2015年10月21日
2009年8月 手術とICUでの出来事
待ちに待った手術日が来た。私は手術まで無事に生きのびた。
医師の術前説明ではネガティブな術後のことまで「可能性」として聞いたが、手術当日はもう晴れ晴れした気持ちだった。これで私は低血糖から解放されるのだ。手術は朝9時からの予定だったが、45分遅れで始まった。旦那が手術室まで見送ってくれた。私は点滴を持ちながら歩いて手術室に入った。
手術室で手術前に脊髄へ麻酔の注射をする。背中を丸めて脊髄の骨と骨の間に注射をするのだ。この脊髄にする麻酔は、点滴の麻酔をして眠ってから打ってもらう方法と自分の意識のある間に点滴の麻酔より先に打ってもらう方法、どちらかを選択できる。私は後者を選んだ。
詳しい理由は忘れたが、脊髄麻酔の事故防止の為、自分の意識のあるうちに打ってもらったほうが無難かと思ったのだ。しかし、この注射がきつかった。ゴリゴリと骨の間にすごい力で針を入れられるのだが、全く入らない。汗だくになって耐えたが駄目だった。結局点滴の麻酔を先にしてもらい、意識が無くなってから脊髄麻酔もしてもらうことになった。これだけで30分はロスになったと思う。
点滴の麻酔は麻酔科の医師の、麻酔入りますよという声と共に5秒経たないぐらいで意識を失った。
小学生の盲腸の手術の時も麻酔の注射と共に意識を失った。はたして麻酔で数十秒でも起きてる人はいるのだろうか?
そして手術台の上で何やら話し声が聞こえるなと思ったら、「終わりましたよ」と声をかけられた。
本当に麻酔の威力は凄い。今寝て、気がつくと手術は終わっているという感覚だ。午後3時に手術は終わった。手術は約5時間、医師の予定どおりの時間だ。ということは転移も無く、腫瘍も無事に最小限の摘出で済んだということか?
麻酔は効いていたが頭はしっかり働いており、自分の術後結果を詮索した。
私はベッドに寝かされ呼吸器や色んな管を付けられたままICUに運ばれた。
すると旦那と義父が来てくれた。旦那が大丈夫かと声をかけてくれた。義父は涙ぐんでいた。
私は頷き、「私の膵臓はある?残っている?」と旦那に聞いた。旦那は「大丈夫、あるよ」と答えた。
インスリノーマの腫瘍だけを摘出し、私の膵臓は最低限の損傷で済んだ。あぁ・・良かった。恐らくこれで糖尿病は免れるだろう。後は日にち薬だ。旦那と義母は私の摘出した腫瘍を医師から見せられたようだ。私は見ていないが、見たかった。
義父は足が悪いのに杖をつきながら、往復で合計3時間の道のりを訪ねてきてくれた。まだ管が喉にも通っていたので喋りにくかったが、義父と旦那に「ありがとう」と言った。
手術をした外科医からも腫瘍の範囲だけを最低限で取り除くことができたと説明を受けた。
手術後は麻酔の言いようのないだるさ、発熱に加えて両足のフットポンプで体中が暑い。
しかしICUの看護師達は的確に手厚く面倒を見てくれる。寝返りができないので、姿勢を変えるように三角のマットを挟んでくれたり、時間と共に順番に色んな管を外してくれる。私は何もしないで体を委ねておけばよい。体は気怠いがICUはとても居心地の良い場所だった。
すると隣に人が運ばれてきた。高齢のお婆さんのようだ。
運ばれてすぐは、沢山の医師や看護師で色んな介抱をしていたが、暫くするとお婆さんは落ち着いたようだ。
少しするとお婆さんは大きな声で自分の部屋へ帰るから娘を連れてきてくれと言い出した。看護師さんが「今日はここで泊まらないといけないんですよ。娘さんにも言ってありますから」となだめたが、言うことを聞かない。看護師さんがとても優しくお婆さんに「明日帰りましょうね」と声をかけると、お婆さんは大きな鼾をかいて寝だした。そしてまた暫くするとお婆さんは起きて、看護師さんに今、地震があったと言いだした。
看護師さんは「地震はありませんよ。安心してくださいね」と優しくなだめると、お婆さんはまた鼾をかいて眠りだした。看護師さんは小さな声で笑っていた。お婆さんは一時的なせん妄のようだ。しかし声はしっかりと会話が聞き取れるほど大きな張りのある声だった。どんな処置をされたかは不明だが、お婆さんはすごくお元気だった。
私もお婆さんの話が可笑しくてしようがなかった。手術したお腹が笑うと痛いので我慢したが、このお婆さんのお蔭で少しの間、気が紛れた。だるくて眠れず、ウトウトとしては目が覚める。看護師が氷枕を変えてくれたり体勢を変えてくれたりと、体が辛くなる前の絶妙のタイミングで介抱してくれるのだ。
お蔭で深く眠ることはできなかったが、朝までの時間をそれなりに快適に過ごすことができた。寝たままレントゲンを撮り終え、ICUでの一泊は終わった。看護師に助けてもらいながらベッドで自分で立ち上がり、車椅子に乗った。ICUから戻る時はなんと車椅子に乗せられて病室まで帰る。今の手術ではできる限り早く自分で歩くことを推奨されているのだ。
病室に戻ると旦那がいた。朝だというのに、私が戻ってくるのを待っていてくれた。旦那は私が車椅子でICUから戻ってきたので、とてもびっくりしていた。個室に戻ってしばらくハイテンションで元気だったがこれも麻酔のお蔭か。
手術後翌日の夕方には尿管も外された。これからはトイレも自分で歩いていかねばならない。看護師に手助けしてもらうことも可能だが、私は自分で歩いた。トイレには点滴もまだ持ち歩かないといけず、数日間は尿の量も都度測定しなければいけない。38度以上の熱も続き、この時期が一番きつかった。2〜3日は歩くのもトイレがやっとでベッドに横たわることが多かったが、すぐに歩行練習も始まった。メスを入れたのは胸の下からお臍まで一直線で20cmほど。だが傷跡には薄い透明のテープが二枚ほど貼ってあるだけだ。
背中から痛み止めの点滴が入れられており、内臓に痛みは全く無かった。逆に効きすぎて片方の肩と手の感覚が全くなくなった。看護師にそのことを伝えると痛み止めの点滴を外された。もし痛みが出た場合は飲み薬で対処するらしい。幸いにして背中の痛み止めを外した後も痛みは全く出なかった。現在の医療の進化に驚いた。
話は逸れるが、痛み止めの効き方は人それぞれで全く違うようだ。特に糖尿病をお持ちの方は強い痛み止めは使えないらしく、手術後も痛い目をされる方が多いそうだ。糖尿病はあらゆる病気に影響するので注意が必要だ。
血糖値を測ると当たり前のことだが、血糖値は正常値だった。
私は治ったのだ!とうとう長く苦しめられてきた低血糖から解放されたと実感した。
もう低血糖の恐怖と戦わずにすむ。手術前までは夜になると、明日も朝目覚めるのだろうかと不安だった。人生とは案外、自分の知らない間に終わっているものじゃないのかと。特に低血糖発作の場合、酷くなると意識が失われるので苦しみもせず、生と死の境目はほぼ無いのかもしれない。私は手術で寿命が「美味しいおまけ」のように伸びた気持ちだった。明日も生きれるという希望の喜びと共に、私の体は回復に向かった。
医師の術前説明ではネガティブな術後のことまで「可能性」として聞いたが、手術当日はもう晴れ晴れした気持ちだった。これで私は低血糖から解放されるのだ。手術は朝9時からの予定だったが、45分遅れで始まった。旦那が手術室まで見送ってくれた。私は点滴を持ちながら歩いて手術室に入った。
手術室で手術前に脊髄へ麻酔の注射をする。背中を丸めて脊髄の骨と骨の間に注射をするのだ。この脊髄にする麻酔は、点滴の麻酔をして眠ってから打ってもらう方法と自分の意識のある間に点滴の麻酔より先に打ってもらう方法、どちらかを選択できる。私は後者を選んだ。
詳しい理由は忘れたが、脊髄麻酔の事故防止の為、自分の意識のあるうちに打ってもらったほうが無難かと思ったのだ。しかし、この注射がきつかった。ゴリゴリと骨の間にすごい力で針を入れられるのだが、全く入らない。汗だくになって耐えたが駄目だった。結局点滴の麻酔を先にしてもらい、意識が無くなってから脊髄麻酔もしてもらうことになった。これだけで30分はロスになったと思う。
点滴の麻酔は麻酔科の医師の、麻酔入りますよという声と共に5秒経たないぐらいで意識を失った。
小学生の盲腸の手術の時も麻酔の注射と共に意識を失った。はたして麻酔で数十秒でも起きてる人はいるのだろうか?
そして手術台の上で何やら話し声が聞こえるなと思ったら、「終わりましたよ」と声をかけられた。
本当に麻酔の威力は凄い。今寝て、気がつくと手術は終わっているという感覚だ。午後3時に手術は終わった。手術は約5時間、医師の予定どおりの時間だ。ということは転移も無く、腫瘍も無事に最小限の摘出で済んだということか?
麻酔は効いていたが頭はしっかり働いており、自分の術後結果を詮索した。
私はベッドに寝かされ呼吸器や色んな管を付けられたままICUに運ばれた。
すると旦那と義父が来てくれた。旦那が大丈夫かと声をかけてくれた。義父は涙ぐんでいた。
私は頷き、「私の膵臓はある?残っている?」と旦那に聞いた。旦那は「大丈夫、あるよ」と答えた。
インスリノーマの腫瘍だけを摘出し、私の膵臓は最低限の損傷で済んだ。あぁ・・良かった。恐らくこれで糖尿病は免れるだろう。後は日にち薬だ。旦那と義母は私の摘出した腫瘍を医師から見せられたようだ。私は見ていないが、見たかった。
義父は足が悪いのに杖をつきながら、往復で合計3時間の道のりを訪ねてきてくれた。まだ管が喉にも通っていたので喋りにくかったが、義父と旦那に「ありがとう」と言った。
手術をした外科医からも腫瘍の範囲だけを最低限で取り除くことができたと説明を受けた。
手術後は麻酔の言いようのないだるさ、発熱に加えて両足のフットポンプで体中が暑い。
しかしICUの看護師達は的確に手厚く面倒を見てくれる。寝返りができないので、姿勢を変えるように三角のマットを挟んでくれたり、時間と共に順番に色んな管を外してくれる。私は何もしないで体を委ねておけばよい。体は気怠いがICUはとても居心地の良い場所だった。
すると隣に人が運ばれてきた。高齢のお婆さんのようだ。
運ばれてすぐは、沢山の医師や看護師で色んな介抱をしていたが、暫くするとお婆さんは落ち着いたようだ。
少しするとお婆さんは大きな声で自分の部屋へ帰るから娘を連れてきてくれと言い出した。看護師さんが「今日はここで泊まらないといけないんですよ。娘さんにも言ってありますから」となだめたが、言うことを聞かない。看護師さんがとても優しくお婆さんに「明日帰りましょうね」と声をかけると、お婆さんは大きな鼾をかいて寝だした。そしてまた暫くするとお婆さんは起きて、看護師さんに今、地震があったと言いだした。
看護師さんは「地震はありませんよ。安心してくださいね」と優しくなだめると、お婆さんはまた鼾をかいて眠りだした。看護師さんは小さな声で笑っていた。お婆さんは一時的なせん妄のようだ。しかし声はしっかりと会話が聞き取れるほど大きな張りのある声だった。どんな処置をされたかは不明だが、お婆さんはすごくお元気だった。
私もお婆さんの話が可笑しくてしようがなかった。手術したお腹が笑うと痛いので我慢したが、このお婆さんのお蔭で少しの間、気が紛れた。だるくて眠れず、ウトウトとしては目が覚める。看護師が氷枕を変えてくれたり体勢を変えてくれたりと、体が辛くなる前の絶妙のタイミングで介抱してくれるのだ。
お蔭で深く眠ることはできなかったが、朝までの時間をそれなりに快適に過ごすことができた。寝たままレントゲンを撮り終え、ICUでの一泊は終わった。看護師に助けてもらいながらベッドで自分で立ち上がり、車椅子に乗った。ICUから戻る時はなんと車椅子に乗せられて病室まで帰る。今の手術ではできる限り早く自分で歩くことを推奨されているのだ。
病室に戻ると旦那がいた。朝だというのに、私が戻ってくるのを待っていてくれた。旦那は私が車椅子でICUから戻ってきたので、とてもびっくりしていた。個室に戻ってしばらくハイテンションで元気だったがこれも麻酔のお蔭か。
手術後翌日の夕方には尿管も外された。これからはトイレも自分で歩いていかねばならない。看護師に手助けしてもらうことも可能だが、私は自分で歩いた。トイレには点滴もまだ持ち歩かないといけず、数日間は尿の量も都度測定しなければいけない。38度以上の熱も続き、この時期が一番きつかった。2〜3日は歩くのもトイレがやっとでベッドに横たわることが多かったが、すぐに歩行練習も始まった。メスを入れたのは胸の下からお臍まで一直線で20cmほど。だが傷跡には薄い透明のテープが二枚ほど貼ってあるだけだ。
背中から痛み止めの点滴が入れられており、内臓に痛みは全く無かった。逆に効きすぎて片方の肩と手の感覚が全くなくなった。看護師にそのことを伝えると痛み止めの点滴を外された。もし痛みが出た場合は飲み薬で対処するらしい。幸いにして背中の痛み止めを外した後も痛みは全く出なかった。現在の医療の進化に驚いた。
話は逸れるが、痛み止めの効き方は人それぞれで全く違うようだ。特に糖尿病をお持ちの方は強い痛み止めは使えないらしく、手術後も痛い目をされる方が多いそうだ。糖尿病はあらゆる病気に影響するので注意が必要だ。
血糖値を測ると当たり前のことだが、血糖値は正常値だった。
私は治ったのだ!とうとう長く苦しめられてきた低血糖から解放されたと実感した。
もう低血糖の恐怖と戦わずにすむ。手術前までは夜になると、明日も朝目覚めるのだろうかと不安だった。人生とは案外、自分の知らない間に終わっているものじゃないのかと。特に低血糖発作の場合、酷くなると意識が失われるので苦しみもせず、生と死の境目はほぼ無いのかもしれない。私は手術で寿命が「美味しいおまけ」のように伸びた気持ちだった。明日も生きれるという希望の喜びと共に、私の体は回復に向かった。
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先ほどコメントに書き忘れました!血糖値65は食後2時間のものでした。
Posted by よう at 2017年09月05日 03:57
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