6人用コンパートメントを悠々独り占め
ブルガリアでは、鉄道を使う人口が少ないらしい。だからソフィアの鉄道駅はバスのターミナルよりもひっそりとして、こじんまりした建物だったんだなぁ。
列車の中で、無賃乗車をした男の子に出会った。恐らくルーマニア人の学生である彼は、ルセから先ブルガリア国内の切符を持っていなかったらしく、検札に来た車掌に次の駅で下りろと云われ、お金がないのかコンパートメントの座席にひとりで座っていた私に泣きついてきた。
カタコトの英語で事情を説明し、金の無心をしたのだ。彼は自分のプリティ・フェイスがアジア人の私の心を動かすとでも思ったのだろうか。隣りのコンパートメントにはアメリカ人の若者たちがたくさんいたのに、そちらにお願いに行こうという気は全くないようだった。
両手を組み合わせてお願いポーズを取り、つぶらな瞳を潤ませて一心に私を見つめてきたが、私もルーマニア・レウはブカレストで使い果たしていたし、ブルガリア・レフはまだATMで下ろしていなかったため現金を持ち併せていなかったので「申し訳ないけど私には助けてあげられない」とカラのお財布を見せて言った。
が、彼は信じなかったようで、いつまでも恨みがましい目で見つめ「プリーズ」を繰り返していたが、やがて次の駅に着き、無情にも検札員に引き立てられていった…。
「プロヴディフでハウス・ミュージアム巡り♪」
6月13日、ブルガリアの首都ソフィアに戻って3泊。
翌日はソフィアからバスで3時間、国内第二の都市プロヴディフへ日帰りショート・トリップ。
プロヴディフ旧市街の見所のひとつは、民族復興期の裕福な商人たちの家を美術館にしたハウス・ミュージアム群。建築物好きの私のお目当てもズバリそれ。
この地域の民族復興期の歴史に興味のあった私は、日本でこのハウス・ミュージアム群の存在を知った。旅名人ブックスに掲載されていた写真は、私のこの地への憧れを掻き立てた。往復6時間ものバス旅もなんのその、やっと訪れたこのプロヴディフで、迷路のような石畳の坂道を行ったり来たりしながら、私はのどをカラカラにするような強い日差しのもと、嬉々として優雅な家々を見て回った。
美しいブルーが目を惹くこのヒンドリヤン・ハウスは、アルメニア人商人の屋敷だった。各国を旅したヒンドリヤンが買い求めた異国の豪華な家具だけでなく、ブルガリア独特の壁面や天井にも目を奪われる。
ヒンドリヤン・ハウスの地下で、ワインテイスティングをやっていたので入ってみた。客は私一人。お姉さんがチーズなどのおつまみも出してくれてテイスティングに挑むが、味云々よりも酔いが早く回ってしまい、去る頃には千鳥足状態…
青空の下、緑豊かな裏庭でのランチ、酔いを醒ましながら気持ちの良いひと時を過ごした。お客さんも少なかったので、店員さんの対応も丁寧で良かった。
お腹が満足した後は、気を取り直して再びハウス・ミュージアム巡り再開
19世紀の貿易商が住んでいたバラバノフ・ハウス。2階部分がせり出した典型的な民族復興期の邸宅。フランスの宮殿にあるような豪華な金縁の家具が目を惹く。
2階以上が道に張り出した造りの家が多い。高い石壁に遮られた細い道は、迷い込むと方向を見失って大変!敵を狭い道に誘い込んで迷わせ、攻撃する、という目的もあったんでしょうね。右は要塞門(ヒサル・カピヤ)。
民族復興期の複雑な歴史の舞台は、ブルガリア国民にとって民族蜂起のヒーローとして今も語り継がれるヴァシル・レフスキーの生家があるカルロヴォ、薔薇の谷とトラキア人の墳墓で有名なカザンラク、シプカ寺院の残るシプカ峠地方だが、ブルガリア全体が露土戦争以降、2回の世界大戦を通して様々な国の侵略によって翻弄されてきた。そういった歴史が、ロシア、トルコ、そして中欧それぞれの雰囲気が混ざったブルガリアという独特の国を形作っているんだなぁ、と思うと複雑な気持ちになる。
プロヴディフは、ローマ帝国時代トリモンティウム(3つの丘)と改称され栄えた街。ハウス・ミュージアム群から迷いながら旧市街の坂道を昇り降りして、ローマ劇場跡にたどりついた。
日帰りだったので旧市街しか廻れなかったが、プロヴディフは新市街も歩くのが楽しい街のようだ。デパートの地下に古代ローマ時代の遺構が残されていたり、まるでローマのように繁華街を歩くと突然ローマ時代の遺跡が現れたり、古代ローマの競技場跡などはレストランと一体化された公園になっていたりするらしい。うう、泊まりたかった…
元トルコ商人の屋敷だった地域民族博物館
丘の多い起伏の激しい街なので歩いて廻るなら、やはり1泊はしたい街だろう。ローマ時代、ビザンティン時代の遺構だけでなく、ミナレットを持つイスラム寺院、ブルガリア正教の教会、民族復興期の邸宅群など、様々な時代の変遷を一度に見ることができる歴史のあるこのプロヴディフは、ヨーロッパでも独特な街には違いない。
★『ヨーロッパ後編I世界遺産、リラ修道院は異界の入り口?』へつづく…
「恐るべし、ブルガリア国鉄」
ブカレストからソフィアに向かう列車はガラガラだったので、6人用コンパートメントを悠々独り占め
ブルガリアでは、鉄道を使う人口が少ないらしい。だからソフィアの鉄道駅はバスのターミナルよりもひっそりとして、こじんまりした建物だったんだなぁ。
列車の中で、無賃乗車をした男の子に出会った。恐らくルーマニア人の学生である彼は、ルセから先ブルガリア国内の切符を持っていなかったらしく、検札に来た車掌に次の駅で下りろと云われ、お金がないのかコンパートメントの座席にひとりで座っていた私に泣きついてきた。
カタコトの英語で事情を説明し、金の無心をしたのだ。彼は自分のプリティ・フェイスがアジア人の私の心を動かすとでも思ったのだろうか。隣りのコンパートメントにはアメリカ人の若者たちがたくさんいたのに、そちらにお願いに行こうという気は全くないようだった。
両手を組み合わせてお願いポーズを取り、つぶらな瞳を潤ませて一心に私を見つめてきたが、私もルーマニア・レウはブカレストで使い果たしていたし、ブルガリア・レフはまだATMで下ろしていなかったため現金を持ち併せていなかったので「申し訳ないけど私には助けてあげられない」とカラのお財布を見せて言った。
が、彼は信じなかったようで、いつまでも恨みがましい目で見つめ「プリーズ」を繰り返していたが、やがて次の駅に着き、無情にも検札員に引き立てられていった…。
しかし、ちゃんと切符を買わずに乗ったキミが悪いよ。お金を持っていたとしても出さなかったと思う。列車打ち切りの払い戻しはしなくても無賃乗車は許さないブルガリア国鉄、恐るべし。 右:車窓には緑豊かなブルガリアの大地が広がる |
「プロヴディフでハウス・ミュージアム巡り♪」
6月13日、ブルガリアの首都ソフィアに戻って3泊。
翌日はソフィアからバスで3時間、国内第二の都市プロヴディフへ日帰りショート・トリップ。
プロヴディフ旧市街の見所のひとつは、民族復興期の裕福な商人たちの家を美術館にしたハウス・ミュージアム群。建築物好きの私のお目当てもズバリそれ。
この地域の民族復興期の歴史に興味のあった私は、日本でこのハウス・ミュージアム群の存在を知った。旅名人ブックスに掲載されていた写真は、私のこの地への憧れを掻き立てた。往復6時間ものバス旅もなんのその、やっと訪れたこのプロヴディフで、迷路のような石畳の坂道を行ったり来たりしながら、私はのどをカラカラにするような強い日差しのもと、嬉々として優雅な家々を見て回った。
美しいブルーが目を惹くこのヒンドリヤン・ハウスは、アルメニア人商人の屋敷だった。各国を旅したヒンドリヤンが買い求めた異国の豪華な家具だけでなく、ブルガリア独特の壁面や天井にも目を奪われる。
ヒンドリヤン・ハウスの地下で、ワインテイスティングをやっていたので入ってみた。客は私一人。お姉さんがチーズなどのおつまみも出してくれてテイスティングに挑むが、味云々よりも酔いが早く回ってしまい、去る頃には千鳥足状態…
10レフ(約600円)とはいえ、ワインを楽しめる人が羨ましい。実はお酒はほとんど飲めない私なのに、空きっ腹にワインでほとんど酔っぱらってしまったので、何かお腹に入れなきゃ、と近くのレストランへ。 |
右はミシュマシュという伝統料理。卵と玉ねぎのチーズ焼きで勿論ヨーグルトも入っている。なかなか美味だった |
青空の下、緑豊かな裏庭でのランチ、酔いを醒ましながら気持ちの良いひと時を過ごした。お客さんも少なかったので、店員さんの対応も丁寧で良かった。
お腹が満足した後は、気を取り直して再びハウス・ミュージアム巡り再開
19世紀の貿易商が住んでいたバラバノフ・ハウス。2階部分がせり出した典型的な民族復興期の邸宅。フランスの宮殿にあるような豪華な金縁の家具が目を惹く。
2階以上が道に張り出した造りの家が多い。高い石壁に遮られた細い道は、迷い込むと方向を見失って大変!敵を狭い道に誘い込んで迷わせ、攻撃する、という目的もあったんでしょうね。右は要塞門(ヒサル・カピヤ)。
民族復興期の複雑な歴史の舞台は、ブルガリア国民にとって民族蜂起のヒーローとして今も語り継がれるヴァシル・レフスキーの生家があるカルロヴォ、薔薇の谷とトラキア人の墳墓で有名なカザンラク、シプカ寺院の残るシプカ峠地方だが、ブルガリア全体が露土戦争以降、2回の世界大戦を通して様々な国の侵略によって翻弄されてきた。そういった歴史が、ロシア、トルコ、そして中欧それぞれの雰囲気が混ざったブルガリアという独特の国を形作っているんだなぁ、と思うと複雑な気持ちになる。
トルコの影響が強く窺えるこの地方独特のリビング。(ボヤジェフ・ハウスだったかな。ハウス・ミュージアムを何軒もハシゴしたので、すでにどの家かわからない…)こういった、奥まった一段高い場所でカラフルな絨毯の敷かれた床に直に座って、男たちは民族蜂起の話し合いをしたという。 |
プロヴディフは、ローマ帝国時代トリモンティウム(3つの丘)と改称され栄えた街。ハウス・ミュージアム群から迷いながら旧市街の坂道を昇り降りして、ローマ劇場跡にたどりついた。
断崖の上にある半円形の劇場跡で、新市街を見下ろせる。遺跡の石でできた座席は段差が高いので、最上段からの眺めは怖いくらいだ。なんと今も現役で、オペラやコンサートが開かれるという。 |
日帰りだったので旧市街しか廻れなかったが、プロヴディフは新市街も歩くのが楽しい街のようだ。デパートの地下に古代ローマ時代の遺構が残されていたり、まるでローマのように繁華街を歩くと突然ローマ時代の遺跡が現れたり、古代ローマの競技場跡などはレストランと一体化された公園になっていたりするらしい。うう、泊まりたかった…
元トルコ商人の屋敷だった地域民族博物館
丘の多い起伏の激しい街なので歩いて廻るなら、やはり1泊はしたい街だろう。ローマ時代、ビザンティン時代の遺構だけでなく、ミナレットを持つイスラム寺院、ブルガリア正教の教会、民族復興期の邸宅群など、様々な時代の変遷を一度に見ることができる歴史のあるこのプロヴディフは、ヨーロッパでも独特な街には違いない。
★『ヨーロッパ後編I世界遺産、リラ修道院は異界の入り口?』へつづく…
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