2021年04月19日
王さんの思い出
今日この日を覚えていますか?
そう王さんが亡くなった日なのです。いや正確には王さんが亡くなったとされる日です。
いや本当に、(本当に とか いやほんま とかいう慣用句の多い文章は嘘つきの文章です。)王さんは亡くなったのです。子宮がんの末期で、田舎のあばら家のうねった床の上に敷いた、ぺしゃんこの布団の上で。
彼女が健康な時から、痩せて縮んだり、薬で膨らんだり、手術をしたり、その度一喜一憂しておりましたが、そうして最後は私から去って、田舎のお父さんのところへ帰ってそこで亡くなったのです。
その後20年、沢山の人が私に対する怒りを心中に燃やし続け、軽蔑侮蔑、ありとあらゆる衆怨が私に牙をむいたのです。
今まで、私の友人だった人、先輩だった人、妻だった人、同居人だった人、子供だった人は、次々に間接的に名乗りをあげたのです。
「あなたに味方はいません。あなたのこの30年の人生の喜びや苦しみ、悲しみは全て嘘です。」
と、突然突き付けられたのです。
今まで亡くなった、亡くなったとされる人も、それは「嘘つきには嘘をついてもよい」という論法で、嘘の葬式、嘘の難病、嘘の闘病、嘘の出産、今正にその努力が結実し、溜飲を下げる日がきたらしいのです。
そういうことが分かって、どうだ思い知ったか?と聞かれても、一体何故そこまであなたがたを怒らしてしまったのか、本当にわからないのですが(これは本当です)、他人の人妻とわかった女に背を向け、暗闇をみつめながら考えても、自らの悪業のどれをとっても、あなた方が、プロの役者にも勝る芝居をうった意味がわからない。
「死んだはずだよ お富さん。」
この隣で幸せそうに寝息をたてている所謂人妻に長い脚で蹴飛ばされ、車を運転していると信号機で止まるたびに、周りにいるオートバイの二人乗りの衆生に口々に罵りをうけ、わが子と思っていた娘にアカンベェをされ、そんな私と何の因果もない人の怒りを考えると、死んだ真似までする者の怒りは想像を絶するものでした。
そうして、今まで私の身の回りで死んだ人々を思い浮かべ、あなたとの思い出に辿り着きました。
あなたは私の慈悲心を弄んだ。全くひどい人だ。私はあなたのことを愛していなかった。でも私はあなたのことが好きでたまらなかった。あの頃は携帯電話もなく、あなたの写真を辿るつてはないが、あなたの顔ははっきりと覚えている。あなたの唇と鼻の間にある、話すたびに震える薄い白い肌が好きだった。
あなたのお蔭で、仏様に祈るようになった。
あなたのお蔭で知った歌があった。
あなたになら、小言を言われても耳に心地よかった。
あなたのガンが治るなら、私は何でもした。バナナの皮や、野菜のスープ思いつくものをあなたに勧めた。
記憶が定かなら、王さんはすでに40代の後半ではないか?元気だろうか?さぞや家族が出来て、幸せに暮らしておられることだろう。お父さんはお元気ですか?
あなたは私の何を怒って、あんな手の込んだ嘘をついたのか?もう何を言っても仕方がない。しかし一言だけ言わせて欲しい。虚構の死で私の慈悲心を弄んだ人々には峻烈な怒りを覚える。あなたもその一人だ。しかも最も激しく死を演じた。この前まで私の中のあなたは死んでいた。許せない。許しがたい。でも、
「でも、あなたが生きていて本当に良かった。」
合掌
タグ:お富さん
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