2021年03月20日
土蜘蛛 その6
土蜘蛛の民族的研究 その2
勿論俗傳上のことなれば、以て史實の證據となすに薄弱の嫌なきにあらず。
ここに於て更に前引越後風土記の文を見るに、これには明かに「其の屬類多し」とあり。
蓋し此の風土記編纂の時代、恐らくは奈良朝初の頃に於て、現實に越後には、土蜘蛛の後裔なりと稱せられたる八掬脛の屬類の、なほ多く存在せしことを認めたるものなり。
越後はもと蝦夷の國なり。
孝徳天皇大化三年渟足柵(ぬたりのき)を造り、翌年更に磐舟柵(いはふねのき)を治めて蝦夷に備ふ。
渟足は今の沼垂にして、信濃川の河口に當り、磐舟は更に其の東北海岸にあり。
蝦夷が此の頃に於て、なほ越後の中部地方にまで勢力を有し、此の地方移住の農民の爲に、柵を設けて之を保護するの必要ありしことを知るべし。
されば奈良朝初期の越後の住民は、蝦夷に關して知る所必ず多かりしものならんに、而もここに其れ等とは別に、土蜘蛛の屬類の現實に多く存することをいふ。
是れ實に彼等が當時蝦夷族に對して、明かに區別あるものとして認められたりし證とすべし。
常陸風土記には又、土蜘蛛を以て國巢の俗稱なりといふ。
勿論俗傳上のことなれば、以て史實の證據となすに薄弱の嫌なきにあらず。
ここに於て更に前引越後風土記の文を見るに、これには明かに「其の屬類多し」とあり。
蓋し此の風土記編纂の時代、恐らくは奈良朝初の頃に於て、現實に越後には、土蜘蛛の後裔なりと稱せられたる八掬脛の屬類の、なほ多く存在せしことを認めたるものなり。
越後はもと蝦夷の國なり。
孝徳天皇大化三年渟足柵(ぬたりのき)を造り、翌年更に磐舟柵(いはふねのき)を治めて蝦夷に備ふ。
渟足は今の沼垂にして、信濃川の河口に當り、磐舟は更に其の東北海岸にあり。
蝦夷が此の頃に於て、なほ越後の中部地方にまで勢力を有し、此の地方移住の農民の爲に、柵を設けて之を保護するの必要ありしことを知るべし。
されば奈良朝初期の越後の住民は、蝦夷に關して知る所必ず多かりしものならんに、而もここに其れ等とは別に、土蜘蛛の屬類の現實に多く存することをいふ。
是れ實に彼等が當時蝦夷族に對して、明かに區別あるものとして認められたりし證とすべし。
常陸風土記には又、土蜘蛛を以て國巢の俗稱なりといふ。
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