歳は取りたくなるもの

衝撃の発作はある日突然現れた。
会社での定期健康診断でのこと。
毎年７月にある定期健康診断のメニューは、４０歳以上になると朝は絶食して胃の検診（バリウム検査）がある。その他に身長・体重・血圧測定、視力・聴力検査、血液検査、心臓心電図、医師による問診がある。

その日私は４０歳以上だったので、朝の１０時から検診になっていた。
検査の為に朝ご飯は食べていない。普通に全ての検査メニューをこなし、午後からは営業所に出張予定が入っていたので昼食を食べず仕事をこなした。
朝絶食でバリウム検査の後、下剤をかけた。水分補給だけで昼食を抜いて午後１時近くまで仕事を続けたせいで、血糖値が極端に下がったようだ。

午後からの仕事が始まった。出張前に上司にある仕事の報告をしようと思って話し始めた。
・・が、なぜか言葉が出てこない。頭の中ではわかっているのに。
仕方なく、「もういいです」と言って会話を終えた。自分から報告しておいて「もういいです」と途中で報告を終えるなんてあり得ないことだが、「もういいです」しか言葉が出てこなかった。
そこから一気におかしくなった。コピーが取れない。仕事がとにかくできない。
何をどうしたらいいのか、全くわからなくなった。
そしてとうとう言葉が本当に出てこなくなった。自分がおかしくなったと感じた。
トイレに行って落ち着こうと思った。しかし、やはり全く変わらず、どうしたらよいかわからない。
トイレを出て廊下を走り出した。

走り出したら廊下で人事部長がいた。私は人事部長の前に立ちふさがり、その場で足踏みをした。
自分がおかしくなったことに気付いて欲しくて。
人事部長は居室に戻り、部下の人事部の女子社員に私の様子を見るよう指示してくださったようだ。
すぐに人事部の女子社員が私を見つけて医務室に連れて行ってくれた。私は普通に歩きながら、その女子社員の後輩の顔をじっと見ていた。後輩は気持ち悪かっただろうと思う。

医務室に着き、血圧や体温を測ったが全く普通だった。医務室に医師はおらず、看護師さんだけだった。
看護師さんは私にベッドで休むように言ってくれた。ベッドに横たわったが、眠くならない。
ベッドの上で体を揺らした。そしてベッドから降りて、看護師さんの前で床にあぐらをかいて座り、猿のようにゆらゆらと体を揺らしたりした。なぜかそうしたかったのだ。

看護師さんは年配の女性の方で異常を感じるそぶりを見せず、にこやかにお茶と小さなお菓子を出してくれた。
床にゴロゴロ転がる私に、ソファに座って話をしようと言ってくれた。
私はソファに座り、お茶とお菓子をいただいた。するとしばらくして正気に戻った。全く普通になり、話もできるようになり、本来の私に戻った。そこで初めて「すみませんでした」と謝った。
看護師さんは、私が精神的な病にでもかかったとでも思ったのだろう。
「無理せず、休んでもいいのよ」と優しく話してくれた。

今回の奇行で、私は一瞬もう終わりだと思いこんだ。自分の異常を感じた直後、会社を飛び出して走りたくなる気持ちだった。
普通の低血糖の症状である発汗、震え、動悸などは私にはなかった。
後で医師に聞いた話だが、その頃には私はもう低血糖に慣れていたようだ。急激な低血糖ではなく緩やかな慢性の低血糖のような状態であったようだ。緩やかな低血糖の場合は中枢神経症状が起こる。今回の意識の混乱、おかしな行動、発語困難等がその症状にぴったりと当てはまる。
これも完治後に調べてわかったことだ。当時は誰も全くわかっていなかった。

この日は本当に凹んだ。後日健康診断結果を見た。
血液検査の私の血糖値は基準値よりはるか下の42�r/dlであり、基準値ではない赤字の色になっていた。
基準値は70〜109�r/dlである。
しかし一番目につく判断一覧表では血糖値は「異常なし」となっていた。
その為に産業医も見落としていたのだろう。私自身も問題ないものだと思い込んでいた。
また、普通の低血糖の症状とは明らかに違った為に低血糖だと誰も疑わなかった。
そのことが原因不明の病気と悩むことに繋がってしまうのだった。