2020年12月13日
私按二、日向國と熊襲國 その6
舊事本紀の筑紫四面に關する記事
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。
よりて更に舊事本紀を案ずるに、同書には、
筑紫島身一つにして面四つあり、面毎に名あり。とあり。
筑紫國を白日別と謂ひ、豊國を豊日別と謂ひ、肥國を速日別と謂ひ、日向國を豊久士比泥別と謂ふ。
次に熊襲国を建日別と謂ふ一に謂ふ佐渡島と
明かに熊襲國を筑紫四國と區別し、佐渡島の代りに、置きて、之を大八洲の一に列するなり。然らば所謂熊襲國が、其の實熊襲島なるは明ならずや。而して右の割註に、「一に謂ふ佐渡島」とあるは、大八洲と數ふる島々の中に、一説には熊襲島の代りに、佐渡島を以てするものありとの事を言へるにて、熊襲島を一に佐渡島と謂ふとにはあらず。
蓋し舊事本紀の編者が、現行古事記の如き説によりて註を加へしものにてもあるべし。
されば所謂大八洲と數ふる八島の中より、佐渡島を除ける舊事本紀の本文の説は、筑紫島の以外に別に熊襲島を置き、これを以て所謂大八洲なる八個の数に當てんとするものならざるべからず。
而して是れ或は、當初の古事記の態を存する所にはあらざりしか。
古事記が大八洲の島々を記する、何れも其の島名に附するに亦名(またのな)を以てするに拘はらず、獨り佐渡島にのみ限りて之を脱し、其の記事の體他と一致せざるものあるなり。
是れ或はもと筑紫島以外に、別に列記せし熊襲島を紛淆して之を筑紫島の中へ加へ、為に大八島其の一を缺ぐに至りしかば、日本紀本文の説により、若くは當時特に一国をなせる島を求めて、後より佐渡島を補ひしものにてもあるべし。
佐渡はもと「夷狄の島」として、平安朝に至りてもなほ、「人心強暴動もすれば禮儀を忘れ、常に殺伐好む」と、元慶四年の太政官符に見ゆる程なれば、太古傳説に於て此の夷狄蟠居の小島が、大八洲中に數へられざりしこと、却って古傳とすべきものか。
而も既に熊襲を筑紫島中の一國に加ふるに及んで、此の島身一つにして面四つありと云ひながら、其の實五國あるの結果となりしかば、肥の國と日向の國とを合併して、其の別名を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)となすが如き、他と釣り合ひの取れざる長たらしきものを生ずるに至りしならん。
なほこの事後にいふべし。
今の古事記必ずしも悉く當初のままならざるべきは、他にも證左あり。
されば筑紫と熊襲との關係に就きては、寧ろ舊事本紀記する所を可とすべきに似たり。
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