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2019年10月10日

善悪はやっぱり誰にも決められない

今時のゲームソフトは進化しているので、
一つのゲームで様々な遊び方ができるようになっていて
いつもゲームに楽しませてもらっています(*^o^*)

でも現実だと、さらに細かく色々なことができますね。

あれこれできすぎて、逆にやれないことが増えるような……。
どうしていいか分からないような……。
それは思い込み……( ̄▽ ̄;)?


絶対に「やれない」と決まっていることはないですね。
発想を変えれば何でもできそうです。一応。
可能か不可能か、で言えば。


「人類にできること」で考えたら、
できることはいっぱいですね。
私個人は、できないことだらけでも(×_×;)
すごい人がいっぱいいるので……。
発明とか冒険とかスポーツとか音楽とか。


さて、話が変わりますが

ネットで「ゴキブリ かわいそう」で検索してみたら
色々深い話が出てきて驚きました。

ゴキブリって、刺したりしてくるわけでもないし
そんなに攻撃的な虫じゃないので
嫌われて殺されるのが当たり前って
可哀想だという意見も多くあるんですね〜。


ゴキブリといえば、人家(?)によく現れる大型の蜘蛛
「アシダカグモ」は、ゴキブリを食べてくれる益虫なんだそうです。

アシダカグモはネットでの人気が結構高いようで、
そのことにも驚きました。
「アシダカ軍曹」なんて愛称がついて親しまれているようです。


家には昔アシダカグモが出ましたが、
最近はまったく見かけなくなりました……。
その代わり時々ゲジがいます。
この間も、体長1cmほどの小さなゲジが
お風呂場にいました。

ちょっと話がそれますが、体長5mmほどの
紙魚の幼虫も部屋にいました。
小さい虫ってミニチュアみたいで可愛いですね。
チビヤモリも可愛いです。


その後ネット上で、
「野生動物に餌付けするのは良くない」という
情報を見ました。


(話飛び飛びですね……。)


野生動物が人に馴れたら、
自力で生きていけなくなったり
車にはねられやすくなったり
人を襲って食べ物を奪うようになったり
農作物を荒らすようになったり
いろんな危険性があるとか。


生き物に関することって、
真面目に、真剣に考えている人がいっぱいいますね。
説得力があって、現実的な意見が多いです。
しっかりした人多そうだな、すごいな……と尊敬します。


と同時に、なんだか少し寂しいです。

何が、なのかは分かりませんが。


絵本の世界、子供の頃の世界観は
「いろいろあるけど、きっとみんななかよし」って感じでした。

物とも動物とも友達、そんな夢みたいな世界観を
見せてくれるというか。


でも実際の世界では、なんでもかんでも
関わっていいわけではありません。
答えが出ないこともいっぱいありますし
何をやったって反対意見はありそうですね。

特に生き物のことは……。
「良いこと」と思ってやったことが、
本当に良いことなのかどうかも、
よく分からないことが多そうです。


「ゴキブリが可哀想」って意見があることを知って
「そういう見方の人間もいるんだ」と嬉しかったですが
「じゃあゴキブリを殺さなくていいか?」となると
それはどうも……。分かりません。


「アシダカグモやゲジは益虫」という話を聞いて、
なんでもかんでも「不快害虫」として処分するのではなくて
良いところを見つけて共存しようという話のようで嬉しかったです。
けどこれも、人間にとって利益があるか害があるか、と
命を「はかる」話でもありますね。


野生動物に餌付けしちゃいけないという話、
多くあるご意見も的確で本当にその通りだと思うし
「可愛いから」と無責任に手を出しちゃいけないと思います。
けど、「無闇に関わらないことこそ正しい」というのも不思議ですね。


どれも……。

良い・悪いの理由、答えはもう大体出ているはずですが
複雑、というか繊細で大変ですね。
「これで良いんだ!」と決定されたことはありませんし
決定権は誰にもありません。


人間から見てゴキブリが不衛生だとしても、
宇宙人から見たら人間もゴキブリも大差なく不衛生かもしれません。
(同じ空間に住んでいますしね……。)

そして人間から見て外来種がいっぱいでも、
もしかしたら人間自体が外来種かもしれません。
なんて話も……。ありますね。


何か、すべての道理の説明がつかなくなるような……
全部ひっくり返ってしまうような……
なんと言い訳したら良いか分からなくなるような……

そんな天変地異が起こらないかな?
と、不謹慎ながら思ってしまいます。


もしも人間以上の知性を持つものが出てきたら。

「人間には地球や宇宙全体のバランスを考慮する知能がないから
 私たちがあなた方を管理して導いてあげましょう」
なんて言われたら。


あるいは、


「人と動物と虫は同じ。
 人は外来種。人は地球にとって害獣。
 だから人も虫や動物と同じように
 『処分・間引き』しても良いですか?」
なんて言われたら。


もしも自分たちが問われる立場になったら。

なんて返せば良いでしょうか……。


なんて、起こりもしないことを「もしも」と考えたって
意味も効果も何もないですが。

人間よりも知能が高い者は、
虫や動物や人の命をどう捉えるんだろう?

やっぱり気になりますね。


実は人間より知能が高いモノなんて地球上にいっぱいいて、
でもこちらの判断基準が小さすぎて見えていないのかも、
なんて思ったりもしますね。


けどもっと深く踏み込めばいずれは、
知能がどうとか個人がどうとか
そんなことはどうでも良くなってくるかもしれませんね……。


って、想像ゲームは楽しいですが
私は予言者じゃないんだし大して意味のある発言もできないから
自分個人が「何か」行動して、「何か」形にしないと
自分の世界は始まりませんね!











posted by 四月一日 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月09日

ハエトリグモと淡い交流

この間家の中でハエトリグモに出会いました。


昆虫ではないけれど、節足動物なので
昆虫と同じグループなんですね。
虫も「動物」ということになっているって、
ちょっぴり一般的な「動物」のイメージと違って面白いです。

……いや、そんなのは思い込みかな?


で、ハエトリグモさんとの出会いですが
これは珍しいことではないです。
家の中にハエトリグモ・ヤモリ・ムカデ・ダンゴムシなどは
よく入ってきます(°ー°*)


そのハエトリグモに会った時、
ちょうど、ネット上の嫌な情報を
見てしまって落ち込んでいる時でした。

……それ以上見なきゃ良いだけなのに、
不快な情報・偏見まみれの情報など
ついいつまでもダラダラと眺めてしまい……。

「こんな怖い人が、世界には大勢いるんだろうか?」
などとどうでもいいことで悶々としていました。



すると、部屋の中でウロチョロしているクモが目に止まりまして、
気分転換に観察しようと思って近づきました。


近づくとハエトリグモは大体、こちらを見上げます。
その子もこちらを見上げてきました。


逃げるでもなく、こちらに気づいていない様子でもなく
警戒している……という風でもなく(分かりませんが)
じっと見つめてくるので、ボーッと見つめ返しました。
その間おそらく30秒ほど。



そうしてクモを眺めていると……

なんだか……

癒されました(°ー°*)



その子が何を考えているかは分かりませんが
目がとっても綺麗でした。


体長は1cmにも満たないほどの小さなクモですが
宝石のようにキラキラした黒い目が4つほど並んでいます。
そして、わずかに首をかしげたりしつつこちらを見つめています。

ハンターではありますが
「悪意」ってものがない気がしますね。

純真そうな目をしています(*´ω`*)

なんだか、星空を眺めているような気分になりました。



その後、邪魔してしまって悪かったかな〜と思い
クモから離れたのですが
その子はずっとまわりをウロチョロしていました。

そしてしばらくするとこちらへ向かってきて、
私の足に登りはじめました。

またまた癒されました。


が、流石に
こんなに近くでチョロチョロしていると
踏み潰してしまいそうで怖いので(ー_ー;)
外へ逃がしました。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△


……自分は人間として生まれて
多分一生、人間以外のものにはなれませんが
それでもこうして、他の種類の生き物を目にすることができるのが
なんだか不思議です。

幸せがどこにあるかって人それぞれですが、
人との関わりとか、人が決めた意味とか
人の世界にあるものだけが
幸せへの道ってわけでもないですよね〜。


「◯◯に意味はない」という主張があっても
本当にそれに意味がないのかどうかなんて分かりません。

「◯◯にこそ真の価値がある」ってのも
それが本当かどうかなんて分かりません。

本当だと思ったものが本当、
そして本当の「本当」なんてどこにも存在しないかもしれません。


珍しいもの、人間になつくもの、大きいもの、
意思疎通できているように見える者

そういう命にだけ、価値があるわけでもなさそうです。


道を歩いている、ふとした時とか
人間以外の生き物を見た時に
じわじわと沸いてくる「不思議」も
幸せの一つかな、と思います。


ハエトリグモさんと……
お互いに、「関わった」というほど関わったわけではないですが
目を合わせていた淡い時間に、何か受け取ったような気がします。

クモもその間、何か思いながら
こちらを見ていたんですかね〜。


カラスやトンビも夕方に、電線の上で
じーっとどこかを見つめていたりしますね。

「狩り」でも「警戒」でもない時間があるとしたら、
一体何を見ているんでしょうか。


「生きる」中に心があるのか、
それを越えたところに心があるのか……。

生き物の中に、人間が忘れてしまった
未知の「何か」がありそうで気になります。








最後まで見ていただいてありがとうございました。
気が向いたらこちらのページも覗いていってください。

 ↓ ↓ ↓

元気いっぱいのハエトリグモ

鏡が怖いのは自分だけじゃなかった!

posted by 四月一日 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月08日

当たり前だけど不思議です。(ー△ー*)

こんばんは。
はじめまして、または
いつもブログを読んでくださりありがとうございます m(_ _*)m


自分の家にいくつか本やマンガがあるのですが
当たり前ですけどこれって……
読む前は読んでいませんでした(°ー°*)


読む前も読んだあとも、本の重さや形は変わっていない

なのに読み終わると「読んだ」という記憶と、
「なにか」が心の中に残っている……。

それってなんか不思議ですね。


人との出会いも同じでしょうか。
出会う前は出会っていなくて、
出会ったあとは知っている人になる。


家の中にある「物」も……
すべて、買ったりもらったりして持って帰った日、
物との出会いの日がありましたね。


お店も、できる前はそこに無かったし

入る前は知らなかった場所、
開く前は知らなかった本、
見る前は知らなかった映画がたくさんあります。

全部、知る前は、自分の世界には無かったものです(ーωー*)


そうやって少しずつ、何かが蓄積されていくって
当たり前ですが不思議です。

知る前は知らなくて、知ったあとは知っていて……
知っているものがどんどん増えて、
忘れたことや物も多分あって……。

あなたが知っていて私が知らないことも、
またその逆もきっとあるんですね。


けど多分もう、
「まったく知らない物」はどこにも存在しないですね〜。

新しく人との出会いがあっても、
その前から「人間」のことは知っていますし

新しい本を開く前から、
文字や本のことは知っています。

新しい道具を買っても、それに対して
まったく馴染みがないという訳ではない気がします。

今までに見てきたものとの共通点を見出して
「こういうものだな」と理解すると思います。


すると……

完全に見たことも聞いたこともない物って、
見ることができないのかもしれないですね。

もしかしたら。







posted by 四月一日 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月07日

地球は太古の昔から……

今では、森や山には人の手が入っていますが
人の手が入っていない自然や、大昔の世界では
生き物たちがみんなそれぞれ自然の調整役だったんですね。

今、多種多様な生き物たちや
綺麗な桜、紅葉が見られるのは
虫のおかげですかね。
(もちろん鹿や猿やヘビや、その他の生き物たちも。)

虫は植物を食べる種類もいるけれど、
落ち葉や、生物の死がいを分解してくれる生き物たちは
森の成長に欠かせないでしょうね。
(そして食べることでもきっとバランスは保たれていますね。)


虫の役割の話って、色々な場面で見たり読んだりしたはずですが
すぐ頭から抜けてしまいます(ー_ー;)
解釈合っているのかな……あせあせ(飛び散る汗)


害虫も、お花や野菜・犬・猫・人間など
それぞれの生き物にとっては敵ですが
「地球に生まれた種」ということは
地球にとって必要な、バランス調整役なんでしょうね……。

そもそも誰にとって害虫かは、立場によって変わるから
どんな生き物も誰かにとっては害虫・害獣ですね〜。


おそらく草食獣にとっては肉食獣は害獣、
そして植物にとっては草食獣が害獣……
虫にとっては、虫を食べる鳥は害鳥……
みんな同じですね。
けど敵にもきっと、間接的に助けられているのでしょうね。

草食獣が「肉食獣なんて絶滅すればいいのに」と願ったとして、
もしもそれが叶ったら
バランスは一瞬にして崩壊、なのでしょうから……
長く星の環境が保たれて、みんなが今日も種として存在しているのは
個々ではなく種として助け合っているから、とも言えますね。


すると命は個々のためではなく全体のためのものでしょうか……
そして全体とは、一体全体誰でしょう( ̄▽ ̄*)


何回考えても私じゃ、似たような結論にしか持っていけません。
自分という個体が持つ思考のクセのせいですね〜。
毎度同じような言葉、同じような概念しか使えませんあせあせ(飛び散る汗)

それでも一ミリずつ進化していたら良いのですが……

そういえば進化って誰のため、ですかね。


生物みんな、自分や同種のために生きているようで
その存在は、全体のためにあるのですかね。





posted by 四月一日 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月06日

虫は綺麗好き

今日は虫の話です。


この間、バスに乗っていたら
窓に緑のカメムシがくっついているのを見かけました。
そのカメムシはしばらくすると毛繕い(?)を始めました。

昆虫に詳しくないので
どのぐらいの種類の虫がするのかは分かりませんが、
カマキリやカミキリムシやアリやハエは
毛繕いしていました。
虫って綺麗好きなんですね。


虫に出会うと「綺麗だな」と思いますが、
虫たちがツヤツヤと綺麗なのは
毛繕いしているからなんですね。

虫にとっても身だしなみは大事、なんですね〜。


綺麗にしていると活動しやすい、とかも含めて。
あと、爪とぎ的な意味や気合いを入れる効果もあるのかもしれませんね。


いずれにせよ、見習わねば……( ̄― ̄;)





posted by 四月一日 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月05日

「偽善者」という言葉をよく見るのですが……

ネットの書き込みを見ていると、
ちょっと深いことを書いた方がよく
「偽善者!」と言われているように感じました。

動物の命、虫の命に対する議論を見ていると
「偽善者」といった発言が飛び交う雰囲気に
なっていることが多い気がします。


結局、
「すべての命が大切って言うなら、魚も肉も食べるな!
 『植物』なら食べて良いというのもおかしい、何も食べるな!」
みたいな話に落ち着く(?)ようですが

そのような場面でよく見られる「偽善者」って言葉、
ちょっと不思議ですね。


「そんなやりとり見たことないけど……」という方、ごめんなさい。
完全に偏った世界観でお送りしています。
このような話が苦手でしたらスルーでお願いします m(_ _*)m


「偽善者」という言葉にも色々ニュアンス(?)があるので
一概には言えないだろうし、
中には納得できる使い方もあるでしょうが……


よっぽどの悪人か善人でなければ、
人はみんな偽善者じゃないんですかね(°ー°*)?


……などと言うと怒られそうですが(oДo;)あせあせ(飛び散る汗)


命をいただくことが悪で、それを変に隠したり、

自分と相手の行いに大差はないのに
相手のやり方や考え方を批判するようなことを言ったり

「自分だけは違う」と正義感を持ち出すことが偽善ならば

ほとんどの人間は偽善者になってしまいますよね(―△―*)


多くの人は、殺生をしながらも
「良いこと・悪いこと」について、主観で語るはずです。
(もちろん投稿者もです。)

ならば、意見を述べること・価値観を語ること、
全部偽善と言い換えられてしまうと思います。

(「誰をも否定・批判しない主張」って無理っぽいですよね。
 筋の通ったことを言えば、遠まわしに
 筋の通っていない人を否定することになりますし。)


歩くたびに草や虫や微生物を踏むし、
日々命をいただいていて
みんな同じ立場だから、多分ある意味生物的に平等ですね。
人間だけでなく、生き物たちもみんな。

植物は、直接的に捕食する種は多くないようですが
死がいや生物のふんなどから栄養を吸収しているなら
「誰かの死を待っている」とも言えそうです。

「他の生物から栄養を得なくては生きられない」ということは
多かれ少なかれ、皆似たようなものですよね〜。


人間は、意見を述べている人物が
「立派な人か」「言うことが正しいか、重みがあるか」
を判断するのに肩書きを見たりするようですが
生物について、自分らも一匹の生き物の立場として話すのであれば
すべての見方に価値があり、肩書きで優劣は付かないということに
なる気がしますね。

知識がないとか、勘違い・思い込み・偏見がある人間だとしても
それも含めて人間の自然な生態からくる自然な意見と言えそうです(*^ー^)

現時点での「知識」は、最新のものであっても
間違っている可能性もありそうですしね……。
知識があるかどうかで、意見の質は決められないと思います。


さて、毎日他者の命をいただいていても、
「私は日々これだけの罪を犯しているのだから、
 誰に何を言う資格もない」
と捉えると、今度は卑屈になっているように思えますし、
あまりそのようには考えない気がします。

ハンターな生物たちだって、堂々として見えるし
自分たちのやっていることを罪だと捉えて
恥じたりはしていないように見えます。


自分は命をいただくという「悪」をなすけれど、
誰かのやったことについて「許せない」と憤ったり、
「これが正しい」「こうすべき」と善を語ったりする。

それを押し付けるのではなくても、多少なり、
「良い人だと思われるように振る舞う」
「ルール・常識を守る」
「人に迷惑をかけないよう心がける(ある種の正義感)」
などの感覚を持つ。


ってこと、あると思うんですけど……


それって普通ですよね(°ー°*)


人の性質は悪なのに、
生き物を食べるのは可哀想だとか
害虫を処分するのは可哀想とか
正義面して語るな! ということであれば


持論を展開するのも、誰かに対して不満を持つのも
そこに少しでも「こうするべきでしょ」という正義感が入っているなら
すべて、「偽善」ってことになりますね〜。

「命をいただいているという点で皆同じなのに、
 貴方が人として正しいことを述べているという根拠や、
 誰かの行いを正すほどの権利はあるの?」って。

「正しい人間」「善人」ぶるようなことをしている。
それほどの人間でもないくせに。
……という風に見えるのでしょうから。


で、その「偽善者」という言葉を使っている側は
自分たちのことを何だと思っているのでしょうか。

ある程度人間らしく生きている人なら誰でも、
その人たちに言わせれば「偽善」に入るんじゃないでしょうか。

みんなルールを守って、良い人ぶって。
本性は、自分の手を汚さない、都合の悪いことは隠すか正当化する、
陰なる捕食者なのに、って。

いや、もしかして最初から本気でそう思っているんですかね。


じゃあ偽善者じゃない人間がいるとすると……

そして、誰かに対し「偽善者」という言葉を使う人は、
自分が「偽善者」ではないのだとすると……


「良い人」だと思われようとしない。
「善人」として振る舞わない。
いつでも思ったことを言う。

そんな人物なのでしょうね。偽善者論を持ち出す人は。

そして、「良い人」と見られようとすることこそ悪だからと、
優しさ故に葛藤している人、善人になりたい人、
命について真剣に考える人、綺麗事を言っている人に
突き刺すような一言をお見舞いするのですね。


……まわりの人を傷つけて、不快にさせることより
綺麗事を言う偽善者の方が罪深いってことでしょうか?


私は綺麗事見た方が幸せだし、
「自分は偽善者じゃない。本音しか言わない」って人の方が
変に歪んだ正義感を振りかざした、偽善者に見えますけどね〜。


というか、

「偽善者」と言うなら全員偽善者。
「悪」というなら全員悪。
「害虫」というなら人間も害獣。

ではないですかね。


誰かの言うこと指摘するのは
悪魔が悪魔に、「悪魔だ!」と言うようなもので。

善悪論にとらわれたら、もう抜け道無いですよね〜。


だから結局、
「良いじゃん偽善でも」って言いたかったのですが……

偽善批判する方も自由。となりますよね。


まぁ、何を言っても言われても気楽が一番ですかね〜。





posted by 四月一日 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月04日

「苦手」や「怖い」や「嫌い」の感情って

「苦手な人」「怖い人」って、

対面(?)するとこちらの感情が制御不能に陥ってしまう

そんな人のことですね!!


あの人を目にしたとたん
感情がコントロール不能に。

動悸と嫌な予感が止まらないとか……。


そこまでじゃなくても。
「苦手」の反応はキツいですね。


予測不能、
あるいは予測可能……

まったく読めない相手もいれば
「だいたいこうなるだろう」って毎回分かるのに
冷静になれない相手もいますね。

「あの人だったらああ言いそうだな」って分かっているのに。


読めなくて苦手なら分かるけど
読めるのに苦手って不思議ですね〜。


ずっと昔、苦手だった人で
会うたびにからかってくる
いじめっ子(こちらから見れば)がいたんですが

言うことワンパターンだから、
何言われるか冷静に考えりゃ分かるはずなんですよね〜。


いや、当時もちゃんと予測できていたかもしれません。
なのに毎回、会うたびにパニックで。


台本の決まった劇を演じているのに
本気で悪役を恐れているようなもんですかね〜。
セリフが予め分かっているのに、なぜか怖い。

あるいは
驚かされることが分かっているのに怖い、お化け屋敷みたいな?


他の、「考え方合わないなー」って方も

どういうキャラなのか、
何を発すればどう返ってくるのか、
どういう話題なら言い争いにならないのか

冷静に考えりゃ全部読めるはずなのに
その人のタイプに合わない話題を振ってしまったり。


どう反応しようが衝突を避けられない相手であれば
逆にもう諦めて、気楽に構えればいいのに
無駄にモヤモヤしたり。


あるいは人から意見を言われたときに
「あっ、私そういうキャラじゃないです!」って態度で示せなくて
苦手なムードにズルズル突入したり。


自分が演じるのが下手なので、
「特に切り替えのきかない相手」がたくさんいる……


つまり「苦手な人」を見つけた時ってのは
相手のことが苦手なんじゃなくて
「このタイプに対応する術をまだ持っていない」
「こういう時、どういうモードで切り抜けたら良いか分からない」
ってことですかね〜。


ゲームで初めて相対する敵キャラみたいな。
「この攻撃どうよければいいんだ!」みたいな……。
パターン読めたのに攻略法が分からないとか?


回りくどい言い方をすれば
「◯◯さんに会ったときの自分の反応が苦手」

いや、「◯◯さんに会ったときに対応できなくなる自分が苦手」
ですかね。


私は湿疹持ちで、その原因はよく分からず
なにかにアレルギー反応(?)を示しているようなのですが
(ストレスを感じると途端に悪化します)

そのアレルギーも
問題は「◯◯」じゃなく、
「◯◯に会ったときに過剰反応してしまう自分の性質」
なのかもしれないですね〜。


一回◯◯で怖い思いをしたら
毎回「◯◯」に恐怖を感じて
関係ない別のものまで「恐怖」に結びつけてしまって
必要以上に恐れることになるような。

苦手なことやものも、
「本当にそれ自体が苦手なのか?」
はビミョーですね。

シチュエーションは違えど
毎回どこか似たようなところでつまづいて
「あれっ、デジャブ? ループしてる?」と思ったり。

で、自分で「◯◯が苦手なんだと思う」と
導き出した答えがズレていたり。


また、自分が苦手じゃなくても
他の人にとって「苦手」なものも当然あって
「そうかな? 自分は気にならないけど……」とか
「どこがどう苦手? 分からない」とか
「なんでみんなコレが苦手だと言うのかな」とか
「えっ、そんなこと気にする……?」って思ったことがありますが


自分が平気でも、その人にとっては大問題。

そして自分の「苦手」も、
第三者の目から見ればヘンなのでしょうね。


いやー、「苦手」って奥が深そうです。
できることなら探求したくないですが。











posted by 四月一日 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月03日

同じことの繰り返しも結構楽しい

もし、本棚に本が5冊しかなければ
時々「飽きたなぁ」なんて思いながら
同じ本を何度も何度も読むことになるでしょうが

でもやっぱり
読み返す楽しさってありますね〜。

同じものを見続けると親しみが沸いて、
親しみが沸くと思い出になります(*´▽`*)

何でもたくさん見ると一つ一つの印象が薄れてしまって、
あんまり思い出にならなくなるんですよね〜。


歌の練習とか、楽器で曲を吹く練習をするのも。
何度も聴いて、何度も繰り返して。

あの曲を聴くと、あの頃を思い出す……
そんな思い出になったりしますね。

思い出にするには、耳にタコくらいが丁度いいです。


でも、
たくさん読むのも
少なめに読むのも
気が向いたときに読むのも
まったく読まないのも

どんなやり方を「楽しい」と感じるのも自由ですね!


「多く」は得られないかもしれないけれど、
一つのものをじっくり味わうのも楽しいです( ̄▽ ̄*)

後になって見てみると、
あの時うんざりするほど見ていたものに
ジーンときたりしますね。





posted by 四月一日 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月02日

たまには平和を夢見てみます。(常に寝ぼけてますけど)

今はダメダメだけど、いつかは……。

……今日は綺麗事です。


「何が大切」ってみんな違うけれど、
全員が共存できたら本当に良いですよね。

そうしたら
「大切なもの」と「大切じゃないもの」の
線引きもなくなるかも。

「適材適所」で……
全員誇りを持てるようになったら嬉しいです。


団体行動が得意な人はグループで。
単独行動に強い人は個人で。


ありとあらゆるものが、
「欠点や短所」として処理・認識されるんじゃなくて
自分で長所だと認めて、人からも認められて、
発掘して伸ばされて生かされて。
そうできたら嬉しいです(*^ー^)


自分にも他の人にも、
見つけられず眠っている未知の才能とか
たくさんあるんじゃないか? って気がしますよね〜。

たとえば、大昔に現代人みたいな考え方の人がいても
大昔だと浮いていたかも。
思っていることを実行に移せる環境や状況でもなかったりとか。

だから今、現代人の中にある未来人的な部分は
時が来るまで封印されているのかも、
なんて思いますね。


花の形は花が咲くまで分からないし
ちょうちょは幼虫の頃は蝶の形をしていませんが
「花を咲かせる力」「蝶になる力」
そして、花や蝶として振る舞う力は
芽が出た瞬間や卵から生まれた瞬間から
既に持っているんですよねー。

だったら私たち生物もみんな、
「花」や「蝶」みたいに、
何かになることを目指して進化を続けているのかもしれないです。


万年、億年単位で動いていることだったら
今の私たちには認識できませんよね!

でも実際にはそういうこと、多そうです(>∀<*)

ここだって広大な宇宙のド真ん中ですもんね〜。
壮大なサイクルが隠されていてもおかしくありません。


人間社会が進化したら、
みんな言いたいこと言えるようになって、
そうしたら今まで以外と、言いたくもないことを、
「言いたいこと」だと勘違いしていたと
気づくことになるかもしれませんね。


「やりたいこと」も。
まるっきり、ガラッと変わるかも。


今やりたいことが「スポーツ」や「絵画」だったとしても
未来じゃそれらが進化して、
まるで別のものになっているかもしれないですもんね〜。


競争は、やりたい人が、やりたいことで。
強制参加じゃなく、それぞれ楽しむものになったら良いですね。


そしてもっと何もかもがスムーズにいったら
防犯とかセキュリティとか防衛とか
必要なくなりますね。
そうなったらもっとコミュニケーションに力を入れられます(*>v<)


年齢とか性別とか見た目とか
文化とか考え方とか好きなものとか学歴とか

何もかも吹っ飛んでほしい、
って時もありますが

今は個性が大事だから
全部楽しめたら良いですね。


身構えず、気構えず、
上から目線にもならず……。


生まれ変わりって本当にあるかもしれないし、
もしあるなら現在の年齢も経験も個人のキャラクターも状態も
何もかも、「途中経過」かもしれないです。

「今は◯歳なんだ」
「今は◯◯人なんだ」
みたいな感覚で、楽しめたら嬉しいです。


どうにもできないことで
攻撃してしまったり、されたりすることもなくなって
全体の流れを見通せるようになって。

変に優越感も劣等感も持たず
尊重し合いたいです。


そして未来なら…… 昆虫や微生物とも
意思疎通できるようになるでしょうか。

ハチやムカデは刺してくるから分かり合えない感じですが
人間がガラッと変わった頃には
生物たちの生態も、ガラッと変わっているかもしれないですね!?


すべての生き物たちが幸せに暮らしているとしたら
そこにはどんな光景が広がっているでしょうか。


有り得る、有り得ないじゃなくて
「そうなった場合は?」とイメージを設定・調整して
想像してみたら面白いですね。

でも…… まだ想像力が足りない……(笑)


脳って何パーセントが眠っているんでしたっけ……。

いつか何かが開花するでしょうか……。


……さて、そろそろ現実界に戻らないと。


夢見るのは好きなんですけどね〜。
夢見るだけで行動力が伴わなくて(ノ∀`;)

実際の自分はネガティブ思考でトロくてKYでガサツで
気が利かなかったり、人の気持ちに寄り添えなかったりするので
夢見た後の落差が激しくて凹みます(T▽T;)


眠っている時に見る夢も、
なかなか幻想的で美しい印象だったりしますね。

まだなんか混じりっ気がありますが、
もうちょっと純度が高くなれば、
空想力も何かの形にできるかも!?

ああ、もっと表現力があれば……


と、さらに淡い夢見たところで終わります(ーДー*)


最後までお付き合いいただいた貴方に感謝です m(_ _*)m
誠にありがとうございました。





posted by 四月一日 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記

2019年10月01日

自分には「愛情」ってものが微塵もないな

愛って何でしょう。
優しさとは違うんでしょうか。


ほんのひととき優しい人として振る舞うことなら
私にもできそうですが、本当の愛ってのはどうも
「自分の身を削ってでも誰かを守りたい」という気持ちのようですね。


だとすると私には愛情ってものがありません。
自分の身を犠牲にしてでも誰かを守りたいと思えない。

それが大切な人であれ、どこかの知らない人であれ、生き物であれ
自分を犠牲にしてでも守るなんて無理だなと思ってしまいます。
誰も愛せません。


自己犠牲的精神以外にもっと、誰一人不幸にならずとも
「全員が救われる」方法ってないんでしょうか。


なんて言うと正論ぶっていますが
本当は我が身がかわいいだけです。

中途半端に優しい人を演じることはできても
本当に愛ある人の言葉を聞く度
「ああ、自分は違うな……」と思います。


誰かのために差し出すことなんてできません。
お金も命も。
誰かのために痛い思い・苦しい思いをすることはありません。

「自分さえ良ければいい」ということですね。
自分だけが大切っておかしいんでしょうか。


もし愛が「自己犠牲」じゃなく
「できる範囲で優しくすること」なら
自分にも少しは愛があると思うんですけどね……。

余裕があるときに、負担にならない金額の募金をしました。
誰かの心を軽くしたくて、
時間をかけて考えてコメントや投稿をするようになりました。
もっと優しい言葉を使いたいと思うようになりました。


でもそれじゃ足りませんかねー……。

いざというときすべての物を差し出せることを、
真実の愛と呼ぶんですかね。


でも、すべてじゃないにしても差し出すことって無理そうです……。

アイスやチョコレートを買うのを我慢して毎日募金するとか、
ボランティアするとかでさえ無理です。

時間やお金があったら全部自分で使って遊びたくなります。
薄情ですかね。

こんなんじゃ、私が困る事態になったとき、
誰も手を差し伸べてくれないでしょうね。


でも、変にカッコつけずこの本心に気づいて
良かったことが一つあります。

自分を犠牲にしたくない、何も背負いたくない、
縛られたくないという本心に気づいたから
逆に誰かを犠牲にしなくて済んだかもしれません。


もしも、愛もないのに中途半端に愛するフリをしていたら。

子どもを生んで育てようとして、途中で嫌になって逃げたかも。
犬や猫を育てようとして、面倒になって捨てたかも。
誰かに恋をした気になって散々振り回した挙げ句、逃げたかも。
全財産を誰かに渡して、借金をしてまわりに迷惑をかけたかも。

そのたぐいの人間だと思います。
起こらなかったことは起こっていないんだから
知りようがないですけど……。


背負えないものを背負おうとして
破綻するってのも迷惑なことですよね。

だから「誰も愛せない」って今のうちに分かって良かったです。

でもそれってもしかしたら
自分のことは愛していると言えるのかもしれないけれど……。


愛する自分自身を守り抜くってことさえも、
なかなか難しいことですよね。

だって、全員が自分を強く愛して
自分だけを守り抜くことができていたなら、
誰も不幸せの連鎖に巻き込まれることなく、
すべての人が幸せになっていたはずだから。


……愛の定義って難しいですね。



posted by 四月一日 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記
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