2018年06月12日
今月の1冊 付録 百人一首 歴史を読む
江戸時代、歌留多になった百人一首は
「小倉百人一首」と呼ばれ今に至る。
藤原定家を選者とするならば
「藤原百人一首」とか「定家百人一首」とすればいいはずだけど、
定家が京都小倉山に住んでいたことから、
小倉百人一首とよばれるようになったようだ。
喜撰法師の『世をうぢ山と 人はいふなり』と言うことなのだろう。
百首の配置の工夫について、
定家の生きた時代の事情も反映しているようで、
歴史を知らないと理解できない。
第一首にはこの人を置いて他にない、
ということで天智天皇(中大兄皇子)の作と言われる
『秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露に濡れつつ』
この句は他人の作ではないかと疑われている。
天智天皇といえども、
さすがに田圃の中に蓆でしつらえた仮寓で寝る
なぞということはなかったのではないか、
というわけである。
きっと、名もなき農民の作ではないか。
それを国民思いの天皇ということで、
天智天皇の作ということにしたのだろう。
だとすると、驚愕させられる。
千数百年前の田圃の中で番をしているような農民が、
天皇の作として取り上げられる和歌を詠むような
高い教養があったということになる。
どうだろう、歌作の巧者が、
農民の様子を見たか話しに聞いたかして詠んだのではないか、
というあたりが真実かなと思わなくもない。
二首目は、
天智天皇の子で夫の天武天皇の没後、
みずから4人目の女性の天皇になった持統天皇の
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山』
2首とも自分のことを読んだものではない。
国の民のこと詠んだ歌である。
3から98の間はずっと割愛して、
後ろの二首。
後鳥羽院
『人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思う故に もの思ふ身は』
平家物語では策士・妖怪・化け物のような書かれ方をしているが、
殿上人つまり高級官僚を整理するなどの
構造改革をおこなったりしている。
しかし、宮廷内だけでなくすべての政治を
鎌倉幕府から取り戻そうしたため(承久の乱)、
敗れて隠岐へ流刑されその地で寂しく亡くなっている。
この句は33歳ころの作と言われている。
上皇として院政を敷き、充実した時を過ごしていたころなのだろう。
そして百首目は、
承久の乱において父とともに戦い、
佐渡に流された順徳院。
乱の3年ばかり前の句。
『百敷や 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり』
百敷は宮中の事。
宮中でさえ古びた建物の軒先に草が生えている。
昔はこんなことはなかったろうに。
若い順徳院の想いは父を超えたものであったに違いない。
京都朝廷の威厳を取り戻し、自身は貴族の政治の中心になって・・・
という夢ははかなく敗れてしまった。
この二首は自身のこと・思いを読んだ句。
最初の二首とは少々視点が違っている。
天智天皇は蘇我氏から権力を朝廷に取り戻した天皇。
後鳥羽院と順徳院は武士に奪われていく権力を
取り戻そうとした人達。
百人一首が大きな歴史の中の一部分を
「和歌」で綴った歴史書のようなものであったと、
私は理解し楽しんでいる。
「小倉百人一首」と呼ばれ今に至る。
藤原定家を選者とするならば
「藤原百人一首」とか「定家百人一首」とすればいいはずだけど、
定家が京都小倉山に住んでいたことから、
小倉百人一首とよばれるようになったようだ。
喜撰法師の『世をうぢ山と 人はいふなり』と言うことなのだろう。
百首の配置の工夫について、
定家の生きた時代の事情も反映しているようで、
歴史を知らないと理解できない。
第一首にはこの人を置いて他にない、
ということで天智天皇(中大兄皇子)の作と言われる
『秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露に濡れつつ』
この句は他人の作ではないかと疑われている。
天智天皇といえども、
さすがに田圃の中に蓆でしつらえた仮寓で寝る
なぞということはなかったのではないか、
というわけである。
きっと、名もなき農民の作ではないか。
それを国民思いの天皇ということで、
天智天皇の作ということにしたのだろう。
だとすると、驚愕させられる。
千数百年前の田圃の中で番をしているような農民が、
天皇の作として取り上げられる和歌を詠むような
高い教養があったということになる。
どうだろう、歌作の巧者が、
農民の様子を見たか話しに聞いたかして詠んだのではないか、
というあたりが真実かなと思わなくもない。
二首目は、
天智天皇の子で夫の天武天皇の没後、
みずから4人目の女性の天皇になった持統天皇の
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山』
2首とも自分のことを読んだものではない。
国の民のこと詠んだ歌である。
3から98の間はずっと割愛して、
後ろの二首。
後鳥羽院
『人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思う故に もの思ふ身は』
平家物語では策士・妖怪・化け物のような書かれ方をしているが、
殿上人つまり高級官僚を整理するなどの
構造改革をおこなったりしている。
しかし、宮廷内だけでなくすべての政治を
鎌倉幕府から取り戻そうしたため(承久の乱)、
敗れて隠岐へ流刑されその地で寂しく亡くなっている。
この句は33歳ころの作と言われている。
上皇として院政を敷き、充実した時を過ごしていたころなのだろう。
そして百首目は、
承久の乱において父とともに戦い、
佐渡に流された順徳院。
乱の3年ばかり前の句。
『百敷や 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり』
百敷は宮中の事。
宮中でさえ古びた建物の軒先に草が生えている。
昔はこんなことはなかったろうに。
若い順徳院の想いは父を超えたものであったに違いない。
京都朝廷の威厳を取り戻し、自身は貴族の政治の中心になって・・・
という夢ははかなく敗れてしまった。
この二首は自身のこと・思いを読んだ句。
最初の二首とは少々視点が違っている。
天智天皇は蘇我氏から権力を朝廷に取り戻した天皇。
後鳥羽院と順徳院は武士に奪われていく権力を
取り戻そうとした人達。
百人一首が大きな歴史の中の一部分を
「和歌」で綴った歴史書のようなものであったと、
私は理解し楽しんでいる。
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